乾坤一擲(けんこんいってき)
樵丘 夜音
焦り
ハイテンションな通販番組の司会者の声で目が覚めた。
(また寝落ちしちゃったな)
ゆらゆらとリビングのソファーから起き上がると、稲葉栞里は、リモコンでテレビの電源を切った。時間を見ようとスマホの画面を開くと、画面の上にメールの着信のメッセージがあった。
寝室に向かいながらメールを開けた。幼なじみの北浦楓からだ。
『余命20年って宣告されたら、どうする?』
唐突すぎる文章は、寝ぼけた頭に全然入ってこない。小さくため息をつく。
昔から楓は、悩み始めて思いつめると遠回しな言葉で相談してくるのだ。何かあったのは間違いないが、今、返信してメールの応酬をするには遅すぎる時間だったので『明日、仕事が終わったら連絡するね』とだけ返し、寝室に入った。
栞里は、週に4日、自宅で料理教室を開いている。平日の昼間の教室には年配の主婦たちが、週末の夕方の教室には仕事を持つ若い人たちが通ってくる。最近こそ、料理男子がもてはやされて料理教室に男性が通うことも珍しくなくなったが、やはり9割は女性なので、さまざまな家庭の事情や家族の問題、職場の愚痴から夫の悪口までいろんな情報が入ってくる。なるほど、と思うこともあるが、苦笑いしてしまうことのほうが多い。
「うちの旦那、定年してから5年も経つのに、まだ食事の時間になるとちょこんと座って待ってんの。せめて昼ご飯くらい自分でして欲しいわ」
試食の時間になると、毎回、石田さんの夫の愚痴が始まる。
「ご主人も一緒にここに通われてはどうですか?」栞里が言うと、
「いやですよ。せっかく息抜きに来てるのに、旦那と一緒じゃ来る意味なくなっちゃうわよ。定年になる前に、もっと教育しておくべきだったわ」
石田さんは大げさに肩を落として、今日の主菜の海鮮団子のみぞれ和えを、ぱくりと丸ごとほおばった。隣の泉山さんも大きく頷いた。
「定年して5年ってことは、今年、古希?」
「そうなの。人生100歳時代なんて言うけど、あと10年の辛抱かしら。20年はきついわね、あはは。栞里先生のご主人はおいくつ?」
「ええと、私より3つ上なので、50・・・8です。アラ還です」と答えたものの、石田さんの言葉で、昨日の楓からのメールを思い出してドキリとした。
余命20年ということは、楓の人生は75で終わるということなのか。体のどこかに病気が見つかったのだろうか。でもそんなに長い余命宣告は聞いたことがない。
栞里は、ご主人たちの定年後、二人きりの時間をいかに共有しないようにするかという談義が止まらない石田さんたちに、軽く相槌を打ちながらも少しうわの空になって楓の話の方向性を探っていた。
お昼の教室が終わるとすぐに、楓にメールを送った。
『仕事、終わったよ。こちらはいつでもOKです』
5分も経たないうちに、スマホが鳴った。
「・・・元気?」
「元気よ。楓、今度は何があった?」
「う~ん。特に何があったってわけじゃないんだけど・・・」
「何もなくて、余命がどうとか言う⁈」
「うちさ、昨日、結婚30周年だったの」
楓独特の更なる遠回しの話し方だ。結婚記念日から余命宣告へのオチまでの想像が全くできない。
「もうこの歳だから、記念日を忘れてても腹も立たないし、二人でお祝いしたいとも思わないし、平日だし全然普段と同じでいいと思ってたし」
「北浦さん、結婚記念日、忘れてたの?」
「いや、覚えてはいた。なんか、スーパーでワインと焼き鳥買って帰ってきた」
「・・・もしかして、焼き鳥にカチンと?」
「まさか!ただ、普通に晩酌始めた時に形だけって感じで、軽く、まぁこれからもよろしく、って言われてさ」
「いいじゃない!北浦さん、ちゃんとしてる!うちの主人なんか、そんなこと言ったことないわよ。それの何がダメだったのか、全然わかんないんだけど」
相変わらず、渦の遠くの方から少しずつ少しずつ内に入ってくる楓の話し方に、栞里が少し苛ついているのを感じたのか、ようやく本題に入った。
生まれてからの四半世紀は人として成長するための期間で、その次の四半世紀は、結婚して子育てして時間も身体も自分だけのものじゃなくなって、自分の選んだ道ではあるけど、人のためだけに生きていたような期間だった。最後になるかもしれない四半世紀に入り、55歳になった今もまだ生活のためとは言え、楽しくもない仕事に通い、まあよろしく程度の夫と二人の生活がただ続いていくことを疑問に思ってしまった。75歳くらいまで生きれば十分と思っている楓は、残りの二十年がこのまま惰性で終わっていくのかと想像したら、急に焦りを覚えて震えが止まらなくなったというのだ。
「子どもの成人式の時、あっという間だったなって思わなかった?」
「思ったけど・・・」
「あっという間の20年なの。で、あと20年なの、私たちの余命は」
「私たちって・・・私の余命も20年なのね・・・」
電話だから栞里の表情は楓には見えないが、苦笑しているのは伝わったようだ。
「あっという間に、人生の終わりを迎えるの。どうしよう、今のままじゃ私、成仏できない気がする」
「何を言い出すかと思ったら、成仏したいって話?出家でもする?」
「違うってば。最後くらい、自分の好きなように生きてもいいんじゃないかって思い始めたの。主人たちはさ、なんだかんだ言って好きなように生きてるじゃない。好きなようには生きてないって言うかもしれないけど、少なくとも私たちほどの我慢はしないで生きてるの。私は今までの半世紀、ずっと我慢ばっかりでやりたいこととか全部目をつぶって通り越してきてるの。だから・・・私も最後くらい、自分勝手になってみたいなって思って」
「いいんじゃない?」
「・・・でも、それはそれで怖くもある」
「そんな大それたこと、しようとしてるの?」
「何がしたいとか何が食べたいとかもない。気力も欲もない。自由にはなりたいけど本当は何も思いつかないことにも焦ってる・・・栞里だったら、どうする?」
急に漠然としたクイズを出されたようで、返事に困った栞里は、
「う~ん、すぐには何も出てこないけど・・・。じゃ、私も少し考えてみるね」と、言って今日のところは電話を切った。
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