4.狡猾?

「そういうわけなんで、近いうちに涼太、借りますね」

 涼太と外出の約束をした翌日、オーナーにそれを報告した。彼はオッサンのくせに無邪気に顔をぱあっと輝かせた。

「涼太の面倒見てくれるんだね! 助かる!」

「っていうほど涼太も子供じゃないでしょ」

 サンドイッチ片手に苦笑いすると、オーナーはえへへと嬉しそうにカップを磨いた。

「そっかあ、だから涼太の奴、機嫌よかったんだ」

「機嫌よかったんすか」

「うん。そりゃあ、女装してることを認めてくれる上で仲良くしてくれる人がいたら、嬉しいでしょうよ」

 オーナーの周りに小さな花や音符が飛んでいるように見える。

「圭一くんも物好きだね。女装男子を女装させた状態で連れ歩くなんて」

 言葉にしてはっきり表現されると、俺の方が変態みたいである。

「桜ちゃんバージョンの涼太なら全然女装に見えないから。傍から見ればただの女の子ですよ」

「それは言えてるね。それはそれでパパ活みたいになりそうだけど」

 オーナーも納得した。昨日の宣戦布告の様子だと、涼太はかなり気合を入れてデートファッションの桜ちゃんを構成してくるつもりのようだった。それなら尚更女の子にしか見えないだろう。絶対に見破られないなと、なぜか俺が自信を持って言えた。

「日程や場所はもう決めたの?」

 オーナーが不参加のくせにウキウキしている。俺はサンドイッチにぱくついた。

「実行日は今週の土曜日にしようかと思ってます。俺の仕事も片付きそうだし、涼太も休みだろうから」

 どこへ連れていくかは、まだ考えていない。

「涼太って普段どこへ遊びに行くんですか?」

「僕も今年から一緒に暮らしはじめたからなあ……実は涼太のことそんなに詳しくないんだよね」

 オーナーが腕を組む。そうだ、涼太は遠くにいる親元を離れて、大学に通うために叔父であるオーナーに身を寄せているのだった。

「涼太がこっちに来る前は、あんまり親しくなかったんですか?」

「うん。年に二、三回会うくらいだったよ。会えば一緒に買い物したりゲームしたりはしてたから、全然知らない人ってほどじゃないんだけど……。共同生活をするとなると、毎日のように発見があるよ」

 なるほど、ごく一般的な叔父と甥の距離感だ。

「流石にぎこちなさはもうないけどね。でも涼太は圭一くんといるときの方が楽しそうかな」

「ええ? 俺のこと蔑んでますよ、あいつ。俺が良かれと思ってする発言全部気に入らないみたいですよ」

「あっはは、ツンデレって奴じゃない?」

 オーナーが無責任に笑う。涼太の罵倒はツンなんて生易しいものではない。やりすぎたときなんかは最早キレている。キレデレだ。

 だが、外出を決めたらご機嫌になったというのだから、多分俺は心から嫌われているわけではないのだろう。そういうあまのじゃくな態度が、桜ちゃんのかわいいポイントなのだ。

「にしても……涼太遅いな」

 オーナーが腕時計を一瞥した。俺もちらと自分の腕の時計を確認する。十二時十分だ。

「涼太、学校ですよね?」

「そうなんだけど、お昼のコマは開けたんだって。バイトしないとお小遣いなくなっちゃうからだそうだよ」

「ふうん……わざわざお昼に店入るなんて、俺に会いたいんじゃねえの」

 ニヤリとするとオーナーが芸人を見たかのように吹き出した。

「圭一くんは今日も頭がお花畑だね!」

 ケタケタ笑ってから、オーナーはふうと落ち着いた。

「仮に、本当にそうだったらどうする?」

「本当に俺に会いたいがために、店に出るってことですか?」

「うん。涼太がもしそう考えてたら、君は受け入れられる?」

 オーナーの謎の仮説に、俺は昨日の涼太の話を思い出した。油井くんがゲイだと聞かされ、俺は少し戸惑った。涼太は油井くんが何が好きだろうが関係ないとのことだった。涼太がそんなしっかりした意思を持っていたのに、俺は自分にはよく分からない世界だと踏み込めなかった。

 仮に、自分が当事者だとしたら。

「受け入れ……られるかもしんないなあ」

 自分でも不思議と、そんな回答が出た。

「桜ちゃんかわいいし……」

「かわいければわりと受け入れられるんだ。さっすがチャラ男は違うなあ」

 オーナーは笑って俺を弄り、その笑顔のまま続けた。

「僕だったら、距離を置くかもしれないな」

「そうなんですか?」

「うん、だって僕はストレート……つまり異性愛者だから、男を愛せる自信がない」

 淡々とした口調だった。俺はサンドイッチを口の前で止めて、黙って聞いた。

「勘違いしがちだけど、無理に受け入れるのは優しさとは違うんじゃないかな。傷が浅いうちに忘れさせてやるのも愛情だよ」

 オーナーが微笑んだまま、柔らかい声で言う。俺は口を半開きにして聞いていた。一旦、サンドイッチを皿に置く。

「どうしたんですか、オーナー。真面目なこと言っちゃって」

 何だか試されているような気がして、慎重に尋ねた。が、オーナーはへらっと笑って手をひらひらさせた。

「君がどういう価値観なのか聞くだけ聞いてみたかっただけだよ! 圭一くんみたいな一流のチャラ男なら森羅万象全てを愛せるのかなって!」

「そこまで守備範囲広くないですけど」

 俺は少し濁してから、置いていたサンドイッチに再び手を付けた。

 森羅万象というほど守備範囲は広くないが、桜ちゃんは自分の中で範囲内なのだろうか。どうかと問われて受け入れられるとこたえていた自分がいたが、深く考えると分からなくなってくる。

「ていうか、そんなこと聞いてくるなんて涼太はそんなに俺のことが好きなんですか!?」

 オーナーにそう尋ねた瞬間だった。

「なわけあるか! バカかあんたは!」

 ちょうど帰ってきた涼太が怒鳴りながら扉を突破してきた。

「叔父さんも何なんすか。どういう会話の流れで今の発言引き出すんですか!?」

「お帰りー」

 オーナーは質問にこたえずにニコニコして誤魔化した。

 戻ってきた涼太は大学からそのまま来たらしく、男の格好をしていた。肩から大きな鞄を提げて、スタスタ歩いてくる。俺のテーブルの横に立ち、彼はドサッと鞄を床に降ろした。

「そんなことより圭一さん。あんた暇ですか?」

 鞄を床に付ける屈んだ姿勢のまま、俺を上目遣いで睨んでくる。俺は食べようとしていたサンドイッチを止めた。

「社会人なんでそんなに暇じゃないけど……面倒な書類関係はだいぶ片付けたよ」

「そう」

「だからさ、桜ちゃんとのランデブーは今週末にしようかなと思ってる」

 予定を伝えたら、涼太は少し眉をピクリとさせて鞄から手を離した。そしてガシッと俺の両肩を掴んでくる。突然のことに俺は椅子から涼太は見上げて硬直した。

 きれいな顔が近いのだが、その表情は険しい。

「やばいことになった」

「は……?」

 ただならぬ顔をする涼太に、俺も真顔になった。

「どうした?」

「このままじゃ、週末遊びに行けない」

 涼太は俺の肩からそろりと片手を離した。そして、床に降ろしたでっかい鞄を指さす。

「めちゃくちゃいっぱい課題が出た……」

「そんなことか……」

 神妙な顔をするから何かと思えば。俺はくたっと肩の力を抜いた。が、涼太はまた両手を俺の肩に置いて、ガタガタ揺すってきた。

「そんなこと、じゃないですよ! 講義のレポートと実験のレポートと、来週の実験の予測レポートと、あとなぜか読書感想文まであるんですよ」

「そんなもんだろ。そのうち慣れるからがんばれ」

 嘆く涼太は、ピタッと揺する手を止めた。

「課題が終わんないと、桜ちゃんがデートに行けません」

 それは、俺もちょっと困る。忙しいところを連れ出すのもかわいそうだし、連れ出したって多分課題が気になって楽しくもないだろう。

「……じゃあ、次の週にするか?」

「来週も、同じような課題が出るはずです」

「うーん……」

 それでは、いつまで経っても出かけられない。涼太は引き続き声色を尖らせた。

「流れるのだけはだめですよ。昨日のお礼はさせてもらいます。圭一さんに借りを作りたくないので、圭一さんがデートでいいって言った以上それは絶対です」

「そんなところに律儀にならなくていいよ」

 そもそもそれだって冗談のつもりだったし、涼太の方も悪ノリだった。俺はわりと真剣に代替案を考えた。

「別にデートじゃなくてもいいよ。ほっぺにチューでも全然……」

 が、チューどころか平手打ちが俺の頬にぶちかまされた。

「頭にボウフラ湧いてんのか!? 桜ちゃんの中身は俺だって! 男にそれされて嬉しい!?」

「叔父の立場からも、順番は守ってほしいな。まずは一緒にお出かけまでにしてくれる?」

 楽しそうに観察しているオーナーまで加勢してきた。俺ははいはいと頷いた。

「分かったよ。その課題とやらを手伝ってほしいんだな?」

「……手伝ってくれんの?」

 どうせそれが望みだったくせに、涼太は窺うようにそっと繰り返した。俺はまた頷いた。

「一回生が手探りなのは仕方ないからね。気持ちは分かる」

 言ってから、俺は思い出して付け足した。

「付き合ってやれるのは、昼休みの間だけな」

 涼太はしばし、絶句していた。初めての大学の課題で、協力し合える友達もまだあまりいなくて、不安だったのかもしれない。命綱を見つけたみたいに顔を輝かせ、肩に乗せていた手を離した。

「わ、分かった。ちょっと着替えてくるんで帰んないで下さいね」

 見ていたオーナーがカウンターに肘をつく。

「涼太、夕方からまた講義あるんだよね? もう一回着替えなきゃなんないし、面倒だったら桜ちゃんにならずにそのまま仕事してくれてもいいよ」

「いや。着替えてきます」

 そんなことをしても給与が上がらないことは分かっているはずなのに、意地でも女装しようとする。俺はつい、口元を綻ばせた。

「涼太は優しいな。俺に桜ちゃんの姿を見せるためだけにわざわざ着替えてくるんだから」

 店の奥へと消えようとしていた涼太は、流れるようにこちらに向きを変え俺の脳天をパンッと平手で引っぱたいた。

「あんたのためじゃない!」

「いってえ! おいこら、涼太は俺に感謝する立場だろ」

「だからって甘やかすつもりはない」

 ぷいっと着替えに引っ込んでしまった。

 こういう攻撃を受けるところを考えると、やはりオーナーが言うようなことはなさそうだ。涼太が俺を好いているなんて、まず有り得ない。

 五分もしないうちに、奥から桜ちゃんが出てきた。涼太ではなく、桜ちゃんだ。完全に化けている。もともと化粧映えしそうだった顔が、完璧なメイクで女の顔になっていた。芸能界クラスの美貌を前に、俺は溶けたため息を洩らした。

「やっぱかわいいな……男だなんて信じらんない」

「俺も我ながらかわいいなと思いますよ」

 そう言う涼太は自信に満ちていて、その余裕のある表情がやたらと美しく見える。桜ちゃんの、こういう笑い方が好きだ。

 涼太はテーブルを挟んで俺の向かいに座り、わざとらしく甘えた。

「俺かわいいし、これなら圭一さんも優しく教えてくれますよね。付き合わせるためにも俺は捨て身で演じますよ」

「あざといぞ」

 男だと分かっているのに、このかわいさに抗えない。見た目もそうだが、こいつのずる賢さにどうにも庇護欲が擽られる。わざとだと知っているにも拘わらずだ。

「オーナーも暇なら手伝ってください」

 退屈そうに新聞を開いていたオーナーに、俺は声をかけた。が、オーナーはちらっと目を上げただけで動こうとしなかった。

「無理。僕、最終学歴高校中退だから。涼太が勉強してることは難しくって分かんない」

「叔父さんは厄介なことには首突っ込んでこないですよ。だから俺も圭一さんを宛にしてるんだし」

 涼太は足元の鞄をゴソゴソ探って、ノートとレポート用紙を取り出した。甥っ子を女装させてみた人がいちばん厄介だろうが、と俺はこっそり口の中でぼやいた。

 涼太が書いたノートを開き、講義の内容をざっと見る。どうやら理系の学科のようだ。俺は文系だったので、ちょっとたじろいだ。

「こういうのって何書いたらいいんですか? 講義聞いて、どう思ったか書けばいいんすか?」

 ピカピカの一回生である涼太は、何をすればいいのかすらまともに理解していなかった。

「感想文を書くのとは違うぞ。どう思ったかというよりは、どう考えたか、かな」

 こたえてやると、涼太がペンを握ってふむふむと頷いた。見た目が桜ちゃんであるせいか、あらゆる仕草にきゅんとする。

「どう考えたか、ですか。どこに納得したとかしなかったとかってことですか?」

 普段は態度が冷たい桜ちゃんが俺を頼りにしている。それだけで、顔がニヤけてくる。

「何ニヤニヤしてるんですか? こっちは真面目に質問にしてるんですけど?」

 真顔のまま低い声を出された。時々、こうしてこの子が男であることを思い知らされる。そうだ、桜ちゃんは本名ではなくて、こいつは涼太なのだ。

「ごめんごめん、桜ちゃんがあまりにもかわいいから」

「それは知ってます。そんなことより、レポート。何をどう書くのが正解なんですか?」

 謙遜のひとつもせずに自信を漲らせ、涼太はノートの書き込まれた数ページをペラペラさせた。どう書くのが正解なのかという質問を受け、俺はなるほどなと思った。どうも涼太は、自分で考えもせずに手っ取り早く妥当なものを書いてテンプレート化してしまおうと考えているようだ。

 俺は一旦咳払いして、ニヤニヤしてしまう己を振り払った。

「枠組みを俺に作らせようと考えてるようだな。だめだぞ、自分でやらないと」

「あれ。圭一さんってテキトーに見えて案外そういうとこは生真面目なんですか?」

 自分から俺を頼ってきたくせに、意外そうに目をぱちぱちさせている。

「俺くらいの歳頃のとき、女の子と遊びまくってたって言ってたから、こういうレポートもろくにやらないでズルしまくってると思ったのに。そのズルのコツを聞き出そうと思ってたのに」

「やっぱりな。そういう魂胆だと思ったよ」

 俺はこいつの腹黒さを見破って大袈裟なため息をついた。

「でもお生憎様。俺はすっげえ緩い学校の出身だから、そんなに課題が出たことがない。ずるいことしなくても普通にこなせる量だったんだよ」

「うわ。だから遊んでる余裕があったんすね」

 涼太は不服そうに言って、ノートに向き直った。が、やはりずるい考えは捨てていないようである。

「でも、たまにレポートの課題が出たときのために、定型の枠みたいなものは作ってたんじゃないですか?」

 テンプレートというほどではないが、講義の内容に起承転結を振り分けて膨らめるような書き方を、自分の中で固めていたのは事実である。

「書くのは涼太自身がどう考えたかなんだよ。だからそれは涼太じゃなきゃ分かんないだろ。書く内容までは俺は手伝わないぞ」

 生意気なガキ、それも男を甘やかす必要などない。だいたい、甘やかしてしまったら成長しない。四年間ずるずると楽をすることばかり覚えてしまう。ここは彼のためにもスパルタ指導を決めた方がいい。

 涼太はまだ楽をする方法を模索していた。

「俺が何考えたかなんてそんなに重要ですか? 先生からすれば、決まったレールに乗ったこたえさえ書いてあればいいんじゃねえすか?」

 甘えた考えで突き通そうとする彼を、俺は厳しくいなした。

「そう思うなら、先生が欲してる文章を書きなさい。それを考えろ」

 自分の力でやることを教えるために、突き放そうとした矢先だった。

 涼太の手がふわっと、俺の両手を包んだ。

「圭一さん。教えて?」

 桜ちゃんの顔で、ナチュラルな困り顔を浮かべられた。少しだけ首を傾げてこちらの目を覗き込んでくる。指はふっくら柔らかくて、温かかった。

 男であることなんかどうでもよくなる。この子は、桜ちゃんだ。

「じゃあ、ノートの中から起承転結になる部分を決めようか……」

 若干、声が震えた。桜ちゃんは手を離さない。

「どこを選べばいいんですか?」

「もう一回ノート見せて。選ぶから」

 なぜ俺がそこまでしなくちゃならないんだ……と思っている反面、脳みその半分は溶けてしまったみたいに思考がままならない。

「それで……絞ったポイントを、どう繋げたらいいんですか?」

 潤んだ唇が目の前で動く。包まれた手指に微かな吐息が当たって、余計に頭がくらくらしてくる。目の前のウェイトレスは、顔を寄せてきてじーっと目を見つめてくる。

「ねえ、圭一さん?」

 口を開ける度に覗くぷっくりした舌が異様に色っぽくて、指を突っ込みたくなる。頭がどんどん煩悩に支配されて、コントロールが効かなくなっていく。

 俺が教えるのは大まかなやり方だけで、書き方を考えるのも、書く内容を決めるのも、書くのも涼太に自分でやらせるつもりだったのに。

「うん……まず、このノートをだな」

 俺は手取り足取り、一から十まで指導しはじめていた。俺を見つめていた純真な黒い瞳が、ニッと細くなる。

「チョロい」

 また、口元で赤い舌が震えた。


 *


「圭一くん、時間大丈夫?」

 オーナーの心遣いの一言で、俺は我に返った。

 昼休みが終わろうとしている。外回り中ついでにサボったって誰にもバレないのだが、行かなくてはならない客先で今日も予定が埋まっている。いつまでも涼太に付き合ってはいられなかった。

「じゃ、俺そろそろ行くから。後は自分で進めろよ」

「あざっす。助かったっす」

 涼太は見た目は桜ちゃんなのに、包み隠す気を全く感じさせない男の声で礼を言った。

 いつの間にか桜ちゃんの魅力に溺れ、取り付かれたように課題を手伝わされた。レポートの内容は殆ど俺が決めて、文字だけ涼太が書いたと言ってもいいほどだ。そこまでする気はなかったのに、完全に涼太の思う壷に嵌った。

「圭一さん、女にはだらしないっぽいのにこういうのはキチキチしてるんですね」

 涼太がレポート用紙をまじまじと見る。

「レポートもお仕事も、真面目ですよね」

「手え抜くところはしっかり抜いてるよ。上辺だけでもきちんと見せた方が、自分が楽できるからそうしてるだけ」

 素直にこたえると、涼太はレポート用紙から俺の方へ視線を動かした。怪訝な顔と目が合う。

「もしかして、その場で楽するのよりずっとずるい?」

「そうかもしんないな。戦略的ズルだ」

 俺は涼太の言葉に素直に頷いた。

「大人になるってそういうことなんだよ。若いうちに面倒なことをかせられることで、極力楽な道を探すことを覚える。理不尽を我慢できるようになるというよりは、躱すのが上手くなるだけなんだ」

 悟ったように言った俺に、オーナーがふふふっと笑った。

「躱しきれなくて死にかけることもあるけどね」

 初老のオッサンにもなると、様々な修羅場に立ち会ってきたのだろう。笑っているのにずっしりくる言葉だ。

 大人になるって、そういうことだ。自分で言った言葉なのに、俺は頭の中で繰り返し反芻した。

 涼太のいうとおり、俺は楽な方へ楽な方へと流れ流れて、上辺だけ取り繕う方法を覚えた。ホイホイついてくる女の子を選んでは、まともに恋愛せずに後腐れのないお付き合いをした。そうやって、面倒くさい心の交流は二の次にしてきた。

 涼太の推測は、半分くらいは当たりなのかもしれない。俺がズルをする方法に詳しそうだなんて、なかなか見破ってきやがった。

 俺は息をついて、鞄を持って立ち上がった。

「じゃ、お客さんのとこ行かなくちゃ。涼太、週末までに全部終わらせてスッキリさせとけよ。今週の激務を乗り切るために桜ちゃんのデートファッションをモチベーションにしてるんだからな」

 ニヤリとしてやると涼太はまたいつもの冷たい目で、気持ち悪そうに俺を一瞥した。助けてあげたのにその態度だ。普通なら腹立たしいところだが、桜ちゃんの愛嬌の前では全て許してしまう。許せるどころか、むしろもっとそういう顔を見せてほしい。

 オーナーの元で会計を済ませ、店を出た。桜の木はもう葉桜になっていて、根元に明るい木洩れ日を落としていた。車通りの少ない静かな道路では、葉っぱが風の音でさわさわ鳴るのが心地よく聞こえた。

「圭一さん!」

 呼ばれて振り向くと、涼太が店の扉から追いかけてきていた。ぱたぱた駆け寄ってきて、俺の傍らに立つ。

「ん? 俺何か忘れ物してた?」

 手に持った鞄を見下ろし、携帯もあるのを確認する。涼太はピッと葉桜の幹を指さした。

「あそこ見てください」

「え? どこ?」

 とりあえず、彼が指さしたあたりを見上げてみた。が、葉っぱが風に揺られているだけで何もない。俺が間抜けな顔で木を見上げていると。

 突然、横からぐいっとネクタイを引っ張られた。

「うわっ……」

 体がよろめいたとき、頬にふにっと温くて柔らかいものが触れた。少しとろみがあって、頬が湿った感じがした。そしてすぐにその感触は離れた。

 一瞬何が起こったのか分からなくて、引っ張られた方向を振り向く。そこには顔を間近に近づけた、桜ちゃんがいた。

 俺のネクタイを掴んで顔を引き寄せ、泣きそうなくらい目を潤ませている。ぷくっとした唇が遠慮がちに開く。

「これはっ……今日の分の、お礼、です。勉強教えてもらったお礼」

 濡れた舌がたどたどしく、消えそうな無声音に近い声で囁いた。温かい息が耳たぶに吹きかかってぞくりとする。頬がへにゃへにゃと綻ぶのを堪えて、俺は数センチ先の涼太の顔を見据えた。

「オーナーに順番守れって言われただろ?」

「だから、見てないところで……したんじゃないですか」

 こいつはこいつで、充分な狡猾さを持ち合わせているのかもしれない。彼は数秒浅い呼吸を繰り返し、やがてちろっと歯を見せて悪どく笑った。

「どうですか、変態。男にこんなことされて、興奮します?」

 かわいい顔をして悪魔のような奴だ。俺は唇の感触が残った頬に、そっと指を添えた。

「うん、なんかね。普通にどきどきしてる」

「マジかよ、キッモ。俺、男っすよ?」

 涼太が照れ笑いを引き攣らせてネクタイを離した。俺は蔑む涼太に目線を送り返す。

「そっちこそ、男相手によくそんなことできるな」

「俺は圭一さんの面白いリアクション見るという目的がありますからね。まあ、気持ちの上では犬の頭を撫でるくらいの感覚です」

 ふふんと偉そうに嘲笑してくる。

「そんなに堪えるような顔して、圭一さんもしかしてまだ桜ちゃんは女の子って思い込んでます? 潜在的に、そうであってくれって望んでるんじゃないですか」

「そうかもしんねえな。うん、多分そうだ」

 意識すればするほど、心臓のバクバクが高鳴っていく。これはなんだ。涼太が女の子桜ちゃんに見えるから、脳が錯覚しているのだろうか。体じゅうがびりびりした僅かな痺れで動けなくなる。嘘だろ、男だと分かっていてもここまで酔えるものなのか。

 俺の反応が面白かったのか、涼太は満更でもなさそうに微笑した。そして、また耳を舐めるような近さで囁く。

「残念でしたね。俺、男ですよ」

「……大人を翻弄して遊ぶのはやめようね?」

 いつもなら催促する俺だが、今回ばかりは本気でまずいと思った。自分がここまで桜ちゃんに執心していたなんて、知らなかった。

「恥ずかしいな、俺はもういい歳した大人なのに。涼太ごときにからかわれて」

 はははと乾いた笑いが出る。涼太はより満足そうににんまりした。

「バーカ。デートはこんなもんじゃねえからな」

 男のくせにあざとい愛嬌を振り撒いて、彼は店の中へと戻っていった。

 俺はしばらく、店の前の木の下で呆然としていた。こんなにドギマギしている自分が情けない。向こうは俺の反応を面白がっているだけなのに、こちらはすっかり頭が真っ白になってしまった。元はと言えば俺の方が桜ちゃんを口説いて反応を楽しんでいたのに、反撃されるとこの有様だ。

 惑わされても仕方がない。あいつの見た目が美少女なのが悪い。

 俺は自分の頬を叩いて、午後の仕事に向かった。

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