姫ぎみと「鏡のなかに棲む男」

寄賀あける

1

 市場はなかなかの盛況で、まだ朝も早いというのに人やロバや、様々な商品、そして雑多な食べ物の匂いで満ちていた。


 フィルが椀に入ったシチューを受け取って金を支払い、店とは道の反対側に用意された椅子に向かおうとしたとき、足元をウサギのように走り抜ける子どもがいた。寸でのところでかわしてシチューの無事を確かめる。すると子どもが来た方向から、

「泥棒だ、そのガキ、捕まえてくれ!」

と、声が聞こえた。


 なるほど、それで一目散に逃げていたのか。逃げ足なら早いはずだ、と感心していると、今度は声がした方から男が人込みを掻き分けて駆けてくる。人混みが切れた隙間に飛び出してきた男に、狙いすましてフィルがぶつかった。


「おい、こら! せっかく買ったシチューなのに……こぼれちまった、どうしてくれるんだ!」


 自分でわざとぶつかっていながら、勢い余って転んだ男に文句を付ける。


「いや、おニイさん、すまないね。盗人ぬすっとを追いかけていて、つい夢中になっちまった」


転んだ男はフィルのせいだと気付かずに謝ってくる。すぐさま盗人を追いたそうな男をフィルが止める


「へぇ、そいつは気の毒だ。いったい何を盗まれたんだい?」

「いやさ、パン一つなんだけどさ。こっちも慈善事業じゃない。くれてやるわけにもいかないんだ」


「そりゃあそうだよな」

と、フィルが内心ニヤリと笑う。


「その盗人ってのは、さっきここを走り抜けたガキだろ?」

「そうだよ、知り合いか?」


「いや、俺は今日この街に来た。知り合いは一人もいない。でも、さっきのはほんの子どもだった」

「それが? 子どもだろうが慈善事業じゃないって言っただろう」


 フィルが許してやれ、と言い出すと気が付いて、転んだ男があからさまに嫌な顔をする。


「タダで、とは言わないさ。あんたが零したこのシチューを弁償する代わりに許すってのはどうだ?」

「あ……」


男がシチュー屋の看板を見る。盗まれたパンより高額だ。


「ん……なんだな。今日のところは勘弁してやるよ」

差額を請求されたらたまらないとでも思ったのか、じゃあな、と男はさっさと行ってしまった。


 男の姿が見えなくなるのを待って、道の反対側、さっき座ろうとしていた椅子にフィルが腰掛ける。そして手にした椀をテーブルに置き、少し冷めたシチューを食べ始めた。


「やっぱり少しも零しちゃいなかったんだね」

と様子をうかがっていたシチュー屋の女将おかみが面白そうに笑う。それに答えず『目ざといババァだ、気を付けなきゃ』と内心フィルがヒヤリとする。


(人の出が多く、流れも速い。だが、金を持っているヤツは少ない)

 シチューを食べながらフィルは道を行き交う人々を観察する。


(この辺りの住人はせいぜい食べるに困らない程度の稼ぎ……やはり市場ではなく商店が立ち並ぶ辺りがいいか)


シチューを受け取った時に言われたとおり、空いた椀を水の入った桶にひたす。


「ごちそうさん」

女将に声をかけ、フィルは市場を通り抜けていった。

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