最終話  友と


 王城が動いているのかと思ったが。そんなわけはなかった、それは全て崩れている。宮殿も防壁も、どころかそれらが載った高台ごと。潰れていた。


砕け残ったまま最後に落ちた、龍の尾。言葉どおりの最後尾。崩れかけてもなお見上げるような大きさのそれが、王城とその下の土を潰し。

そして――未だ動いていた。


 人々は逃げていた、残った兵はわずかだった、彼らもまた逃げていた。そしてどちらも、餌食にされた。

 龍の尾、その石の群れが音もなく開き、中から細長く積み石がせり出した。幾つも重なり連なって長く、石造りの触手のように。

 それが、無数のそれらが伸び、広がり、体中から伸び、人の頭を足を絡め。口のように開いた石の分かれ目に引き込み、音を立てて咀嚼そしゃくする。

 あるいは無数の触手が紐のように絡み合い、太いそれを地面にいくつも打ち込んで、引き込む動きで巨体を引きずる。


 こんなこともできたのか、ウォレスはただそう思っていた。これをさっき使われていれば、斬りつけるウォレスに使われていれば。自由の利かない空中だ、すぐに捕らえられていただろう。いや、あるいは宙にあったからこそ、こんなことはできなかったか――あの巨体が高速で飛翔する中、これを出して重量バランスを変えたり空気抵抗を増やすことは難しかったのか――。そんなことを思いながら立ち尽くし、口を開けた。


 その間にも、空気を切る音を小さく立て、静かに触手は獲物を捕らえ続ける。

 と、不意に一本の触手が断ち切られる、堅い音を立てて。横合いから跳びかかった者に。

 その人影は細身の直剣を、手首を利かせてしなやかに振るい、あるいは断つように力強く突き。二本、三本、まとめて五本、触手を次々と斬り伏せる。


 栗色の巻き毛を振り乱しながら、その男は声を上げた。ほうれい線の皺をいっそう深めて。

「何をしている、早く逃げろ! ここはこの私が……いや、逃げるな! 騎士は逃げるな、兵士もだ! 殿下をお護りしろ!」


 男は引きずるように音を立てて舌打ちしながら、横からの触手を斬り捨てる。その背の後ろにはあの王女がいた。いつ外へ転移したのか、地に腰をつけ、口を開けてただ、龍を見ていた。

 触手を斬り捨てながら唾を飛ばし、男は――ディオンは――叫んだ。

「何をやってる、おらんのか本当のつわものは! この私の他に!」


 開いていたウォレスの口がそのままで固まり、それから大きく吊り上がる。いた。いてくれた、少なくともディオンは。

 剣を振るい続けるディオンの、足元がしかし震える。その足元、地面が揺れる。割れる。その足元一帯の土ごと、触手の束がディオンを持ち上げる。

「何……!」

 ディオンは目を見開いたまま絡め取られる。


 ウォレスもまた目を見開き、しかし噛み締めた歯を剥き出して、笑った。

 いるぜ。ここにいるんだぜディオン。本当の強者つわものは。


 地を蹴って跳んだ。何も持たない腕を振るった。ディオンを捕らえた触手の束を片手で断ち、人々をつかんだ触手の群れを逆の手で断ち。着地しながら龍の尾本体へ、揃えた四本の指を突き立てた。座り込んだ王女を横目で見、笑う。


 そこからなおも跳んだ、駆けた、触手の森を避けもせず、ただ手を振るってちぎり捨てた。

 足を打ち込みひびを入れて、無理やりに龍の横腹を駆け上がった。地団駄のように足を振るい、龍の背中を砕き散らした。

 跳び下り、足を地面に打ち込み、固定して。反動を殺し、嵐のような拳打を龍へ振るう。振るい続け、振るい続ける。たちまちに石は揺れ、震え、歪み砕け、一帯まるごとえぐれて散る。

 上からの触手をかわして指を繰り出し、掘る。積み石を掘る、粘土のようにバターのように。掘る。

 なおも振り出された触手をつかみ返し、引く。背にその束をかつぎ、歯を食いしばりうめきを洩らし、引く。足はえぐるように地面をかき、その背が石より硬くなる。その根元を砕き散らし、迷宮の中身を見せながら、触手は引っこ抜かれていた。

「そぉらあ!」


 それを離さずウォレスは振るった。触手とその先の根元、石の塊を。巨大な分銅鎖フレイルの類のように。

龍から距離を取って天高く振り上げ、真っすぐに打ち下ろす。同じ硬さの塊を高速でぶち当てられた、迷宮の中身がたまらず砕ける。


 湧き出る笑みを抑えもせず、ウォレスはその調子だった。その調子だった、龍の尾をまるごと潰すまで。それがあった一帯を、石くれだけに変えるまで。日が傾き、やがて地平の先に落ちるときまで。


 動きを止めた後ろ端、わずか一山の石塊を残し、戦闘を終えて。乱れた息を整え、笑いながら汗を拭って。ウォレスは振り向く。


 いなかった。助けた人々はいなかった。空は残り火のような色の西を残し、どこもすでに青く、暗かった。かつての仲間たち、そして王女だけが遠巻きに、ウォレスを見ていた。


 ディオンは乱れた巻き毛を整えもせず、口を薄く開けていた。手にした剣は放り出したように下ろされ、その先が地面についていた。遠くを見るような目でウォレスを見ていた。

 シーヤは破れた法衣から褐色の肌をのぞかせ、唇を噛みしめていた。杖を握る手は震え、ウォレスに向けた目は潤んでいるようだった。

 瓦礫の陰に体を隠し、サリウスは顔だけをのぞかせていた。色白な頬は土に汚れ、長い金髪は汗と血で、額の擦り傷に張りついている。頬を引きつらせ、目を見開いてウォレスを見ていた。

 王女は座り込んだまま、ただ口を開けていた。


 ウォレスが彼らの方を向いたとき、弾かれたように。

 ディオンは後ずさり身構えた、握った剣がわずかに上を向いていた。シーヤは身を震わせ、口を開きかけた。目の端からは涙がこぼれた。サリウスは瓦礫の後ろに顔を隠した。王女は身じろぎもしなかった、瞬きさえ。アランとヴェニィの姿は見えなかった。


 ウォレスは口を開けていた。そうしただけで、言うべき言葉は口から出てはこなかった。何を言うべきなのかも分からなかった。ただ、汗に濡れた体に風が、心地よくも冷たい。


 天を見上げた。もう龍はいなかった。


 辺りを見た。もう街はなかった。


 遠くを見た。もう迷宮はそこになかった。


 ウォレスは小さく笑っていた。

 変わった。変わってしまった、何もかも。誰もかれも。


 そうして自分の両手に目を落とす。迷宮を、地下七百二十四階を、それ以上を、叩き壊した者の手を。

 変わってしまった。何より、俺が。


 かぶりを振って歩き出す。


 ディオンは剣を下ろしていた。

「……ウォレス」


 応えずウォレスはかぶりを振る。

 誰が悪かったんだ? 下も見ずに戦った俺か、何も考えず切り札を出した俺か。あの状況でしか倒せなかった、それ以上の余裕はなかったとはいえ。

 誰が悪かったんだ? 言われるままにほいほいと封印を抜いていった俺か、最後の封印を解いたジェイナスか。そう仕向けたあのアレシアか、魔王の遺志に背いた王女か。最初の封印を解いた魔王か、肝心なことを何も言わなかったアミタか。龍を知りつつ秘密裏にしか手を打とうとしなかった王宮か――あるいはここまでだとは知らなかったか、王女の他は――? だらだらと迷宮に居続けて、龍に目をつけられた俺か。龍を封印するだけで、殺さなかった古代の人間か? それともこんな風に生まれついた龍が? 


 ――誰でもいい。同じだ。


 ディオンが剣を鞘に納め、手をウォレスに向けて伸ばした。

「ウォレス……。手伝え」


 ディオンはその手を巻き毛に突っ込み、握り締めた。震えるその手を、払うように抜き出した後で言う。視線を地面に落として。

「手伝え、ここはあの迷宮じゃない。蘇生魔法だって効く……効くんだ。そうでなくたって助かる人間が、まだいくらでもいるはずだ。……手伝ってくれ」


 ウォレスは残りかすのような魔力を絞り、静かに呪文を唱えた。

ストロ・ソルフォ・アン・ブロ藁を敷き飼葉を置きあるいは壁と錠・ウォル・ロクド・エント・ムーセント前に隔てた場所にそれを置くだろう――【厩倉スタブレム】」


 その指が空間を裂くのを見て。ディオンが目を剥いていた。

 弾かれたように、王女が声を上げかけた。

「やめ――」


 ディオンの手は斬りつけるような音を立てて剣を引き抜き、その足は前へと踏み込み。その剣はウォレスの喉を目がけ、貫くように突き出されていた。


 地面近くで開いた別空間からは、溢れるように様々な物が落ちた。魔法の巻物や魔法薬の類。鎧兜に小手、盾や靴。魔法衣やマントの類。龍に浴びせたものとは別、武器以外の戦利品。


 足元で積み重なっていくそれらの上に、ウォレスの手から血がこぼれた。ディオンの剣を、喉の寸前で握り止めた手から。


 手を放す。音を立てて剣は落ち、重なっていく道具にやがて埋もれた。


 地面に溢れ出続ける品々を残したまま、剣を落としたディオンを残したまま、ウォレスは歩き出す。

「やる。あれはやる、お前たちとこの街の奴らに。王女殿下に。好きに使って、売っていい。それとあの迷宮の残り、端の辺り。俺の部屋があったはずだ、まともな物があったら持ってけ。……それだけだ」


 座り込んだままの王女の方へ歩く。手を取り、引き上げて立たせた。目は見られないまま言う。

「悪かった、今度も」

 王女の肩を叩くと、歩きながら続けた。顔だけでも笑みの形を作って。

「ここはもう、あんたの街だ。あんたより上の王族がいりゃ別だがな。きっとそうなっちまったよ、これから。迷宮じゃあなく、あんたの居場所は」


 王女は何か言おうとしたのか、ウォレスの方へ手を向けたが。開いたままの口から言葉はなかった。ウォレスを追うように手を伸ばすが、やがてそれも下ろされた。指は拳を作り、強く震えた後、ゆっくりと開かれた。


 未だ溢れ続ける道具のうち、いくつかのものが歩くウォレスの足元に転がる。そのうちの一つ、唐黍酎バーボンの瓶を拾い上げた。


「やっぱり、これだけもらっておくよ。……じゃあな」

 振り返らず歩いていく。後ろはもう見られなかった。

 友もきっと、振り返ってはいまい。


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