天廻の媛 ~廃棄皇子と世界を動かす八人の媛~
緒方 敬
第一部
第一章 ネルの仔犬
第01話 冥き淵より
●
星が一つ流れた。
普通は直ぐ消える光が、長く尾を引いて三十を数える。
星空の下、僕は生死を彷徨っていた。
暗い闇の中。締め付けられる体。足りない酸素。何者かが僕の足首を掴んで引っ張っている。
僕、溺れちゃってるの?
苦しい息の中。僕は聞いた。
「……さん! しっかり!」
誰かが名前を呼んでいる。
「頑張れ!」
その声に別の声が重なる。次第に最初の声は遠くなり、後の声が大きくなって行く。
そして、僕は突然光の中へ。
「でかした!」
僕は高々と掲げられ、風の中へ。
知らず甲高い声を上げる僕の身体。
何が起こっているのか僕には解らなかった。だから、もう一つの声が起こると共に
「……なんと言う事だ。天はスメグニを滅ぼそうと言うのか」
聞えた言葉の意味も判らない。
そして僕は考える間もなく意識が遠退いた。
七つの眠りの度に朝が来る。
暗く、暗く、明るく、眩しく。そして明るく、赤く、暗く。
凡そそんな日々が続く。
いつの頃からか、目覚めは明るいか眩しい事が増えて行く。
僕は誰だ? 判らない。
トラバース法・割り込みベクタ・ハーゲルバーカー。頭に湧き上がる不思議な言葉。
体系づけられた知識。細部までは
反芻するように繰り返されるは見知らぬ知識。
「僕は誰なんだ! 何が起こっているんだ!」
光の中。僕は解けない謎を投げ掛ける。答える物の無い何度目か判らぬ問い掛けに、
「吾を呼ぶのは汝か」
答える者があった。威厳のある声。
これが僕の一番古い記憶だった。
●目覚め
ぱっ! と僕は起き上がる。体中汗だらけだ。
焼けるような喉の痛みも、柔らかな手の温かみも、はっきりと残っていたが、それは瞬く間に消え失せて行った。
「なんでこんな所に? 覚えが無い」
気が付いたら、檻の中に居た。ぶかぶかの服を着て藁の上。
正面が太い木の格子。上下と三方が板の大きな木箱のような檻だった。
僕の他には、
「子供?」
見渡すと、視界に入る幼顔。推定五、六歳。ぶかぶかのシャツを着た子供が一、二、三人。赤ちゃんの様に指を咥えおしゃぶりしてる子。不思議そうに見つめる瞳。それが僕を見降ろして立って居た。
手を見る。毛もタコも傷も無いすべすべした手。一目で判る、子供の手だ。
顔に触れる。忙しくて剃れなかった髭が無い。
肩越しに手を……届いた! 信じられないくらい身体が柔らかくなっている。
「なんだこりゃ~!」
キンキンとした甲高い声が辺りに響く。
「あ~ん!」
叫びに驚いたのか、周りの子が一斉に泣き出した。
僕には、日本と言う国で産まれて暮らした記憶がある。幼稚園・小学・中学・高校と過ごして来た記憶までははっきりとある。
あれ? いつの時代だ? 高下駄で山岳地帯を抜けて走っている、それとは別の記憶もあった。泡のように浮かび上がり、夢の中の出来事のように消えて行く記憶。
僕は誰だ!
訳の判らぬまま、一向に止まぬ甲高い泣き声に閉口していると。
「後はこちらになります」
男が乗馬服のような洋服を着た大人びた女の子と、それより頭一つ背の高い剣帯を付けた男の子を連れて来た。
「あんた。強い子だね」
覗き込む女の子と目があった。
「僕が強い? なんで?」
問い返す声はやはり幼い。
「ちっちゃいのに、一人だけ泣いてないでしょ?」
「僕、子供じゃないよ」
「子供じゃない? あたしよりちっちゃいのにしっかりしてるね」
くすっと笑った女の子は、
「この子に決めた。あたしこの子が欲しい」
案内した男にそう告げた。すると男は、
「ネル様。男の子ですよ。お人形代わりの子をお求めと伺っておりますが」
「いいの。あたしこの子が欲しいの」
と言い切った。そして傍らの頭一つ背の高い男の子に、
「デレック。購って」
と命じる。
「ほんとにこいつでいいの? そりゃ、直ぐ泣く子より扱いやすいだろうけど」
「いいの。早く購って」
「いくらです?」
「ちっちゃ過ぎるからね。銀四十匁でいいよ」
何が起こっているのか判らないが、どうやら僕は売り物らしい。
小さな頭陀袋のようなのは財布だろう。男の子は中から銀色に光る硬貨を出し四十枚を数えた。
男はそれを数えると、半紙を八つ切りにした大きさの紙に筆ペンのような筆記用具で認めた。正副合わせて三枚同じ物を並べ、割り印を押す。
全ての手続きが終わるまで一分足らず。僕は檻の中から出され、乗馬服の女の子に引き渡された。
「チビ。この方がお前の
デレックと呼ばれた男の子が僕に言い聞かせる。
「ネル……さま?」
「デレック! ちっちゃい子には優しくしないと駄目でしょ!」
と、叱り付けたネル様は、僕に向かってこう言った。
「あたしがあんたのお姉ちゃんよ。ちゃんとお姉ちゃんの言うこと、聞くんだよ」
「うん!」
中身が大人だと悟られないほうがいい。そう思った僕は、子供らしく元気に答えた。
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