もしもシリーズ
もしも稲葉杏果が無表情&寡黙だったら?
歌声喫茶“ひかり”の経営者の孫娘、
杏果は兎に角聰明である。普段から祖父母に代わって歌声喫茶の仕事をしたり、会員達の用事を聞いたりする事等からそれが見て取れる。事実、今もとある老婦人が杏果に頭を下げていた。
「本当に有難うね、杏果ちゃん。自分でも全く気付かなかったのよ。うちには同じ物がいっぱい有るから違和感が無くて……」
「御安い御用です」
会員であるこの老婦人は、以前来た時に入れ歯洗浄剤の箱を忘れて帰っていた。しかも、杏果が届けに来るまでその事を知らずにいた。
「杏果ちゃん、この前は庭の草むしり手伝ってくれて有難う。あの時、何の御礼もせずに帰らせてしまって申し訳無い。これ、安く買えたからあの時の御礼にどうぞ」
歌声喫茶の向かいの家に住む老人は、以前杏果が欲しいと言っていた、トーストノートを4種類買ってきていた。
「有難う御座います。」
目玉焼き・ピザ・苺ジャム・バターの4種類が全部揃っている事を確認すると、杏果は丁寧に一礼した。
常にこの様な調子なので、杏果は老若男女・国籍を問わず会員達のアイドル的存在であった。
これだけ聞くと、杏果は常に表情が豊かで、愛らしい笑顔を浮かべていると認識されても可笑しくない。しかし、実際は正反対だった。結論から言うと、杏果は喜怒哀楽が微塵も無い。流石に、のっぺらぼうとまでは言わないが、兎に角感情が一切読み取れないのだ。祖父母である
「英子さん、あの子何時もちっとも笑わないけど、原因に心当たり有りませんか?」
隣町から通っている会員の質問に、英子は困惑した。
「家族を三人、目の前で喪った事が関係有るとは思うのですが、如何せん証拠が何も無いんです。本人が話してくれるのが一番良いですが、そう簡単にはいかないでしょうね」
「確かに。無理矢理抉じ開けて、真実を聞き出せたとしても、それと引換に、永久に心を閉ざすと考えられます。それだけなら未だ良いです。場合によっては、口をきいて貰えなくなるばかりか、姿を見せる事さえも無くなるでしょう。それは絶対に有ってはならない事です」
杏果は子供なので、大人と比べ行動から感情を読み取るのは然程難しい事ではなかった。だが、それとて外れる時が無い訳ではない。本来の感情を隠す為、意図的に真逆の行動を取る事も有った。
杏果にはもう一つ、同年代の子供達と大きく違う要素が有った。結論から言うと、非常に口数が少ないのだ。先程、前から欲しがっていた物を会員から貰った時、御礼を言えた上、45°の最敬礼も正しく出来た。だから、通常であればイチャモンをつける余地など何処にも無い。だが、余りにも寡黙過ぎるので、これまた会員達にとっては心配の種であった。勿論、子供=口数が多いとは限らない。それは会員達も理解している。しかしながら、杏果の場合、何を言っているかは100%正確に理解出来るものの、最小限の言葉しか出さない。だから、会員達の中には“もしかして、自分には余り心を開いてないのだろうか”と気にする者も何人か居た。事実、とある中国人の会員、
「杏果チャン、コノ前親戚ガ北海道ニ行ッテネ、御土産ヲ山程クレタンダ。ダケド、到底一人ジャ使イ切レナイ程ダッタ。ダカラ、コレアゲル」
「有難う御座います…前から欲しかったんです……」
山の様な土産物の中に、内地では手に入らない、本物そっくりな北狐の縫いぐるみが有った。ほんの僅かに目を見開いた上、言葉も普段よりは少し多かった。だが、それだけだった。他は普段と全く変わらなかった。この日の会が終わった後、寛司は朱悠然から相談を受けた。
「杏果チャンガ好キナ物ヲ知ッテイタノデ贈ッタンデスガ、確カニキチント御礼ヲ言ッテクレマシタ。デスガ、表情ハコレッポッチモ嬉シソウニハ見エマセン。モシカシテ、私ハ何カ杏果チャンノ気ニ障ル事ヲシテシマッタノデショウカ。正直、心当タリハ全ク有リマセンガ、モシ何カ仕出カシタノデアレバ、誠心誠意謝リマス」
こう云った相談は今日が初めてではなかった。少なくとも、小学校に入学して以降は決して喜怒哀楽を見せなかった。それは、家族の前でも例外ではなかった。
「気がつくと杏果はあの様になっていましてね。土産物を受け取った後の歩き方は覚えていますか?」
「普段ヨリモ速カッタ様ニ見エマシタ」
「と云う事は、余程嬉しいって事ですね。間違い無いです。杏果は機嫌が良いか悪いかで歩き方が変わるんです。序に言うと、機嫌が相当悪いと、筆談になるんですよ」
本当の心理の読み方を教わり、朱悠然は漸く安堵した。それでも、叶うなら杏果の笑った顔を是非見たいと云う考え方には変わり無かった。
だが、杏果の能面ライフは或る日突然、誰も予想だにしない形で著しく激変した。創業初日から通い続けている古参会員、
「初めまして。僕は田中明照です」
目線を合わせて挨拶する明照と目を合わせた数秒後、杏果は何故か簡単に心を開いた。そこから後の行動は一瞬だった。スペインの闘牛の如く突っ走ったと思うと、子守熊の様にしがみ付き、明照の唇を奪った。呆気に取られ、言葉を失った明照に杏果は、普段なら決して口にしない事を告げた。
「田中明照君と言ったね。新婚旅行、何処に行く?」
「え、あ、その、しん、新婚旅行?……」
全く想定していなかった事を言われて、明照は頭がオーバーヒートした。一方、寛司と英子は孫娘の予期せぬ行動に呆然とした。しかし、一方では、喜ばしいとも考えていた。
「明照君がそんなに気に入ったのか。素晴らしい」
「いきなりチューしたのは流石に驚いたわ。だけど、誰にも取られたくないって事なら納得ね」
この日を境に、杏果は激変した。確かに、無表情と寡黙はそのままだった。しかし、行動から感情を読み取るのが以前と比べ、遥かに簡単になった。事実、とあるブラジル人会員、パウロが御菓子を贈った際、それが見て取れた。
「杏果チャン、コノ前ウチノ娘ト遊ンデクレテ有難ウ。マタ会イタイト言ッテタヨ。コレ、御礼ニドウゾ」
「有難う御座います…家族で頂きます……」
マスカット味の黍団子を貰った杏果は精密に最敬礼すると、軽い足取りで奥へと消えた。相変わらずちっとも笑わなかったが、相当嬉しいのは誰の目にも明らかだった。だが、この程度の事は序ノ口でしかない。明照が来ると、一切隠す事無く好意を示した。
「明照君、いらっしゃい。さぁ、こっちへ」
適当な所へ手を引いて案内し、座らせたと思うと膝の上に乗っかるのが日常茶飯事になった。
「杏果ちゃん、そんなに僕と一緒に居たい? 演技でも気遣いでもなく?本心?」
「本心。明照君が大好きだから…」
少なくとも、日本人に限って言うと、大抵の人は中々素直に好意を伝えられない。だが、杏果は違った。眉一つ動かさず、大胆な行動で大好きを伝えていた。余りに積極的な態度の理由を祖父母が尋ねると、杏果はこう答えた。
「1000の言葉なんかより、1回チューした方が余程分かり易いから。身を以て伝えられた大好きが嘘である訳ないんだよ」
バイカル湖の様に澄み切った目で見られながら言われると、反駁する事自体が実にナンセンス極まりない気がしてならなかった。
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