赤い部屋

 夕日が射し込んでオレンジ色になった部屋。少女の母親は、真っ赤な口紅をべったりと塗っていた。昼間のパートから帰ってくると、母親はああして次の仕事の準備をする。少女はそれを部屋の隅で見ながら、「あの口紅、嫌いだ」と口の中で呟いた。私の知っているお母さんじゃなくなる、そんな魔力を持った口紅――少女はそんな風に感じていた。

 眺めていると、ドスドスと下品な足音が聞こえた。母親がびくりと肩を竦める。化粧品を放り出して少女に詰め寄り、慌てて押し入れに少女を隠した。

「お母さんがいいって言うまで、出てきちゃだめよ」

 少女がうん、と頷くと、母親は押し入れの戸を閉めた。

 しばらくすると男の喚き声と、ドッという鈍い音が少女の耳に聞こえた。母親の短い悲鳴も、少しだけ混ざって聞こえる。

 そろりと一センチほど戸を開けて押し入れの外を見ると、母親が一ヶ月程前に連れてきた「新しいお父さん」が母親を殴って怒鳴りつけていた。少女は息を殺してただ見ているだけだった。皺だらけのセーラー服のスカートの裾を、ぐっと握る。

 恐怖と不安でいてもたってもいられなくなり、ここから飛び出してあの男を取り押さえようと、何度も考えた。が、身体は全く動かない。ぎゅっと目を閉じると、頬の辺りに生温かいものが這った。指で確かめると、ぬるっと頬に伸びた。どうも以前の傷が開いて、血が垂れてきたみたいだ。

 母親の身体が押し入れの戸に叩きつけられた。ばんっと大きな音がして、少女はびくっと縮こまった。戸を挟んですぐ向こうで、男が母親に殴りかかる。母親の身体は何度も戸に打ちつけられ、その度にばん、ばんと戸が破れそうな音が鼓膜を襲った。

 やがて音が止んだ。何時間、そうして押し入れに篭っていただろう。震えながら戸の隙間から様子を見ると、男は反対側の部屋の隅で眠っていた。

「お母さん」

 少女が無声音で呼ぶ。

「もう出てもいい?」

 母親の返事はない。

「お母さん?」

 もう一度呼んで、痺れを切らして戸を開けた。途端にむせるような血の臭いがして、ずる、となにかが擦れる音がした。

 見ると、頭から血を流して顔を痣だらけにした母親が、目を見開いたまま床に倒れ込んでいた。押し入れの戸にべったりと血がついている。

 一瞬、時間が止まったような気がした。

 数秒立ち尽くしたのち、少女は無言で部屋を出た。寝ている男は余程酩酊していたのか、周りが嘔吐物まみれである。少女は男を起こさないよう、慎重に歩を進めた。台所に辿り着き、戸棚にしまわれていた包丁を取り出す。

 血の臭いが立ち込めた部屋に戻り、は、と短く息を吸った。血の臭いと吐瀉物の飛び散った部屋に、少女まで吐きそうになる。

 そろりと男に近寄り、その胸に包丁を当てた。

 手が震える。それでも、ぐ、と包丁の柄を押し込む。男のシャツに血が滲んだ。

 皮膚が切れて肉の中に包丁が入っていく感覚が、手を通じて脳を刺激する。

 包丁を引き抜いて、震える足で後ずさり、倒れ込む母親に歩み寄った。母親の手を握る。僅かに体温が残っていたその冷たい手に、男の汚い血のついた包丁をそっと握らせた。

 玄関までずるずると重い足を引きずると、暗い外へ飛び出し、そこから一気に交番まで走った。

 靴は忘れた。

 押し入れの戸についた鮮明な赤が脳にこびりついて離れない。まるであの口紅だ。

 硬いアスファルトの上を裸足で駆けた。悲しいことに、涙が一粒も出ない。頬を伝うのは、こめかみから流れてくる血だけ。もう日はすっかり暮れていた。

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