きみにくるくる ~ 催眠からはじめる幼なじみとの仲直り ~

七谷こへ

本編

第1話 幼なじみの冷たい視線と膝枕


 鈍い金色の円が目の前をぶらついている。


 円の左右の運動に合わせて眼球を動かす。


 周囲の景色がぼけるほど、中心の穴を凝視していると、うさんくさい男の声が穴をくぐりぬけて耳をおかす。


「おまえは眠くなる、まぶたがストンと落ちて、ひらかなくなって、口をポカンとあけてリラックスする。首の力が抜ける、肩の力が抜ける、ダラリと腕が下にたれてリラックスする。おれの言うことを聞く、おれの言うことを聞かずにはいられなくなる……おまえは催眠がとけたらそのあいだのことを忘れるが催眠中はおれの言うことに絶対服従する性奴隷のごとき存在になる……」


「いやこわいこわいこわい」


 円のうしろにぼやけて見える、暑苦しい男の目がどんどん血走ってきたため、カズヒトは制止するために目の前の五円玉をつかんでとめる。

 五円玉を振っていたボウズ頭の大戸は、しごく残念そうにため息をついてうなだれた。


「ダメかー」


「ダメかーじゃねぇよ。なんだよ性奴隷って。エロ本でしか聞いたことないワード出してくるんじゃないよ。おまえに催眠術かけられたらそんなことになっちゃうの?」


「いや、もしもおまえで成功したら今後いろいろムフフな思いができるんじゃないかと思って、情熱が先走りすぎた」


「おまえにあるのは情熱なんて上等なもんじゃなくただのゲス心だよ」


 カズヒトがあきれながら言うと、大戸は大げさに椅子にのけぞった。


「きのう、兄貴の本棚から催眠術の本を見つけたからいけると思ったんだけどなー」


「おまえの兄貴、エロ本以外の本も持ってたんだな」


「いやエロ本に出てたんだよ催眠術が」


 大戸がこともなげに言うので笑ってしまう。


「フィクションに決まってんだろそんなもん」


 手にとった五円玉は細い糸でつながれており、つりさげると目の前でくるくると回った。

 金属の円がなめらかに回転し、淡い夕焼けを規則的に反射してきらめく。


 放課後の教室には自分たちしかいない。

 カズヒトは担任からあるクラスメイトへの伝言を頼まれたのだが、気の重さから机につっぷしていた。すると大戸が近づいてきて「リラックスさせてやろうか」とメガネをあやしく光らせながら提案してきたのだった。


「いやその本めちゃくちゃエロかったんだって!」


「エロければエロいほどフィクションみ増さない? その検証をしたいから、今度その本ちょっと見せてね」


 むだ口をたたいて立ちあがると、ふたりで教室を出た。観念してクラスメイトのもとへ向かう。


 行き先は、安達あだちたまきという女子のところだ。

 いわゆる幼なじみというやつで、カズヒトとは家もとなり同士、幼稚園のころ環が引っ越してきてからずっと一緒に育ってきた。


 が、中学にあがったあたりから、環は目も合わせてくれなくなった。

 話しかけても、顔をしかめ、不快な感情をかくそうともせず、最低限のことばしか返ってこない。

 思春期のせいなのか、自分がなにかをしたのか、カズヒトには心あたりがなかった。


 ひとつたしかなのは、そのまま中学を卒業し、高校2年になったいまに至るまでのあいだ、ほとんど交流がないままということだけだ。


 環がいるであろう研究開発部の部室の近くまで来ると、カズヒトは足がすくんだ。


 きっと、「なんの用だね」とそっけなく、腕を組んで、いつのころからかするようになったあの冷たい目で自分を見るにちがいない。


 そんなカズヒトのようすを見てか、大戸がかろやかに肩をたたいた。


「まあ、おれにちょっとまかせておけよ! 雑談して場があったまったらおまえを呼んでさりげなく話進めてやるさ」


 大戸とは高校に入ってからのつきあいだが、環とのことも話して相談しているから気をつかってくれた。

 たしかに、環も自分がいきなり来て冷や水を浴びせられるよりは、ワンクッションあったほうがいいかもしれない。大戸とは仲もいいし。

 カズヒトはそう勘定しながら答える。


「ありがとう。助かるよ。というか、プリント出してくれっていうだけの話だし、大戸にお願いしちゃったほうがいいんじゃないかとも思うんだが……」


「おれは別にいいけど、おまえが本当にそれでいいのか? せっかくの話すチャンスでもあるだろ。もしかしたら、きょうは機嫌がいいかもしれないし、実は前みたいに話すきっかけを探してるだけなのかもしれない。話してみないとわからんだろ」


「うん、そう……そのとおりだな。ありがとう、そしたら、たのむよ」


 メガネをくいっと上げ、自身のボウズ頭をなでつつ、バチコーンと音がしそうな勢いでウインクをすると、大戸はようようと部室のドアをノックして入っていった。


「しゃしゃしゃーす」


 大戸が乱雑に閉めたドアのすきまから、中のようすが一部見える。


 ――環だ。


 肩まで伸びた髪が、手入れをおこたっているのか少しボサッと広がっている。

 小柄で、だらりと羽織る大きめのカーディガンが、指のつけねまでを袖口で隠している。

 きっと、あのいつも眠そうに少したれた目をして大戸のことを見ているのだろう。


「なんだ、大戸くんか。ノックしたんならこちらが反応するまで待ちたまえよ」


 少し低く、自信に満ちていてよく通る、つやを含んだ声がひびく。

 耳になじんで、脳になつかしさを伝えながら、胸を打って動悸をはやめる。

 大戸の無遠慮にあきれながらも、いやがってはいなさそうだ。


「さーせんさーせん。なになに、またひとりでなんかあやしげなもの発明してるの?」


「お気もちゼロの謝罪からの失礼なものいいコンボはやめたまえ。あやしげではなく、斬新な発明と言ってほしいものだね」


「今回はなにをつくってるの?」


「ふふふ、聞いておどろけ。透明人間になる薬だ」


「ととと透明人間!?」大戸は驚いて大声を発する。「全人類の夢じゃん!」


「くそでか主語はやめたまえ。きみがよこしまな考えを抱いているだけだろう。とはいえ、現段階ではまあ透明人間というと言いすぎになるだろうな」


 言いながら、環がプラスチックの容器に入ったハンドクリームのようなものを出し、熱したチーズのようにのばしてみせる。


「見てのとおり、皮膚につける塗り薬のようなものなんだが、透明人間というよりカメレオンみたいに肌の色が変わる、と表現したほうが正確だ。うまいこと背景と同じような色に変わることで、溶けこむことができるかもしれないというわけだ」


「あーじゃあ透明になるわけじゃないんだ。いやでもでも十分すごいじゃん。塗ってみていい?」


「塗ってもいいが、まだ開発途中だから皮膚が激烈にかゆくなって皮膚がただれるぞ。あと人面疽じんめんそみたいなカサブタができる」


「ジンメンソって?」


「5センチ少々のバケモノの顔が皮膚に浮かびあがると思っておいてくれ」


「皮膚がただれてバケモノの顔が浮かんだらおれ自身がバケモノといえない?」


「まあたぶん副作用はそのうち解決するだろうが、出てくる色もずいぶん不安定でね。塗っている人の発汗状態や体温によって変わるようにしてるんだが、なかなか思ったような色にならないんだ」


「ふーん、まあよくわからないけど難しいんだねえ。あ、ねえねえこれは?」


 大戸は環のそばにあった、自分の身長ほどもあるどでかいハンマーを指さした。


「ああ、それか」環はつけていたゴム手袋をはずし、薬を置きながら答える。「それも見てのとおりだ」


「見てのとおり……?」


「ああ」


「見てのとおりだと、ハンマー、かな」


 カズヒトも扉の向こうでそっとうなずく。

 どう見てもハンマーです。


「はぁ、理解されない天才というものはつらいものだな」環は芝居がかったしぐさでため息をつき、なげいてみせる。「なぜわからないんだ、これは異世界転生機だよ」


「異世界転生機」


「ここにどでかいハンマーがついているだろう。そして、ハンマーの大もとにはこの機械がついている。くわしいことは説明してもわからないだろうが、ここでウッウーウマウマーマ波を南冲尋定方式で歪ませることにより特殊な超音波へと変質させ、このどでかいハンマーで後頭部をぶん殴られた者の魂を別次元へ転生させるしくみだ」


 環は説明しながらふふんと胸をはっている。

 大戸はメガネをくいっとあげて訊く。


「後頭部を殴られたら死ぬの?」


「死ぬ。転生だからね」


 ただの殺傷能力の高い鈍器じゃねえか。


「転生っていったらトラックじゃないの?」


 そこはどうでもいいよ。

 トラックとハンマーには轢殺か撲殺かの違いしかねえだろ。


「なるほど、そこは要改良だな。貴重な意見をありがとう」


「これって、転生後もどってこれるの」


「はははなにを言ってるんだ。転生、つまり死んで、べつの生物に生まれ変わっているわけだからね。もどってこれるわけがないだろう。まあ私だったら、転生先でも同じ装置をつくってみせるがね」


 ずいぶん自信ありげだけど、それまた別の異世界に行くだけなんじゃないの?


「いや、まあ、たしかに壮大だし魅力的な話ではあるけど、死ぬのはちょっとこわいかな……」


「そこなんだよ。理論的にはカンペキなんだが、いかんせん実際にどうなるかはまだためせてないんだ。もしきみがためしていいという気もちになったら教えてくれたまえ」


「いや、うん、もしそんな気持ちになれたらね……なんかあの、もう少し、たとえば身体能力を向上させてクラスのヒーローになれるみたいなお手軽発明はない?」


「ふむ、身体能力、身体能力か……そうだ、たしか」


 環は部屋の奥に乱雑に積んであるダンボールにからだごとつっこみ、底のほうからポイポイといろんな発明品を放り投げてさがしている。

 むかしから、なにかよくわからない思いつきでものをつくるのが好きだった。

 いまも変わってないんだなと、カズヒトの胸のすみになつかしさがほのかに湧く。


「おーこれだこれだ」


 とり出した蛍光グリーンのあやしげなスニーカーに、ふっと息を吹きかける。


「もう2年ほど前、中学生のときにつくった発明なんだが、名づけて『カエルジャンプくん』だ」


 小学1年生のネーミングセンスだな。


「つまり、めちゃくちゃジャンプ力があがるとかそういうこと?」


「なかなか察しがいいな。そのとおり、ジャンプをサポートしてくれるツールで、たしか垂直跳びで最大5メートルほどは跳べたはずだ。身体能力をあげてチヤホヤされたいなら、これ履いてバスケットボールでもしたらいいんじゃないか」


「それそれ、まさしくそういうのだよ! もー安達ちゃんたらもったいぶるんだから。これ、ためしてみてもいい?」


「もちろんだとも。室内だとあぶないから、ベランダへ出よう。いやーみずから私の発明品をためしてくれるとは、きみはいい男だね。ここのベランダはちょうど天井がないから、まさにうってつけだ」


 ふたりはウキウキとそとへ出ようとするが、大戸が完全に自分のことを忘れてるんではと疑ったカズヒトは、しかたなく会話に割りこむことにした。

 コンコンとややつよめに半開きのドアをノックし、コホリと咳ばらいをして自分の存在をアピールする。大戸はカズヒトを見て「あっ」と声を発する。


「あー取り込み中すまん。環、あの、先生からちょっと……」


 そう言いながら部屋に足を踏み入れるカズヒトに、


「入るなッ!」


 環は背すじが凍るような大声で一喝をくわえた。


 さきほどの楽しげな表情から一転して、環のひとみは世のなかのあらゆる楽しみをころしつくしたような冷酷さを帯びている。

 不快そうにこめかみをひくつかせ、腕組みをしてカズヒトを睥睨へいげいした。

 身長からすると環が見あげる側なのに、カズヒトは崖のうえから見おろされているような心地がする。


「私は部室に入ることを許可していない。なぜきみは勝手に足を踏み入れている」


「あ、いや……すまん」かたまって動けずにいた足を、ひっこめる。「……先生から、プリントを出すよう、おまえに伝えてくれっていわれて……」


 環は舌打ちをせんばかりに、にがにがしく顔を歪めた。


「先生もなぜきみに頼むのか、理解に苦しむよ。そこで待ちたまえ」


 環は机のうえに放ってあったカバンに向かい、ごそごそとあさる。


 親父がこのあいだの面談のとき、おまえと幼なじみであることをペラペラしゃべっちまったんだ。

 カズヒトは弁解しようとするが、どのみち不興を買うだけかもしれないと思うと言葉がのどをとおらなかった。

 大戸が視界の奥で気まずそうにくちびるを噛んでいる。やっちまったという顔に見えるが、大戸がわるいわけじゃない。


 だれかがわるいわけじゃない。


「ほら、これでいいだろう」


 環がぞんざいにプリントを突き出す。


 「ああ」いろいろな言葉をのみこんで、カズヒトは弱いちからでそれを受けとる。


 音の出ないようゆっくりと引き戸を閉めるとき、視界のはしに手を合わせて頭をさげる大戸が見えた。

 少し口もとをゆるめて、手を軽くあげる。


「きょうは機嫌がいいかもしれない」大戸の言った言葉を思い出す。

 そんなことはなかったな。

 自虐するように少し笑って、数歩歩くと、となりの教室の壁に寄りかかった。

 力が抜けて腰を落とす。


 どんなに機嫌がよくても、自分がくるとああなってしまう。


 いつか、きょうこそは前みたいに打ちとけて話せるかもしれない。

 そういう希望をもって、もう3年は経つ。


 何年待ってもそんな日はこない。


 もういっそ、あきらめればいいんだろう。

 実際、環がこうした態度になってすぐは、カズヒトも「なんだよ、おれなにもしてないのに」と憤慨してこちらもけんどんな態度をとるよう自分にいた。


 でもそれは長くつづかなかった。

 理由は明白で、小さなころからずっと、環のことが好きだったからだ。

 好きな人からきらわれるのはつらい。

 ようやく、男女としての恋情を自覚できたころには、環はすでに崖の向こうにいた。


 そこから自分を冷たく見おろしている。


 崖をのぼり、近づこうとすれば、突き落とされる。


 それでも忘れることができず、崖の下からちからなく見あげることしかできない自分を、あざけるように口のはしで笑うと部室から「ぎゃああああ」という大戸の悲鳴がひびいた。


「どうした!」


 また怒られるかもしれないが、声の逼迫感ひっぱくかんからそんな場合じゃなさそうだとはらを決めて部室のドアを開く。

 すると、大戸がベランダでばかでかいクッションに包まれてさけんでいた。


「あし、あしの裏、なくな、るるるるるしぬ」


 なにを言っているかよくわからないが、ともかくも大戸のところに向かう。

 大戸はさっきのスニーカーを履き、足をかかえながら白目をむいている。

 どうも跳んだあとにどうかなったらしい。

 環が青ざめて狼狽している。


「す、す、すまない。跳ぶとき、足の裏を尋常じゃないちからでツボ押しされて激痛と不快感に見舞われることをすっかり忘れていた」


「おおおおお、お、おおおおお」


 大戸は痛みのせいか奇声をあげている。「ずいぶんひさしぶりにつかったもんだから」環はまだおろおろと大戸に語りかけている。


「大戸、どこが痛い? 足だけか?」


 場が混乱しているので、カズヒトはひとまず駆け寄って、大戸の肩に手をそえてやさしく語りかける。大戸はあえぐように、「あし、あし、だけ」とうなずいた。


「よし、じゃ、おれの背中にのれるか。保健室まで行こう」


 大戸は涙目でうなずくと、よろよろとカズヒトの背なかに負ぶさった。「おおおおお」振動がさわるのか、のりながらまだうめいている。


「でででででも、さっきより、すこし、おちついてきたぜ」


 虚勢なのかわからないが、大戸が背なかから環に語りかける。


「れ冷静になってみたららら、それほど痛くねねねねねえな」


 カズヒトの両肩をぎゅっと握る強さで、これはどうも虚勢っぽいなと思う。


「本当にすまない、大戸くん」


 環がしゅんと肩を落とす。さきほどの姿とちがって、今度はずいぶん小さく見える。


「じゃあおれたちは保健室行ってくるから」


 カズヒトは環と目を合わせずに言う。


「ああ」


 環の声が聞こえる。


「すまない」


 大戸はバチーンとウインクをし、震えながら環に親指を突き立てて無事をアピールする。移動する最中も、「むむむしろ足ツボ押されてけけけ健康になっちゃうかも」「あああと忘れれれれてごめん」やたらとしゃべるのでつい笑ってしまう。


 ふたりは保健室に行き、1時間もすると足の異常はおさまった。

 保健室の蛍光灯のあかりの下で、カズヒトはしゅんと肩をおとした環の姿を思い出す。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 夕方、帰宅して家に入ろうとすると、となりに住む環のおばさんと行き合い、声をかけられた。


「あっ、カズくん! ちょうどよかった、きょうおでん多めにつくったからさあ、持っていってくれない?」


 おばさんは、父親とカズヒトのふたり暮らしを心配し、よくこうして料理をつくって分けてくれる。

 小さな印刷工場を経営している父はなにかと忙しいため、カズヒトが料理を担当しているのだが、バイトもしていてそれほど時間がなく品数は1つか多くて2つだ。そうした状況をいつも心配してくれている。


「いつもすみません」


 カズヒトはぺこりと頭をさげ、安達家へおじゃまする。

 環には3つ下の妹のかすみもいるが、いまはおばさんしかいないようだ。


「てきとうに座ってて」


 おばさんにうながされ、リビングのソファに座る。


「あっ、しまった。ごめんねカズくん、ちょっと忘れものしちゃった。すぐ戻るから、ちょっと待っててくれる?」


 エプロンをつけたと思ったら、バタバタとすぐにはずして答える間もなくおばさんはそとに出てしまった。

 むかしから何度も出入りをし、勝手知ったる家ではあるが、いまはなんだか少し気まずい。

 そう思いながら、おばさんが戻るまでのあいだソファにからだをうずめる。


 どういうしくみなのかはわからないが、足の裏の異常がピタリとおさまったあと、本当に足が軽くなったようでむしろスキップをしながら大戸は帰っていった。

 一応経過報告したほうがいいかと部室をのぞいたが、帰ったのかどこかへ行ったのか環はいなかった。

 まあ、明日教室で大戸とも会うんだし、大戸にまかせておいたほうがいいか。

 安心したような落胆したような気もちで帰途についた。


 それを思い出しながらソファでウトウトしはじめたころ、遠くで小さくガチャリとドアのひらく音がした。

 おばさん、戻ってきたかな。ぼんやりした頭で考える。

 するとどこかから、ふしぎな音が聞こえてきた。


 くくるくるくる……


 金属を遠くで打ち鳴らしたような音に混じって、くるくると、奇妙な機械音がひびく。

 うしろのほうからひっそりと近づかれ、得体のしれない気体に耳から侵入されるようなぶきみな感覚がした。

 脳がガスのような気体に満たされて、うつらうつらと眠気が増していく。

 目が、あかない。


 くくるくるくる……


 音がリビングに充満し、いまにも眠りに落ちようとした瞬間、リビングの扉が音を立ててひらいた。


「ふふ、どうやら、効いたようだね」


 目はあかないが、声でわかる。

 環だ。

 効いたって、なんのことだ……?

 質問しようにも、言葉をうまく口に届けることができない。

 ぺたぺたとスリッパの音が近づいてくる。


 くくるくるくる……


 奇妙な音もまた近づいてきて、ひときわ大きくひびく。

 環の息が、耳にふれてすぐそばにまで来たことを知る。

 甘やかなささやきが耳を包む。


「きみは私の言うことを聞く。音がやんだらすべて忘れる。きみは私の言うことを聞く……」


 その言葉を聞くと、ゆっくりと、半分ほどだが目がひらいた。

 環がすぐそばで自分のことを見ている。

 胸の底が熱くたぎるが、それがうまくからだに伝わっていかない。


「いいかい、効いているなら、一度うなずくんだ」


 命じられるままに、気づいたらゆっくりとうなずいていた。

 環はうれしそうに顔をほころばせ、「私の名前を呼んで」とまた命じる。


「環」


 視線を合わせて、ぼそりとつぶやくと、環は身ぶるいしながら天をあおいだ。「ふふ、ふふふ……」声にならない声でうめいている。

 なにをしているのか、なにがしたいのかよくわからないが、頭がぼうっとしてなにがおかしいという感じもしない。


 環がソファのとなりに座った。

 ほかの部位と比べると少しむっちりとした太ももをポンポンとたたいて、


「ここに寝ころぶんだ」


 と命じた。


 カズヒトはふらふらと頭をさげ、膝枕をされるために頭をうずめた。

 環の太もものやわらかな肉感が、後頭部の髪の毛をとおして伝わる。

 下から見あげるような格好になり、真上には環の端正な顔立ちがあった。

 見惚れる。


 ――夢でも見ているんだろうか。


 環なら、夢を不完全にコントロールするような発明でもしそうなものだが、そのたぐいなのか。


 ぼうっと思考を底流させるカズヒトをよそに、環は感極まったように目をつむったあと、少しひらいてカズヒトを見つめた。

 慈愛に満ちたひとみで、甘くささやく。


「カズくん、きょうはありがとう」


 ほおを指でなぞり、髪をなでる。


「髪、小学校のころと一緒……ちょっとゴワゴワしてる」


 これは夢なんだろうなとカズヒトは思った。

 環を好きでいる気もちが限界に達して、とうとう妄想を具現化した都合のいい夢を見ている。

 右の目から涙がひとすじこぼれた。

 変わらず部屋を奇妙な機械音が満たす。


 くくるくるくる……


 ふいにガチャリという大きな音がひびいた。

「カズくんごめーん!」

 玄関のほうからおばさんの張る声が聞こえる。

 機械音は瞬時にとまり、さっきまであったはずの首の支えが消え失せカズヒトの後頭部はソファにぼふりと落ちた。


 えっ、なに?


 ソファに寝転んでカズヒトは目を白黒させている。

 え、あ、ほんとに夢だったのか?

 首を振って身を起こすと同時にリビングの扉が開いた。


「カズくんごめんねカドの田中さんと話し込んじゃって……ってあら環、帰ってたの」


 おばさんが入ってきて、その目線の先を見やると隅のほうに環がいたのでおどろく。

 腕組みをして仁王立ちをし、こちらに背を向けている。


「あんたたち、なんだかひさしぶりね一緒にいるの」


「ふん、リビングに誰かいるからかすみかなと思って来ただけだよ。他人の家で寝こけるなんて不届きな人間だなきみは」


「カズくんなんだからいいじゃないの、ほんとにあんたは」


 カズヒトは混乱したまま、小鍋にいっぱい入ったおでんとおまけにきんぴらをもらって帰った。

 父からきょうは遅いという連絡があったので、家でひとりおでんを口に運ぶ。


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