はじまりにあったもの
@amano_kajimura
はじまりにあったもの
〈―数百年前、地球面積の大部分は不毛の土地となった。産業革命期より気温は五度上昇し、生態系は破壊された。作物は育たず伝染病が蔓延するなかで、人間の居住可能地域はいちじるしく限定される。気の遠くなるほどの長い争いの期間を経て、人類は限られた資源を再利用しながら、最小限の生をまっとうすることだけを唯一の業とすることに決めた。その失われた命への終わりなき贖罪をかなえる場所こそ、ここ《集中管理居住空間(セントラル)》である。〉
「はい、ミコト。今日の授業はここまでです。大事な箇所ですから、よく復習しておくように。」
教師プログラムの〈サイラス〉が授業の終わりを告げると、ミコトの頭からヘッドマウントディスプレイが外され、椅子の背面がゆっくりと起こされた。ミコトはサイラスの言いつけにうなずかなかった。これはなにも、彼女が教師に歯向かう素行不良な生徒というわけではない。彼女はうなずく必要がないのだ。この場合、ミコトの選択は唯一復習することだけであって、それ以外の選択を彼女はそもそも思いつかない。サイラスや他の人工知能が指示するプログラムに沿って行動をする。彼女はずっとそうして生きてきた。
部屋の照明がともり、天井に取り付けられたスピーカーからジャズピアノが流れ始めた。
ミコトは目を開いた。四方をコンクリートで囲われた部屋には、黒のリクライニングチェアとベンジャミンの鉢が一つずつ。人工皮革の張られた椅子は、骨や筋肉に負担をかけない滑らかな曲線で、体系に合わせて形状が変化する素材がクッション部分にあしらわれている。ミコトはその上でほぼ一日を過ごす。照明がつけば目覚め、照明が消えれば眠りにつくという生活だ。
パシュッという音とともに、壁に取り付けられた配膳窓が開いた。コンベアを伝って昼食が届けられると、椅子から飛び出した電動アームがトレーをつかみ、汁物を一つもこぼさずに折り畳み式テーブルの上にそっと置いた。ミコトは無表情で並べられたものを確認する。昨日と同じと思われた膳に変化があった。腕に盛られた粥、茶色の塩味スープ、霜降りの硬いキューブと緑のペーストの盛り合わせ、合成樹脂のカラトリーがあるところまでは同じ。
「ねぇユージ、歯ブラシは?」
ミコトが問いかけると、スピーカーから陽気な声が聞こえてきた。
「昨夜のアップデートにより、歯磨きは私が行うことになりました。ミコトさんは食事がお済みになりましたら、口を開けておいてくださるだけで結構です。あとは、わたくしにお任せください!」
ミコトが食事を終えたのを見計らって、アームがトレーをコンベアに戻した。空になった食器たちが壁に吸い込まれていく様子をミコトは眺めていた。とうとう歯磨きまでプログラムに置き換わってしまったのか。ユージに言われた通りに口を開けていると、歯ブラシ付きのアームが伸びてきて歯を磨かれる。汚れと唾液がバキュームで吸われ、何の効果があるのか分からない光を照射され、酸味のある液体でコーティングされて終了する。
「所要時間は二〇%カットされたのに対し、虫歯のリスクは一〇%も軽減できるのですよ!」
つるつるに磨かれた歯を舌でなぞりながら、誇らしげに説明するユージの声に耳を傾けた。生活の中の動作がどんどん再構成されていく。ミコトはペンを握ったことがなかった。記録をする必要がないからだ。分からないことはサイラスに聞けば済む。というより、記憶した知識を使って何か行動を起こすということがない。すべての行動はプログラムによって制御されている。ミコトは手のひらを見つめた。次第にお箸も持たなくなるかもしれない。選択の幅が極端に少ないことと引き換えに、リスクとコストが極限まで抑えられているという。
ミコトは正面のスクリーンを眺めた。着信を示すグリーンのマークが点滅している。この電話は出てよいのだっけとミコトは戸惑ったが、これくらいは私が決めてもよいのだったと思い直し、〈応答〉とつぶやいた。
「こんにちは。ミコト。調子はどう?」
スクリーン上の沙耶がほほ笑みかける。今年高校に入学したミコトと沙耶はクラスが一緒で、一度も会ったことはないが、一応、同級生ということになっている。こうして昼食後、次の授業までの間おしゃべりをするという間柄だ。休憩時間に同年代の同性と話すことは、思春期の健康的な生育を促進する上で不可欠であるという見解から、このような機会が持たれている。
「いつもと変わらない。歯が少しつるつるなだけ。」
「それは結構なことよ。変わらないことを追い求めることはとても大事。でもそれだけじゃつまらないじゃない? そんなとき日常のささいな変化は、生活に張り合いと潤いを与えてくれるというものだわ。ふふ。…あ、そうそう、学習進捗の共有よね。私の方はテキストの三七八〇行まで進んだわ。この分まで行けば、あと五回程度で終えられそうだって。」
「私は三七四二行目。やや遅れているけど、取り戻せないほどではないね。」
すると沙耶は唐突にくすりと笑った。
「ねぇ、ミコト。あなた歯がつるつるなこと以外に、変わっていることが一つあるわよ。もしかして、気づいていないのかしら?」沙耶はスクリーンからミコトを指さした。
「なんてすてきな髪飾りなの。白い石のように見える。私の提供品にはなかったものだわ。」
沙耶は両手を口元で合わせて目を輝かせる。ミコトは髪飾りをつけた記憶などなく、沙耶の言葉の意味がよく分からなかった。〈ミラー〉とつぶやくと、鏡面素材のアームが顔の前に現れた。鏡を久しぶりに見た。鏡に写っているのは、十代の女性。顎のラインで髪を切りそろえて、肌は白く、うっすらと頬にそばかすがある。目の色は青みがかったグレー。確か虹彩をよく見れば、茶色の細かな線があったはず。誰だこれ。ミコトは私だよと、自分に言い聞かせた。こめかみの横に視線を動かすと、確かに髪飾りがついていた。白い石のビーズが土台の布地に沿って、丁寧に縫い付けられている。ミコトは髪飾りを取る方法が分からなかったので、髪もろとも引っ張って外した。手のひらに置いて眺めてみると、石に光沢はなく、まるで光を吸い込んでいるかのような静かなたたずまいだった。ミコトは石を人差し指でなぞってみた。小さな石たちの丸みは、ミコトの皮膚にでこぼことした感触をもたらした。
「これは石なのかな?」
沙耶の指示に従って持ち上げると、スクリーン上に画像解析の結果が表示された。石の拡大写真の横に、『リバーストーン(別名:大理石)石灰岩が変成作用を受けてできた粗粒の方解石、ドロマイトなどの岩石のこと。』という概要が表示され、その下の個別評価の欄に、さらにこう書かれていた。〈肌なじみの良いベージュの美しい色合い。艶消し加工済。〉
誰かが加工したものだということ? いったい誰が。それになぜ自分がこの飾りをつけているのか、ミコトには皆目分からなかった。似合っているわよと、沙耶は変わらずほほ笑んでいるばかり。結局、寝ている間にユージがつけてくれたのだろうと結論づけて、沙耶との通信を終えた。
午後の授業のあとには、運動の時間がある。壁に収納されていたランニングマシンが扉の開閉とともに現れると、アームはミコトの身に着けている制服の前開きのファスナーを下ろした。制服の中に来ていた下着は、ランニングウエアとしての機能を果たす。マシンに取り付けられている画面には、並木道が映し出されていた。
ミコトは走りながら髪飾りのことを考えた。髪飾りを作るための大理石は、この都市には存在しないと思う。それに、あれはフェイクではない気がする。たぶん。だからきっと誰かが造ったものだと思う。ミコトは背後のユージの視線―正確には室内に取り付けられている監視用カメラのこと―が気になった。このセントラルは強権的な管理は行われていない。平均的な暮らしに満足感を覚える住人は、管理者に歯向うことをしない。だから髪飾りくらいで何か目を付けられることはまずないだろう。ユージ、あなたがつけてくれたのでしょう。そう尋ねれば胸のつかえが取れるはずなのに、それができなかった。違うと答えられた時に何が待っているのか、分からなかったからだ。
トレーニングコースを走り終えて、ミコトはシャワールームに向かった。汗だけは洗い流さなければいけないなんて面倒だ。新陳代謝は生きていることの証拠。身体の細胞の半分が死んでいくとき、もう半分は生まれ変わっている。生物の授業で習った知識。でもなぜ新陳代謝をするのか分からなかった。なるべく効率よく限られた資源を使う。エネルギーを再利用して、また同じ生活を繰り返す。その円環を永続させることだけが人類に残された唯一の選択肢なら、なるべく新陳代謝をせずに、短い期間で生を終えるべきなのではないか。
一定時間がたつと水が止まり、温風が浴室の両脇から吹き付けてきた。身体についた水滴を飛ばしきると、保湿液と抗菌用のボディパウダーが全身に塗られた。ブザーが鳴り、シャワールームの扉が開く。裸のまま部屋に戻り、アームの補助を得て服を着る。服、着る必要あるのかな? スカートの裾を見るために何気なく下を向くと、頬に何かが当たる感触がした。耳から何か硬いものがぶら下がっている…? ミラー。アームの動きが止まらないうちに、ミコトは鏡をのぞき込んだ。息を飲む音が部屋に響く。ミコトの耳では、大理石でできた耳飾りがゆらゆらと優雅に揺れていたのだ。
「こんなことって…。」
おかしいと思った。私の意識ははっきりとしている。シャワーをしている間、誰も私に触れていない。ミコトの心臓が早鐘を打ち始めた。
何度も自分の行動を順序立てて思い出していると、シャワールームの方から、コトンと何かが落ちる音がした。びくりとして振り返るとまた音がする。コトン。コトン。ミコトはシャワールームに引き返した。耳にぶら下がっている大理石と同じくらいの粒が三つ、床に転がっていた。コトン。今度は玄関の方で音がした。廊下に出てみると、暗がりの中で大理石の白さが際立っていた。コトン。廊下の先で音がしている。かすかに聞こえる音に向かってミコトは歩いていく。廊下の先は玄関だった。音は扉の外から聞こえてくる。
「外?」
ミコトは思わず声を出した。人工太陽に優しく照らされて、爽快な草木の香りさえ漂わせてくれるこの部屋に〈外〉など存在するのか。外に出る。そんなこと、生まれてこのかた考えたこともなかった。落ちている石を拾うと耳飾りがまた頬に触れる。その硬く冷たい感触の中に不思議な暖かさを感じた。コトン。自分の身体の中にも大理石が落ちてきた気がした。その重量感をミコトは感じていた。それは衝動だった。次の落下音を聞き終わらぬうちに、彼女は扉の開閉ボタンを押していた。
部屋より照度の抑えられた廊下。スチール板を張り巡らした鈍色の空間が、右に左に続いていた。注意深く廊下を見回してみると、右に数歩進んだところに一つ、また進んだ先に一つと、石がまるで道しるべのように落ちているではないか。何かの罠かもしれないということが頭をよぎった。部屋に戻って、ゆっくり考えてからでも遅くはない。そう思って後ろを振り返ると、そこにあったはずの扉がなくなっていた。カツン。彼女の手から石が落ちた。ミコトはしゃがみこんで頭を抱えた。私はいったい、どこから出てきたというの?
耳飾りが頬にあたる。〈艶消し加工済み。〉そのフレーズが頭をかすめる。誰かの手によって加工された工芸品。この耳飾りがまだ存在しているということは、私以外の誰かがこの耳飾りを作るために、この世界のどこかに存在していたということ。
ミコトは慌てて、頭をさぐった。髪飾りがない。さっきシャワーを浴びるときに、外してしまったのだ。他の誰かが存在しているという事実。その手がかりの一つを失ってしまったことに、ミコトは失望を感じた。足元に散らばった石ころの一つを手に取って、ポケットに入れた。すると、ポケットの奥で物体の手触りを感じた。取り出してみるとあの髪飾りだった。替えの制服のポケットになぜ入っているのか。そんなことはもはや問題ではなかった。ミコトは絶対無くさないといわんばかり、髪に飾りをつけようとしたが、つけ方が分からなかった。アクセサリーなどつけたことがなかった。それでもじっと眺めたり、ねじったりしているうちに、力を入れて真ん中を押せば、留め金が外れて髪が挟めることが分かった。最初は留める髪の量が少なくて、ずり落ちてしまったが、何度か繰り返しているうちに、安定して留めることができるようになった。頭を下に向けても髪が頬に当たらないので、これは便利だとミコトは得意な気持ちになった。そして右を向いて、石が示す道を進むことに決めた。
*
どこまでも続くと思われた廊下は、十度目の曲がり角で行き止まりとなった。鉄の扉がそこにはあった。把手に手をかけてみると、扉に鍵はかかっておらず、力いっぱい押すと、ギイという音を立てて扉が開いた。もわりとした息苦しさが押し寄せてきた。ドアの隙間から差し込むオレンジ色の光がミコトの視界を奪う。ゲホゲホと咳き込みながら光源を睨み続けていると、それはきっと〈太陽〉と呼ばれるものに違いないと思い始めた。部屋で浴びる柔らかな光ではない。厳しくミコトを突き刺すような光だった。喉にまとわりつく埃っぽさから唾を飲み込もうとするが、鼻から入ってくる熱気にやられて乾ききった口内に、唾は一滴も湧かなかった。振り向くと鉄のドアも消えていた。ただコンクリートの壁があるだけだった。見上げると、先ほどまで自分がいた場所なのだろうか、鉄を継ぎ足して造られた塔が壁の中に聳え立っていた。砂塵で見通しは悪く、どれだけの高さなのか、その天辺を確認することはできなかった。ミコトは砂地の上に立っていた。延々と壁は続いていた。足元を見回してみると、かろうじて砂から顔をのぞかせている石があった。腰をかがめてなるべく地面に近い位置を歩いて進んでいくことにした。
足に砂がまとわりついて、足取りが一歩ずつ重くなっていく。額や首から汗が噴き出して、砂がべったりと張り付いた。その砂の上にまたどこからか噴き出した汗が流れていくものだから、砂の層が徐々に厚く固くなっていく。まるで砂の鎧が首を絞め付けるようだった。それでも石の道しるべは続いていた。息苦しさは増して、しゃがんで石を拾うことすら苦しく、拾っては息を上げてしばらく休まずにはいられなかった。ミコトは今まで暮らしてきた部屋を恋しく思った。あの部屋にいれば、こんな苦しい思いをしないで済んだかもしれない。なぜ私はあの部屋を出て、こんなどこに続いているかも分からない道を進んでいるのだろうか。
その昔、人は〈携帯〉と呼ばれる機器を持ち歩いていたそうだ。人は移動をして、どこからか目的地に向かって歩いてゆくという時代があった。携帯は、移動をしながらでも自分がどこにいるか分からせてくれるものだった。迷うことがないように。住まいに戻ってこられるように。今がいつなのか、ここはどこなのか。ミコトに知らせてくれる者はいない。サイラスもユージも沙耶もいない。あの部屋の中では知る必要がなかったけれど、今は知りたい。自分はいったいどこに向かっているのか。
「水を飲まないと死んでしまうかもしれない。」
ミコトは急に声を発したくなった。自分の声を聞いて安心するなんて、おかしな気分だった。
よろよろ歩きながら前方を見ると、きらきらと光るものが見えた。生まれてからというもの、これだけ広大な空間を歩いたことはない。ミコトは保健の授業で見た、赤ん坊が初めて歩いた時の動画を思い出していた。一歩二歩と歩いては倒れて、また立ち上がって進んでいく赤ん坊の姿に、ミコトはくぎ付けになった。赤ん坊と自分を重ねていた。黒椅子に寄りかかっていた私は、まるでゆりかごに揺られている産子だった。黙っていても提供される食事、適度に知的欲求を満たしてくれる授業、不健康にならない程度の運動、精神衛生上用意された娯楽コンテンツとおしゃべり相手。まるでゆりかごだった。きっと私は誰かの生殖細胞から発生をして成長し、誰かの手の中に抱かれた時期があるはずなのに。気づけば周りに誰もいなかった。
光るものの正体は水たまりだった。ミコトは膝をついて水に手を浸した。すぐにでも顔をつけて飲み干してしまいたかった。身体にまとわりついている砂を洗い流したかった。初めて〈不快〉という感覚にミコトは包まれていた。祈るように、水に浸した手を引き上げてみると、手の皮膚はシャンプーを触った時のようにぬるぬるとしていた。この水は飲めない。飲んだらきっと死んでしまう。直感がそうささやいていた。
手を地面について、ミコトは水たまりに映る自分の顔をのぞこうとした。ぼんやりと映る自分の姿を凝視した。しかし見れども、見れども自分の顔は、はっきりと映らなかった。この砂塵によって視力まで奪われてしまったのだろうか。目も鼻も口なく、ただぼんやりとした肌色の輪郭の上に黒い髪のような丸みが載っているだけだった。私が映らない。ミコトの体は、わなわなと震え始めた。この体は、はたして存在しているのだろうか。自分で自分の体を強く抱きしめた。それでも抱いているこの体が誰なのかよく分からなかった。自分はどこにいるのか、誰なのか。ミコトの目から何かが流れていた。これは、涙。それはミコトが初めて泣くという行為を意識した瞬間だった。これが泣くということなのか。目の周りについていた砂が涙によって流れていった。汗が涙と混じって目に染みて、その痛みから、さらに涙があふれ出していった。目を開けることが難しくなった。あのすべてがプログラムされている部屋に戻ることができたなら。痛む目をもう一度開けて、後ろを振り返った。先ほどまで見えていたセントラルはもうどこにもなかった。
砂地の先には、〈グリッド〉が存在していた。縦と横に引かれた線が交差する空間が前後左右どこまでも広がっていた。ミコトがいる場所だけが実体のようなものを持っていた。相対的な時間と空間はもはや存在していなかった。グリッドの空間には石の道しるべもなかった。ミコトは体の芯を支えていた力が抜けていく気がした。手のひらを思わず見た。自分の体が透けていくような気がしたからだ。私は何者なのだろうか。このまま縦線と横線になってしまえたらどれだけ楽だろうか。
頬にはまだあの耳飾りの感触があった。触れると、あの大理石のごろりとした感覚があった。ミコトは首を左右に振った。ぺちぺちと頬に当たる感触だけが彼女を存在させていた。しばらくそうして遊んだあと、膝を抱えてミコトは泣いた。顔を腕で覆って泣いた。暗闇がミコトを取り囲んでいった。
*
どれほどの時間がたっただろう。不定形な時間という感覚をこの身に感じたのは初めてだった。何の行為もしていない時間を過ごすということが、ミコトに時間を感じさせているのだった。顔を上げることが怖かった。何も存在することのない空間を突きつけられるのが恐ろしかった。息をしているということは、つまり生きているということだった。ミコトはその吐息のかすれる音に注意を払って、呼吸と自らの感覚を一致させるよう努めた。
そのとき、頭にコツンと何かが当たった。ミコトは反射的に頭をさすりながら、天を見上げた。するとまた小さな粒が降ってきた。コツン、コツン。ミコトは片目をつむりながら、降ってくる物体を見続けた。それは〈雨〉だった。小さな、小さな石の雨だった。ミコトのいる場所を中心として、石の雨が降っていた。粒は地面にぶつかって跳ねた。その量はだんだんと増えていった。耳飾りにぶら下がっていた大理石よりもずっと小さな粒は、白色だけではなかった。緑色や赤色、青と紫の間のような色や黄金色まであった。大理石ではなくて、さまざまな石の雨が降っているのだと、ミコトはすぐに分かった。先ほどまで砂地だった場所は硬い地面になっていた。それは〈土〉と呼ばれるもの。地面に石が当たる音はまるで鈴が鳴るようだった。
ミコトは立ち上がった。もはやどちらが前か後ろかは分からないが、あの白い大理石の道しるべが続いている方にミコトは歩き出した。
石の雨雲は、白い部分や赤い部分、緑色の部分があって、その色はゆらゆらと燃えるように色を変えていた。紺色の空に浮かぶ石の雲は、布のようにはためていた。その情景に似た映像をミコトはいつか見た気がしたが、その現象を称する言葉を知らなかった。
石の道しるべは険しい岩山に続いていた。世界には〈山〉と〈海〉があることを知っていた。海とは、先ほどの水たまりをどこまでも広く深くしたものだと習った。ミコトは山を登っていた。初めて傾斜のある道を歩いていた。十歩も歩けば息が上がった。足のあらゆる関節が斜めに曲がって、斜度を感じていた。起伏のある世界を身体が味わっていた。初めて感じる心地よい疲労を心ゆくまで味わいたいと思った。石の雨は止んでいたが、空を見上げると、石の雲がまだゆらゆらと動いていた。それは光りを発していて、紺色の空をぼんやりと照らしていた。ミコトはその雲に手を伸ばした。一歩ずつ歩みを進めるほどに、石の雲に近づいていると思うと、どこまでも登っていける気がした。
山の頂上が見えてくる。気持ちがはやった。足取りが速くなると同時に心は硬直していった。その先に何もないとしたら。そう考えると、相反する思いに身が引き裂かれそうになった。それでも歩み続ければ、いつか頂上を迎えるのだ。そこでミコトが見たものは、岩山の火口の中いっぱいに緑生い茂る平原だった。
頂上に立った途端、平原の中央から風が一気に吹き抜けていった。その風に乗って青々とした草の匂いがミコトの鼻をくすぐった。それはミコトが今までに嗅いだことのない匂いだった。見たことのない景色。どの映像にもなかった、ミコトが見ている世界。それはどこまでも、みずみずしく輝いていた。
草の間に石の道しるべは続いていた。ミコトは耳飾りに触れてから歩み出した。平原の中央にある古屋こそ目的地であると知ったからだ。もう迷わなかった。古屋にともっている電灯の光を見たときに、どうしようもなく気持ちが沸きたった。入り口の下に置いてある最後の石を拾うと、ミコトは確信を持って扉をノックした。
「どうぞ。」
中から女性の声がした。ミコトは木の扉を押して中に入った。古屋の中には、見たこともないものが天井からたくさんぶら下がっていて、大きな棚には何やら箱や瓶、大小さまざまなものがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
奥のテーブルの前に座っている女性がこちらを見ていた。ミコトは進んでいった。女性はミコトの顔を見て、いらっしゃいと、ほほ笑んだ。そして立ち上がって、ミコトの耳につけられた耳飾りと、不器用につけられた髪飾りに触れて言った。
「うまく作れたと思っていたら、いつの間にか消えてしまったの。あなたが持っていたのね。」
そしてなでるようにして、ミコトの頬についていた砂をはらい落とした。ミコトはその女性を懐かしく思った。その指先にいつまでも触れられていたいと思った。ミコトの目からあふれる涙を女性はエプロンの端で拭ってくれた。女はミコトを抱きしめた。もう大丈夫だから。ミコトは肩を揺らしてしばらく泣いていたが、背中を優しくなでられて、落ち着きを取り戻した。
窓の外を見て。言われたように窓の外を見た。そこには、〈月〉と〈星〉があった。女性は手を引いて外にミコトを連れ出そうとした。ミコトはこの部屋を出てしまうのが怖かった。あの部屋を出た時のように、また何もかもなくなってしまう気がしたからだ。女性はゆっくり頷いた。ミコトは引かれる手に導かれるようにして外に出た。
するとそこには〈街〉があった。どこかの建物から眺めている夜の街だった。明かりのついているビル、鉄橋の上を走っていく電車。犬を散歩する人、楽しそうに笑いながら歩いていく子供たち。夕食の匂い。どこにでもあるという言葉が頭に思い浮かんでいた。後ろを振り返ると先ほどの部屋はそこにそのままあった。女性は微笑んだ。ミコトも同じようにした。頬の筋肉がひきつった。動かしたことのない筋肉だったのだ。
手の温もりを感じている。街と人、物性と感覚がそこにはあった。〈了〉
はじまりにあったもの @amano_kajimura
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