2・アクセプト(市川楓希の場合)

 目覚ましのけたたましい音で目が覚めると、土曜日の朝だった。

 なんだか全身がぐったりと怠い。きっと昨日のせいだ。夏目さんとの出会いのせいで、体内の歯車が狂ったような気がする。

 本来土曜日は休日であったが、取材のアポがあった。資料を取りに一旦会社に出勤し、上司の編集部長に挨拶をすると、部長は返事代わりに煙たそうに私を睨んだ。日頃から私のことが気に入らないようだが、挨拶くらい、人として当然だと思うのだが。

 ある程度のデスクワークをこなし、私はそそくさとオフィスを後にした。アポイントを取っていた画家への取材がある。エレベーターでエントランスへ向かいながら、私は昨日の出来事を思い出していた。

 あのあと夏目さんは、私をあっさり帰した。心中を前提とした恋人契約、という訳の分からない提案をされ、それを私が呑むと、もう満足したようだった。

 今更ながら、私も冷静さを欠いていた。気が動転して契約を受け止めてしまったが、あれでよかったのだろうか。自殺者の見た景色を撮りに行くの自体は別に犯罪でもなんでもないが、そこに美を見出して執着している人というのは、ちょっと気味が悪い。お金でなんとかなるのなら、あれ以上の関わりは持たない方が得策だったかもしれない。

 エントランスについて、出入り口のガラス戸を開く。と、そのガラス戸の横で外壁に凭れていた、ひとりの青年と目が合った。

「おっはよー」

 スーツにコートを羽織り、肩からカメラバッグのスタイル。夏目さんだ。寒い中待っていたのか、鼻の頭がほんのり赤らんでいた。

「え! なんでここにいるんですか!?」

 びっくりして大声を出すと、夏目さんはへらっと目を細めた。

「昨日貰った名刺に、この建物の住所書いてあったから。来てみたら会えるかなと思ってね」

 ストーカーみたいだ、と言いたくなったが、スーツを汚した一件があるから、あまり強気には出られない。数秒考えたのち、私は大人しく会釈した。

「お……お待たせしました」

「いや、全然。今来たとこ」

 デートの待ち合わせの定型文みたいな台詞をおかしそうに発して、夏目さんはふんわり笑った。イラッとしたのを抑えて、ビジネス的に接する。

「今後ともよろしくお願いします」

「そんな固くならないでよ。彼氏だよ彼氏。一応ね」

 慎重に接しようと思うのだが、夏目さんの眠くなるような穏やかな話し方を聞いていると緊張が解けてしまう。自殺云々の美意識とか、嘘だったような気がしてくる。やはりあんなの悪い夢で、本当の夏目さんはただ美しい写真を撮る風景写真家、そうであってほしい。

 会社の外は随分冷え込んで、冷たい風が街路樹の枝をさわさわと鳴らしていた。横には夏目さんが、私に並んで歩いている。私は、視線だけ夏目さんに向けた。

「ええと、どこまでついてくるんですか?」

「椿ちゃんはどこ行くの?」

「仕事ですよ。取材です。私、さっきの出版社でライターをしてるんです」

「僕もついていってもいい? もしよければ、お仕事のお手伝いするよ。写真が必要な仕事があればぜひ」

 夏目さんが私の顔を覗き込んできた。この人はなにを考えているのは分からないから、下手に逆らわない方がいい。私は大人しく彼を受け入れた。

「今から取材に行くのは、仙崎先生という油絵画家です。この先生が最近絵画教室を開いたので、そちらのPR記事を書くんですよ」

 仙崎亜海子先生のアトリエはここからだと結構距離があり、一時間くらい電車に揺られる。仙崎先生は有名なコンクールの審査員をつとめたり自身の個展を開いたこともある画家で、一ヶ月ほど前に、自宅の一部を開放し近所の子供たちを集めて絵画教室を開いたのだ。

 夏目さんが鞄から携帯を取り出し、画面に目を落とす。

「仙崎先生の絵画教室……一ヶ月前か。ふうん」

 仙崎先生を携帯のポータルから検索して、ホームページでも見ているようだ。

「驚いたよ。やっぱり君についていくのは大正解だった」

「仙崎先生を知ってるんですか?」

「『アクセプト』、いい絵だね」

 夏目さんがこちらに向けてきた携帯の画面には、青い絵の具が彩るキャンバスの画像が映し出されていた。

『アクセプト』は仙崎先生の代表作とも言える油彩画で、様々な実績を持つ仙崎先生の作品の中でも特に大きな賞を受賞した絵である。真っ青な画面の抽象画は、その名のとおり魂の受諾を描いている。

「夏目さん、抽象画を理解できるんですね。私には正直、難しくて……」

 さすが写真家、芸術を知る人は感性が違うななどと思っていると、夏目さんはきょとんとして首を振った。

「いや、全く訳が分からないけど、この作品を描いた人なんでしょ?」

 知ったかぶりですらない。その程度の知識でなぜそんなに嬉しそうなのか疑問である。

「分からないのに、作者に会えて嬉しいんですか?」

「これから理解するんだよ。それにこの、絵画教室が気になる。子供たちが通ってるんだよね。なにか素敵な出会いがありそうだ」

 目を輝かせる夏目さんを横目に、私は首を傾げた。この人のペースは、どうもよく分からない。

 やがて私たちは駅に到着した。仙崎先生の絵画教室までの最短距離は、事前に調べてある。ホームに向かう私に、夏目さんもついてくる。電車を待つ列に並んで、私は携帯を開いた。ふいに、アクセスしたサイトの履歴が表示される。そこにあった『今日のスイッチ』の文字に、思わず顔を顰めた。宮田さんから勧められた、自殺系サイトだ。すっかり忘れていたのに、思い出してしまった。

 と、真横から夏目さんの声がした。

「『今日のスイッチ』?」

 横目で彼を見ると、夏目さんは目を逸らすでもなく、私と目を合わせた。

「ごめん、覗くつもりはなかったんだけど見えちゃった。椿ちゃん、そのサイト利用してるんだね」

 どうも夏目さんも、このサイトを知っているようだ。そうだ、彼は自殺者の見る景色を求めて写真を撮りに行く。自殺系サイトを使っていてもおかしくない。私は彼のペースに乗せられたくなくて、顔を背けた。

「利用してるわけじゃないです。昨日間違えて登録してしまったんですよ。すぐ退会します」

「そっか、残念」

「残念って……」

 夏目さんは、私に心中を提案するような人だ。私に希死念慮があった方が、都合が良かったのだ。学生の頃から憧れていた写真家の正体が、これだ。ここ十年の私の想いを返してほしい。

 ため息をついて、私は徐ろに言った。

「昨日見せていただいた、あの写真の数々。あれは自殺のニュースを見たら現場に向かって、撮ってるんですよね」

 冷たい風がホームを吹き抜ける。夏目さんは寒、と呟いてマフラーの中で首を竦めた。

「そうそう。結構時間との勝負なんだよ。早めに行かないと景色が変わっちゃうからね。花なんかは枯れるし。そうでなくても時刻、天気、細かく言えば雲の形とか全く同じにはならないから、どうしても『最期に見た景色』とは微妙に違うものになってしまうけど……」

 彼は寒そうに目を瞑り、話す。

「でもさ。そんな人たちが想いを馳せる景色、せめて近いものを残しておきたいじゃないか。なるべく早く。風景があまり変わらないうちに」

 彼の語り口に、私は少し感心してしまった。自殺者に執着して気味が悪い、なんて思ってしまっていたが、こうして話を聞くと、少し印象が変わる。自ら死を選んだ人たちの目線を大切にしている、彼なりの弔いのように思えてきた。

 夏目さんはにこっと笑って付け足した。

「ただ、世の中にはニュースにならない自殺もかなり多い。僕としてはそういうのも見逃したくないから、アンテナは常に高く……いや、これは別に言わなくていいか」

 ……やはり、自殺者を題材としてしか見ていないのだろうか。なんとも掴みどころがない。

 夏目さんは線路を眺め、言った。

「僕からも質問していい? 僕が君と心中したいって言ったの、覚えてる?」

「覚えてますよ。忘れられるわけないじゃないですか」

 私が返すと、彼はよかった、と宙を見上げた。

「あまりにも警戒しないから忘れちゃったのかと思った。もしかしたら僕がこの場で君を線路に突き飛ばすかもしれないのに」

「それはないでしょ? 夏目さんは、他殺は違うって言ってました。あなたは私が選ぶ景色が見たいんですから、自分のペースで私を殺そうとするわけじゃないんですよね」

 私が冷静に言うと、夏目さんは嬉しそうに頷いた。

「うん! 分かってもらえててよかったよ。心中ってだけで怖がられて逃げられてもおかしくないから、ちょっと心配だったんだ」

 私は眉間を抓って俯いた。この人は掴みどころがなくて、どう接していいのか分からない。

 それだけでなく、気になることもある。彼が私にちらつかせた、刃物を持った少女の写真だ。

 顔の半分を血で塗らしたあの少女は、たしかに私の顔をしていた。でも、私にあんな記憶はない。当然ながら、人を刺した経験などないのだ。しかしあの少女はたしかに私と同じ顔をしていた。出会ったばかりの私を使って合成する時間などなかったし、あれは私によく似た誰かだろう。しかし夏目さんがあのタイミングであれを私に見せてきたということは、夏目さんはあれを私だと思って、なんらかの事件の証拠として突きつけたのだ。私を手近に置いておくための、脅しの材料といったところだ。生憎、あの写真の人物は私ではないが。

 夏目さんはご機嫌に白い息を吐いた。

「もしかして椿ちゃん、本当は死にたいんじゃない? 心中できるのラッキーとか思ってたりして。自分から動かなくても誰かが自殺の原因を作ってくれるんだもん」

 趣味の悪い冗談だ。私の深層心理を見抜いたかのような口調に、私はむっとした。

「そんなんじゃありませんよ、ただ、スーツを汚した一件は心から申し訳なかったと思っているので、夏目さんに逆らえないだけです」

「あー、あのスーツ……」

 夏目さんは虚空を仰ぎ、さらっと言った。

「高級っていうの、信じてたんだ。あれね、馴染みのテーラーに作ってもらった普通のスーツだよ」

「……えっ!」

「椿ちゃんを脅すための嘘だよ。あ、電車が来たよ」

 彼と私の前に、風を纏った電車が横切り、やがて停まった。夏目さんが会話を切り上げる。

「行こうか」

 開いたドアから入っていく夏目さんの背中を、私はしばしぽかんとして眺めていた。汚したのは高級スーツ、そう言われて脅されていたのに、あっさり「嘘だよ」と告白された。高級品の弁償のためにと彼の要求を呑んだ私の覚悟はなんだったのか。言いたいことがありすぎて、言葉にならない。絶句する私を、夏目さんが電車の中から手招きしている。しれっと嘘をついておいて、悪びれる様子はまるで見られない。私ももう、怒る気もなくした。

 目的の電車に乗り込んでから、私と夏目さんはしばらく無言だった。車内ではお静かに、というのもあるが、夏目さんが膝の上でノートパソコンを開いて、なにか作業を始めたというのもある。ちらと盗み見ると、白っぽい画面に文字が並ぶ、ブログらしき画面が表示されていた。『May』というハンドルネームが目に入ったが、内容まで読む前に夏目さんに角度を変えられ、液晶が見えなくなった。

 私も自分のノートパソコンを開いた。事前に調べた仙崎先生の資料を読もうとし、パソコンに入れた資料を開く。すると隣から乾いた声がした。

「あ、これ全然恋人っぽくない」

 隣を見ると、夏目さんが画面をまっすぐ見つめてキーボードをカタカタ叩きながら声だけこちらに向けている。

「一応付き合いたてのカップルという設定なのに、お互い喋らずに仕事してるというのはどうなんだろう」

「別にいいんじゃないですか? あくまで『設定』です。他人ですよ、私たち」

 ため息まじりに言うと、夏目さんは平然として言った。

「今はね。でもこれから恋人になっていかないと心中できないじゃないか。他人同士で死んだってロマンがない」

「ロマンって……」

「気持ちが伴ってない以上、まず形から入らないと。考えてみたら僕、君をなにも知らないし、プロフィールから教えてくれる?」

 これは恋人っぽい会話というより面接みたいだな、と思いつつ、私は彼に従って話した。

「桐谷椿、二十八歳、A型。都内在住、職業は編集者兼ライターです」

「うん。家は? ひとり暮らし?」

「はい。高校卒業時点で、一緒に暮らしていた祖母の元を出てこっちで単身で生活しています」

 ふうんと、夏目さんが鼻で返事する。

「それまではおばあちゃんと暮らしてたんだ。ご両親は?」

「覚えてないんです」

「覚えてない?」

 夏目さんはこちらに顔を向けないまま、不思議そうに繰り返した。私はゆらゆら揺れる吊革を見上げる。

「なんだろう、小さい頃にはもう亡くなってたのかな……覚えてないんです」

「結構複雑な環境だったんだねえ」

「夏目さんのプロフィールは……ファンなのでなんとなく知ってますが、そういえば経歴は明かしてませんでしたね。出身とか、ご家族の話、聞かせてもらえますか?」

 自分にされたのと同じように、彼に質問する。夏目さんはパソコンの画面に目を落としたまま、さらっと答えた。

「家族? 死んだよー」

「えっ」

 あまりにもあっけらかんと言うので、聞き間違えかと思った。しかし夏目さんは、丁寧にもう一度言った。

「死んだ。僕も覚えてないくらい小さい頃にね。だからまともに学校行ってない。低学歴ってそれだけで舐められるから、経歴伏せて誤魔化してるんだ」

 淡々と語られ、私は言葉を失った。かなり気軽な勢いで、センシティブな部分に切り込んでしまった。しかし当の夏目さんは普段どおりの表情で、言いたくなかった様子もない。だから余計に感情が読めなくて、私は反応に困ってしまった。

 夏目さんはパタンと、パソコンを畳む。

「引いた?」

「いえ、ごめんなさい。不躾な質問して」

 慌てて謝ると、夏目さんは可笑しそうに笑った。

「ははは。こっちから君に質問したんだし、僕も君には話しておこうって思ったんだし。因みに椿ちゃん、採用。決め手は顔の傷です」

「あ、あなたも『面接みたい』って思ってたんですね」

 私をルックス採用して、夏目さんはにんまりした。


 *


 長らく電車に揺られて時刻は真昼。ようやく目的の駅についた。仙崎先生のアトリエはそこから歩いて十分もない。小腹が空いたので私は持っていたパンを食べたが、夏目さんは今はいらないと言ってなにも食べなかった。


 しばらく歩くと、「絵画教室」と看板が掲げられている小ぎれいな民家が現れた。引き戸が全開になっており、出入りが自由にできるようになっている。

 仙崎先生の絵画教室は、小学生やそれ以下の子供たちが五、六人ほどいた。そしてその大半が絵を描くことに飽きて、練りゴムを投げたり折り紙を折ったり自由に遊んでいる。油絵の具や粘土のもわんとした匂いと、子供がはしゃぐ声が充満している。だだっ広い部屋に大きな机がふたつあり、後は部屋のあちこちに絵の具や色鉛筆などの画材が置かれ、子供たちがやりたい放題使っている。しかし仙崎先生の姿がない。

 私たちの姿を見て好奇心を刺激された子供が、ひなり声を上げながらこちらに向かってくる。そんな子供たちを、夏目さんはとびきりの営業スマイルで受け止めた。

「こんにちは! 先生はどこかな?」

 猫撫で声に反応して、子供がより集まってきた。私は夏目さんの後ろに隠れて、室内を見渡す。仙崎先生は、やはり見当たらない。

「椿ちゃん、ちびっ子たちに挨拶した?」

 夏目さんが子供に接する用の声のまま私に振った。

「夏目さん、手、洗ってくださいね」

「なに? 子供嫌いなの? 怖いお姉さんだねえ」

 夏目さんが子供の頭を撫でている。それより仙崎先生の取材だ。子供の相手などしている暇はない。

 もう一度教室の中を確認すると、ふと窓際にイーゼルを置いている少女が目についた。小学生が多い中珍しく、中学生くらいだろうか。他の子が画用紙に自由に描いている中、彼女だけはスケッチブックに造花をデッサンしている。赤い花と白い花が一輪ずつ、ツバキの花だ。私と同じ名前の花であり、私の好きな花でもある。

 造花を見つめる目は、ボブカットの髪から影って見えた。顔はほっそりと痩せていて、黒縁の眼鏡が重そうに見える。周りの騒音など聞こえていないような真剣な目をして、まっすぐスケッチブックに向き合っていた。

 少女を眺めていたら、ふいに、背後から声をかけられた。

「ごめんなさいね、お待たせしちゃったわね」

 振り返るとそこに、エプロン姿の初老の婦人が立っていた。仙崎先生だ。私は即座に、用意していた名刺を差し出した。

「すみません、お邪魔しています。桐谷です」

「アシスタントの夏目です」

 気がついた夏目さんも、私に続いて名刺を出す。仙崎先生は穏やかな笑顔で奥の部屋に案内してくれた。

「こっちは子供たちに開放しているけど、奥が私のアトリエなの」

 教室として利用する部屋とアトリエとの境目は、壁こそあるが本来あったであろう扉が取り外されていた。なるほど、扉がないのでアトリエから教室の様子が一望できる。

「『アクセプト』もこちらのアトリエに?」

「そうよ。一ヶ月後の個展に出す予定だけど、今はここに置いてるの」

 アトリエは絵の具が散らばり、油彩用の油が何種類も置かれ、お世辞にも片付いているとは言えなかった。その荒れた部屋の隅に目が覚めるような真っ青な画面が広がる巨大なキャンバスが立てかけられている。意外とぞんざいに保管されているが、それはまさしく名画と評された『アクセプト』だった。

「実物はやっぱり、息を呑むほどきれいですね。『アクセプト』……受容、という意味ですよね」

 改めて、絵のコンセプトを確認する。仙崎先生は、頬に手を当てて微笑んだ。

「ええ。この絵は他人が他人を受け入れる、優しさを表現したの」

 仙崎先生の瞳が、青い抽象画にひらひらと描かれた細い線を見つめる。

「心の内側の、人に理解されないような思考、悩み、苦しみ……そういうものって、実際、分かってあげたくても、他人からは分かってあげられない。だから、『理解』じゃなくて『受容』。分からなくても、そのままあなたを受け入れる。そんなメッセージを、この青い色に落とし込んでいるのよ」

 受容。澱みきった胸の奥から汚れをこそぐり落とすのではなく、その澱みさえも愛で包み込む、受容。

 絵の前に立ち尽くしていると、仙崎先生が優しく言った。

「教室に来ている子供たちを自由にさせてるのも、そういった考えからなのよ。絵はこうやって描く! って教えるんじゃなくて、この子たちの自由な感性を伸ばすの。子供は突拍子もない発想をするでしょう、それが面白いのよ」

 ああ、だから子供たちが絵に向き合わずに遊んでいても咎めないのか。先生の考え方を聞いて、なんとなく分かった気がした。

「さて、お茶を入れるわね。客間はこっちよ」

 仙崎先生が手で示した方には、ガラスの嵌め込まれた扉があった。

 扉の向こうの客間はアトリエとは打って変わってすっきりと片付いていた。アトリエは子供が犇めく教室と同じ匂いがしていたが、こちらはアロマの甘い香りがして、高価そうなティーセットが置かれ、彼女の品のよさが伺えた。仙崎先生は丁寧に紅茶を入れ、私たちに振る舞ってくれた。

 私が彼女に雑談がてらのインタビューをしていると、なにやらドアの向こうが騒がしい。見ると、扉のガラスに複数の子供が張り付いている。仙崎先生はくすくす笑う。

「気になって仕方ないみたいね。そうだわ夏目さん、その鞄、カメラバッグよね。あの子たちの写真を撮ってあげてくれないかしら」

「いいですか?」

 夏目さんが嬉しそうにする。仙崎先生も、手を突き合わせて花笑む。

「絵やアトリエの写真も自由に撮ってくださらない? あわせて子供たちの元気な写真も撮ってもらって、絵画教室を宣伝してほしいの」

「ありがとうございます。是非撮らせていただきますね」

 夏目さんはふわりと穏やかに笑い、席を立った。それから扉をばんと大きく開けた。子供がキャーキャーと盛り上がる。楽しそうでなによりだ。と、私は白けた目で夏目さんの後ろ姿を見送った。

 しばらく客間で紅茶を啜りながら取材をしていたが、作品を見ながらの取材もしておきたいので再びアトリエに戻った。

 アトリエから教室を眺める。案の定夏目さんは子供に囲まれて、本人も楽しそうにカメラを向けている。死者の見た景色がなんとかと語っていた人とは思えない、無邪気な笑顔だ。生き生きしている子供の写真も撮れと言われれば撮るんだな、なんて、私は頭の端で思った。

 ふと、窓辺に目をやった。先程の中学生くらいの少女は相変わらず周囲に馴染まずにひとりで黙々とデッサンを続けている。

「あの子だけ、他の子たちよりちょっとお姉さんなんですね」

 言うと、仙崎先生は緩やかに微笑んだ。

「ああ、楓希ちゃんね。中学生はあの子ひとりなのよ。近所に住んでる子でね、絵画教室を開く前からよく知っていた子よ。絵が大好きな子だから、絵画教室を始めたとき真っ先に誘ったわ」

 それから彼女は、少し表情を曇らせた。

「小さい頃は明るい子だったんだけど、中学に上がったくらいからあまり笑わなくなっちゃったのよね。もう少し社交性というか、たくさんお話ができるといいんだけど」

 仙崎先生が心配そうにため息をつく。

「学校でも上手くクラスに馴染めないんじゃないかしら……」

「難しい歳頃なのかもしれないですね」

 私は、教室の方をちらりと見た。

 先程まで小学生と戯れていた夏目さんがいつの間にか飽きられて、話題の楓希ちゃんの横に座って彼女に温かい視線を送っている。ひとりだけ浮いている楓希ちゃんが気になったのだろうか。よく見ると楓希ちゃんもたまに夏目さんの方を見て、口を小さく動かしている。

「あら、楓希ちゃんが初対面の人と話してるの、久しぶりに見たわ」

 仙崎先生が目を丸くした。

「あの夏目さんて、すごい人ね」

「ええ……話しやすいというか、馴れ馴れしいというか」

 人誑しというか。私も彼のペースに狂わされてきたから、なんとなく分かる。


 *


 後日、月曜日の昼下がり。私はオフィスの他のライターらのざわめきを聞いていた。うちの部署とは違う、事件や事故の記事を書いている記者たちが騒いでいるみたいだ。

「被害者名も学校名も非公開だが、調べはついた」

「取材行けるか」

 近くの中学校で女子生徒が自殺したらしい。小耳に挟んだ話によると、屋上からの飛び降りだそうだ。まだニュースになったばかりだし、名前も学校も公表されていないが、それでも在学生やら教師やらその他関係者の話で、情報が洩れる。ネット上ではデマも流れ、面白おかしく取り沙汰される。そうして日を追うごとに情報が精査され、やがて特定されてしまうのがセオリーである。今回もご多分に洩れず、亡くなった生徒はあらかた目星がついているらしい。隠している側の意思を尊重しない、心無い流れだ。

 私はデスクでキーボードを叩き、はたと、夏目さんを思い出した。自殺の現場ならば、夏目さんはまた、そこで写真を撮るのだろうか。私は書きかけの原稿を閉じて、席を立った。なんとなく、いてもたってもいられなくて、夏目さんに電話をかける。夏目さんは、すぐに応答した。

「もしもし。どうしたの?」

「こんにちは。ちょっと、お話を伺いたくて……」

「もしかして、中学生の女の子の飛び降りの件?」

 私が言う前に、夏目さんは用件を言い当てた。私は一旦息を呑んで、訊ねる。

「夏目さんも、これからその現場の写真を撮りにいくんですか?」

「ううん。今行っても警察とかマスコミとか入ってて、落ち着いて撮れる状況じゃないよ」

「じゃ、波が引いてから?」

「いや、それじゃ景色が変わってしまう。なるべく早く行かないと」

 夏目さんのその回答を受け、私は少し、考えた。

「それは、もう撮った、という意味ですか」

 私が言うと、彼はくすっと、電話の向こうで笑った。

「僕の仕事部屋、来れる?」

 彼の誘いを受けるなり、私は鞄を引っさげてオフィスを出た。

 亡くなった中学生の情報は、開示されていない。マスコミに嗅ぎ付けられてバレてしまってはいるが、まだ情報は不確定だったはず。夏目さんはそんなに早く、亡くなった生徒を特定したというのか。

 タクシーを捕まえて、一度行った夏目さんの仕事部屋を訪ねる。アパートの階段を駆け上がると、足音が聞こえたのか、夏目さんの方から扉を開けて私を手招いた。

「お疲れ様! すぐに来てくれて嬉しいな」

 夏目さんは私を部屋に入れると、扉を閉めて私を奥の部屋にいざなった。パソコンのモニターが白い画面を映し出している。そしてそこに表示されていたタイトルに、あっと声を上げる。

「『今日のスイッチ』!」

 間違いない、あの自殺系サイトだ。そういえば、仙崎先生の教室に向かう電車の中で夏目さんが見ていたページも、今思えばこんな雰囲気だった。夏目さんがしれっと話す。

「僕ね、このサイトの管理人なんだ」

「えっ?」

「学生の頃に作ったポータルだから、かなり古い仕様なんだけどね」

 かなりあっさり言うので、こちらもリアクションを取りそこなった。写真家でありつつ、自殺系サイトの運営もしていたとは。

 驚きはしたが、不思議ではないかもしれない。夏目さんは、自殺者の見た景色を集めている。効率的に自殺の情報を集めるためにも、こういうサイトを運営して情報を募っていてもおかしくないのだ。私がそう思ったのが読めたのか、夏目さんは付け足した。

「といっても管理権限を持ってるってだけで、殆ど見に行かずに放置だよ。たまに気になる人がいるときに、様子を見るくらい」

「それで、私も登録してると知って、嬉しそうだったんですか」

「うん。自殺願望あるのかなって」

 当然、私は即座に訂正する。

「違います。手違いで登録してしまっただけで、すぐにでも退会します」

 以前にも同じことを言った気がするが、放っておいていてまだ退会していない。夏目さんは、私にパソコン椅子を勧めた。私は促されるままに座り、表示されていた画面を見る。『May』というハンドルネームの、一ユーザーの日記が映し出されていた。

 私は以前、夏目さんのパソコンから見えた『May』の名前を思い出した。あのとき彼が見ていたのも、このアカウントだったのだろう。

 Mayの書き綴った日記のページには、クラスメイトからの激しいいじめの様子が淡々と記されている。掃除用具入れに閉じ込められたとか、プールに突き落とされただとか。クラスに味方はいない。先生も見て見ぬふり、親は「あんたが弱いのだ」と言う。日記のコメント欄に他の利用者から同情の書き込みがあると、「ありがとうございます」と返しているが、翌日の書き込みですぐにまた地獄のような学校生活に塗り替えられる。

 いじめの原因は、彼女が絵が好きだったから、のようだ。ひとりで黙々と絵を描いていたためにクラスで浮いてしまい、いじめのターゲットになった。そんなばかげた理由だという。

「もしかして……」

 私は画面から、横にいる夏目さんに目を移した。

「あなたはこれを読んでいたから、この女子生徒が自殺する日を知っていたんですか? だから情報が公開されなくても、特定できていた……」

 日記の中には、傷つけられた制服や生徒手帳の画像など、本人を特定できそうな要素がいくらでもある。夏目さんは、私の問いに返事はしなかった。

 日記を戻り、最新の記事を見る。とどめを刺すような出来事があったのかと思いきや、意外にも、最後の更新は楽しげなものだった。土曜日に行った習い事の教室に、珍しい客人が来て、楽しく会話できたとのことだ。それが、昨日の日記である。

「Mayさんの昨日の書き込みを見る限りでは、希望すら感じるんですが……どうして今日だったんでしょうか」

 その私の呟きに、夏目さんが気だるげに返す。

「さあね。昨日まではまだいけると思っても、今日だめになることだってあるから。本人にも、誰にも予測できないよ」

 地獄の日々を綴った日記は、読んでいるだけでも吐き気がしてくる。でも、ページを追う手が止まらない。さかのぼっているうちに、一ヶ月ほど前の記事に辿り着いた。

「今日はいいことがあった。小さい頃からよくしてくれている画家の先生が、絵画教室を開いたらしい。私はその最初の生徒として、先生に招待してもらえた。先生ありがとう。これを生きがいに、頑張れるかもしれない」

「楓希……ちゃん?」

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。『May』も『さつき』も、同じ五月を意味する言葉だと。

 日記の中には、大好きな画家先生が描いた「アクセプト」を褒める記述があった。

「『受容』。とても素敵な絵。誰にも認めてもらえない私を、この絵の青は、受け止めてくれた気がした。これを描いた先生は、素晴らしい人」

 仙崎先生に会いに行くと知った夏目さんが、やけに嬉しそうだったのを思い出す。きっと彼はこの記事を見て、「アクセプト」を、Mayが尊敬する仙崎先生を、見てみたかったのだ。

 呆然とする私に、夏目さんはひらりと一枚、写真を差し出してきた。一面真っ青な中に、帯のような白い筋。一瞬、仙崎先生の「アクセプト」かと思ったが、違う。これは真冬の昼の青空だ。

「彼女のおかげでいいのが撮れた。思春期の少年少女の複雑な人間関係。強い憎悪。解放を求め大空へ飛び立つように、屋上から飛ぶ……素晴らしいね。そういうの大好きだよ」

 人が、楓希ちゃんが死んでいるのに、どこかうっとりと陶酔している。彼の横顔に、私はぞっと背筋が凍った。

「夏目さん……人が死んでるんですよ。なんでそんなに、平気でいられるんですか。なんで写真なんか撮ってるんですか」

「彼女が見た風景を残したいから」

「どうして楓希ちゃんが死ななきゃいけなかったんですか」

 勢い余って、声が大きくなった。

「楓希ちゃんはただ絵が好きなだけで、悪いことしてないじゃないですか! 悪いのは彼女をいじめた子の方でしょ、どうして楓希ちゃんが死ななきゃならないんですか!」

「知らないよ。死にたいと思ったのが楓希ちゃんの方で、いじめっ子の方は別に死にたくなかったからでしょ?」

 夏目さんは困惑した顔で首を傾げていた。私は愕然として、夏目さんの肩に掴みかかる。

「彼女はまだ中学生ですよ」

「中学生にだって死ぬ権利はある。年齢は関係ないよ」

「まだ将来のある命だって言ってるんです。これから変わっていったかもしれないじゃないですか」

 息を整えながら、こみ上げる怒りを静かに夏目さんにぶつけた。彼女は日記の中に書いていた。仙崎先生の絵画教室に通えることを、嬉しく思っていると。これを生きがいにして、生きていきたいと。ほんの少しのきっかけが、彼女の未来を変えたかもしれないのに。

「夏目さん、自殺系サイトでMayの書き込み見てましたよね。ここに苦しんでる子がいるって分かってたのに、死のうとしてるのも分かってたのに、どうして止めなかったんですか!」

「僕が声をかけた程度で、彼女の考えが変わると思う?」

 夏目さんは、私に冷たく言い放った。私ははっと、Mayの日記のコメント欄を思い出した。他の利用者から同乗や励ましがあれば、彼女は安心したようにお礼の返信をしていた。でも、彼女があのサイトからいなくなりはしなかった。慰められても、優しくされても、彼女に死にたい気持ちは揺らがなかったのだ。

 夏目さんはひとつ、深めのまばたきをした。

「さっき、椿ちゃんはこの日記を見て、昨日までは大丈夫そうだったのに……って言ってたでしょ。そういうものなんだよ」

「そういうもの……?」

「死にたい人ってね、死のうという決意はもう揺らがないんだよ。ただ、今日死ぬか、明日以降にするか、その選択を毎日繰り返している。毎日、明日以降にするなんらかの理由を作って、一日ずつ引き伸ばしてるだけなんだよ」

 突発的に死ぬ人もいっぱいいるけどね、と、夏目さんは小さく付け足した。

「希死念慮のある人を発見したら、止めるのが社会規範であって倫理なんだけどさ。そんなのは、世の中の勝手な都合で。大多数の意見と違ったとしても、決めるのは楓希ちゃんだよ。楓希ちゃんの命なんだから」

 そうだ。生命は個人の資産だ。他人がどうこう、決められるものではない。

「さっきも話したとおり、『死にたい』っていう感情はまず揺るがないすごく強いものなんだよ。生物の本来の目的である“生存”の逆をいくんだから、強いに決まってる。生半可な気持ちで言ってるんじゃない。たくさんたくさん考えて、その死ぬ決意に至った」

 誰も話を聞いてくれない。苦しみを分かってくれない。「死にたい」というシンプルな気持ちさえも、「命を軽んじている」「間違ってる」「迷惑だ」と否定される。生きていることが間違っていて、迷惑だと言われてきたのに、今度は死ぬことすら許されないなんて、酷く暴力的だ。

「そこへ、大してなにも分かってない他人から、社会のルールだからという理由で自分の気持ちを全否定されたら、どう感じる? 単純に腹が立つでしょ。そうやって理解されない環境に絶望した結果、『今日にする』選択をする」

 私は、なにも言い返せなかった。夏目さんの言うとおりだ。楓希ちゃんがどれだけ苦しんで、どれだけ逃げ出したくて、どれだけたくさんひとりで考えたのか、私にはその欠片も理解できていない。なにも分かっていない私は、彼女の『今日にする』スイッチを押してしまう側の人間なのだ。

 カーテンの隙間から白い日が差す。しばらく呆然としたあと、私は再び、夏目さんから手渡された写真に目を落とした。真っ青なのに均一ではなくて、まるで淡い青の絵の具を何層にも重ねたような――見れば見るほど、仙崎先生の「アクセプト」を髣髴させる。生きるのが下手な自分も、選んだ死も、受け止めてくれそうな、優しい青。

 想像してみる、中学校の屋上、脚の竦む高さ。眼前に広がる、透き通った青空。自身の足を繋ぎとめる、校舎という呪縛からの解放。その、浮遊感を。


 その数秒先の死を思い浮かべた瞬間、どくん、と心臓が大きく脈を打った。

 目の前の写真は澄み渡った青空なのに、頭の中に浮かんだのは、赤黒い液体が飛び散った薄暗い部屋だった。

 途端に、むせ返るような血の臭いが鼻腔を刺激する。吐きそうになる。おかしい、私は夏目さんの仕事部屋にいたはず。それなのに視界が真っ赤に染まって見える。血の匂いなんかするはずがないのに、呼吸をするごとに匂いが生々しくなっていく。

 心臓の音がうるさい。頭が痛い。割れそうに痛い。本能が拒絶する。なにか嫌なことを思い出しそうだ。


「椿ちゃん、椿ちゃん」

 夏目さんの声で我に返った。

 私はいつの間にか椅子から崩れ落ちて、床で頭を抱えていた。手に持っていたはずの青空の写真は、足元に落ちている。夏目さんはしゃがんで私に目線を合わせ、顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?」

 冷たい手を差し出され、私は助けを求めるように、その手に縋りついた。息を荒くする私に、夏目さんは優しく問いかける。

「なにか発作が起きたようだったけど……怖いものでも思い出した?」

「すみません……私も、なにがなんだか」

 夏目さんはふいに、床に寝そべる写真に目を向けた。

「やっぱり、きれい。抜けるような青空だ」

 私も釣られて同じ写真を見る。真冬の空が高く高く、澄み渡っている。

「これが楓希ちゃんが最期に見た空の色なんだ。とってもきれいだね」

 夏目さんはうっとりと、囁くようにそう言った。

 屋上から飛んだ楓希ちゃんは、この塗り重ねたような青空へ飛び込んだのだ。どんな気持ちだったのだろう。恐怖で足が竦んだだろうか。それとも、開放される喜びに、翼が生えた心地だったのだろうか。

「さっきは冷たい言い方しちゃった。ごめんね。これでも椿ちゃんには感謝してるんだ」

 夏目さんはそう言い、立ち上がった。散らかった部屋の片隅から、なにか拾ってくる。白い紙を巻いて輪ゴムで留めた、筒状のものだ。それを私に差し出す。

「見て、楓希ちゃんに貰ったんだ」

 そろりと夏目さんの手を離し、巻いた紙を受け取る。輪ゴムを外すと、紙はふわりと広がった。

 それは、二輪のツバキの絵だった。

 繊細な線が緻密に絡んで、柔らかそうな花の質感が、薄くて硬い鉛筆だけで織り成されている。絵画教室の窓際で、真剣な目で造花とスケッチブックを交互に見る楓希ちゃんの姿が脳裏に蘇った。

「楓希ちゃんが書いた日記に、『椿』ってハンドルネームの人の足跡が残ってたんだって」

 絵に釘付けになる私に、夏目さんは穏やかに語りかけた。

「絵画教室で描く絵、なにを題材にするか決めかねていて、ふとそのハンドルネームを思い出したそうだよ。結果的に、これがあの子の最後の作品になった」

 私はあのサイトにアクセスして、訳も分からずにいろんな日記や掲示板を覗いていた。多分そのとき見たいずれかの日記が、Mayのものだったのだろう。流し見ただけだから、内容も名前も全く覚えていなかった。

「僕があのサイトの管理人だって話したら、くれたんだ。『私の話を否定せずに聞いてくれる人がいるのは、あのサイトだけだから』ってさ」

 楓希ちゃんの短い人生、最期の作品。

 ずっと出なかったのに、今更になって涙が零れた。私は、あの子を理解してあげられなかった。たくさん考えた彼女の想いを、受け入れてあげられなかった。そんな私がたまたま通り過ぎて残したログを見て、彼女は最期の作品に椿の花を描いた。

 複雑な罪悪感で胸が締め付けられる。呼吸が荒くなった私の頬を、夏目さんはそっと撫でた。

「楓希ちゃん、この絵を描きながら、『楽しい』ってちょっとだけ笑ったんだ」

 そう言って、にこりと口元を綻ばせた。

「あの子を笑顔にしてくれて、ありがとう」

 私は楓希ちゃんの絵を抱いて、夏目さんの胸に頭をうずめて泣いた。


 *


 数日後。

「どうして相談してくれなかったのかしら」

 仙崎先生に、雑誌の記事の確認でメールで送った。彼女からの返信には、楓希ちゃんへの思いが零れ出していた。

「そうですよね。仙崎先生からしたら、大切な生徒が亡くなったわけで」

 夏目さんの部屋でメールを見ていた私が呟くと、察した夏目さんがメールの画面を覗き込んできた。

「どうしてもなにも、『死にたい』って口にしたら止めようとするでしょ。死にたいのに邪魔されたら迷惑だから、相談なんてしないに決まってるじゃないか」

「『死にたい気持ちを』じゃなくて、『いじめを受けていたことを』って意味じゃないですか?」

 根源がなくなったら、楓希ちゃんの心も変わったかもしれない。夏目さんが唇を尖らせる。

「相談したら聞いてもらえるわけでも、『助けて』と言えば助けてもらえるわけでもないって、楓希ちゃんは知ってたんでしょうよ。誰しも自分自身のことでいっぱいいっぱいで、こんなになるまで心に傷を抱えている人にまともに向き合ってる余裕なんかないじゃないか」

 メール画面から離れ、夏目さんはパソコン椅子に腰を下ろした。

「仮に一生つきっきりでいても、一般的に普通とされる死との向き合い方ができるようになるとは限らない。自分の生活の全てを楓希ちゃんに捧げてもだよ。僕だったら背負いきれないなー」

 夏目さんの言葉は、非情なようでいて、的を射ている。楓希ちゃんが悩みに口にしたところで、彼女を救えた人がいただろうか。

「『どうして相談してくれなかったの』って、本当に無責任な言葉だと思うよ」

 夏目さんはそう繰り返して、小さなため息を洩らした。

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