第5話 事案6960-襲名 前編
あの日以来、俺は確かに魔術師として、世界から一旦忘れられた存在となった。
……そうなった、筈だったのだ。
しかし、手術から1ヶ月と2週間後。
俺は蘆屋から聞かされた事実と特殊な魔方陣が刻まれた義眼を引っさげ、そして未だ治らない怪我を負ったまま、最後の帰宅を済ませることになった。
俺が魔術学院の傘下組織である超常的な治療専門の大病院、通称「魔術病棟」へ入院している間、工作員達は俺にまつわる記録や記憶を消す為に各地を回っていたらしい。
しかし両親だけは、俺が生まれてからずっと家族として共に暮らしていた上に、俺に対して依存し切っているという事もあってか、何度俺に関する記憶を消されても、5日後には殆ど俺の記憶が殆ど戻ってしまうそうなのだ。
親の愛とは深く大きなものであるとは聞くが、一部の例外を除いて、親というものは子を大切に想うものなのだろう。
……尤も、瑠莉奈の死後は両親とも俺に依存していただけで、親子としての愛情はその頃から受け取っていないような気はしないでもないが。
それとも、魔術に耐性があるとか土地に結界が張られていて魔術の効果が薄まっているとか、そういう事情なのだろうか。
とにかく俺が魔術師として生きていく上で、両親の記憶を弄れないというのは非常に不都合だ。
警察に捜索願を出されようものなら、さらに工作員の人達にも迷惑がかかってしまう。
今は2~4日毎に工作員を送り込み、その都度俺の記憶を消し直すことで何とかトラブルを防いでいるらしいが……流石に、俺か両親が死ぬまでそれをやってもらい続けるのも難しい。
……というわけで、両親の俺に関する記憶を完全に消し去るべく、「俺と両親が直接顔を合わせ、『両親の脳が俺に対する記憶を更新している最中(=俺に関する記憶へのセキュリティが緩くなっている時』に魔術をかけることで、俺に関する記憶を根本から奪う」という方法を用いて、俺と両親の関係に決着をつけることになったのであった。
~事案6960-襲名~
俺はベッドから起き上がり、久々に外へ出る支度をする。
正式な魔術師として蘆屋に認められて以降では初の仕事となった此度の事案。
しかし、あくまでも俺は「実家に帰るだけの一般人」として振舞わなければならなかったため、入学祝いもとい初期装備として魔術学院から支給された、藍色のローブと樫の木で作られた杖は持って行けなかったのであった。
服はともかく、杖さえも持って行けないとは。
初仕事の筈なのに、何だか未だに魔術師になったという実感が湧かない。
まあ、今の俺は強力な魔法薬を服用して痛みを遮断し、無理矢理に全身を動かしている状態だ。
何もせず普通に過ごしているだけでも、身体にかなりの負荷がかかっていることだろう。
今はまだ、このくらいの緩さで良いのかも知れない。
宮城県は蔵王町、その山奥にひっそりと建てられている魔術学院からは、専門の運転手が運転してくれる乗用車を用いての移動となる。
そこから仙台市中心部にある俺の自宅まで向かうには、高速道路を使っても一時間前後かかるのだ。
そんな事を考えながら移動中の時間を潰していると、同伴していた工作員である「
「これを持っておけ」
「あ、ありがとうございます。でも……何ですか、これ?」
「エメラルドだが」
「……何で俺に?」
「武器として使え。投げるとベリリウムが『それ以外の物質を拒む』ことで爆発する」
後に俺は「魔術の基礎」という講義で魔術のメカニズムについて学ぶ際、「拒む力」について知ることになる。
きっと、エメラルドにもその類の基礎的な魔術をかけられていたのだろう。
「魔術がかけられた宝石ってことですか」
「そんなところだ」
「……」
「……」
随分と無口というか、ぶっきらぼうな人らしい。
悪い人では無いのだろうが。
近所の駐車場に車を駐めてもらった後に、実家へと向かう俺と山村。
時刻は午後1時。
この時刻では小学生の声も聞こえない、閑静な住宅街に俺の実家はある。
庭の門を開き、玄関扉の鍵穴に鍵を挿す。
門が開いた音に反応したのか、室内で両親が走り回っているであろう音が聞こえたが……鍵を捻って扉を引いた時には、めっきりその音は止んでいた。
両親は瑠莉奈の死よりも前から……それこそ瑠莉奈や俺が帰ってきた時には、手を離せない家事の最中でもない限り必ず玄関先で出迎えてくれたのだが……どうしたものか。
(瑠莉奈の死後はそれが本人達にとって強迫的なものになり、火を使った料理中でも俺の出迎えを優先してしまうようになったのは、俺にとって大きな悩みの一つであった。)
とはいえ、こうも静かだと調子が狂う。
俺が恐る恐る戸を引き、つい数秒前までドタバタしていた両親はどうなっているのかと、室内へ足を踏み入れる。
すると、瞬きの拍子に人影が一つ現れた。
ただ黒くて霞のようだったそれは少しずつ形を成していき、数秒後には俺もよく知る人間の姿へと変わっていく。
いや、正しくは「人間だったもの」だろうか。
1年前、当時中学二年生だった妹の身体を肉塊と化し、同時に俺の心を轢き潰したトラック。
そのトラック運転手は、瑠莉奈の死後四十九日となる日に心不全で死亡したらしい。
当時から偶然とは思っていなかったが、やはり偶然ではなかったか。
「……おかえり、兄さん」
加茂 瑠莉奈。
そこに立っていた少女は、間違いなくそう呼ばれていた存在。
しかしそれは人間ではなく怨霊、否、悪魔の類であった。
日本の非科学的存在で「悪魔」の名が出ることはあまり無いが、それでも「瑠莉奈のような、しかし人間ではないそういうもの」なのだということを本能的に理解した俺。
しかし、不思議と敵対心は感じなかった。
瑠莉奈の姿をしたものが生前の彼女と変わらない口調で、いつものように「おかえり」と言ってくれたからだろうか。
そうは言っても、この悪魔が「瑠莉奈本人」なのか「かつては瑠莉奈であった地縛霊の類」なのか、その辺りはさっぱり分からない。
俺は目から溢れ出る涙を拭うことも忘れて、「ただいま」と言ったつもりでパクパクと口を動かしながら、瑠莉奈の手を取ろうとする。
しかし、それを阻む影が一つ。
「離れろ、新入りッ!!」
「え、ちょ」
背後から山村が俺の首根っこを掴んで引っ張り、瑠莉奈に向かって薬品入りの瓶を投げる。
「うわっ!な、何この触るとビリビリする液体!?ちょ、後ろの人!何でこんなことするの!?ねえ兄さん、後ろの人は誰!?」
「嘘だろう?」
瓶の中には、エメラルドと同じく「拒む力」を込めた薬が入っていたらしいが……瑠莉奈には殆ど効いていない様子だった。
「ちょ、山村サァン!?何するんですか、感動の再会なのにィ!?」
「違う!アレはもはやお前の知る妹ではない!」
山村は着ていた外套の内側から青銅製の杖を取り出し、早口で魔術の詠唱を開始する。
「待って下さい!確かに悪魔っぽい感じはしますけど、あの瑠莉奈は間違いなく俺の妹です!」
「いいから黙って見ていろッ!【拒む」
しかし、俺との再会を邪魔された上に質問を無視され、挙句の果てに今の己を否定された瑠莉奈は激昂。
「お、ま、え、が、黙ってろよォォォォォォォォーーッ!!」
詠唱を省略して魔術を行使し、山村を吹き飛ばした。
「……うわぁ」
全身から血を噴出させ、門の外まで吹き飛ぶ山村。
ピクリとも動かなくなってしまった山村をよそに、瑠莉奈は呆然とする俺に駆け寄り、抱きついてくる。
「兄さん……ああ、兄さん……!」
「いやいやいやいや、まずこの状況を説明してくれよ。情報量が多すぎる」
俺は血に塗れた山村の身体を自宅の敷地へと引き摺り戻し、山村の回収要員を呼ぼうと、スマホで蘆屋に電話をかけようとした。
「【バラル】」
しかし電話をかけようにも、キーパッドや連絡先を示すアプリに書かれている文字や数字どころか、「電話」や「メール」といった意味をもつ受話器や封筒のアイコンさえも、何故か知覚できない。
文字や数字は「直線と曲線」、記号は「ただの形」としか認識できなくなってしまった……と言えば、分かりやすいだろうか。
「えーと……瑠莉奈?今、俺に何かした?」
瑠莉奈が呟いた「バラル」という単語に心当たりがあった俺は、困惑しつつも焦りが混ざった表情で、ゆっくりと瑠莉奈の方へ向く。
「うん。兄さんは今、私以外と言葉を交わせなくなってます」
「ええー……」
一方で、全く悪びれずにあっさりと自白する瑠莉奈。
でも、何故そんな事をしたんだ?
このままでは山村の命が危ないというのに。
「ねえ、兄さん。……色々と説明不足だとは思うし、再会したばっかりで悪いんだけど、一つだけ確認させて」
「な、何だよ?」
俺は混乱したまま、情報を整理する間もなく瑠莉奈に詰め寄られた。
「一緒についてきてた人の雰囲気から察するに……兄さんは多分、魔術師になったんだよね?」
唇が触れるまであと3、4センチメートル程度の至近距離まで顔を近付ける瑠莉奈。
俺はたじろぎながらも、相手が異性とはいえ妹であるということもあり、「わぁ、顔が近い」以外の感想を持たずに一言「おう」とだけ答える。
「良かったぁー!聖職者だったらどうしようかと思ったよ」
瑠莉奈が安堵のため息をつく。
やはり悪魔なのか、聖職者は苦手らしい。
「はぁ。妹を亡くした兄が、その妹に救いの手を差し伸べなかった神を信じるとでも?」
「兄さん……。うん、資格は十分だね」
「それはどういう」
再び俺との距離を詰め、右の耳元で囁く瑠莉奈」。
「ねえ兄さん。せっかく魔術師になったんだから……使い魔とか、欲しくないですかー?例えば、私とか!」
そして、そのまま俺の右耳を甘噛みし始めた。
瑠莉奈は、俺の知り合いであると分かっている筈の山村が今にも死にそうな勢いで出血しているにもかかわらず、俺の認識を歪めて言語認識能力を封じ、さらには契約まで迫ってくる。
俺の意識は一切が自然と瑠莉奈との会話に向けられ、脳内から山村のことが霞んでゆくように感じた。
認識は歪められ、もはや言語も合図も意味を持たない。
その会話と異常な状況は、まさに悪魔の囁きを体現するものであった。
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