第26話  やや幸運な初体験


濃いのブラウンをくれ」

 カウンターへ魔法衣の二、三枚を放り、ウォレスは椅子へ腰を下ろした。


 覇王樹亭サルーン・カクタスの店主は魔法衣を検《あらた》めもせず、焦がし色の麦酒エールを注いだジョッキをウォレスの前へ置く。その後で口を開いた。

「先生、骨休めはお済みになったんで」

 ウォレスは笑う。

「ああ、この前とうとう呑んじまったんでな。どうも、長く離れてられるもんでもないらしい」


 ジョッキを口に運んだ。噛み潰すように呑み込んだあぶくから立つのは、焦がした麦のような香ばしい匂い。舌の上で苦く、だがその向こうに包み込まれた甘味が優しい。少年の頃、初めて酒場に入った頃には分からなかった味だ。


 不意に言ってみる。

「なあ。……どんなだっけよ、地上うえってよ」

 魔法衣を広げていた店主の指が開く。そのせいで一枚が床に落ち、拾い上げたときには真ん中が、崩れたように喪失されていた。

 その穴をしばらく見つめた後、ようやく応えた。

「行かれる……や、お帰りになるご予定でも?」


 ウォレスは目を細め、口元を静かに緩める。ああ、そうだ。そういう感覚だよ、俺らは。

「別に。ただ気になってな、どんなだっけな、外の空気って? 昼があって夜があるってのは? いったい何をしてたっけ、迷宮ここに潜って魔物を狩る以外……と、呑む以外によ」

 店主はカウンターへ魔法衣を置き、鼻から静かに息を吐き出す。

「さて。私もこれでずいぶん、先生ほどじゃあありませんが、迷宮ここいらにこもったっきりで。かれこれ四、五年ほどですかな」


 ウォレスが助けるより前だろうか、後だろうか。どちらにせよ、死にかけた場所に留まって暮らす辺り、まともな人間ではない。もしくは、まともな事情ではない。

 そう思って、ウォレスは自分で苦笑した。同じじゃないか、俺も。そうだ、初めて入って早々死にかけた場所の、その奥底になんて。まともじゃあない。


 しばらく黙った後、店主が口を開く。なぜだか少し早口だった。

「いえ、そうですな。先生はそう、戻られるべき方でしょう。なにせ英雄だ、どこでも歓迎されましょうよ。金だってそう、下層のお宝を二抱えも持ち帰れば、食いっぱぐれることもありますまいし」


 ウォレスは長く息をつく。小さく肩を震わせながら聞いてみる。どうしたって顔がにやつく。

「で、よ。俺が帰ると思うかい?」

 店主の動きが止まる。しばらく同じ姿勢のままでいて、不意に一つ吹き出した。ウォレスと同じ顔で、小さく答える。

「まさか」


 ウォレスはカウンターを叩きながら顔中で笑い、声をかみ殺した。店主は目だけで笑って、大きく咳払いを一つ。急に顔を背けてグラスを取り、拭き始める。


 そうだ。そういう人間だよ、俺らは。


 吐き出した空気を補うように大きく息を吸う。麦酒エールを一息に呑み、ジョッキを置いた。

御馳走ごっそさん」

 立ち上がるウォレスに顔を向け、店主が目を見開く。

「もうお帰りで?」

 無理もない。呑み食いに来たときはぐずぐずと呑んでいくのが常だった。

「ああ、また来る」

 生き返った死人がまた還っていくのを見送るような目で、店主はウォレスを見ていた。不意に口を開く。

「先生。……そもそも先生は、どうして迷宮したに?」

 ウォレスは小さく口を開け、それから笑った。

「また来る」

 引き開けたドアの上で、小さな鐘が音を立てる。


 外を歩く。灯りも何もない通路。それでも壁が足元の床が、寝ぼけたような光をあるかなしかに帯びる――目が慣れた者にはそれが見える――。


 変わらない。変わらなかった、この辺りも。九年前、どころかさらに九年前、迷宮に初めて潜った頃と。アレシアが喪失された頃と。





 幸運な初体験だといえるのだろう、ウォレスたちのそれは。迷宮の地下一階、最も魔物の弱く少ない場所とはいえ、稀に出る大群にも出会わずに済んだ。


 最初に倒したのは何だったか覚えていない。突然出くわしたそれを、アレシアに声をかけられるまま、わけも分からず剣で叩いた――斬る、なんてまともなことにはならなかった――。前衛も後衛もなく、誰もが手持ちの武器を、何か叫びながら前へ出ては叩きつけた。

 気がつけば六人の荒い息と、気のせいか湯気のように熱気の立ちこめる中。挽き肉のようになった魔物が、床石の上でさらに崩れ、吸い込まれていくように喪失されていた。


 塩臭い体液の残り香の中、息が詰まりかけた頃。小さく口笛が響いた。

「やるじゃない」

 アレシアは真顔で言う。

「呪文の援護もなしで、初めてでみんな無傷。すごいね、やるね、やるよ君たち」

 表情を崩して手を叩く。片方の目をつむってみせた。

「さ、その調子で次、次! この後からもよろしくどうぞ?」

 全員が、上気した顔でうなずく。


 その後もその調子だった。血の匂いに酔うように、息を切らして武器を振るった。その後で進んでいく迷宮の、湿った空気が酔いを抑え。しかし、決して醒まさせはしなかった。思い描いた、あるいはそれ以上の、冒険の中を歩いていた。


 皆、本当に運が良かった。大した強敵にも出くわさず、受けたのはかすり傷程度で、アレシアが療術を使ったのも一、二度――ウォレスに使われたのではなかった、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかけられながら魔法をかけられる友がひどくうらやましかった――。一階、また一階と下り、たまに宝を見つければ――解錠師《シーフ》がいないので――アレシアが魔法で罠の有無を確認し、危険の無いものにだけ手を出していた。


 そうだ、あまりに無謀だった。解錠師《シーフ》もおらず魔法を使える者も一人、しかも七人目などと。それすらも十六のウォレスは気づかなかったし、皆本当に運が良すぎた。運ではどうにもならない所へ行ってしまうまで、気づかない程度に。


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