第30話  引っかかった


「何……?」

 つぶやいたのはウォレスだった。引っかかりを感じた、あり得ない引っかかりを。そのせいで刃の軌道は逸れ、ジョッキを持ったままのアレシアの、肩から先を斬り飛ばすに留まった。アレシアは声もなく、樽と一緒に倒れていた。

 心に何かが引っかかった、わけではない。引っかかりがあるのは知った上で、斬った。言うべきことは言った上で、斬った。引っかかりしかないがために、斬った。これ以上の引っかかりに、耐え切れはしないだろうから。


 実際それは、現実的な選択肢でもあった。もはや宝珠が存在しない以上、まともに仕事は終わらない。そして彼女が龍だというなら、王宮がその力を――二十年ほども――欲していたなら。渡してろくなことはない、王宮にそこまでの義理もない。

危険な存在は排除された、誰の手にも入らなくなった、そうしたところで手を打つのが王宮の筋というものだろう。そのためにも、封印の最後一つは残していた。


 引っかかったのは。もっと実際的なことだった。刃が、肉に、引っかかった。

 いや、肉ではなかった。骨でもない。そのどちらも存在せず、けれどそれ以上に、刃にそれは引っかかった。


 店主がカウンターを飛び越えながら声を上げた。

「先生! 何事です、そいつぁ……何です」

 素手のまま身構える店主に生返事を返しながら、ウォレスは刃に目をやった。そこに血は一滴もなく、ついているのは砂と、砂利粒ほどの小石だった。

 アレシアを斬ったとき。吹き上がったのは血飛沫ではなかった。砂であり、小石だった。刃に引っかかったのは肉ではなかった。石だった。


 床に横たわるアレシアの、肩の傷口からのぞくものは。砕けたジョッキを持ったまま転がった肩から先、その切り口からのぞくものは。

石だった。刃物を差し込む隙間もないほど、まるで一つながりのように、積み重ねられた四角い石。その断面。


 ころころころ、と、音が鳴る。小石を床石に転がしたような。やがてアレシアは震え出し、起き上がり、唇を吊り上げ。その喉を鳴らす笑い声と分かる。

 残った片腕で斬り落とされた腕を拾い、小脇に抱えながら椅子を起こす。落とされた腕を抱き、その指を残った方の肩に引っかけて。アレシアは、横倒しのボトルを拾い上げた。

「乾杯」

 三分の一ほどに減った唐黍酎バーボンを一口呑み、焼ける舌を冷やそうとするみたいに外へ出して。それからアレシアは首を傾げた。

「違うんだけどねえ」

 跳びかかろうとわずかに身を沈める店主を手で制し、ウォレスは問うた。

「……何がだ」

「違うんだよ、大体合ってて少し間違い。わたしは、まずね、龍じゃない。その一部ではあるんだけどさ。子供っていうか……ほんの切れ端」

「あ?」

 ウォレスは提げていた刀を両手で握る。ゆっくりと掲げ、右肩の前で立てた。

「だったら、何だと――」


 言いかけたウォレスの声は予期しない物音にさえぎられた。扉の向こうからそれは聞こえた、がちゃり、がちゃり、と金属のこすれる音。ウォレスのよく知る足音、だが常に規則正しかったそれが今は、片足を床に引きずる音を立てて、それでいてひどく急いだ様子だった。


 出入口の鐘が鳴る。

 寄りかかるように扉を押し開けていたのは聖騎士ジェイナスだった。元は白銀色だったであろう騎士鎧はかつて迷宮の埃に灰色じみていたが、今は所々ひしゃげたそれが、おおむね赤茶けて見えた。おそらくは彼自身の血で。そのひしゃげ方もおかしかった、まるでえぐり込むように、その下に肩など腹などあばらなどすねなど、存在していないかのように歪み、肉体へ食い込んでいた。とんでもない力で鈍器を叩きつけられればそうなるかとも思えた。

 取り落としたのか、兜を着けていない彼自身の頭も、頭頂を割る傷から未だ血がこぼれていた。顔の上ではすでに乾いた血が、赤茶けた線を幾筋もでたらめに描いている。その顔もまたひしゃげていた。き肉のように潰れていくつかに分かれ垂れ下がる片耳。同じ側の頬は丸ごとちぎり去られたのか歯茎を剥き出しにして、折り取られたのかそこに歯の列はなかった。一面の血と相まって、その顔は道化の化粧を施したようにさえ見えた。


「旦那……」

 ウォレスの声も聞こえないかのように、ジェイナスは歩いた。引きずる片足分の体重を、杖のようについた剣に――彼が決して許さなかったことだ、そうやって休憩している同業者を見る度に、温厚な彼が声を荒げて説教していた――預けながら。その後へ靴の形に血痕を残し――それもすぐに喪失されていき――、やがて足を止めると、何かを探すように店内を見渡した。


 ひどく震えながら片手を掲げ、彼は胸を張った、歪んだ鎧の食い込んだ胸を。その手にあるのは棍鎚メイスだった。一面に青く、見覚えのある文字の刻まれた。そうして声を上げた、片側の頬から吐気が洩れるせいで、やたらと聞き取りづらいその声を。口に溜まる血と唾を飛ばし、張り裂けそうに胸を震わせて。

「剣の柄に誓って申す! 我が君、詫びは、果たし申した。我が君、我が君よ……我が切先に誓って申す。例の品、確かに持って参り申した!」

 それきり彼は、そのままの姿勢で倒れた。


「旦那……!」

 駆け寄ろうとするウォレスの前にしかし、何者かが立ちはだかった。初めそれは、何がいるとも見えなかった。指を弾く音がして、目の前の景色が水面のように揺らいで。

気づけばそこに、長い魔導杖を手にした王女が立っていた。不可視インビシブルの力を使ってそこにいたのか。


「あんた、何で――」

 尋ねようとしたウォレスに目もくれず、王女はジェイナスのそばにかがみ込んだ。血まみれの手を取り、顔を寄せてささやく。

「大儀でした、我が騎士よ。これにて叶いましょう、貴方の願いと、私の復讐。……ありがとう、ございました」


 血に染まった髭を震わせ、横たわったままジェイナスは笑う。その顔のまま首から力が抜け、音を立てて床へ頭が落ちる。やがて床に触れた髪が、髭が、薄れるように消え始めた。


 王女は強く目をつむり、騎士の手を自らの額に押し当てる。それから彼が手にした棍鎚メイスを取り、立ち上がった。

「龍の子、宝珠から生まれたものよ。受け取るがいい、最後の封印」


 アレシアへ向けてそれを放った、軽く、投げ渡すように。

 アレシアは落とされた手を肩に引っかけたまま、残された片腕を伸ばすが。受け取り切れず、音を立てて床に落とした。


 構えていた刀を下ろし、だが柄を強く握り、ウォレスは王女の前に立つ。

「どういうことだ」

 どういうことだ。『私がうぬらを護ってやる』、そうではなかったのか? それこそが復讐だと。魔王からも言われたはずだ、『護ってやれ、誰もかれもを』と。

だからこそ俺も、護ると言った。なのに、なぜ。それにジェイナスはどうやって封印の場所、隠し通路へ行ったというのだ? 


 王女は薄く、薄く笑った。

「なあ、私はな。許せはせぬよ。許せぬと分かったよ、うぬらを、誰もかれもを。何より私を」

「何を言って――」

 ウォレスの声を、小石を転がしたような笑い声がさえぎる。


「あぁあぁ、そちらが元彼女もとカノさんかぁ。……ま、趣味は人それぞれだよね」

 王女を頭から爪先まで見、鼻で笑ったその後で。渡された武器を示してアレシアは続けた。

「でもま、これはさ、ありがとう。マスター、マスター! お客様に赤葡萄酒を、飛びっ切りに上物をね」


 落とされた方の片腕を持ち上げ、店主へ向けてひらひらと振る。それからウォレスの方を向き、目をそらしたまま笑った。決まり悪げに。

「それで、あのさ。もう一つさ、違うのは。頼んでたのは君だけじゃない、のね。最後二つは一応ね、その騎士さまにも頼んどいたの。宝珠の欠片を渡してさ」


 流れ落ちるジェイナスの血は床に溜まることなく吸い込まれ、投げ出された彼の手もほどなくして床へと沈み始める。肉と骨とをあらわにしながら。

 ウォレスは刀を握ったまま、間抜けに唇を開いていた。


 斬り落とされた手と手をつなぎ、振り回しながら、唄うようにアレシアは言った。

「君のようにね、その次に。君と同じに、それ以上。強いからね、この人は。喪失したから、この人は。だからさ、頼んでおいたんだ。君をちょっとね、待たせちゃってね」


 そうだ、確か一度。武器を引き抜いた後、彼女が来なかったことが――ふてくされて泥酔していて、その後やっと来たことが――あった。そのとき、彼と会っていたのか。それは分かる。だが、王女はなぜ――


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