7.
レジのほうへ向かうノノから、ぼんやりと目線を逸らした。ラジオを始めたのがもう去年の八月の話か、と幸也は窓の外に目を投げる。きっかけ自体は、もっと前の話だ。美由紀が、戻ってきた日の話。
お遊びのラジオを始めるきっかけの日。夢の欠片を、持ち上げてみた日。どうして美由紀が戻ってきたのかも分からなかったから、きっと、何か繋ぎ止めておきたかったのだ。
もしくは。思い描いていた夢を叶えたはずの毎日の中で、憎悪を向けられることに慣れていく自分に気がついたからかもしれない。何か……何か、自分にも、人を笑顔に出来るはず、なんて陳腐な夢を見て。
***
二年と少し前に刺されて、美由紀と連絡がつかなくなった。それからちょうど一年ほどだった去年の春、彼女は事務所のドアを叩いてきた。
「よぉ。」
今までと同じように顔を出した彼女に、少し迷って幸也はいつもと同じように笑った。他にやりようが思いつかなかった、とも言える。
「久しぶり。一年ぶり?」
「まぁ、そんくらいか。」
どうして戻って来たのか。それは分からなかったけれど、彼女が出ていった時と、自分は何も変わっていないことは分かった。未だに、はっきりと彼女の怒りの理由すら掴めていなかった。
「なんで、戻ってきたの。俺、変われてないのに。」
「このままお前が死ぬほうが困るなって思って。」
「どーゆうこと。」
「どっかで死なれるよりは、目の前で死なれたほうがいいな、と。」
幸也はキョトンとした。さっぱり分からない。
「ほんとに分かんないんだけど、つまり、また戻ってきてくれるってことでいい?」
結局都合の良い所だけ拾い上げて、聞き返す。彼女が出ていった理由は分からない、が、その理由よりも「幸也の死に際を確認する」ことの方が優先されたようだ。
確かに笹野に刺された後も、死ぬまで行かずとも数度殴られてたり足を滑らせて気を失ったりはした。いつも生きるか死ぬかのような危険な仕事をしているわけではないが、まぁあまり安全では無い仕事も多いのだ。
死に際を確認したいなら、連絡を絶つのは確かに得策では無かろう。何故彼女が自分の死に際を確認したいかは、分からないのだが。
「むしろ、いい?戻ってきて。」
「戻ってきてくれたら嬉しいよ。ずっと一緒だったし、いないと、困る。困った。」
好きとか、そういう以前に、ずっと一緒にいた友人が居なくなれば調子は出ない。美由紀が幸也に友人の最高位をくれたように、幸也の友人の最高位もまた彼女だった。幸也の場合、そこに恋愛感情がプラスアルファされているからままならないのだが。
「そーかよ。一年いなきゃ、慣れたかと思った。」
「慣れないよ。その前に五年くらい、いつもいたんだもん。」
「そーなんだよな。……私も慣れなかった。」
幸也の隣に腰を下ろして、美由紀が息をつく。
「でも五年か、なんかもっと長いような気がする。」
「大学入学も、大学卒業も、なんかすげー前の感覚だからね。」
「な、大昔な気がする。」
懐かしいな、と美由紀がソファに沈んだ。幸也は立ち上がってキッチンに向かいながら、在学中を思い返す。
「大学の頃は好き勝手出来たね。好きなこと出来て、明日の金があれば何とかなって。大学生って大人みたいなもんだと思ってたけど、結局遊んでたな。」
「大人ね。なってみれば、まぁなんとかなったな。」
何とか、の幅は広い。幸也は美由紀にコップを差し出しながら苦笑した。
「稼げない探偵が出来上がったけど。」
「まぁ私もクソフリーターだけど。デビューは出来ないし。でもま、生きてる。」
「生きてる、ね。」
力なく返事をする。浮かんだ歪な笑い顔を見て、美由紀が何か言いかけた。
彼女が出ていったあの時から、幸也は何も変わってない。変われない。分からないから。
美由紀の怒った訳も分からない。困っている依頼者を、危ないかもしれないからと断る理由も分からない。俺が生きて、誰かが死ぬのも分からないよ。俺なら、いくら怪我したっていいって、思うんだけどな。俺で済むならそれでいいと、思うんだけど。
幸也は美由紀がどうして戻ってきてくれたのかも、どうしてそんな顔をするのかも、分からなかった。
「ていうかお前、今仕事何してんの?」
「通信の採点。」
「なるほど。」
「あとは土日飲食。残りは漫画描いてる。」
「意外と自由時間あるんだね。」
今繋ぎなんだよ、と美由紀は肩を竦めた。
「ここ一年結構時給良い所にいたんだけど、ついこの間そこが店畳んじゃって。まぁ、それで今は仕事探してるところ。」
「またここ手伝う?」
何気ない提案のつもりだったが、美由紀は驚いたように目を見開いた。しばし目線を落としてから、彼女は少し寂しそうに笑った。
「ここ結構忙しいだろ。あの時は一年目でまだ暇だったけどさ。それに、繁忙期読めないし。」
「確かに。前は空き時間漫画描いてたもんな。」
事務所を開いてそろそろ三年目に入る。固定客と呼べるような人も増えてきた。幸也の人の良さ故か、近所付き合いの延長のような依頼も多い。一年目より忙しいことは確かだろう。
「今は漫画描く暇少ないかもね。」
「だろ。だから、やめとく。」
「そっか。」
それ、どこまで本心?
聞きかけて、やめた。本心なんてもの、ありゃしないような気すらする。だって、幸也は幸也の本心なんか、分かった試しがない。
「幸也はもう、このまま探偵で食ってくの?」
「うーん、少しは蓄えられるようにもなったし、そうなるかな。ただ、怪我の時親に借りた金がようやく返せたんだけど、今度なんかあった時にまた頼るのも嫌だし。何かあった時にどうするかは考えなきゃなんだよなぁ。」
「ああ、それはすげぇ分かる。明日の飯には困らないんだけどな。」
いざと言う時。来るかも分からないのに備えるだけ無駄とも言えるが、分からないからこそ、備えねばならないのも事実だった。
いつまでも身内に頼りたくもない。嫌いなわけではないが、金のせいで家に間接的に束縛されているような感覚が嫌いだった。だから、自力で立たなくてはいけない。
以前、美由紀も同じような感性で家を出たと話に聞いていたから、彼女が明日の心配だけ出来りゃあな、と顔を顰める理由はよく分かった。
「そう……だからまだ人生迷子だよ。」
肩を竦めて隣に座れば、美由紀がケラケラと笑った。
「迷子って目的地がある奴がなるもんだろ。迷子になんかなれねーよ。」
「言えてる。」
「後ろは崩れて戻れないし、とりあえず目の前の道を歩くだけだな。」
道の例え話に頬を緩めて、幸也はそれに乗る。
「時々分かれ道があったり、誰かとすれ違ったり?」
「そうそうそう。あーしまったさっきの分かれ道間違えた!と思っても戻れないし、一回違うほう行っちゃった人とは会えなかったりね。」
「思わぬところで曲がり角から知り合いが出てきたり。……今みたいに。」
独り言のように呟けば、美由紀は少しだけ口角を上げた。
「あんまり偶然出会った感じではないけどな。」
「お前から離れてお前から戻ってきたんだから、そりゃそうだよ。」
「ごめん。近くで見てるの耐えられなかったんだよ、私が。」
「追いかけなかった俺も俺だよ。多分、またお前に置いてかれたら、やっぱり俺、後ろで見送ってるんだろうな。」
パッと飛び出して行った彼女を追いかける度胸はなかった。どうしたものかと歩いていたら、何故か曲がり角のところで彼女は立ち止まって待っていた。次は追いかけられるだろうか?いや、変われてない幸也は、きっと同じことを繰り返す。
「隣を歩くと喧嘩になりやすいんだっけか。」
美由紀の呟きに首を傾げた。
「なんだっけそれ。」
「大学の頃さ、ラジオの話したの覚えてるか?」
「ラジオ?」
「おう。そん時に、ネットは同じ道、ラジオは隣の道って。幸也が言ったんじゃなかった?」
「あー、言ったな。」
***
どんな話の流れかは忘れたが、確かにそんな会話もあった。
「あーっクソ、一生遊んで暮らしたいな。」
「お前そればっかだな。探偵になるんだろ?」
「違う、働くしかないなら探偵になるけど働かなくていいなら働きたくない!」
偶然同じ講義をとっていた学期があったが、確かその時だ。講義前に昼飯を食べながらびーびーと喚く幸也に、美由紀が手を叩いて笑う。笑われて眉を寄せつつ、幸也はさらに言い募った。
「どの職でも世知辛い世の中だしさぁ。芸能人だとかYouTuberだとかだっていくら好きを仕事にしたとはいえ滅茶苦茶大変でしょ?それと一緒、出来ればなーんもしたくない!」
「まぁなぁ。YouTubeなんてそれで食っていくとなりゃ滅茶苦茶大変だろうな。」
そうでしょ!とびしりと指をさして、幸也はサンドイッチに齧り付く。
「でも趣味としては楽しそうだよね。発信するのって楽しそう。」
仕事にした途端なんでも辛くなんのよ、なんて働いたこともないのにボヤけば、美由紀がぽんと手を叩いた。
「あ、私あれに憧れある。ラジオ。」
「ラジオ?」
「顔見えない相手に向けて話したり、見たこともない人の話聞いたりするのは楽しそう。だから、ラジオ。」
幸也は頷いて、それから少し首を傾げた。
「でもテレビとかラジオとか配信とかって一方通行な感じしない?SNSとか、チャットとか、そういうのと違って。リアルタイムでコメントとかつけるなら話は別だけど。」
「まー確かに一方通行だけどさ、ラジオに対して後から聞いてた人からリアクションがあるだろ。あれがなんか、チャットは打ち合いだけどラジオは交差って感じで好き。」
確かにポンポンと会話するのと、リアクションに時差があるのとだとまた会話の内容も変わってくる。幸也は最後の一欠片を口に放り込んでから、ラジオねぇ、と頬杖をついた。
「あんまり聞かないな。」
「楽しいぞ。」
「まぁでも道路挟んで向こう側の人に手を振る感じでいいかも。隣を歩くと喧嘩になりやすそうだし。」
「なんだそりゃ。」
眉を上げた美由紀を他所に、幸也はにこりと笑った。
「お互い時間出来たらやろ、ラジオ。なんか今ならそれこそYouTubeとかで、似たようなこと出来るっしょ。お前が有名になる前にやろう。」
「有名になってもやろう。」
そう言って、美由紀は口角を上げた。
***
そういやそんな話もなぁなぁになったな、と思い出をひっくり返しつつ、幸也は「ネットは同じ道、ラジオは隣の道」に訂正を入れた。
「ネットは、っていうか。会話は同じ道じゃないかな。いつでも連絡取れる人は視界に入る隣の道にいて、道路を渡れば話せる。偶然道でかち合った人とも、そこで話して、それで別々の道を行く。でも、ラジオとか、ネットでも会話じゃなければ、その時偶然近くにいる人みんなに手を振ってる感じ。」
「ああ、で、気が向いた人がこっちに信号渡ってやってくるのか。」
イメージ映像を脳裏に描きながら、幸也は言葉を続けた。
「そう。……同じ道を並んで話してるほうが、やっぱり喧嘩にもなるだろ。だから喧嘩になったら一回渡って離れるんだ。で、落ち着いてまた道を渡ってみたり、二度と会わなかったり。」
「で、並んで歩いてた私は喧嘩して走ってっちゃったわけ?」
さっきの話に戻った話題に、幸也はちょっと眉を上げた。
「道路渡ったのかな。美由紀、どっちだと思う。」
「いや知らないよ。」
「てかこれ何の話。」
「なんだっけ。」
幸也が笑えば、そこで一度話題は途切れた。しばらく黙ってお茶を飲んでいたが、幸也はほとんど無意識に言葉を落とした。
「ラジオ、やる?」
夢の欠片を、持ち上げてみたくなった。どうして美由紀が戻ってきたのかも分からないから、何か繋ぎ止めておきたかったのかもしれない。もしくは。思い描いていた夢を叶えたはずの毎日の中で、憎悪を向けられることに慣れていく自分に気がついたからかもしれない。何か……何か、自分にも、人を笑顔に出来るはず、なんて陳腐な夢を見て。せっかく思い出した戯れの約束に、触れてみた。
美由紀の目が見開かれる。
「え?マジで?……いや、そんなぱっと出来る?誰も聞かなくないか?」
「俺、Twitterフォロワー三千弱いるからワンチャン。」
「まじ?」
何故そんなに、と眉を上げた美由紀に幸也は笑う。
「モチマルの写真上げてるうちに気が付いたらそんなになってた。」
実家のコーギーの写真を帰省の度に撮りまくって、それを気まぐれにあげていたらなんだか膨らんでいたのだ。まぁしょうがないな、モチマルは世界で一番可愛いので。
「そのフォロワーみんなモチマル目当てだろ。」
「言い方面白いな。ま、何人か話す人もいるし。十人くらいは興味持ってくれるんじゃない?とりあえずそんな感じでいいよ、楽しかったら続けよ。」
「まぁ、稼ぎたいわけじゃないしな。」
やろうか、となった後その日は来客の予定があったので美由紀は帰り支度を始めた。事務所のドアを開けた後、彼女は振り返って幸也の目を見た。
「なぁ、幸也。」
「うん?」
「喧嘩するかも知んねーけど、隣、ずっと歩けるといいな。」
そう言って、彼女はドアを閉めた。
***
あの日やろうと決めたラジオは、以前とは違って流れずに数ヶ月後実現した訳だが。ラジオを始める事になった経緯を振り返るうちに彼女の言葉を思い出して、幸也は思い切り眉を寄せた。
――喧嘩するかも知んねーけど、隣、ずっと歩けるといいな。
喧嘩もさせてくれないのによく言うよ、ほんと。
そういうとこだよなあいつ、と幸也は己も喧嘩が出来ない一因を担っているくせに、それを棚に上げて胸の内でぼやいた。
「ユキヤさん?」
ノノの声に顔をあげれば、彼女がトレーを持って立っていた。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。ありがとうね。」
自分の分のトレーを彼女の片手から受け取って、幸也はもう一度右手を出した。
「伝票。」
「忘れてくれませんでしたか。」
「忘れないよ、やだな。」
俺の事なんだと思ってるの、と笑いながらレシートを受け取る。金額を確認してお札を財布から出して渡せば、ノノがなんで私の分まで出すんですか、と顔を顰めた。
「端数はノノちゃん持ちね。」
「いやいやいや、」
「大人はずるいんですよ、大人しく奢られときな。」
「……じゃあ、出世払いするんで。」
膨れた顔でそう答えた彼女に、幸也は眉を上げた。何気ない応酬のつもりだろう。でも、彼女の想定には「次」があるんだろうか。彼女が出世払いするような歳に、また会うのだろうか。
幸也は少し口ごもった後、ただ期待しておくね、と答えた。
「そういえばユキヤさん、なんでミユキさんと仲違いしたのに、一緒にラジオ出来たんですか?」
「あー、それがね。一年くらいしたら美由紀が事務所に来たの。突然。」
ちょうど思い返していた出来事だったから、幸也はするりと返事をした。驚いて食事の手を止めたノノに笑いかける。
「俺はさ、なんで美由紀がいなくなっちゃったか全く分かんなくて、連絡取らなかったのね。何を直せばいいか分からないのに、連絡出来ないし。」
「え、待って下さい。ユキヤさん、ミユキさんがなんで怒ったか分かってないんですか?」
心底ギョッとした顔のノノに、幸也は瞬いた。二年間考えても明瞭な答えが出なかった問いの正答は、話を聞いただけの高校生にもあっさり分かるほど顕著なものだったんだろうか?
「な、んとなくは分かってる、つもり。えっ、俺が危なっかしいから見てらんなかったんだよね?」
――ずっとこうしていくのか?自分が関わって、なんかある度に、自分のせいだって、そうやって。
――なぁ……それをさ、私は、ずっと近くで見るわけ?
つまるところ、多分、おそらく。危険ごとに突っ込む幸也を見ているのが嫌だった、のかと。記憶の中の彼女の言葉を反芻しながら、幸也はつっかえつっかえ答えた。
うん、言葉にすればひとまずそれっぽい。幸也は一人頷いた。
「んん……そう、とも言えるのか……いや、私も本人ではないんで分からない……いやでもなぁ……」
なんか違うような、と頭を抱える少女の様子に気が付かずに幸也は話を続ける。
「俺、危なっかしいままだったから、戻ってきてとも言えなくて。なのに向こうからひょいっと帰ってきたの。知らないところで死なれるよりは死ぬところを見ることにしたって。」
「……それ、すごいセリフですね。」
「ほんとにね。それで、まぁ、美由紀は事務所で働くことにはならなかったんだけど……割としょっちゅう会ってたかな?よく家来たし、呼ばれたし。」
だから割と一緒にいたね、と言う幸也にノノが距離感の振れ幅……と半眼になった。
「喧嘩明けの様子じゃなくないですか。」
「あはは。勝手な推測なんだけど、多分見張られてたんだよ、俺。」
一日に一度は来る連絡。気まぐれに家を訪ねれば嫌な顔をされるどころかほっとされる。
「今日も生きてるーって顔、よくされたもん。その辺で野垂れ死なれたら困るってことだったんじゃないかなぁ。」
「でも、一年音信不通だったんですよね?」
「それがね、美由紀が音信不通の間はある大学の友達が毎日生存確認してきてたの。」
美由紀の生存確認行為の前は、川崎の生存確認行為に返事をするのが常だった。最近はかなり連絡が減った、ということは。
「美由紀が来たら頻度が落ちたから、あいつら手を組んで俺を見張ってるとしか思えなくてさ。」
子供じゃないのにねぇ、と頬杖をついた幸也に、ノノがくすりと笑った。
「愛されてますね。」
「なのかなぁ。」
いまいち実感はなく、幸也は苦笑いを浮べる。愛されている、というよりは、ただ迷惑をかけているような気がしてならないが。
「今はまた川崎、……あぁ、その大学の友達ね、から毎日生存確認がくる。」
「ミユキさんと喧嘩してるから?」
「ってことかなぁと。」
「ぬかりないですね。」
「ね。」
サンドイッチに齧り付いて、一度会話は途切れる。二人とも食べながら話すのがちょっと下手くそで、妙な間が空いた。
「あれ?ナギさんの一年後にミユキさんが来て……八月にはラジオ、やってましたよね?第一回の時って、仲直りしてから二ヶ月くらいしか経ってなかったんですか?」
「そうなるね。」
「すごい、なんていうか仲良しでしたけど。」
言いにくそうに尋ねたノノに、幸也は肩を竦めた。なにしろ、再会したその日にやろうと決まったラジオだ。おかしいと言えば、おかしかった。
「そもそも喧嘩したって感じもないんだよ。俺が何かして怒らせたはずなのに、怒ってごめんね、気にしないで、で終わっちゃって。」
ノノとカッキーと似ている。よく分からないまま、仲良くしているのだから。
「話してて楽しいからまぁいいか、って気になっちゃって。……で、今回つけが来た。」
「つけ、ですか。」
「うん。」
ここでようやく、はじめの話に戻ってくる。幸也は何故、今「大丈夫じゃない」のか。
解決しないまま見ないふりをした昔の話が、閉じ込めた蓋を開けて、また眼前に鎮座しているから。変わることが、出来なかったから。
「今ラジオ更新止まってるけどさ、最後に電話回あったでしょ。」
どうせ番号を変えるからと電話番号を開けて生放送した回が、最後の投稿だった。企画自体は綴がなく終わったが、うっかり変更せず放置した番号にノノが電話をかけてきたのだ。
「はい。それで私が電話したんですもんね。正直繋がらないだろうなと思ってました。」
「あはは、まぁあれは処理せずにほっといた上に酔っ払って電話に出た俺が悪い。こうして会えたんだし結果オーライじゃない?」
多分話は、大学の頃から始まっていたのだ。少しずつ、何気ない選択と出来事が重なって、いい加減自分と向き合わないと立ち行かなくなった。
その行き止まりは、笹野に刺されたあの出来事とよく似ていた。
「最後の投稿が六月の第三水曜日でしょ。で、七月の頭かな。一週間くらい迷い猫探してたの。」
数ヶ月前のことだから、まだ鮮明に覚えている。茶トラの猫。可愛げのないやつだった、と幸也は思い出して少し笑った。
「猫探しって、基本夜なんだよ。あの子達夜行性だから。で、ようやく見つけて、飼い主に引き渡したのが金曜日の深夜だったんだ。世間は花の金曜日でしょ?家に帰ろうと歩いてたら酔っ払いに絡まれちゃって。無視しようとしたんだけど、上手く、いかなくてさぁ。」
完全に出来上がった酔っ払いには理性が欠けている。ストッパーたる感情がないから、素面の人間よりも力が強いことは往々にしてあるわけだ。
笹野のことがあってからだって、人に危害を加えられることがなかったわけじゃない。でも、誰もいないところで、しかも相手に躊躇がないのは初めてだった。
あの時、以来だった。
「殴られる、と思って。とりあえず受け止めはしたんだけど。咄嗟に殴り返してやろうと思ったら、相手の顔がね。笹野だったの。」
「え、でも、」
「死んでるからね。幻覚よ幻覚。でもなんか、あ、笹野だって思ったら、俺、これも正当防衛なのかな、って。ここで殴ったら、それも正当防衛になるのかなって。思ったら動かなくて。ほんとに、なんも出来なくなっちゃってさぁ。そのまま袋叩き。」
いじめの被害者と加害者を一夜にしてハシゴした経験から来た「反撃」への苦手意識は、自身が自身に張りつけた「人殺し」のレッテルでますます悪化した。
殴られたらどこまで殴っていいんだ。正当防衛ってなんだ。
咄嗟に身を守ろうにも脳は情報処理しきれず停止し、まぁ相手の気が済むなら、と口を閉ざしてなされるがままに耐える。
日常の些細な揉め事をそうやって耐えるようになっていた幸也が酔っ払いの振り上げた拳を見た時。やり返そうと思った瞬間、亡者の幻を見た時。出した結論は想像に易い。
まぁ、相手の気が済むなら。
ガン、と思い切り横面に入った衝撃で、視界はブラックアウト。
「目が覚めたら病院。ま、幸い大したことじゃなくてちょっとした脳震盪だったんだけど。で、見舞いに来てくれた美由紀が、怒っちゃいそうだから距離置かせてって。」
お前がこうなのは分かったうえで戻ってきたつもりだった、と彼女は幸也の頬を撫でて呟いた。
怒ることじゃないのに、怒鳴り散らしちまいそうだから。落ち着いたら顔を出すから。しばらく会えないと、彼女は申し訳なさそうに笑った。なぜ怒るのか教えてくれないのか、と問うた幸也に、彼女はただ変われないことは謝らなくていい、といつかと同じことを言った。
ほら、ね。やっぱり俺、後ろで見送ってる。
「それから、また、連絡取れてないってことですか。」
「うん。そう。病院で会ったきり。だから一か月以上か。」
ノノと電話してから、今日ここに来るまでも彼女とは連絡を取ってない。毎日川崎の生存確認に返事をして、変わらず仕事をして。
「今度は連絡先も家も分かってるんだけど。俺、何が変わらなきゃいけないことか分からなくて。分かんないのに連絡なんて取れねぇし。」
連絡するなとは言われていない。一年の音信不通よりはマシなはずだ。ただ、何とかなった気でいたことが、やっぱり何ともなっていなかったという事実がありありと示されて、前回よりも幸也はよっぽど参っていた。これでまた一年、なんてことになれば多分、潰れる。
「生放送じゃなきゃさ、いつも投稿する一週間前くらいに録音してんのね。退院した日が七月のラジオ録音する予定の日だったから、録音すらしてなくて。それで、そん時は全然気にする余裕なかったんだけど、一週間してさ、第三水曜日……いつも投稿してる日だって気が付いたら一気にどうしようもなくなったんだよね。」
繋ぎ止めておきたくて。夢を美しいものとしておきたくて。それがむしろ、いないということを、ままならなかった夢だった何かを、強調させるだけになることになるとは思わなかった。
「それが、ノノちゃんの電話の日。」
あの日かかってきた電話に、幸也は思わず呟いた。
――俺大丈夫じゃねぇのかも。
言葉を途切れさせた幸也に、ノノがゆっくりと口を開いた。
「あの日……しばらく投稿出来ないって、ツイートしてらしたじゃないですか。どう、したのかなって。……メール、ずっと返せなかったんですけど、ずっと誰かに聞いてほしい気持ちはあったんです。」
彼女は途切れ途切れに言葉を重ねる。
「でも本当の事をいうのが怖くて、返せなくて。……いつも全部ラジオ聞いてて、私が勝手に救われてただけなんですけど、なん、ていうか……しばらく投稿出来ないって見てやっぱりちょっと不安になっちゃって。」
気がついたら電話番号を打ち込んでいた。ノノの呟きに、幸也は目を伏せる。
二人とも、藻掻いていた。
助けを求めた両者が手を取っても、結局一緒に溺れるだけかもしれない。それでも、手を伸ばした。その手を取った。
***
「サチさんさえ良ければ、直接会いますか?」
「え?直接?」
思わぬ提案に、幸也は瞬いた。落ち着いた声で電話先の少女は続ける。
「はい。あ、でもサチさんと住んでるところ結構違うのか。」
「いやまぁ、場所によっちゃいけなくもないけど、あれ、危なくない?だってノノちゃんまだ高校生だし、ネットで知り合った人と直接会うのって危なくない?あれ、これ俺も危ないのかな。ノノちゃんがホントに高校生かも分かんないし、」
アルコールで溶けた頭のままだと、思いついた端から声が出る。それ直接私に言います?とノノが笑った。
「別に、カフェとか人の目があるところで会うなら私は構わないですよ。」
「あ、そっか、そうだね。人がいるところで会えばいいのか。」
「じゃあ、またメールします。大きなお世話かもしれませんけど、飲みすぎちゃ駄目ですよ。」
***
「で、電話したら泥酔してる奴が出たんだねぇ。」
あの日は酷い様だった自覚がある。自嘲気味に幸也がぼやけば、ノノが小さく吹き出した。
「昼から飲んでた理由がよく分かりました。」
頭を抱えた幸也に、ノノがいよいよ声を上げて笑う。幸也は不貞腐れたように目を逸らした。
「あれでも、あの時とりあえずいじめは収まってたんだよね?」
尋ねれば、彼女は眉を下げて首を振った。幸也は目線で先を促す。
「どうお返事しようか迷っているうちに、せっかく下火になったいじめが再開してしまったんです。なんていうか、私の、せいで。」
「……話す?やめとく?」
「話します。今一番私が方をつけなきゃいけないことなんです。」
「分かった。じゃあ、持たせてもらうね。」
「よろしくお願いします。」
ノノは一度深く息を吐いてから、話し始めた。
「メールをいただいていじめから距離を取って、高二の三学期は何とかなりました。学年が変わっても、私達四人は……残念ながら、と言いますか、同じクラスでした。それで、高校三年生ですから、校内推薦の話が上がってくるようになったんです。」
幸也は自分がその年代だったころを思い返しながら頷いた。自分には縁のない話だったが、確かにそんな話もあったはずだ。
「私、一個推薦を申請してたんです。他に生徒が来なければ十分な成績だと言われていましたが、結構ぎりぎりで。でも今の所、他に志望者はいないと言われていて。だから私、すっかり決まった気になって、結構みんなに話してたんですよ。だけど六月の終わりごろ、締め切りが近くなった時に呼び出されて。」
「他に、希望者が出たか。」
「はい。」
彼女の苦い表情を見て、幸也はふと顔を上げた。
「じゃあ、もしかしてそれが、」
「先生は誰とは言いませんでした。」
強く、目をつぶる。固く目を閉じたまま、ノノは震える声で呟いた。
「本人も、黙っててくれれば良かったのに。」
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