3・悪いことをしませんように(鹿島俊博の場合)

「椿ちゃん、僕はね。美しい自殺の基礎は、頚動脈道の圧迫にあると思うんだ」

 呼び出されて訪れた、喫茶店。夏目さんがなにか語っている。

「迫り来る電車に向かって線路に飛び込むなんて最悪。見た目も悪いし、飛び散るし。目立ちたがり屋ならともかく」

 席に着いた私の目に、向かいのテーブルの客が読んでいる週刊誌が目に入る。表紙には「深刻な闇・校内暴力の恐怖」と目立つ色で大きな見出しが打ち出されていた。

 楓希ちゃんの事件から一週間が経過した。

 彼女の自殺は新聞沙汰になり、世の中を震撼させている。社会問題として大きく取りざたされ、連日ニュースになっている。ほとぼりは、まだ冷めそうにない。今もこうして、週刊誌の表紙で見出しに使われている。夏目さんはまだ、難しい顔で話していた。

「いちばん簡単で苦しみが少なく、見た目も美しいと言われるのが首吊り。これにもコツがあって、ただ気道を締めるだけだと苦しいんだそうだ。頸動脈道に縄を入れ、脳の血流を止めて先に意識を飛ばす。これがオーソドックスな窒息死の方法だね」

 聞いてもいないのに、自殺の説明をしてくれているのである。

「睡眠薬を大量に飲むというのはフィクションの世界にのみ通用するといっていい。まず睡眠薬は毒性が弱くて、致死量を飲む前に水の飲み過ぎで吐く。オーバードーズはもはや、吐瀉物を喉に詰まらせて死ぬ窒息死の類いだよ。あまりきれいじゃないね」

「どうでもいいです」

「どうでもよくないよ。椿ちゃんと心中するにあたって、どうやって死ぬか真剣に考えてるんだ。できれば死体もきれいな方がいいでしょ」

 夏目さんはそう言うと、カップの中のコーヒーを指差した。

「最近では急性カフェイン中毒を狙ってカフェイン剤を飲むのも流行ってるんだよ。あ、そうだ。カフェイン中毒で吐くと吐瀉物が水色なんだよ。知ってた?」

「どうでもいいですって! で用事はなんですか? なにもないなら帰りますよ」

「なんだよ。用事がなくたって、会いたいから会いたかった。それじゃだめなの?」

 夏目さんは甘えるような上目遣いで私を見つめた。

 だが私は絆されない。夏目翔弥というこの青年は、ただの写真家ではない。美しい風景写真を撮るのは表向きの姿に過ぎず、自殺現場の写真にこだわりがある。それだけならまだ、ただ風景写真を撮っているだけといえるが、自殺系サイト『今日のスイッチ』を運営していたのが彼だった事実も判明した。どうも彼の倫理観は大きく欠けている。

「つまり、用事はないんですね?」

 声に怒りを滲ませると、夏目さんは作ったかわいい顔を引っ込めて苦笑いした。

「ごめんごめん。だって恋人なんだしと思って。心中を前提にお付き合いしてるんだから、親密になりたいんだもん。会えるときはなるべく会いたいな」

 憧れの写真家の正体を知ってしまった私は、幻滅を通り越してもう関わりたくないほどだった。高級スーツも嘘だった。弁償できる金額だとしたら、もうそれだけ支払って彼から逃げ出したっていいのだ。

 しかしだ。逆に、知ってしまった以上放っておけない。

 関わらない方がいいのは百も承知だが、こんな怪しい人間がいるのを知っておきながら、放置はできない。なんらか法に触れているのであれば、きちんと通報しなければならない。ただ、今のところ分かっている要素では、なんの罪に当たるか言い切れない。写真はただ風景を撮っているだけであり、殺人も、自殺幇助もしていない。運営しているサイトは、利用者が勝手に自殺系サイトとして使っているだけで、彼が用意した場は単なるSNSでしかないのだ。運営側からは、自殺を促す動きは一切していない。夏目さんを警察に突き出したところで、罪を犯した証拠はなにもない。ひとまず、現状維持である。

「私はあなたにがっかりしてるんですよ。楓希ちゃんの自殺を止めなかった理由は……一応、理解しましたが。それでも、やはり分かっていてなにもしないというのは違うと思うんです」

 私はひと口、コーヒーを飲んだ。

「サイトが違法だとも言いません。でも自殺を仄めかす人たちがいるのに、本当になにもできないんでしょうか。人が死ぬかもしれないのに。そうじゃなくても、死にたいくらい苦しい思いをしてる人がいるのに」

 あのサイトには、「死にたい意志」がある。楓希ちゃんの苦しみぬいた日々が世間に明らかになったのは、彼女の死後だった。皆がいじめに怒りを見せていて、楓希ちゃんの味方だ。もっと早くから注目されていれば、死んでしまう前に止められたのではないか。私には、そう思えてならない。

「夏目さんの言うとおり、死にたい気持ちすら否定されたら却って死にたくなる人もいるでしょうけれど。でも、希死念慮がある人でも、病院で適切な治療を受ければ回復する場合もあります。本当は生きたいと感じている人たち向けに、通院やカウンセリングを促すコンテンツに変えていけないでしょうか」

 しかし夏目さんは、きっぱりと言った。

「すでになってるでしょ。あのサイトで交流してる人たち同士、コメントで通院を勧めたりよく効く薬の話をしてたり、お互いに支えあってる」

 そういえば楓希ちゃんの日記のコメント欄でも、彼女を支え、応援する声が多く上がっていた。夏目さんがコーヒーに息を吹きかける。

「それでもあそこにいる人たちは、病気じゃなくて、思想なのかもね」

「じゃあ、近いうちに死んでしまいそうな人を発見したら、先に警察に情報を渡して、見張ってもらうとか」

 管理人である夏目さんなら、登録者の個人情報まである程度掴めるはずだ。しかしこれにも、夏目さんは首を縦には振らない。

「民事不介入の原則。警察は事が起きたあとにしか動かない。大体、きりがないよ。あそこに書き込んでいる利用者なんて、誰が今日死んでもおかしくない。ひとりひとりを見張るなんて、現実的に考えて不可能でしょ」

 小さなため息が、夏目さんのカップの湯気を歪ませる。

「より死にそうな人に絞ってマークするにしても、事件性があるかどうかの判断も難しい。サイトに書き込む人間にはいろんなのがいる。本気で死ぬ気はないけど、嫌なことがあって傷ついた勢いで『死にたい』と書く人、面白半分の人。繊細な自分を演出して、周りから優しくされたいだけのファッション鬱、とか」

 それは、私もそう思う。自殺系サイトに書き込む人全員が、本気で自殺を考えているわけではない。

「そういう人たちの声の中に、楓希ちゃんのような子のSOSがかき消されるんですね」

 考えてみたら、私だって同じだ。初めてあの自殺系サイトにアクセスしたとき、なにもしなかった。書き込んでいる人たちの投稿に目を通して、励ましの言葉を書くくらいはできたかもしれないのに、それすらしていない。数が多くてきりがない、どこまで本気か分からない、他人の私には関係ない……言い訳はいくらでもできる。

 私はちらっと、別の席の客が持っていた雑誌に目をやった。大きく抜かれた見出しには、楓希ちゃんの事件が扱われていた。

 事後であっても、無駄ではないと思いたい。たしかに楓希ちゃんはもう帰っては来ない。彼女を救えなかったのは事実だ。でも、今この世に残って同じように苦しむ誰かが、救われるかもしれない。

 週刊誌がこのネタを扱うのは、単にセンセーショナルだから、買われるからかもしれない。読む人たちも、ほとぼりが冷めたら忘れてしまうだろう。でも、こうして取り上げられることで、人々の意識が変わる。各地の学校でも、いじめ問題に真剣に向き合う風潮になっていると聞く。ひとりの少女の死が、世の中を少し、動かした。

 楓希ちゃん自身は救えなかった。だけれど、それに続いたかもしれない誰かの命は、今日もどこかで救われているのかも。そう考えれば、このやりきれない気持ちをちょっとだけ整理できた。

「話が逸れました。で、結局呼び出しておいて、用事はないんですね?」

「そうだね。会いたかっただけなんだけど」

 夏目さんのそれを聞いて、私は帰り支度を始めた。まだオフィスで書きかけの原稿がある。しかし夏目さんは、そのままのんびりした口調で続けた。

「きれいな椿ちゃんが最期に見る景色はすごく美しいだろうけど、人間の搾りカスみたいな、きったねえ糞野郎が見る景色も、それはそれで味わい深いと思わない?」

 いきなり乱れた言葉遣いに、私は思わず手を止めた。

「と、言いますと」

「すごいのが現れたよ」

 夏目さんは目をきらきらさせて、鞄から携帯を取り出した。彼が指さす画面を覗き込むと、例の自殺サイトの日記ページだ。『経理おじさん』というハンドルネームの人が、ここ数十分の間に書き込みを連投している。

 読めば、パワハラの告発をきっかけに似た被害の報告が相次ぎ、セクハラも公になり、会社の備品を私物化し家庭で使用していたことまで社内じゅうに知れ渡り、挙句の果てに会社の金を横領していたのがバレたとある。当然ながら、懲戒解雇を言い渡されている。家に帰って家族に言うのが怖いので死んでしまいたいとのことだ。

「すごくない? こういうところで自殺を仄めかす人って、だいたい被害者っぽい感じなのにさ、この『経理おじさん』については全くと言っていいほど同情の余地がないよ。死んでくれるならご自由にどうぞって思っちゃった」

 夏目さんの語尾が半笑いで震えている。私もつい、頷いた。

「死んでいい人間ですね。この世から消えていただきたいクズです」

 つい先程まで、このサイトを通じて自殺者を減らす方法について話していた私だが、こればかりはそう思ってしまった。その上で、付け足す。

「でも、死なせてはいけないと思います」

 私の反応に、夏目さんがつまらなそうに唇を尖らせる。私は構わず続けた。

「颯希ちゃんのときみたいに衝動的に言ってるんじゃないですよ。この人は罪を償うべきだからです。死んで楽になんかさせてはいけません」

「うーん、そうじゃなくて……」

 夏目さんは残念そうに眉を寄せ、画面をスクロールさせた。

「この人は死にたいんだよ。許されたいとかやり直したいとかじゃなくて、自分という人間をこの世から消したいんだ」

 どうやら社会的な制裁など問題ではないようだ。この人はこの人なりに、「経理おじさん」を理解しようとしているのだろうか。と、思った矢先、夏目さんは付け足した。

「この人が死ぬ間際に見る景色、面白そうだし」

「結局それが目的ですか! なんにせよ私は、この『経理おじさん』を楽に死なせたくないです。いちばん悪い奴だけさっさと死んで、遺された家族が一生苦しむなんておかしいじゃないですか」

 負けじと頑なな意見を言うも、夏目さんはあっさりあしらった。

「苦しみから逃げたいんなら家族も死ぬかもしれないね。写真が増えるぞ」

「趣味の悪い冗談やめてください」

 この世には、いらない人間はいる。そう考えることはよくあったけれど、いざ本当に死のうとされると掌を返してしまう。颯希ちゃんのときもそうだった。自分のダブルスタンダートぶりに自分でがっかりする。夏目さんは、画面に向き直った。

「お、経理おじさんがまた一件、日記を投稿した」

 これは今夜にでも自殺しそうな勢いだ。私は思わず、夏目さんの肩を掴んだ。

「日記書いてるってことはまだ生きてますよね。彼の住所は? 本名は? 間に合うなら止めに行きましょう」

「待って待って椿ちゃん、落ち着いて」

 夏目さんは携帯をテーブルに置いたまま画面を眺め、投稿されたばかりの最新の日記をクリックし、そしてあっ、と呟いた。私も、夏目さんの横からその画面を覗く。

 経理おじさんが『やっぱり死ぬのは怖い。一度家族に話します』と書き込んでいる。

「椿ちゃんと余計な会話をしてるうちに、彼もなにやら冷静になっちゃったみたいだ」

 穏やかな口調だがつまらなそうだ。私はほっとしたようなもやっとしたような、妙な気持ちになった。

「『許されたいとかやり直したいとかじゃなくて、自分という人間をこの世から消したい』わけじゃなかったのかもですね。悪事がばれて逃げ出したいだけで、死ぬ覚悟はない。これだけの悪さをしておいて、許されてやり直せると思ってるんでしょうか」

「椿ちゃーん、君は結局、この人に死んでほしいのかほしくないのか、どっちなの」

 夏目さんはちょっと可笑しそうに言って、ひとつ小さくため息をついた。

「ご家族に話して、また激しく絶望するだろうに。そしたら、今度こそ死んでしまうかもね」


 *


 夏目さんと別れ、私はオフィスに戻った。デスクでクライアントから来ているPR記事用の資料に目を通す。文字を追っている間、何度も気が散った。夏目さんは「経理おじさん」が死ぬのを待つのだろうか。そのとき私はどうすればいいのだろう。自殺なんかさせたくないが、止め方も分からない。

 考えがぐるぐるして落ち着かないが、今は仕事だ、夏目さんのことは一旦忘れよう。と、両手で頬を叩いたところへ、宮田さんがやってきた。

「ねえ! 桐谷さん。夏目さんてどんな人?」

 肩に手を置かれ、私はきゅっと縮こまった。今、その人を頭から追い払ったところだ。

 先日、夏目さんは、絵画教室の写真を届けにこの会社を訪ねてきた。データをメールで送ってくれればそれでいいのに、わざわざ持ってきたのだ。多分、職場の様子を見てみたかったのだろう。その際に宮田さんは彼を目にしており、以来、彼女は夏目さんに興味津々なのだ。

「さあ……私もまだ出会って間もないから、よく知らないんだ」

 面倒なので、はぐらかす。しかし宮田さんはその程度ではくじけず、しつこくまとわりついてきた。

「えー、彼女いるのかな? 桐谷さん、訊いてきてよ」

「彼女……うーん……」

 契約上は、私がそれである。これも面倒なので言わないが。

「どんな人がタイプなんだろう? なにが好きなの? 趣味は?」

 彼が夢中になるものといえば、自殺者の目線。と言いかけて、やめた。代わりに当たり障りのない返事をする。

「趣味は写真じゃない?」

「いいな、私もああいう仕事のパートナー欲しいな」

 宮田さんがうっとりと天井を見上げた。

「清潔感あって、包容力ありそうで、正義感も強そうで」

 ただの一度顔を見ただけの人のことで、よくそこまで妄想が膨らむものだ。あの雑多な物置部屋と、死にたい人を見つけても放っておく性格は、むしろ宮田さんの想像の逆を行くものだが、それを説明するのも面倒くさい。私が鼻白んでいるのに気づかず、宮田さんはまだ目を輝かせていた。

「レトロ趣味っぽいとこがまたおしゃれよね」

「レトロ趣味? そうだったかな……」

 私が知る限りでは、そんな様子はない。あの機械のごちゃついた部屋を思い浮かべると、むしろ新しい機材に詳しい印象すらある。ぽかんとする私に、宮田さんはわざとらしく高い声を出した。

「えー! 桐谷さん、鈍感。気づいてないの? 夏目さんのカメラ見せてもらったんだけど、あれ、かなり古い型のものだよ」

「へえ。ちゃんと見てなかった」

 そうだったのか。パッと見た感じでは傷もなく手入れされていてきれいだったので、古いという印象はなかった。宮田さんが頷く。

「うちにも同じ型のがあったから間違いないよ。もう十年以上前のもの。写真家だし、仕事柄買い換えたりするんだと思ってたんだけど、それでもあんな古いの使ってるくらいだから相当こだわりがあるのよ」

 夏目さんに近づきたいという目的はさておき、宮田さんの観察眼は鋭い。

「次はいつ来るかな。カメラを褒めてお喋りするの」

 宮田さんは大声で計画を口にして踵を返した。

 なんとなく、夏目さんはこういう生き生きとした人には興味がなさそうな気がする。でも宮田さんには余計なことは言わないでおいた。


 *


 夏目さんから誘いがあったのはその二日後だった。

「椿ちゃん、デートに行こう」

 彼の仕事部屋で、散らかった雑誌を一箇所にまとめているときだった。

 反射的に、東尋坊か富士の樹海にでも視察に行くのかと考えたが、そんな私の顔色を見た彼は、ハハハと乾いた笑い声を上げた。

「ネットの記事見て、気になるスポットがあったんだ。『願いが叶う神社』ってやつ。ここなんだけど」

 夏目さんのパソコンの画面に、神社のホームページが映し出されている。

 神社の境内に人工的に木々を植えた森があり、その奥に祭壇がある。その祭壇に、願い事を書いた札を置いて祈ると叶う。ただし、願い事の内容は、誰にも知られてはいけない。そんな神社があるらしい。しかしその場所は大阪で、都心からは新幹線を使っても二時間半かかる。

「結構遠いじゃないですか」

「そう? 僕は風景写真家だから、美しい風景を求めて全国どこへでも行くからなあ。そんなに遠いとも感じないけど」

「遠いですよ。私、関西まで出たことなんかないです」

「嘘っ! 修学旅行、京都じゃなかったの?」

 夏目さんに驚かれ、私は小さく頷いた。

「中学も高校も静岡に住んでいたので、修学旅行先が東京だったんですよ」

「へえ。小学校の頃は?」

「覚えてないです。行ってないのかも」

「ふうん」

 相槌を打ってから、夏目さんはやけににこにこ笑った。

「では、そんな活動範囲の狭い椿ちゃんをここに連れて行きたい。ここ、カップルに人気のスポットなんだって。願い事を書く札にふたりで同じ願いを書いて、永遠に一緒にいようねって誓うんだそうだ」

「願い事、誰にも知られちゃいけないんじゃなかったですか?」

「そう。だから同じこと書いたかどうかは、お互い分からない。その上で『多分、一緒の願いだよね』って愛を確かめ合うんだよ。知らないけど。そういうのすごく恋人っぽいし、僕も椿ちゃんとやってみたい」

 この言い回しは間違いなく、本当は興味がない。興味がないくせに、ここへ出向く口実にするために持ち出している。大体、夏目さんがそういう神やら仏やらを信じているとは考えにくい。そんな興味のない神社のために、わざわざ大阪まで出かけるはずがない。

 真の目的が観光ではないとは感づいていたので、私は先回りした。

「経理おじさんですか」

「察しがいいね。そういうの大好きだよ」

 夏目さんはそれから椅子ごと私の方を向いて、ことの詳細を話しはじめた。

「分かってるみたいだから先に話しちゃうけど、経理おじさんは、あのあとご家族に話して、奥さんからも息子さんからも愛想つかされたみたい。家から叩き出されて、今は公園に寝泊りしてる。仕事とお金と家族を同時に失った、って日記に書いてた」

「そんな状況で、よくサイトに書き込みなんてできますね」

「携帯から書き込んでるみたいだけど、もう電池がないって嘆いてた」

「そういう意味でもですが、精神的にですよ。私が経理おじさんの立場だったら、日記なんて書いてられないくらい焦燥すると思います」

 理解に苦しんでいると、夏目さんは「それなんだよ」と苦笑した。

「この人、正真正銘の糞野郎でね。驚いたことに、自分がしてきた数々の悪事を開き直ってるんだ。だから焦燥してない」

 それを聞いて私は絶句した。夏目さんは私の反応を見て、続ける。

「『俺の人生をだめにしたのは会社だ』って、逆ギレしてるよ」

「なにそれ!? 自分で自分の人生をだめにしたんでしょうが」

 私が叫ぶと、夏目さんは困ったように小首を傾けたが否定はしなかった。

「そんなわけで、僕は今、この経理おじさんが気になって仕方ない。管理者権限で調べて、彼の住所近辺を特定できたし、首になった勤め先も目星がついた。例の神社の近くなんだよ。今身を寄せてる公園も絞り込めた。ということで、本人に会ってくる」

 自殺を仄めかす人がたくさんいても、そのひとりひとりに会いに行き、声に耳を傾けるのは不可能だ。夏目さんのサイトに遺された言葉が読まれるのも、彼らが死んだあとだ。だというのに、夏目さんはこの経理おじさんにだけは、会いに行くという。

「なんか、もっと会って話すべき相手がいる気がする」

「かもしれないね。でも僕は別に、自殺を止めるボランティアをしてるわけじゃないから」

 夏目さんは長めの前髪を掻き分けて、パソコンに画面に前のめりになった。そうだった、夏目さんはルールより意思を、道徳より好奇心を優先する人だった。

「で、椿ちゃん。どうする? デート、行く?」

 こんなに憂鬱なデートのお誘いは、初めてである。


 *


 冬の乾いた空気の中で、その神社は威厳を醸し出して鳥居を構えていた。白い空に真っ赤な建物が映え、木々は冬でも葉のあるものばかりでその緑が一層赤を美しく魅せた。建物こそさほど大きくないように見えるが、敷地は裏の森まで抱きかかえており、その森の奥に例の願いを叶える祭壇があるのだという。

「いやあ、ビル街の中にこんな場所があるなんてね」

 夏目さんが鳥居を見上げる。マフラーから覗く口元からが、白い息が上っていた。

「厳かな雰囲気がとっても素敵だね。椿ちゃんと来られてよかった」

 やっぱり、放置はできない。それが私の結論だった。

 経理おじさんは自分のしたことを棚に上げて、会社のせいにしている。それなら恐らく自殺はしないだろうし、会って話すこともない。

 でも、夏目さんがわざわざ出向くというのだ。私の想像の及ばないなにかが起きる気すらする。経理おじさんがどう動くのか、夏目さんがなにをするのか、私になにができるか、ひとつも分からない。分からないが、ここまで事情を聞いておいて彼らを放っておくことはできなかった。困った事態が起きたら、いや、起きそうな気配があったら、警察に通報しよう。そう胸に決め、携帯を握り締めてきた。

 土曜日の今日、ゆっくりめに東京を出て、新幹線で二時間半、目的地に着く頃には夕方だった。今のところ、夏目さんの口から経理おじさんの名が出てはいない。まるで単に神社にお参りにきただけかのように、境内の景色を楽しんでいる様子だ。

 私も、大きな朱塗りの鳥居に向かって顔を上げる。冬の空にくっきりと浮かび上がるような朱が眩しくて、目を細めた。

 と、その瞬間、頭がズキッと痛んだ。

 今目に見えている景色と重なって、脳の奥を別の映像がぎる。

「あれ……?」

 この鳥居、奥の森。頭の端に、同じ景色がフラッシュバックした気がした。

 見覚えがある。もしかしたら私、ここに来たの、初めてではない?

「椿ちゃん?」

 ぼんやり立ち尽くす私の耳に、夏目さんの声が届いた。我に返った私は、横に立つ彼に顔を向ける。

「すみません、ちょっとぼうっとしてました」

「どうかした? なにか気になるものでもあったの?」

「いえ、別に……」

 反射的に否定したが、なんだか引っかかる。この景色を見るまでは、自分が関西に来たのはこれが初めてだと思っていた。でも今、知っている景色と重なった。

 しかし、フラッシュバックした景色が再び記憶の遠いところへ消えていって、あの一瞬の出来事自体が気のせいだった気がしてきた。

「なんでもないです。行きましょうか」

 私は石畳を歩き出した。なぜか覚えていないだけで、小学校の修学旅行が大阪だったのかもしれない。そうでなくても、似た景色は他のところにもありそうだし、多分、見たことのある他の場所と重なっただけだろう。深く考えるのはやめて、先へと進む。

 お守りの売り場に、「祈願の札」と書かれた和紙が置かれている。例の、願い事が叶うおまじないだ。これに願い事を書いて、森の奥の祭壇に置くのだという。札は無料で配布されており、願い事を書くための台は、ご丁寧に仕切りがついて、書いているところを他人から見えないようになっていた。

 夏目さんはおまじないなんて信じていないだろうに、無邪気な顔で札を二枚貰ってきた。片方を私に手渡して、早速、台でなにやら書きはじめる。

「よし椿ちゃん、願い事を一致させるぞ。答えあわせができないルールなのがすっごくもやもやするけど、こればかりは仕方ない」

「興味ないくせに……」

「椿ちゃんはなんて書くの?」

「いや、それ言っちゃだめなんでしょ」

 私もこんなもので願いが叶うとは思っていないが、ただ神社を冷やかすだけなのもよくない。ひとまず、「夏目さんが悪いことをしませんように」と書いておいた。まず間違いなく、夏目さんの願い事とは一致しないだろうが。

 札を折り曲げてコートのポケットに入れ、祭壇のある森へと足を踏み入れる。「いりぐち」と平仮名で書かれた木の看板を越えると、まるで天然の森のように自然に満ちていた。木々は高く、鬱蒼と生い茂って空は見えない。天気がよくて明るい昼間なのが嘘かのように薄暗く、木々に遮られて細い光しか入ってこない。私たちふたりの他に、人影はない。弱い光に照らされる、石畳の道を進む。夏目さんは鞄から出したカメラを片手に、のんびり景色を見ている。私は彼に、徐に話しかけた。

「経理おじさんの日記、私も見ました」

 夏目さんがこちらを一瞥する。私はポケットの中の携帯を、ぎゅっと握った。

「自分のアカウントから夏目さんのサイトにアクセスして、彼の日記、ひととおり読みました。最初は反省してるというか、動揺した文だったけど、だんだん妙に偉そうな文になって、最後は完全に逆ギレでしたね」

 夏目さんの言っていたとおり、現れた当初の書き込みは己の行動を恥じて消えてしまいたいといった雰囲気だった。そのうち言い訳が多くなり、同僚や客に問題があると責任転嫁し、社会に問題があるから自分はこうなったのだ、と結論付けていた。読んでいて憎たらしくなり、読後に残ったのは彼に対する不快感だった。

 彼の投稿は他のユーザーの目にも触れるので、サイトはいつになくざわついていた。日記を読んだユーザーから「それは罪を償った方がいい」「家族に謝れ」などとコメントされているのも目に付いた。

「ただ、途中から日記の公開範囲が変わって、私のアカウントからでは読めなくなってしまったんです」

 私も今回知ったのだが、『今日のスイッチ』の日記機能は、記事ごとに公開範囲を設定できるらしい。通常の範囲なら会員であれば誰でも読める形になるが、「友達申請」と「承認」を経て相互リンクになっているユーザー同士でないと読めない設定にもできるし、友達でも読めない、自分にのみ読める非公開設定での投稿もできる。経理おじさんの日記は、途中からその、非公開の設定で書き込まれていて、私からはアクセスできなくなってしまったのだ。

「他のユーザーからもコメントで責められるばかりで、誰も擁護してくれないから、日記の公開をやめたといったところでしょうか。それでも非公開にしてでも日記を投稿し続けるのは……」

 さわ、と、木の葉が揺れる音がする。

「横柄な態度の経理おじさんだけど、心の奥では自分を責めてるんでしょうか。誰にも見られずに弱音を吐く場所が、欲しかったんでしょうか」

 とめどなく溢れる感情を、文章にして吐き出したい。どこかに残したい。非公開にしてコメントを受け付けなければ、それ以上責められなくて済む。会ったこともない彼の気持ちは私には分からないが、そんな想像をした。

「日記、非公開でも、管理者である夏目さんならアクセスできるんですか?」

 問いかけるとふいに、夏目さんが急に立ち止まった。

「静かに。鳥の声がするよ」

 薄暗い木々の隙間にカメラを向け、シャッターを切っている。鳥の声や木々のざわめきに静かに目を閉じる夏目さんを見て、私は押し黙った。

「椿ちゃんの言うとおり、非公開にしてるってことは見られたくないってことなんだよ」

 夏目さんはカメラを胸の高さに下ろした。

「だから僕に読めたとしても、その内容は椿ちゃんには教えてあげられない」

「そう、ですよね」

 私は石畳に目を落とした。

「今日、経理おじさん本人と会うんですよね。夏目さんが会いたがるくらいだから、非公開の日記になにかとんでもない書き込みがあったのかなって……」

 経理おじさんに同情はできない。でも、彼がなにを思いなにをしようとしているのか、知りたい。理解できるなら、したい。

「ていうか、彼に会うのが真の目的なら、神社に寄り道しなくてもよかったんじゃないですか? 早く会いに行った方がいいんじゃ……」

「やだなあ。僕は椿ちゃんとデートしたかっただけだよ」

 夏目さんは白々しくそう言うと、また一枚、風景の写真をカメラに収めた。

 その後も彼は何度か立ち止まって木々の写真を撮り、道の真ん中でしゃがんで小さな花の写真を撮り、それを見ている私の写真を撮り、とのんびり進んだ。私は彼の撮影に気長に付き合っていた。「リスがいたよ」などと見せてくれる夏目さんの写真は、どれもハッとするほど美しい。改めて私は、写真家としての夏目さんの作品が好きだったのを思い出した。同じ森を歩いているのに、夏目さんが切り取る景色は、私が見ている風景よりずっと美しく見える。

 夏目さんが木の葉にカメラを向ける。横顔に木漏れ日の模様が落ちて、その立ち姿そのものが絵のようだ。この人の見ている世界がこんなに色彩豊かなのは、どうしてだろう。自殺者の見た景色を見たがるのは、その人たちに寄り添いたいから。そんな豊かな感受性の持ち主には、私とは違う世界が見えているのだろうか。

 夏目さんの顔が、こちらに向いた。

「ごめんごめん、つい立ち止まっちゃうから椿ちゃんを待たせちゃうね」

「いえ。夏目さんがマイペースなのは分かってますし、あなたの写真、好きなので、そのために立ち止まるのは全く構いません」

 答えて、私は数秒、下を向いた。冷たい風が髪を浮かせる。

「あの、夏目さん」

 言葉にすべきかどうか、迷っていた。でも、今、伝えておくべきだと直感した。

「私、以前夏目さんにいろいろと無神経なこと言った気がする。ごめんなさい」

「ん?」

 夏目さんは一旦構えたカメラを降ろし、目をぱちくりさせた。私は改めて、言葉を繋ぐ。

「がっかりしたとか、サイトを運営しているのに、死にたい人がそこにいるのを分かっててなにもしない、とか。夏目さんがなにも考えてないわけないのに、私、素人のくせにあなたを責めました」

 謝った私に、彼はにこっと微笑む。

「平均的な感想だったと思うから、気にしなくていいよ」

 それからまた、夏目さんはカメラを虚空に向けた。

「それに多分、僕の方がずっと無神経だよ。人の気持ち考えるのとか、あんまり得意じゃないから」

「そう、ですか?」

 死にたい人の傷ついた心を知ろうとしているように見えるのだが。まあでも、マイペースで独特な感性の持ち主で、世間一般とは話が合いそうにないタイプではある。しかしそれ故か、妙な魅力がある。彼の見ている世界を、隣から覗いてみたくなる。

 そこまで考えて、気づいた。無意識のうちに、夏目さんのことを結構好きになってきている自分がいる。心中しようだなんて頭のおかしい提案をしてきた相手に心を許してはいけない。自分で自分が分からなくなってきた。

「自ら命を絶った人の視点に立って、写真を撮る」

 私は夏目さんを眺めて呟いた。

「あれは、あなたなりの弔いなんですか?」

 訊ねると、夏目さんは笑った。

「まさか! 僕は僕の感性に従ってるだけだよ」

 あっさり言いのけると、彼は付け加えた。

「僕ね、この世のなにもかもが自分に合ってない気がして、そのズレが無性に気持ち悪くなるときがあってね。そんなズレを解消するには、自分の方がこの世界から消えるしかないのかなって、そこまで考える」

 木漏れ日に照らされた、夏目さんの髪が眩しい。

「きっと他にも、僕より先にそう思った人たちがいて、彼らは僕より先に次のステップに進んだ。僕は彼らの足跡を追って、次に進む前の水際に立って、先を覗き見しようとしてるだけ」

「……どういうことですか?」

「まあ、皆、僕とは微妙に違うから、僕の知りたい景色は見えないんだけどね」

 夏目さんはそう言って、私を置いて先に進んだ。

 時間をかけて歩くうちに、道の奥に小さな祭壇が見えてきた。夏目さんが晴れやかな顔で、祈願の札を供えている。私も同じように札を置こうとして、ポケットの中を探った。が、入れていたはずの札がない。

「あれ? 札、なくしちゃった。どこかで落としたかな」

「あらら、椿ちゃんの願い、叶わないね。残念でした」

 夏目さんは可笑しそうに言って、さっさと踵を返した。私は彼の後ろ姿を睨み、むっと口を結んでいた。願いが叶うなんて信じているわけではないが、ああして笑われるとなんだか悔しい。夏目さんはもう、数十メートル先まで来た道を戻っている。私は彼が振り向かないのをいいことに、祭壇に置かれた札をひょいと摘まんだ。夏目さんの願い事を見てやろう。願いは他人に知られたら叶わないルールだ、これで夏目さんも道連れである。

 折り曲げられていた札を開き、私は思わず、え、と声を洩らした。

『こずえちゃんに会いたい!』

 癖のないきれいな字で、そう書き込まれている。

 こずえちゃん?

「椿ちゃん、ご飯どこ行く?」

 夏目さんに呼びかけられ、私はびくっとして札を元の場所に戻した。


 *


 いつの間にかすっかり日が暮れていたが、一歩神社を出ると、人工的な光で埋められた町が煌々と明るかった。光といっても、車のライトや街灯や建物から溢れる光で、近頃よく見ていたイルミネーションではない。慌ただしい日々に忘れていたが、クリスマスはとっくに終わっていたようだ。

「クリスマス、なんにもしなかったね」

 同じことを考えていたのか、夏目さんがぽつんと呟いた。

「折角恋人っぽいイベントのチャンスだったのに」

 彼は心中のために、恋人「っぽい」にこだわる傾向がある。

「次はお正月かあ。初詣、行く?」

「さっき神社に行ったばっかりだから、なんだかな……」

「人混み面倒だし、家でゴロゴロしてる方が年末年始の正しい生活って感じがするよね」

 にこにこ笑う穏やかな笑顔が街灯の灯りに照らされている。

「さて椿ちゃん。僕は今から鹿島さんのところへ行く。ここから先は僕ひとりで行くから、君は先に帰ってて」

「鹿島さん?」

「あ、経理おじさんの本名ね」

 つい、ハッとした。忘れていたわけではないが、そうだった。夏目さんの本来の目的は、経理おじさんだった。夏目さんが腕時計に目を落とす。

「夕方七時過ぎって言ってたから、そろそろ頃合なんだよね」

「時間の指定があったんですね。てことは、本人とやりとりして、会いに行く約束取り付けていたんですか」

 てっきり、連絡も取らずに夏目さんから一方的に会いに行くのかと思っていた。よく考えたら、サイト内の伝言板や登録されているメールアドレスを使えば、夏目さんからコンタクトを取れる。

「神社は単に時間を潰すために行ったんですか?」

「んー、折角の遠出だから、ついでに景色のよさそうな場所の写真を撮りたくて」

 どうもこの人は、考えを読みにくい。私はため息とともに言った。

「それで、経理おじさんがまだ自殺を考えていたとして、どうやってやめるよう説得するんですか?」

「え? 説得なんかしないよ」

 あっけらかんとしたその返事に、私は数秒、絶句した。

「説得しない!?」

「しないよ。椿ちゃんがどう思っていようが、死ぬか死なないかを決めるのは経理おじさんだよ」

「ですから、本人が『死なない』選択をするよう説得するんです!」

「暑苦しいなあ」

 面倒くさそうに眉を寄せる夏目さんに、私はなおも食い下がった。

「経理おじさんの住所や今いる公園や元職場を特定して、わざわざここまで会いに来て……、自殺を止めるためじゃなかったんですか。なにしに来たんですか!?」

「だから、『会いに来た』んだよ」

 にこっと笑った彼の朗らかな顔を見て、私は直感的に、背筋が寒くなった。


 *


 夏目さんに案内された場所は、大通りから一本外れた閑静な裏通りだった。まだ七時過ぎだというのに、日が暮れるのが早いこの時期では、深夜のように暗い。ひんやりと冷たく、灯りは小さな街灯だけだ。

「こっち」

 僅かな灯りの中に夏目さんの姿が見える。彼の手の示す方には、広い駐車場を伴った四角い建物があった。

「本当に見るの? 現場だよ? 写真で見るのと生で見るのとでは違うと思うよ。僕、『先に帰ってて』って言ったからね? 忠告したからね」

 体が凍りつきそうなくらい、ぞくぞくする。単純な寒さではない。不安のような恐怖のような、拒否感のような。それでも目を逸らせない。支配されているみたいに、体が夏目さんの背中を追う。

「それでも来るっていうなら、おいで。もうすぐだよ」

 彼の涼しい口調にぞっと悪寒が走る。

 安っぽくて細い街灯だけでは、暗くて周りがよく見えない。目を凝らして百メートルほど先に見えているその建物を観察する。その規模や佇まいから見て発展途中の中小企業であると見て取れた。

 雲が動いて隠れていた月が顔を出す。四角い建物にやや光が差し、白っぽい建物にペンキのようなもので落書きされているのが見えた。「俺は会社に殺された」。赤い字で大きく殴り書きされている。

「なにこれ……」

 私は、声にならない声を絞り出す。

「なに、これ。経理おじさんがやったんですか……?」

「うわ、インパクト抜群だなあ。こんな子供じみた暴れ方、遺されたご家族も恥ずかしくてたまったものじゃないね」

 夏目さんの冷ややかな声がした。

 自分を追いやった会社にも、自分を擁護してくれなかった鹿島さんの家族も、「しっかり苦しめ」と。そんな鹿島さんの自暴自棄が、赤いペンキから伝わってくる。

 風が通り過ぎた。パリ、と、私の目の前を、花弁のようななにかが横切る。花にしては大きさがまちまちだ。その中でもひと際大きな欠片を、夏目さんが拾う。

「わあ……見て、椿ちゃん」

 彼は掌大のそれを、私の方へ差し出してきた。私は恐る恐る覗き込み、暗闇に目を凝らした。夏目さんの指に挟まったそれは、燃やされた紙の破片だった。輪郭は燃えて黒く縁取られているが、白く残った真ん中に「甲は、乙の事前の書面による」という文字があるのだけはかろうじて認識できた。思わず、口を覆う。契約書だ。ここに散っているこの燃えた紙くずは、この会社の契約書、その他重要書類に違いない。

「いいねえ、そういう逆恨み、大好きだよ」

 夏目さんの呟きが聞こえた。

「夏目さん、知ってたんですか?」

 私は、掠れた声で尋ねた。

「鹿島さんがこうやって大暴れして、会社にこんな幼稚な仕返しをするの、知ってたんですか?」

「詳しい内容までは知らなかったよ。ただ彼がこういった報復を企んでいたのは、非公開の日記の中に書かれてはいた」

 夏目さんの声色は、恐ろしいほど普段どおりだ。

「深夜から朝方にかけては近隣の道路の往来もなく、いちばん人目につかないんだけど、警備システムの関係で敷地に入れない。次いで動きやすい夜七時を選んだ。で、土曜の朝に出勤する社員に発見される筋書き……と、日記の中で整理していたよ」

 私はまた、言葉をなくした。夏目さんは、気づいていたのだ。鹿島さんがなにかとんでもない逆襲を画策しているのを、日記を通して知っていた。だから今、鹿島さんが作ったこの光景に、「会いに来た」。

「朝に発見されて、警察が来て、他殺の可能性がないとなれば、現場保存は数時間で解除される。彼が最期に見た景色は、ちょうど昨日の今くらいの時間」

 また、風が吹いた、雲が流れ、月が顔を出す。社屋の脇の木にも月光が当たり、木の下周りにテープが張られているまで見えた。きっと、あの木で首を吊ったのだ。そんな想像が、容易くできてしまう。昨日のこの時間、このくらいの暗がりの中、この景色を眺めながら、その男は命を絶った。

 カシャ。私の横から、カメラのシャッターの音がした。もう一回、さらにもう一回、淡々とシャッター音が響く。夏目さんは、鹿島さんが見ていた風景を写すため、この時間を待っていたのだろう。

 会社に逆恨みして、責任転嫁して、自分を正当化していたあの人が。「死にたい」と言いながらも死ぬ度胸はないと思われたあの人が、最期まで会社を、家族を、苦しめてから逃げた。そう思ったとき、私の中でなにかがぷつっと切れた気がした。

「最悪」

 ぽつりと、自分の口から言葉が洩れた。

「こういう人って、ずるいですよ。他人を傷つけておいて、自分はやりたい放題で」

 記憶の片隅に、懐かしい男の姿がちらつく。整髪剤でオールバックにした髪をてらてらさせ、口もとには髭を生やしていた。酒臭い体臭と、いつも紅潮した顔。じゃがいものような輪郭。機嫌がよければ調子のいいことを言ってバカ笑いをし、分が悪くなるとすぐに怒鳴り散らす。

「椿ちゃん?」

 夏目さんの声が聞こえた気がした。私は小さく息巻く。

「散々人に迷惑かけておいて、一発殴らせる前に勝手に死ぬなんて自己中にもほどがあるんですよ」

「椿ちゃん」

「死ぬときまで自分のタイミングなんて図々しいのよ。私に殺させなさいよ」

「椿ちゃん」

「あんたに振り回された人に、殺させなさいよ!」

「椿ちゃん!」

 夏目さんが私の肩を掴んだ。

「目立つ言動は控えてくれ」

 脚が震える。考える前に言葉がひとりでに溢れて、自分でも戸惑った。乱れた息を整えて、やっと声を出す。

「ごめんなさい、夏目さん」

 胸が潰れそうなほど、心臓がばくばくいっている。脳の酸素が足りなくなって、一瞬意識が遠のく。

 気がつくと、私は夏目さんに肩を支えられていた。

「大丈夫?」

 触れている夏目さんの手が、冷たい。

「すみません、立ちくらみです」

 夏目さんにもたれかかりながら、足元を正す。頭がくらくらする。

「刺激が強すぎたかな。帰ろうか」

 夏目さんはそう言うと、私を支えてその場をあとにした。


 *


 大通りに出ると、夏目さんはすぐにタクシーを拾った。運転手に「駅まで」と依頼する夏目さんの隣で、私はぼうっとする頭を押さえていた。複雑な心境に整理がつかなくて、無口になっていた。

 今では、取り乱したことを恥ずかしいと感じられる程度には落ち着いた。後部座席の背もたれに体を預け、車窓の外の見慣れぬ夜景を眺める。

 鹿島さんは、死んでしまった。もし彼が自殺を企てていたのなら、止めるつもりだった。夏目さんもそのつもりでこの地へ赴いたのだと、勝手に思っていた。

 でも違ったのだ。夏目さんは鹿島さんが会社を荒らすのも、自殺する気なのも、非公開の日記を通して知っていた。知っていたのに、事後、様子を見に行って、現場の写真を撮っていた。鹿島さんの暴走も自殺も、止める気などなかったのだ。

 非公開の日記を読めたのは夏目さんだけ。止められたのは夏目さんだけだった。それなのに、彼はなにもしなかった。罪のない会社、鹿島さんの家族、会社の顧客など、関係ない人たちが巻き込まれてしまうのも、分かっていたはずなのに。

 これは、傷つき苦しみ、死にしか逃げ場がない人たちに寄り添うのとは違う。夏目さんが分からない。あの人がなにを考えているのか、全然分からない。

 神社の境内で感じた、夏目さんへの不思議な愛おしさを思い浮かべる。美しい景色を見つけては切り取り、私に共有してくれた。彼の目に映る景色を、私も近くで見ていたいと、たしかに感じてしまったのに。やはり私には、夏目さんを理解できそうにない。

 それに、記憶の片隅に引っかかったあの男は、誰なのか。

 私は鹿島さんの顔を知らないから、あの赤く火照った男は鹿島さんではない。他の誰かが重なったのだ。でも、それが誰なのか思い出せない。そして、もう一度顔を思い出そうとすると、浮かびかけた顔が靄の中に消えて、どんどん曖昧になる。

 まただ。颯希ちゃんのときもそうだった。鍵のかかった記憶を思い出しそうになって、すぐにまた鍵がかかる。絶対知っていることなのに、全く分からない。

 混沌とする感情の中で、鹿島さんに重なった無責任な赤い顔の男が誰だったのか、その意識は彼方へ遠退き思い出せなくなった。

 考え耽っていると、 ふいに夏目さんが私を呼んだ。

「ねえねえ椿ちゃん」

 ふわふわ微笑む夏目さんは、あまりにも自然体だった。先程見てきたあの社屋の惨劇が全部夢だったような気がしてくる。彼はのほほんとしたトーンで続ける。

「椿ちゃんさ。字、汚いね」

 唐突な発言に一瞬思考が停止した。

 聞き間違えかと思ったが、どうもそうではないらしい。夏目さんが肩掛けの鞄から紙を引っ張り出して、ひらっと私の前にちらつかせてくる。それを見て私はピタリと身体が凍った。

「なんでそれを、あなたが持ってるんですか」

 それは「夏目さんが悪いことをしませんように」と書かれた紙切れ。

「落ちてたから拾ったんだよ」

 取り返そうとしたら、サッと鞄にしまわれてしまった。

「僕の行動を思いどおりにしようと神様にまで願うなんて、意地悪だね」

「意地悪は夏目さんですよ」

 そっぽを向いて車窓の外に目を向けた。

 一時顔を出していた月は、また薄墨色の雲に顔を隠くし、ぼんやりとした朧月に戻っていた。

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