弐 リーダーシップ

 もと幼稚園ではこの日、卒園式が行われていた。会場となった体育館は園児・教員・保護者等で埋まっていた。卒園児代表として、稲葉杏果は1歩前に出ると“Believeビリーヴ”のソロパートを司り、皆を統帥した。遠くまでよく届く上、一際可愛い声なので、他の園児達の声に紛れ込んでも杏果の声だけは間違えなかった。



 明照の家の空き部屋を整理して設けた杏果の部屋で、2人は卒園式の日の映像を見ていた。

「 この時から既にリーダーシップを発揮していたんだね」

「そうなんだよ。だから小学校に入った時も、新入生を代表して演説したって訳」

明照は、自分が持っていない物を持つ杏果を相変わらず羨んでいた。同時に、自分がそんな子のボーイフレンドになって本当に良いのか未だ分からずにいた。そんな考えを知ってか知らずか、映像が終わり、DVDを元の箱に戻した杏果は、明照の膝の上で対面座位になった。

「明照君、もしかして、リーダーシップを取るべきなのは男の子でないと駄目だと本気で信じている?」

またも鋭い所を突かれた。もしかすると心の何処かでそんな愚かな事を考えているかも知れない。そんな気がした。

「まさか! そんな馬鹿な事有る訳ないよ。本当に有能なら、男の子でも女の子でも大歓迎だよ」

「うんうん。そうだよね。信じないかも知れないけど、卒園式の合唱のソロパート、本当は別の男の子がやる予定だったんだよね」

全く予想していなかった事実を聞いて、明照は思わず前のめりになりそうになった。

「杏果ちゃん、その話、是非とも詳しく聞きたいな。良いかな?」

「勿論だよ」

杏果が話し始めたのは、実に情けない内容だった。



 卒園する1年前、合唱曲“Believe”の最初のソロパートの事で大いに困り果てた。ソロパートを司る卒園児代表は毎年ランダムに選ばれるのだがこの年は杏果の居る白百合組が選ばれた。そうして最終的に白羽の矢が立ったのは福田博夫だった。ところが、いざやらせてみると音程もリズム感も滅茶苦茶だった。それに加えて、終始一貫苦しそうな表情をしていた。白百合組の担任、赤城あかぎ莉奈りなは頭を抱えた。

「選び方自体に問題が有るのかも」

 ピアノを担当する園児、桃山ももやまあいは円らな瞳で莉奈の顔を凝視した。

「先生、他に誰か居ないか聞いてみようよ」

今の莉奈にとってはどんなアイデアも地獄で会った仏だった。

「そうだね。そうしようか。誰かソロパートやりたい子、居る? 居たら前に出てきてね」

すると、意外にも3人が手を挙げた。杏果の他に角田つのだ勝之かつゆき山口やまぐち光夫みつおが名乗りを上げた。

「杏果ちゃん、卒園児代表っていうのは、男の子がやるものだよ」

前例の無い事態に、莉奈は古い慣習に囚われた発想しか出てこなかった。しかし、こんな時でも杏果は毅然としていた。

「先生、本当に大事なのは実力じゃないんですか?」

痛い所を突かれ、莉奈は放電している最中の電気鰻に触った様な感触を覚えた。

「それは……」

「3人の中で誰が一番上手か、皆に聴いてもらいましょう。園長先生や芳子よしこ先生にも聞いて貰えば誰もズルは出来ないです」

莉奈は慌てふためいた。何で自分より園児の方がしっかりしているんだ。情けなさを覚えながらも、莉奈は頷いた。

「分かった。じゃあ、そうしようか。その代わり、これで負けても泣いたり喧嘩したりは無しだからね」

気は進まなかったが、莉奈は園長の西郷さいごう光枝みつえと、主任の礒﨑いそざき芳子よしこを呼びに行く為、重い腰を上げた。


 職員室に入り、莉奈は事情を説明した。絶対怒られると思った莉奈の耳に入ったのは、思わぬ言葉だった。

「まぁ面白そう。是非見物させて下さいな」

「そうね。こんな機会滅多に無いでしょう」

意外にも、園長と主任は目を見開き、鼻息を荒くした。

「そ、それは有難う御座います。では参りましょう」

こうして審判は全員揃った。


 園長と主任が入った時、黒板の端には阿弥陀籤が有った。それを見て、莉奈は、自分が不在の間に何が有ったか把握した。

「先生が居ない間に順番を決めたんだね。これ、誰のアイデア?」

「はーい」

元気良く手を挙げ答える杏果は、先刻見た、矢鱈頭の回転が早い超級園児と同一人物には一瞬見えなかった。

「良いね。えぇと順番は…分かった。園長先生、主任、録音もしくは撮影は必要ですか?」

事が事なので後で間違いの無い様にしようと莉奈は考えた。

「そうね、折角だし撮らせて貰います」

「なら私も」

撮影の準備が終わったので、先ずは坊主頭の男児、山口光夫が歌った。いざ聴いてみると表情と音程はまともだったが、野球の応援の様に大声でがなり立てているのと変わらなかった。山口光夫の失格は、15秒も経たず満場一致で可決した。続いて、角田勝之の番が来た。今度は、声量は適切だったがアクセントが狂っていたり、歌詞を忘れたり順番を間違えたりと、別の意味で無茶苦茶だった。今度は少し時間が掛かり、20秒で失格が確定した。


 遂に杏果の番が来た。普段からリーダーシップを発揮している事を園児達はよく知っていた。だから誰もが期待の目で見ていた。果たしてそれは正しかった。声量・アクセント・表現力・表情等、全てに於いて教員の予想を凌駕していた。園長に至っては、歴代最高の歌唱力ではないかとさえ考えた。撮影を終えた後、園長と主任は思わずスタオベをした。これを見て、園児達もつられて同じ事をした。只1人、莉奈だけは呆然としていた。これは夢か幻か。否、手の甲を抓ってみたら確かに痛かった。だから決して夢などではない。莉奈は前に出ると、園児達に尋ねた。

「他に誰かやりたい子は居る?」

 また誰か手を挙げるだろうと思っていたが、園児達の反応は違った。

「杏果ちゃんにやって欲しいー!」

「こんなに凄いんだもん」

「杏果ちゃん、御願い!」

異口同音に園児達が称賛の声を上げるのを聞き、莉奈は漸く観念した。

「皆、御免なさい。正直に言うね。先生はずっと間違ってました。卒園児代表は必ず男の子がやらなきゃいけないと思ってた。だけど、杏果ちゃんの歌を聴いて、よく分かったんだ。相応しいのは、杏果ちゃんの様に歌が上手で、やりたいって気持ちがいっぱい有る子なんだね」

この言葉を聞き、主任は目線を向け、発言を申し出た。

「莉奈先生、卒園児代表は必ず男の子だなんて、誰から言われたの? そんな大嘘を吹き込んだ人は見過ごす訳にいかないから」

「え、いや、あの……そういうものじゃないんですか?」

全く以て頓珍漢な発言に、主任は呆れ果てた。今時こんな反動的な事を言うと世界中の笑い者になるのに。何故知らないのか。叱りつけようとする主任を宥め、園長は古い写真を見せた。

「昭和44年、この幼稚園の歴史が始まった年です。ここの卒園児代表第1号は女の子ですよ」

莉奈と園児は勿論、主任ですらこの事は全く知らなかった。

「とても大事な御話をしたいので、御時間頂きますね」

「あ、はい、どうぞ」

園長は莉奈の許可を得てから皆の前に立った。

「皆さん、よく聴いて下さい。卒園児代表に限らず、何かのトップに立つのは必ず男の子でなくてはならないなんて、そんな事は決して有りません。実際、私は園長という、この幼稚園のトップに立っています。皆のリーダーになるべき人というのは、男だから女だから、若いから年を取っているから、そんなのは何も関係有りません。どれ程やるべき事が上手に出来るかが重要です。今回の場合は、どれ程上手に歌えるかが鍵ですね。それに加えて、皆に気を配れることも大事です。これが出来なければ、只の御山の大将でしかありませんよ。人に何かをやれと命令するだけなら誰でも出来ます。本当に重要なのは、その先ですよ。稲葉杏果ちゃん、卒園児代表への就任、おめでとう御座います。最後にして最大の凄い役目、あなたなら絶対大成功します」

講話の最後に自分が呼ばれ、杏果は慌てて立ち上がると前に出た。

「私を応援してくれた皆、有難う御座います。必ずやり遂げます」

万雷の拍手を送られ、杏果は会心の笑みを浮かべた。


 尚、莉奈は園児達が全員帰った後、園長と主任から徹底した思想教育を受けた。



「…とまぁこんな具合」

「杏果ちゃんも凄いけど、園長先生は輪をかけて凄いね」

後ろから杏果に背中を撫でられながら、明照は只々感服していた。

「今のあたしがこうなったのは、ママの方のおじいちゃんとおばあちゃん、それから、園長先生の御蔭だよ。あたしは心から尊敬するね」

「分かる。僕が杏果ちゃんの立場でも絶対そうしてた」

杏果が膝の上に座ったので今度は明照が背中を撫でた。

「園長先生ね、あたしが事故に遭った次の日、病院へ御見舞にいらっしゃったんだよ。卒園式はもう終わったけど“人を心配するのにそんなの関係有りません”って。家族に愛されてなかったと知ったあたしを親身になって支えて下さったからこうして今も元気でいられるんだよ」

「そんなに凄い先生なら、是非僕も会ってみたいな」

何気無く口にした言葉を杏果は聞き逃さなかった。

「良いよ。連絡先と家は知っているし」

「え、いや、急ぎじゃなくて良いよ」

慌てて引き止めたので、アポはまた後日という事になった。



 小学校の入学式の日の映像を見終わった後、明照は不意に何やら閃いた。

「今気付いたんだけど“Believe”ってもし短調なら如何なるのかな」

 自分ですら一度も思いつかなかったアイデアに杏果は目を輝かせた。

「よくそんな面白いアイデア閃いたね! 一緒に歌ってみようか」

早速歌ってみたところ、何とも怖い曲に変貌した。身震いをした2人だったが、直後、今度は杏果が何やら閃いた。

「確かに怖いことは怖いけど、結局それだけなんだよね。長調と短調を混ぜる方がローラーコースターみたいで面白いかも」

「成る程。それは気付かなかった。やってみる価値は十分有るね」

また歌ってみたところ、確かに全編短調より却って恐怖度が上がった。

「何時奈落の底へ蹴落とされるか分からないから怖いね」

「本当。全部短調なら最初からそうと分かっているし、あたしでも耐えられるよ。だけど、これは色々な意味で洒落にならないよ。そうだ、今度は長調のパートと短調のパート入れ替えてみようか」

こうして行われた3度目の企画も“怖い”という結論が出た。そして最終的に2人は同じ意見に辿り着いた。

「「結局のところ、何時もの明るいメロディが一番だね」」

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