バイトに向かっただけなのに

幽宮影人

境のヒト

 ピピピピッ、ピピピピッ


 心地よい微睡から無理やり呼び起こされる。


「んん〜……」


 獣のような唸り声を上げ、ふかふかの布団を頭まで引き上げながら俺の眠りを妨げた野郎を探す。半分しか開いていない目で、腕だけを動かしてごそごそと。上体も起こさず寝そべったまま。行儀が悪いなど言われようが知ったことか。俺は眠いんだ。


 ピピピピッ、ピピピピッ


「んぁ〜もう、わかったってば。起きるからぁ」


 半目だけの視界じゃあ奴を上手く見つけられない。パチリと目を覚まして勢いよく起き上がる。かばり、そう効果音が付きそうなほど勢いつけて飛び起きた俺は、その勢いのままベッドの横にある小さなサイドテーブル、そこで鳴り響くスマホに手を伸ばした。


「起きた、起きたから。もう煩いっての」


 寝起きでぼんやりと歪む視界の中、スマホのアラームを切る。

 ふぅ、やっと静かになった。現在の時刻は朝の5時半。ちなみにバイトの始業時間は7時で、俺が最寄りの駅で利用する電車の発車時刻は6時3分だ。加えておくと、電車を降りた後は自転車でバ先まで移動しないといけない。

 つまりどう言うことか。


「5時半⁈」


 スマホを凝視し、アパートの近隣住民への迷惑も忘れ叫ぶ。と言ってもこんな時刻に起きる入居者はなかなかいないだろうが。なんて、そんなことはどうでも良いのだ。

 急がねば、急がねば電車に間に合わない!


「アラーム5時に設定してたのになんでだよぉ〜」


 なんてぼやくが分かりきったことだ。多分、というか十中八九アラームが鳴っても止めたんだろうな。俺の馬鹿野郎。なんでちゃんと5時に起きなかったんだよ、マジで馬鹿。いや、でも言い訳させて欲しい。


 寒いんだよ、朝って。


 考えてもみてくれ。今はもう12月だ。なんなら、数日後には世のリア充たちがこれ幸いとイチャイチャしだし、良い子には赤服に白髭のお爺さんからプレゼントが送られる日である。年末まで後わずかなのだ。その季節の朝といえばそれはもう、死にそうなくらい寒い。


「あ〜も〜」


 冷え切った水道で顔を洗い、その冷たさに悲鳴を上げて目を覚ました後、特に意味もなく叫びながら朝食もといカロリーメイトを口の中に放り込む。パサパサする口の中にげんなりと顔を顰めるが、顔を洗う前に電子レンジに突っ込み温めておいた牛乳で、もろとも胃の中へと流し込んだ。


「げほっ、ゴホッ」


 あまりに勢いつけて流し込んだものだからちょっと咽せた。流石に「鼻から牛乳」とはならなかったが、喉が痛いし目も潤む。


「踏んだり蹴ったりかよ。クッソ〜」


 ゲホゴホ言いながら今度は歯を磨く。あぁ、やばい。もう45分だ。気づいた俺はいつもは割と丁寧にしている歯磨きを雑に終わらせると、昨日の夜にあらかじめ用意していた服に着替えた。寒さに弱い俺はこの時期になると靴下を2枚重ねて履く。もちろん今日もそうしたし、明日のバイトもそうするつもりである。だって寒いんだもん。


「よっし!」


 弁当のインゼリーとカロリーバーもカバンに入れた、水筒も持った。自転車のキーと電車の定期もカバンの中だ。間に合ったぁ、とホッとしながらチラリと置き時計を見る。


「うぇ⁈ やっば!」


 なんと5時55分。もう家を出なければ電車に間に合わない。バタバタとスリッパで玄関に向かい、冷えた靴に足を突っ込む。


「つめった!!」


 バイトには慣れてきたがこの冷たさには慣れない。むしろどうやったら慣れることができるのか。重ねた靴下も通り越し、靴の冷たさが体の中へと入りこんでくる。足が凍りそうだ。なんなら体ごと凍ってしまいそうだ。

 ガチャリ。靴よりもキンと冷えたノブに手をかけ一歩外へ踏み出す。


「うひゃぁ〜。さっむ〜」


 昼間とは違う景色と深い黒。やっぱりこの暗さはあまり慣れないし、好きにもなれないなぁ。びゅうびゅう吹く風から少しでも身を守るため背中の方に落とされているフードを被った。コロナとか言うクソみたいな感染症のせいで口元をマスクで覆っているせいもあり、側から見るとそれはもう不審者に見えることだろう。通報だけはしないでください。僕は善良な一般市民で単なる大学生です、なんて誰に向けたわけでもない言い訳を心の中で並べてみた。

 一人心中で茶番を繰り広げていると、いつのまにか駅の階段が目の前にあった。駅に着くとさすがにフードを下した。通報だけは本当に勘弁だから。今はいったい何時だろうか、と駅に設置されている大きな時計をすっと見上げる。針はぴったり12と6のところを指していた。


「よっしゃ、間に合った〜」


 なんだ、やるじゃん俺ぇ、と自分で自分を褒めながら長い長い階段を登り切り、改札の方へと向かう。人が少ない、と言うよりもほとんど誰もいない改札を通ると、いつも通り1番ホームへと降りていった。

 ちなみに俺がバイトには行く時にいつも利用しているこの駅は、ホームの数がたったの2つしかない。電車の乗り間違えとかしたらどうしよう、なんて杞憂だったのだ。上りと下り。これを間違えたらもう一生物の恥だろう。一応これでも来年で20歳なんだし。


「あぁ~、耳が痛ぇ~」


 無事降り立ったホームには俺を含め3人しか人がいない。朝の駅ってこんなにも寂しいのかぁ、鼻をスンと鳴らしながら考える。ちょっと前であれば駅の近くに咲いている金木犀のいい香りが鼻腔を擽っていたかもしれないが、あいにくと今は冬真っただ中。指先が真っ赤になって、耳がこんなにも痛むくらい寒いのなら、雪のひとつでも降ってくれればいいのに。


「まもなく一番ホームに電車が参ります。危ないですので、黄色い線の後ろ側でお待ちください」


 冬の神なんているのか知らないが「雪降らせてー」と軽い感じで神頼みをしていると、聞きなれたアナウンスが聞こえた。すりすりと両手をこすり合わせ微々たるものだが暖をとっていると、プァーンという音と共に、特徴的な色をした電車が向こうから走り寄ってきて目の前に止まった。

 今度はプシューと扉が開く。中から出てくる人はいないようだ。俺は早く温まりたい、とちょっと急ぎ足で電車の中に駆け込んだ。朝早い電車内は人が少ないかなと思っていたのだが、思っていたよりも人が多く結局はどこにも腰を下ろさずに、寒い風が出入りする入り口で棒立ちする羽目になってしまった。くそぅ、先週は座れたというのになんでだよ。


「まもなく発車いたします。閉まる扉にご注意ください」


 寒い、早く扉閉まれ、と心の中で喚いていると俺の声が届いたのかアナウンスと共に扉が閉じる。あぁ、これでやっと温まれる、車両の壁に体を預けて束の間の安寧に身を落とした。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと揺れる電車と適度な温もり。それから電車の外に広がる遠い黒。眠くならないはずもなく、俺はそっと瞼を下した。たった2駅、されど2駅だ。休息もとい睡眠は大事だぞ。



「お出口は右側~」


 アナウンスに起こされ、傾きつつあった姿勢からすっと背を正すとほっと溜息をついた。良かった、寝過ごしてはいないな、と。目的の駅まではあと1駅だ。もう一度寝よっかなと、マスクの下であくびを噛み殺しながらなにげなく窓の外を見やる。


「え」


 そこは、黄金色に焼けていた。


「なんだ、アレ」


 夜は、黒はどこへ行った?


 唖然と口を開け、焼けて色づいた空を眺める。体感で数分間。そこまで長く目を閉じていた訳ではないのに、何が起こったというのか。

 ふと反対側のことが気になりそちらの方に目をやった。


「は?」


 今度もまたそう声を上げる。


 そこは、確かに夜だった。先ほどまで俺が包まれていた、暗い黒い夜。


「なんでぇ……?」


 右の窓に見えるのは琥珀に輝く空。反対の左の窓に見えるのは深い海の底に煌めく空。え、ちょっと眠ってる間に異世界とかに来ちゃった感じ? などふざけたことを考えていたが、アナウンスの通り俺が降りるひとつ前の駅に止まると、扉から吹き込んできた冷たい風で頭も冷えた。


 あぁ、夜が明けたのか。


 寝ぼけた頭をフル回転させてそう結論付ける。その証拠に右手に見える空にはまん丸くて眩しい太陽が顔を見せていた。


「明けたんだな、もう」


 夜と朝の境目でポツリと呟く。囁くような小さな声。それでも、静かでうるさい車両内に響いた。俺の向かい側で立っているおじさんも、俺の声につられて窓の外に目を向けて左右の景色を見比べると「お、夜明けかぁ」とこぼしていた。

 右と左の違う顔をした空。それはまるで彼岸と此岸との境目のようで。


 今、俺は誰でもなくて。

 夜と朝の番人で、境目の守り人で。


 なんて、就学前の幼稚園児でもないのにキャッキャとはしゃぎ、ありもしない想像を膨らませてみる。多分、俺の目は遠くからこちらを覗いている太陽のように煌めいていることだろう。

 昔から「おい、死んだ魚の目」なんて呼ばれることがあるほど、俺の目はどんよりと曇っているらしいが。

 おい、俺をそう呼んだ奴らよ。今の俺を見てみろ。死んだ魚の目どころか、生かす太陽の目だぞ。威光の前にひれ伏すがいい。

 ……記憶の中の友人に「はっ」と鼻で笑われたような気がする。くそぅ。

 普段は目的の駅に着いてから閉じそうになる瞼を必死に押し上げ、早く春が来ないかなぁなんて思いながら窓の外に目をやる。だからだろうか。今日のような、なんというか、神秘的な光景を目にしたのは今回が初めてだったのだ。だから、子供よりも子供みたいにはしゃぐのも無理はないよなと、また誰にともなく言い訳を並べてみる。

 早起きは三文の徳とはよく言うが、なるほど確かにこれは「徳」だ。夏のうだるような暑さの中に見る夜明けとは違う、冬にしか見れない冷たくて澄んだ夜明け。語彙力のない俺には「キレイだ」としか言い表せないが、弁の立つ俺の友人なら、もっと長たらしい言葉でこの美しさを讃えるのだろう。


「お出口は右側~」


 そういえば友人は今大阪にいるんだっけ、元気にしてるかなぁと遠くの友人に思いをはせていると、またあのアナウンスが耳に届いた。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと電車の揺れに身を任せる。カーブで傾き、差し込んできた光に目を細めた。眩しいけど、痛くはない。温かくて緩やかなお日様の光。

 キキーッ。ちょっと耳障りな音と共に電車の揺れが止まる。目的の駅のホームに着いたのだ。

 乗り込んだ時と同じようにプシューと扉が開く。やっぱり冷たい風が流れ込んでくるが、仕方ないよなとその中へと飛び込んだ。途端、体に纏わりつく冷気に首をすくめてふぅと息を吐く。階段の方へと向かって行くと、また扉が閉まり俺を残して電車は去って行ってしまった。


「今日も1日頑張ろっと」


 静かな改札を通りすぎて駐輪所へと向かいながらそう決意を新たに歩を進める。

 明日も、その次のバイトの日も、今日のこの景色に浸ろうとちょっと浮かれながら。俺しか知らない景色を独りいじめしてやろうと悪く笑って。

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