9.

電車で家の近くまで戻って、夕食の買い物をすればそれなりに遅い時間になる。玄関のドアを引いて、幸也は思い切り顔を顰めた。しまった、電気を消し忘れていたらしい。


丸々一日は痛い出費、と脳内でボヤきながらリビングのドアを引いて、中に座っていた奴と目が合って、幸也は思い切り手に持っていた買い物袋を落とした。


「おかえり。」


見慣れた、久々の、その顔に。幸也は深々とため息をついて、その場にへたり込んだ。


何?幻覚?


「ついにここまで来ちまったか……明日病院かな……」


半分本気、半分ジョークで呟けば、美由紀がお前の幻覚じゃねーから、と呆れたように言って立ち上がった。


「じゃあ、なんで、俺んちいんの。」


美由紀がポケットからストラップのついた何かを取り出して、幸也の前に掲げる。


「合鍵。」


付き合ってた時のやつ、と言われて、幸也はもう一度ため息をついた。


「あぁ、うん、あげたね。そっか、返してもらわなかったのか。」

「幸也もうちの鍵持ってるでしょ。」

「そーだね。でも、お前さぁ、えぇ。」


気が抜けたというか、なんというか。手を引かれるままに立ち上がって、幸也はとりあえず買い物袋の解体を始めた。


「水曜だから家にいるかと思った。」

「ちょっと県外で人に会ってたんだよ。え?いつからいたの。」

「一時間くらい?」

「あ、そう。夕飯食べる?」

「食う。」


当たり前みたいに美由紀に卵のパックを渡してしまう。彼女は彼女で当たり前みたいにそれを冷蔵庫に仕舞えるようにキッチンに並べて、ほら次、とこちらに手を差し出してくるものだから幸也は何かがおかしいだろと腕を振った。


「いや、違うよ。ちが……待って、色々言いたいことがあったんだけど、あー、全部飛んだ。え?なん、ちょっと心の準備がさ。」

「あー……直接、話しとこっかなぁって思って。連絡して行き違うと、なんか、決意ブレそうだったから。」


お前からの連絡に俺が出ないわけないだろ。言いかけて、なんだか負けたような気がして癪で、幸也はただ思い切り眉を寄せた。


「美由紀さぁ、危機感とか、ないの。夜よ。」

「そんなこと言ったら幸也は男も女も友達を家にあげらんないだろーが。」

「それはまぁ確かにそうなんだけど、いや、俺はお前が一人で来たことと、時間帯と、俺がお前のこと好きなこと知ってる、って言う点について言ってるんだけど。」


別れてから泊まりはなかっただろ、と頭を抱えれば、美由紀は眉を上げた。


「幸也のこと信用してるから、危機感はないよ。お前は私の意思を無視して押し倒してきたりしないだろうが。なんの危機感持つんだよ。」


何か言い返そうとして、結局言葉が見つからない。敵わねぇ、と気の抜けた笑顔が浮かんだ。


「うん。まぁ、そうだね。」

「だろ。」

「でも、ほんと、なんで来たの。決意って何。もう、俺、愛想つかされたもんかと思ってたんだけど。」


話そうと決意を固めて、でもそもそもどう切り出したものかと頭を抱えていたのに。まさか彼女の方から顔を出すとは思っていなかった。


「……もう、怒んねーから。お前の性格、受け入れるから。」


そう言いに来たと肩を竦める美由紀に、幸也は少しの間考え込む。


「それはつまり、俺が、なんて言えばいいの?無茶してるところを正面切って見られるようになったってこと?」

「そんなところ。もう大丈夫、お前にはお前のポリシーがあるってことは、折り合い付けたから。」


無理やり笑ったような顔に、幸也はノノとの会話がフラッシュバックして思わず壁に寄りかかった。


「あー……絞めたくて絞めてるのを止めるのは、自分勝手……っていう……そう、そうだねぇ。」


突然頭を抱えた幸也に、美由紀が眉を上げる。


「何。」

「いや、ほんと、言う通りだったなぁって。俺、ホント、酷い奴だね。全然気が付かなかったけど。俺ね、ずっと、何で美由紀が怒ったんだろうなって考えてたんだけど。」


目線を落としたままつらつらと話し出した幸也に、美由紀は困惑したまま相槌を打つ。恐る恐る顔を上げた幸也と目が合って、一体何なのかと彼女は首を傾げた。


「美由紀は俺が死んだら困る?」


そう尋ねた瞬間、彼女の目がまあるく開いた。あっという間に彼女の目の中に光が反射して波が揺らいで、胸倉を掴まれる。すぐ手が出るなぁ、なんて呑気に考えてしまうあたり、やっぱり幸也は少しずれていた。


「ばっかお前当たり前だろ、お前がホイホイ死にに行くからこっち、は……お前が人のために死んでも文句言わないで済むように心の整理をな、してたわけよ。それをお前、何?お前が死んでも私は困らないと思ってたのかよ。」


壁に押し付けるように、美由紀が幸也の肩に頭を埋めた。束の間迷ってから、彼女の髪をくしゃりと撫でる。


「俺ね。俺ねぇ、俺の事死んでもいい人だと思ってたんだ。」


囁くように白状する。肩が、冷たかった。


「それ、二度と口にすんな。」


くぐもった声に、うん、と小さく答える。


「……思ってたんだけど、違ったんだね。俺が友達死んだら苦しいのと、同じだと思わなきゃなんだね。気が付かなかった。いまいちぴんとは来ないんだよ。でも、美由紀は困るんだろ?」


まぁ相手の気が済むなら、と口を閉ざしてなされるがままに耐える。それが、一番、楽だ。責任、とか、俺だけ助かった、とか、考えなくていいから。


その気持ちは、今もある。それでも、その気持ちが、他人の胸を痛めることを、教わった。


「困る、というか、嫌だ。私だけじゃないだろ。お前の親とか友達とか、よく依頼に来る人とか。みんな、悲しむ。」

「うん、そだね。きっと、そうなんだろうね。」


その言い方が気に食わないのか、美由紀が不服そうに幸也の方を見た。


だって、分からない。本当に、分からないんだよ。


言葉として理解しても、自分の価値なんて、お前の気持ちなんて、そんなすぐには、分からないんだ。だから。


「だからさ、折り合いつけたところ悪いんだけど、一つお願いしてもいい?」

「……何を。」

「俺、お前を理由にしてもいい?お前が、俺が死んだら悲しむから、生きることにしてもいい?俺と誰かだったら誰かを助けたいけど、お前のためと、誰かのためなら、絶対お前のためを優先するから。」


凪いだ目で、幸也は美由紀をじっと見つめた。信じられないものを見るように、美由紀はゆっくりと震える声で尋ねる。


「私が、生きろっていうから、生きるってことかよ。お前、さ、じゃあ私が死ねって言ったら死ぬのかよ。」

「うん。」


迷うことなく、幸也は頷いた。


「お前にあげていい?そしたら、お前の物だと思って大切にするから。お前が嫌な気持ちになるのは、嫌なんだよ。折り合いつけたって、つまり、我慢するんだろ。」

「私が先死んだらどうすんだ。」

「んー、多分また別の人にあげる。でも、絶対優先出来る人ってお前くらいだから、俺の持ち主と、俺が死んだら助かる人と、どっちが大切かって比べて、考える。」


へらりと笑う彼は、本気だった。


「っお前、ホント、私のこと好きだね。」

「うん。好きだよ。こればっかりは、どうしようもないかな。」


お互いに、大切だ。なのに、他人だから、食い違っているから、上手くいかない。


幸也の好きを、恋愛感情のない美由紀が理解することは無い。美由紀が幸也に生きろと願う根幹を、自分の価値を捨てた幸也が理解することは無い。


それでも、お互いに、大切だから。


「そーかよ。……いいよ。貰う。全部、貰う。」

「じゃあ、死なないように大切にするね。ありがとね。」

「……おう。」


久々に泣く顔を見たな、と思いながら幸也はもう一度彼女の髪を混ぜた。


「夕飯なんか作るね。」


肩を叩いて「離して」と訴えれば、彼女はゆっくりと幸也から体を離した。


「なぁ。夕飯いいよ、飲もう。」

「不健康だぞ。」

「つまみになりそうなもんあったろ、それでいいよ。」

「なんで俺ん家の冷蔵庫の中身知ってんだよ。」


笑いながら冷蔵庫を開ければ、後ろから声が飛ぶ。


「手土産にロールケーキ買ったんだよ、それ入れる時に見た。適当に食って、その後ケーキは食おうぜ。」

「あ、ほんとだ。おいしそう。夕飯ロールケーキでいっか。」

「おめーこそ不健康だな。」


食事らしいもんも食おうよ、と言いながら美由紀は買い物袋の解体に手を貸した。


「美由紀、グラスの場所分かる?」

「変わってないなら分かる。」

「変わってないよ、なーんも変わってない。」


変われない。変わらない。そして少しずつ、変わっていく。


「また、好きに家来いよ。」

「幸也もな。」

「うん、ありがとう。」


ぎゃーすか言いながらテーブルにつまみになりそうなものを並べていく。ビールとワインを広げて、何も言わずにグラスをぶつけた。


「なぁ。幸也はさ、性別関係なく、誰のことも好きになる可能性があるわけだろ。」

「うん、まぁ。」


ここ数年美由紀にしか恋をしてない訳だが、と胸の内で付け足しながら頷いた。考え込むように目線を遠くに飛ばして、美由紀が言葉を続けた。


「そうすると、なんつーの……世間的には、もし幸也が恋人を作ったり結婚しちゃったりすると、私が男だろうと女だろうと、こうやって一対一で会えないのかなぁと思ったわけ。」

「そー、かな。」

「さっきのお前のセリフ返すみたいだけどさ、夜によく来たなっつってたろ。恋人いたらこの時間に友人を一人家にあげるか?」

「……いや、あげないだろうね。誤解を招く。」


実際その辺の線引きを間違えてビンタを食らったことがあったなぁと思いながらグラスを空けた。何度も言うが、一時期人のことを言えないくらいヤンチャしてたので。


「だろ。って、この間川崎と話して気がついた。」

「川崎?なんであいつが出てくんの。」

「お前この間、川崎の依頼具合悪くなってドタキャンしただろ?」


あぁノノの電話を受けた日か。直ぐに思い当たって、頷いた。


「川崎がさ、見舞いついでに仲直りして来いって、言ってきて。」

「待って、なんで川崎が喧嘩中なの知ってんの?」


なんとなく当たりはついていたが、本人の口から聞いておこうと思って幸也は声を上げた。案の定彼女の目が少し泳いで、口ごもる。


「あー、いやさ。めっちゃ前だけど、あのー……私事務所のバイト辞めた後、やたら川崎からLINE来なかった?」

「毎日来たね。来ない日は宮野ちゃんから来た。」

「もう宮野ちゃんじゃなくない?」

「いや、まぁそうだけどやっぱ宮野ちゃんじゃない?」


川崎の結婚相手も、大学からの友人だ。疎遠にならなかった方、とは言っても、幸也は大学時代彼女とそこまで関わりがなかったが。卒業後の方がよく話すようになった相手だ。


「私は最初から久美子って呼んでるから。」

「そっか。で川崎夫妻のLINEが、川崎が喧嘩知ってんのと何か関係あんの?」

「んー……あの事件あってからさ、マジで幸也そのうち刺されるかなんかして死ぬんじゃないかと思って。でも私は怒鳴って出て行ったし、てか死ぬところ見たくないし。」

「怒鳴ったっけ?」

「怒鳴って無いっけ?まぁそれはどうでもいいわ。で、ともかく近くにいられないから、川崎夫妻にお願いして安否確認をだな。」

「あ、やっぱり?」

「気づいてた?」

「うすうす。」


予想通りの事実に頷く。美由紀とまた会うようになった途端LINEの頻度がガタ落ちすれば、そりゃ気付きもするわと幸也は笑った。


「そんときと同じ。」

「また喧嘩したから安否確認してくれって頼んだわけか。で?仲直りしろって言われたのと恋人がいたら会えないことの関係は?」

「いやね、気まずいから川崎が見舞いに行ってくれない?って言ったんだけど。久美子が嫉妬するから家に一人では行けないって。それで、そんなものかぁ、と、ね。」


幸也はちょっと拍子抜けして、小さく笑った。


「そりゃ、俺と川崎だからだろ。宮野ちゃん確か俺が川崎つまみ食いしてんの知ってるし。」

「え、マジ?」

「あれ知らなかった?」


ま、色々あったんすよと笑いながらロールケーキに手を伸ばす。付き合ってたっけ?と首を捻る彼女に、付き合ってはない、と答えてケーキを齧った。美味しい。


「それ知らなくても、大学の頃の俺の節操ない様を知ってりゃ嫌だろ。」


肩を竦めれば、美由紀はケラケラと笑った。彼女にも思い当たる節は掃いて捨てるほどあるんだろう。


「でもま、だけじゃないと思うけどな。カラオケとか家とか個室一対一ではダメって人、多くね?」

「まぁそりゃね。一般的には避けるよね。」

「頭では分かってたんだけど、改めて聞いてさ。そういうのって友達と違うんだなぁって思ったんだよ。」

「それでさっきの話になるわけね。」


やっと話の繋がりを理解して頷いた。確かにまぁ、今後どちらかに恋人と呼ぶようなジャンルの相手が出来れば、こういった時間を過ごすことは難しくなるかもしれない。


それは理解出来てうんうんと頷いていた幸也は、次の予想外の言葉に固まる羽目になった。


「だからさ。あの、なんていうか、もっかい、付き合ってもらっても、いい?」


カシャン、と鳴った音が、自分が落としたフォークが立てた音だと一拍遅れて脳に届く。


「……はい?」


そうはならんだろ。噎せ込みそうになったのを何とか堪えて、幸也は聞き間違えかな、と彼女の顔を見た。至って真剣な顔だ。


「幸也と気軽に会えなくなるのは嫌なんだよ。」

「それは、友達として?」

「そう。友達として。」

「別に、俺に恋人出来たら、それこそ川崎とか呼べばいいよ。二人きりじゃなきゃいいんだから。」

「二人きりがダメとかそういうのが嫌なんだよ。私には理解出来ないけど、世間的にそうなのも分かってんの。だから大抵の、そういう、恋人がいる友達と遊ぶ時は配慮したりとかするけど。幸也とは配慮なんて、今までしたことねーだろ。学生ん時も。」

「あー、うん。」

「お前と会うのに遠慮とか、したくない、わけ。」


それは分かるよ、と思った。会いたい時に会いたい。そういう距離感で、いたい。今まで、そうだった。


何が、ダメなんだろう。


いや、分かっていた。俺は、多分、それじゃダメ。でもそれは「俺の」話で、「美由紀の」話じゃ、ない。


「男女が並んでるだけでカップルだと思われるって、そんなのおかしい、でしょ。」

「おかしくても、そういうもんなんだろ。」

「そう、かもしれないけど。いいよ、それで誤解するような人とつるまなきゃ。なんでお前がこっちに寄せるんだよ。付き合うとか付き合わないとか、そういうの、お前に我慢させるよ。」

「別に我慢なんてしないよ。上手いこと行ったろ、前だって。」


行ってないよ、と喉元まで込み上げた言葉を飲み込んだ。


行ってないよ。行かなかったんだよ。


「それは、ちょっと、困るよ。違うんだよ、全部が。もう好きが違うと、駄目だって分かったから。」


言葉を選ぶ余裕もない。幸也は目線を落としたまま、殆ど勢いのままに言葉を続けた。


「俺はお前が誰かと二人きりでカラオケ行ったら面白くない。お前は俺が誰と何してようと嫉妬しないけど、俺はするの。お前は誰とでもキスもセックスも楽しめるだろうけど、俺はお前がいいの。」


だんだん声が勢いを失っていく。ただ美由紀はそれに、うん、と相槌を打ち続けた。


「お前は他の友達と同じライン上で、その中の最上級をくれるけど、俺はそもそもラインが違うの。違うラインの最上級なの。前も、それが嫌だから別れて、って言ったよね。その時から変わらないでしょ。俺は多分苦しいよ。また、苦しいよ。続かないよ。」


変わらない、変われない。


「いいよ、俺多分この先恋人なんて作らないから。このままでいい。」

「それは、お前、辛くねぇの。ずっとフリーなのもきついんじゃねぇの。」

「それ何に対して?世間体?それともヤる相手がいない話?」


半ば怒ったように問えば、彼女はどっちも、と返した。


「どっちにしろ別にいいよ。今のご時世恋人がいることはステータスでもないし、結婚勧めてくるような知り合いはいない。相手に困る……のはまぁ……」


ここで詰まるのめちゃくちゃカッコ悪いなと思いつつ、つい言葉に詰まる。正直二十代の色欲を持て余している節はあるけど。


「……正直今お前以外としたいとは思わねーし。」

「え、学生の時はヤケ起こしたろ。」

「起こしたよ、あれはほらなんと言いますか年齢的にっつーか、今は我慢しようとすりゃ、え?俺は何を言わされてるの?」


だんだん混乱してきて、幸也はなんかおかしくない?と頭を抱えた。これ何の話だっけ。


美由紀がぐっと眉を寄せる。多分、こいつも酔ってる。


「私が困る。」

「何?何が?」

「私が彼氏作ってもお前とは会いにくくなる、から、だから今は作ってない。」

「あ、そういう理由だったの?」

「でも彼氏いないと相手がいねーの!」


結構真面目な顔で投げ込まれた爆弾に、幸也は思わず大声を出して立ち上がった。


「えぇぇー、これお前の欲求不満の話⁉」


いや、確かに、大事だけどね⁉三大欲求だし!


「半分は!」

「半分も⁉おま、恋愛感情ないんだろ⁉」

「両方ない人もいるけど、私は性欲はある!」

「声がデカいよ!夜!お隣さんに聞こえる!」


酔っぱらいが二人、立ち上がって吼え合っているのは中々の地獄絵図だった。


「だって、お前、お前と別れてからもう三年以上経ってんだぞ!」

「適当に相手は探せるだろ!」

「いやめんどくせぇんだよ、付きまとってくる奴とかいるから見極めが難しくて!」

「お前の夜事情は言わんでいい!」

「聞いたんそっちだろうが!」

「やめてよ、なんで俺が怒られてるの、てかなんで付き合ってもないのに片思いの相手と痴話喧嘩しなきゃならないの⁉」


ゼイハア。肩で息をしながら、二人はどちらともなくため息をついてゆっくり座った。


「なんで付き合っちゃダメなんだよ、他の人に手は出さないしちゃんと一対一にならないようにすっから。」

「手ぇ出さないって、お前なぁ。それじゃあ結局お前が我慢しなきゃになっちゃうよ。」

「いいよ、お前が一番大切だから。お前と好きに会えないなら他は融通効かせるから。」


ここまで言われているのに、好き、ではないんだから混乱する。


「待って待って……今俺は喜ぶところなのか怒るところなのか泣くところなのか混乱してきた。好きな子にある種熱烈に迫られてるのに喜べない。」

「……ごめん。分かんなくて。お前の好きが分かんなくて。」


何かを堪える様な絞り出した声に、幸也は首を横に振った。


「変わらないのに謝らないで、って美由紀が言ってたでしょ。お前は悪くないよ。分かんないものは分かんないよ。」

「それも、そうか。」

「俺も、分かんない。」


テーブルに突っ伏して、くぐもった声で幸也は呟いた。


「お前の好きが分かんないよ。」


しばらくそのままくるくると思考を転がして、幸也は徐に立ち上がった。作業机から紙の束、ペン、ハンコを引っ張り出して、テーブルの空いたスペースに広げた。美由紀が眉を上げる。


「こうしよ。契約しようよ美由紀。その、なに?なんて言えばいいの?お互いこれは許せるけどこれは許せない、みたいな。付き合う、って言い方すると先入観がやっぱあるし。なんか、恋人にはなれないと思うんだよな。だから、全部やっていいこととやっちゃダメなことを確認しとこう。な?」


もう普通とか知るか。お互いの許せる許せないをゼロから決めりゃいい。開き直ってそう叫べば、長い付き合いの友人はニッと笑い返してきた。


「……乗った。まずお前好きなの書けよ。その後私付け足すわ。」

「ハンコある?」

「持ってるよ。ガチだな。」


書き込む幸也の手元を覗き込んで、美由紀が横からいくつか付け足す。出来上がったそれをコピーして、お互いに二枚ともサインと押印を済ませて、それぞれが受け取った。勢いで全部済ませて、顔を見合わせて吹き出した。


「じゃあ改めてよろしくな、相棒。」


何気なく選ばれたであろう言葉が、ちょうど今日聞いた言葉と同じで。幸也は顔を綻ばせて、頷いた。


「うん、よろしく、相棒。」


一瞬迷って、幸也は美由紀を引き寄せた。ワインの味がする。


「幸也からするの、初めてじゃね?」

「美由紀さん、欲求不満らしいので。」

「あは、何それ。」


この行為の意味も、きっとお互いでズレがあるんだろう。それでいいや、と思った。


「じゃあ解消に付き合えや。ゴム手持ちある?」

「ないない、古いの捨てちゃったよ。ここ数年使うシーンがない。買ってこようか?」

「……ゆきやぁ。」

「ん?」

「もうムードはいいのかよ。 」


気にすんのかよ、と幸也は笑った。幸也が美由紀の気持ちを必死に探るように、きっと美由紀も分かりゃしない幸也の気持ちを、必死に探っているんだろう。


「いーよ。普通とかどうでもいいから、俺らがしたいようにすりゃいいよ。美由紀と俺の関わり方の問題だから。 」

「うん。ありがとう。」

「どーも。」


立ち上がって出かける支度をしようとすれば、美由紀が待って、と声を上げた。


「やっぱ私が行くから幸也は待ってろよ。帰ってきたばっかのところ悪いだろ。」

「そう?別にいいのに。」


気にするなよ、と首を傾げれば、彼女は少し言いにくそうに付け足した。


「……あと、久々におかえりって、言ってほしいな、と。ふと思っただけ。」

「なに、一緒住む?」

「前向きに考えるわ。」

「うん、考えといて。じゃあ、行ってらっしゃい。」

「行ってきます。」


ああ好きだなと思った。もう、君が隣にいるならそれでいいやと。分からないことは沢山あるけれど、分からなければ、話すしかない。逃げずに、隣にいられるように。次彼女が走り出してしまったら、ちゃんと走って追いかけられるようになろう、と幸也は目を閉じた。


変われない。変わらない。そして少しずつ、変わっていく。そうやってしか、生きられないから。


***


もしもし、彩花ちゃん?

うん、久々。

ほんとに!やったじゃない。

うん、うん。

じゃあお祝いに行かなきゃだね。すごいなぁ、俺受験成功したことないんだよ。

うん。ああ。

したよ、うん。

大丈夫。

そうだなぁ……たまにね、なぁんにも解決してないんじゃないかな、なんて思うんだよ。

俺は自分一人じゃ立てないままで、自分のために自分を大切には出来ないまま。

でもね、結局、なんとか進むしかないんだね。

彩花ちゃんはどう?少し、前へ進んだ?

そう。それなら、それでいいんじゃない。

うん、ゆっくり……ゆっくり、行こ。

そんで、俺、たまに信号渡って逢いに行くから。


……あはは、こっちの話!

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