硝子の靴を、君に






―もうすぐ春が近づく頃。




「いってきまーす。」





長閑(のどか)な田園風景が広がる畦道を、駿が自転車に乗って走っていく。





「気をつけてねー!」





沙耶は玄関のドアに寄っかかりながら、その背中を見送った。





「さぁ…て。私も行かなくちゃ。」





ふ、と小さく息を吐き、エプロンの紐を解きながら家の中に入る。






「…遮光式…諦めるか。」





アパートで使っていたレースのみのカーテンが目に入り、沙耶は思わず呟いて、くすりと笑った。




暑い夏も、寒い冬も乗り越えられたから。





「えっと…鞄、とお弁当…っと。」





そして、直ぐに自分の荷物を手にとって、玄関を出ると鍵を閉めた。





「いってきます。」





誰にでもなく挨拶して、自転車に跨る。




今度の借家は平屋で、山に囲まれている。





一番近いお隣さんは100m先だ。




都心のがやがやとした喧騒から離れて、引っ越してきた場所は、田舎だが大きな総合病院がある。




空気の綺麗な環境を母も気に入ってくれ、沙耶も一安心だった。



ただ。



ここに来るに際し、一番気がかりだったのは駿。



転校の話を出したら、絶対に反対するだろうと予想していたのだが、実際は異なっていた。






―『いいよ。俺はどこでも。』




それだけ言うと、押し黙ってしまった駿。



思う所は沢山あったに違いないと思う。



けれど、何も言わずに沙耶の言う通りにしてくれた。



この後に及んで、秋元家の言いなりになるなんて事。



駿にさせたくはなかったけれど。








「さむ…」




沙耶は自転車を漕ぎながら、まだ冷たい風に身を縮こませた。








「おはようございますっ」





40分自転車を走らせた所にある売店に着くと、沙耶は自転車を降りて店主に挨拶する。





「あぁ、おはよう沙耶ちゃん。来て貰って直ぐで悪いけど、トラックに載せてある野菜、中に運んでもらえる?」





「はい!」






今回沙耶の勤め先は道の駅で、主に農産物を売る手伝いをしている。



今日は週一で行われる朝市の日で、いつもより沢山の集客が見込まれる為、品数も通常より増える。





「よし!腕の見せ所ね、燃えるわー!」




トラックの荷台に積まれているダンボールを前に、沙耶は早速作業に取り掛かった。





田舎な為に時給は低いが、家賃も低いし、ご近所さんが沢山野菜をくれるため、そこらへんで帳尻を合わせ、なんとかやりくりしている。



車がないときつい地域だが、自転車と2時間に一本のバスでどうにか凌いでいる。






「―?」





店内に野菜を運び入れていると、ふと香る知った匂いにはたとなった。




『それ』がどこにあるのか、と見回し。




必然的に、胸がぎゅっと締め付けられた。





「今日入ってきたの。ハウス栽培の百合。」





その様子を見ていた店主が、きれいでしょ?と笑って店先を指差す。





花の香りは、嫌だなと思う。




どんなに考えないようにしていても、その香りで無意識に記憶を遡ろうとする。









「本当に、綺麗ですね。」







沙耶はかろうじてにこりと笑んで見せてから、目を背けた。







振り払わなければ浮かんできてしまいそうな痛みから、少しでも逃れたかった。





思いが言葉にならないよう、目の前の作業に集中する。









「沙耶ちゃん、休憩しようか?」






朝の忙しい時間帯を抜けると、一旦店は落ち着く。





「あ、はーい。ありがとうございます、今行きます。」





店頭で空になったブースの片付けをしていた沙耶は、声を掛けられて、立ち上がった。




沙耶の事を孫のように可愛がってくれているこの店の女主人は、いつも軽食を準備してくれている。




今日のおにぎりの具はなんだろうと予想しながら、店に入ろうとすると。





「すいません」




「はい?」




背後から男の声に呼び止められ、振り返った。




見ると、びしっとスーツを着こなして、田舎には不釣合いな香水の香りを漂わせた男が立っている。






「―なんですか?」





思いっきり不信感を露わにして睨みつければ、男は苦笑しながら口を開いた。





「突然すみません。こちらに、秋元沙耶さんという方がいらっしゃると聞いて、伺ったのですが…」





―誰だよ、こいつ。




自分の名前を出されて、更に警戒心が募った沙耶は、自分の記憶の中にこんな男がいたかどうか探ってみるが、一瞬で知らないという結論に達する。





「私ですけど…、なんか用ですか?」





いざとなったら戦おうと戦闘態勢に入りつつ、沙耶が訊き返せば、男はあからさまに安堵の息を吐いて、胸ポケットから名刺を取り出した。





「良かった。すごい捜したんですよ。連絡が取れないし、中々見つからなくて…」






電波のないここら辺の地域では携帯は無意味だ。



こっちに来て直ぐに解約してしまって、必要な時は隣の家に電話を借りに行くという、いつの時代だとつっこまれるような状況。



連絡がつかないのも当たり前だった。







「―実は私こういうものでして」







差し出された名刺の、弁護士という文字だけが、最初に沙耶の目に飛び込んでくる。






「この度、秋元財閥の顧問弁護士になりました、廣井です。」





―は?秋元家?顧問…?




そんなものがどうしてここに。




名刺を受け取った沙耶の目が点になる。





「この度、秋元財閥の権利が、全て貴女に移行しましたので、手続きをお願いしたく―」




「え?」





沙耶は自分の耳を疑った。






「すいません、もう一度お願いできますか?何が、、どうなったって…」





動揺する沙耶に、廣井はにべもなく答える。





「貴女が、秋元財閥の当主になりましたので、手続きを行っていただけますか?」








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数ヶ月前に来た時には、入ることすら、許されなかった門。




その門を、沙耶は今、一人で見上げていた。




幼い頃から一度も持たせてもらえたことのない鍵。



それを持つ手が、微かに震えている。








―『どういうことですか』






差込口に鍵を差しながら、沙耶は廣井との会話を思い返していた。






『少し前になりますが石垣グループが、秋元財閥に対して敵対的TOBを仕掛けたんです。これによって経営陣を根こそぎ追い出して、何をするのかと思ったら―秋元家の長男の娘に当たる貴女に、全権を譲ると、こういう訳です。』







懐かしいが、苦い思い出の家は、誰も居ないらしく、ひっそりとしている。





沙耶はゆっくり、中へ足を踏み入れた。





夢でも見ているかのような気持ちで、父と母と駿と、4人で暮らした頃に思いを馳せる。




最初は、庭を歩く。




次に、自分達が幼い頃に過ごした場所を。




それから、一度も入ったことのない、本家の中枢部分。




さすがに、気が引けて、トクントクンと速さを増す心音に、逆らうことができない。





遠くから数回見たことのある玄関。




恐る恐る引き戸を開ければ、カラカラと音が鳴る。





「こんな風になってたんだ…」





石垣の屋敷に比べたら、象と蟻のような違いだが、立派な材木をふんだんに使用した建物は、それなりの価値があると言えよう。




財産となるような家具はそのままにされてあるらしく、人影がないのが逆に不自然に感じた。





時折、床が軋む音だけが響く。





そして。





―この奥が部屋の中心かな。





そう考えながら、広間に出ると―。






「……っ…」





声すら、出なかった。




なのに。




涙が一気に身体を駆け上って。




その反対に、立つ力が抜けてしまって。





沙耶はへなへなとその場に座り込んだ。





ぼやけてしまった視線の先には。







トルソー。







それに、着せられた。







皺一つ、傷一つ、ない。






父からの、濃紺のワンピース。






誰も居ない部屋に。




聞こえるのは、嗚咽だけ。




床にぽたぽたぽたと付く涙の痕。





重なっては、弾かれる。









「よかっ……」





震える指先で、感触を確かめるように裾に触れた。





「!」





そうして気付くのは、仄かな紅茶の香り。







―もしかして。






よろよろと立ち上がると、沙耶は辺りを見回す。





そして、走り出した。






―もしかして。






靴を履くのもまどろっこしくなって、裸足で玄関を飛び出し、向かった先は、裏の竹林。




あの頃、自分が良く泣いていた道。




約束の場所。






そこに、見える人影は―。








「石垣っ!!!!」







大声で呼ぶと、その場に佇んでいた石垣が弾かれたように振り返った。





「っはぁっ……」





全速力で走ったせいで、肩で息をしながら、石垣の傍まで行くと、沙耶は立ち止まる。








二人の間を、風が抜けていった。







「ごめん、不法侵入。」




黒いコートのポケットに手を突っ込んで立ち尽くしていた石垣は、静かに笑った。





その笑い方が何とも言えず切なくて、沙耶の胸は苦しくなる。





「何て顔してんだよ。」





泣いてたら話せない、と思うのに、沙耶の涙は止まる気配がない。




石垣はそんな沙耶の涙を拭おうと手を伸ばしかけるが、直ぐに引っ込めた。






「…もう行くから。」






葉っぱが転がる音がする。


沙耶は待って、と言おうと口を開くが。





「笑えよ。」



「―?」




涙でいっぱいになった目を、沙耶は石垣に向ける。




石垣自身、泣きそうな顔をしていて。






「今直ぐじゃなくて良い。でも、大丈夫になったら、ちゃんと笑えよ。」





そう呟き、腕時計に目を落とすと、身を翻した。





―待って。





瞬間。





「!」





沙耶の手は、咄嗟に石垣のコートを掴んでいた。



石垣の動きが、止まる。






「―そ、そのままで…聞いて…」





沙耶は涙につっかえつっかえ、言葉を紡ぐ。










「私、、ずっと…支えられてきてた。あんたとの、、約束に。」





今まで石垣には言うことのできなかった、あの頃の事。


俯きながら話せば、涙がぽた、と落ちて、枯れ葉に当たる。





「でも、一緒に、、嫌な記憶も、た、沢山あって…思い出すのが辛くなって…」





いつしか。






「辛い時と結びついたものは…、奥に仕舞いこんで、忘れようとしたの…」






秋になって、思い出されるのは、幼いプロポーズの断片のみになっていた。



だが。






「なのに…あんたと会って、どんどん…勝手に出てくるようになって…」




石垣と過ごすようになってから。



何故か昔の記憶が度々沙耶の中に甦る。



同時に、痛みも甦った。






「だからっ……ごめ、、なさ…」





そこから逃げたくて。



石垣に、全てをぶつけた。





「あんたはちゃんと…覚えてたのに…」




痛かったのは、自分だけじゃなかった筈なのに。





「私はっ…」




どんなに地面ばかりだけしか見えなくても。



強くあろうと思っていた。



志だけは高く持とうと決めていた。





誰にも弱さを見せずに。



頼らずに。






だけど実際は。





「強くなんか、ないの…」





弱くて弱くて仕方ない。




昔の記憶を思い出すことすら、出来ないくらいに。






「だから、、逃げたの。だから、、」






認めることもできなかった。





「…もういい」




「―!」






打ち消しの言葉と共に、石垣は振り向き様に沙耶を強く抱き締めた。



小さな風を巻き込んで。






「もう、いいから。」








押し付けられた胸に、強く香るアールグレイの香り。




それがひどく涙腺を刺激する。








「…参ったな。これじゃ折角の決意が揺らぐ。」





再び泣き出した沙耶の身体に、石垣の声が、響く。






「沙耶。」






名前を呼ぶと、そっと肩を掴んで身体を離し、見つめた。






「もう一回だけ、答えて。」





そう言って、沙耶の肩から腕までをするりとなぞって手を掴み、石垣がその場に跪く。







栗色の色素の薄い髪は、サラサラと風に揺らされて。






ビー玉みたいな瞳は、澄んでいた。








あの時の男の子は今、同じ目で沙耶を見上げている。







違うのは、季節と、滾々(こんこん)と出てくる自分の涙の数々。











「沙耶」













今度は本当の名前を呼んで。









「俺が傍に居て、守るから―」








裸足のシンデレラの手が優しく引かれる。








「だから、」







その指先にキスが落ちた。










「俺のお嫁さんになって。」










―fin

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