奪い取られた

 名前をねだられて、わたしは逡巡する。


「なぜ元の名前ではいけない?」


 ヒトが生きていく為には食事を取らなければならない。両手は自由に動かせるように見受けられるが、手が届く範囲に食べ物はない。下半身が固められているので排泄もできないだろう。生命を維持していく上で必要不可欠な行動として今のこの状態でこの男ができることといえば睡眠ぐらいなものである。

 それでも男は健康そうに見えた。陽の光が差し込まない地下だからか肌の色は白いが、筋肉は程よくついていて瞳の濁りもない。


香春隆文かわらたかふみはオレだけど、死んでしまったようなものだから」


 意味深なセリフを吐いてから自らの左手の人差し指を右手で掴んで、捻りながらむしり取ってみせた。ボギボギと骨が折れる音がして完全に付け根から人差し指が分離される。


「なんてことを!」


 その顔を痛みで歪ませながら、男は「痛覚も死んでほしかったな」と他人事のように言い捨てた。それから、わたしの息を呑む音が小さな耳には届かなかったのか、人差し指を口に運ぶ。


「じ、自分の指……」


 わたしの顔はどれほど引き攣っていただろうか。男は人差し指をもぐもぐと咀嚼して飲み込んでから「どうせ生えてくる」と言って左手をブンブンと振り回してみせる。目を凝らして見ていたら、その言葉の通りに人差し指は生えてきて、元通りの五本指となった。

 ヒトにここまでの自然治癒力があったとは教わっていない。


「オレは死なない」


 不死身。

 創作物ではその存在について明記されているものをいくつか読んだことがある。実在するかどうかまでは疑っていたが、実演されてしまっては信じるしかない。ケガをしてもその超回復によって元通りにする。寿命は存在しない。

 その姿は伝承によって差はあり、ヒトの姿でないものもあったはずだ。だが、こうして目の前に現れたのがヒトの姿であるので、ヒトの姿をしている資料こそが正解だったといえる。


「この場所は、研究施設か?」

「せいかーい」


 わたしはライトで照らしながら電子機器類に触れてみる。地下にあるぶん、地表での醜い争いに巻き込まれずに済んだ形か。動かせれば内部のデータを回収できそうだ。


「ヒトがヒトとしてこの地球上で生き残るために、オレはこの場所に。ジョンのしてくれたさっきの話が全部本当なら、失敗しちゃったみたいだけど」


 ヒトがそうであったように、我々も寿命には逆らえない。医療技術の進歩により平均寿命は伸びているが、我々は長くても三十年しか生きられない肉体となっている。人類史の末期には疫病が流行っていたから、ここの研究員はさぞかし焦っていただろう。超回復のメカニズムが解明できれば人類の滅亡は回避できたかもしれない。ううむ、研究の途中経過をサルベージしたい。政府から技術班を連れてこよう。わたしの手に負えない。


「オレは嬉しいよ。オレをさんざんいじめた人類がいなくなってくれて! ……その代わりに宇宙人とネコのあいのこが繁栄してるなんてのは想定外だった。面白いなぁ!」

「お前はヒトであるのに、ヒトが滅亡して嬉しいのか」


 その感情が理解できずに、わたしは思わず問いかけてしまった。この男にも家族はいたはずだ。ヒトもまたヒトの男女から生まれてくるもので、両親の愛情により大きくなり、学校に通い、ヒトとヒトとの交流で成長していく。教授が観せてくれた映画の中にも、複雑な家庭環境であったり周辺からの理解が乏しい状態であっても強く逞しくヒトは前を向いて育っていく作品があった。タイトルは忘れてしまったが。どうやらフィクションのヒトは、ノンフィクション目の前にいる現実のヒトと違うようだ。


「誰が好き好んでこんなトコに来るんすか。って言ったじゃないすか」

「ヒトのためにその身を捧げたのではないのか」


 わたしは大真面目に聞いているというのに、男はケラケラと笑い始めた。ひとしきり笑ってからケホケホとむせる。装備品から水筒を取り出して、水を注いでいると「オレはんすよ。相手が果たす気のない約束を信じて、耐えて、待ち続けた結果がこれなんすよね」その間に回復したようだ。


「数年ぶりに彼女から連絡が来て、彼女に会った。彼女の他にたくさんの人間がいて、オレを取り押さえたんすよ。そんでここまで連れてきた。

 最初は隙を見て逃げようとしていたんすよ。そしたら孫悟空の頭の輪っかみたく、あちらの都合で絞まる首輪をはめられた。いつの間にか劣化して取れちゃったんで今はついてないんすけどね。

 そのあと、一度だけ、ここに来てくれた彼女は『いつか、また来るから。その時は、あなたも一緒にここを出られる。約束ね』と言って出て行った。オレはまた彼女を信じ――ジョン、笑っていいよ。何で疑わなかったんだろう。

 ……オレは何度も、彼女がその階段を降りて来るを見る。でも、その『いつか』も『その時』も来なかった」

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