第20話 扉の先には
地下十三階。鉄のこすれ合う音を立てて昇降機の扉が開いた。
同時にウォレスの鼻がうごめく。昇降機の機構に使われる黒い油のにおい、外から漂ういっそう地上くささを増した空気のにおい、そういったもののせいではなく。何かが香った。花? 違う、もっとわざとらしい甘さがある。茶? いや、もっと乾いた匂い。
二人の背を見ながら歩くにつれ、香りはだんだんと強くなる。眠り薬の類と疑い、身構えたが。どうもそういう感覚はない。脳の芯にしびれはなく、手足の指は変わらずに動き、前の二人もそのままの歩調で歩いている。
鼻から息を吐き出し、辺りを見回した。周囲の壁には所々カンテラが取りつけられ、
舌打ちをして声を上げる。
「おい。どこまで連れ回す気だ、どういう話なんだか先に言えよ」
ディオンが足を止めた。振り返り、わざとらしく――つまり、口角を上げていつものとおりに――笑う。
「もっともだ、だが心配するな。もう着いた」
指差したのは通路の突き当たり。柱を模した彫刻がなされている他何の変哲もない壁。
だがそうだ、思い出した。確か隠し通路がある、積まれた壁石の一角、一つだけ菱形になった石。そこを押し込むと、柱の部分の壁が開く。だが思い出せない、その先に何があった?
ディオンに促され、仕掛けの石を押す。重い音を立てて石壁が引っ込み、ゆっくりと横へずれた。
その先は黒かった。暗いのではなく、黒があった。空気に墨を流し込んだみたいに、新月の夜を切り取ってはめ込んだかのように、ある面から先の空間が黒かった。
ウォレスは軽く息を吸い込む。なるほど、仕掛けるとすればここか。
首を軽く鳴らし、闇をにらむ。どれほどの長さで続いているのか見当もつかない。だが耳を澄ませても鎧の軋む音や呼吸の気配は伝わってこない。少なくとも目の前には何もいない。
だが、そのすぐ奥。くぐもって何か、足音が聞こえた。壁、いや扉を隔てて人がいる。二人や三人ではないが、武装している重さの音ではない。魔導師の類か、だが呪文を詠唱する声や、それに伴う魔力の気配は感じない。
足先を何度か床に叩きつける。反響からして床に罠の気配はない。短く息を吐き出した。
ままよ。このまま闇を一跳びに、扉を開ける。そこから先はそこからのことだ。むしろ二人が後ろからかかってくることの方が危険だが、最初の跳躍で十分かわせる。
「お先に」
言うと同時、跳ぶ。思ったよりも遥かに短く、数歩分の距離で闇は終わった。目の前には扉。カンテラの灯が揺れる横の、両開きの木製のドア――壁に触れて喪失されないよう、喪失迷宮の扉は鉄製がほとんどだった。わざわざ付け替えたのか――。まるでとろけた焦がし砂糖をかけたみたいに
迷宮に不釣合いな扉、不似合いな部屋。無意識に歯を噛み締める。勢いよく扉を引き開けながら、片手は防御の形を取る。腰を落とし、いつでも跳び退ける体勢。
中から強く
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
「…………は?」
ウォレスは大きく口を開け、そのままの姿勢で立ち尽くした。
女たちは皆、
背後から笑い声が上がる。ディオンがにやにやと、顔中で笑っていた。
「驚き過ぎだ、驚き過ぎだろう。忘れたのかこの店、昔も呑みに来たろう! 『
思い出した。ディオンとシーヤが加わって少し後――二人は比較的後で加入した。迷宮内で四人の仲間が喪失された二人と、療術師二人を失ったウォレスたち。合流して脱出し、以来
辺りを見回す。扉と同じく照りのある色合いをした調度はどれも、脚に銅板など貼られてはいない。どころか床には一面、花と蔓草の柄を織り込んだ絨毯が敷かれている。いずれも喪失迷宮にはあり得ないことだった。おそらく、薄い銅板を張り渡した上に絨毯を敷いたのだろう。天井からは
隅のテーブルの上では小皿の上で、三角柱状の
ウォレスは口を開けた後、改めて辺りを見渡し、それから言った。
「……で、何の話があるって?」
シーヤが口に手を当てて小さく笑う。
ディオンは大げさにかぶりを振った。歩み寄り、肩を叩いてくる。
「どうした、察しが悪いじゃないか? 君ほどの呑んだくれが。話なんかあるか、みんなで呑もうって、それだけに決まってるだろう。昔みたいに」
ディオンが歯を見せ、鼻息を吹く。ウォレスを指差し、声を上げて笑った。
「いやしかし、驚いたか! 驚くか君も、ざまあみろ!」
ウォレスは微笑もうと考えて、そうした。素直に笑えたわけではない。
できすぎているのではないかと、正直思った。たとえばそう、これは結局何かの罠で。酔ったところへ待ち伏せた軍勢が襲いかかるだとか。
指を広げ、わずかに腰を落とし、いつでも動ける体勢を保ちながら回りを見渡す。大体そうだ、アランとサリウスはどうした。先に来ているのではなかったのか。
その疑問を口に出そうとしたとき。妙なことに気づいた。店の奥、誰も人のいない一角。テーブルも椅子も取り払われたかのような何もない一角、そこの景色が揺らいでいた。できの悪いガラスを通して見たみたいに。そしてそこへ、
転移魔法による空間の揺らぎ。誰かが来る、そう認識する前に体は勝手に身構える。
やがて揺らぎが消えたとき。そこには杖を携えたサリウス、平服に剣だけを帯びたアランがいた、それに。
それが誰か認識したときには、ウォレスの体は構えを解いていた。思わず口が開く。
「ヴェニィ……」
アランとサリウスの間には、二人に守られるようにして。小柄な三つ編みの女がいた。成人前かとすら思える細い手足とは対照的に、ゆったりとした服に包まれたその腹は大きく、丸い膨らみをたたえていた。
ヴェニィは大きな目を細めて小走りに寄り、ウォレスの腕を何度も叩いた。
「よー! ウォレスめちゃくちゃー!」
めちゃくちゃ久しぶり、そう言いたいのだろう。変わらない口ぶりに笑みが漏れた。
「よう、ヴェニィ。しかしお前、大丈夫かよ。こんなとこ来てよ、その、子供だって……」
ヴェニィは軽く腹を叩く。
「だーいじょぶだって! 仮にもあたしの子だよ、迷宮が怖くて務まるかっての」
サリウスが口を挟んだ。
「ま、その辺はこのオレがな。体に影響ねえように、入念に安定させたやつを組んどいた」
三人が現れた場所を見れば、絨毯の上に分厚い布が敷かれ、そこに魔方陣が描かれていた。転移の魔方陣。
サリウスは両手の人差指でウォレスを指差す。
「これでお前、全員どんだけへべれけになっても安心ってわけだ」
なるほど、この一角を地上との転移床としたわけだ。これならたとえ、ろれつが回らず呪文が唱えられなかったとしても帰ることができる。
「なるほどな……」
だから、ウォレスは笑えなかった。
なるほど、地上に帰るには便利だろう。だが地上からも来られるはずだ、三人がそうして来たように。だから言ってみれば、他にも便利に使えるはずだ。たとえばウォレスが酔い潰れた後に、地上から軍を差し向けるだとか。
アランが声を上げる。
「まあまあ、お互い積もる話はあるけど。続きは一杯空けてからだな。何から呑《や》る?」
「ああ……俺は、ヴェニィと一緒のでいい。茶でも、水でも」
五人全員の動きが止まる。
その後でサリウスが鼻息を詰まらせ、吹き出した。ディオンが肩を揺すって笑い、シーヤは喉を鳴らして口元を手で隠す。ヴェニィは手を叩いて笑い、アランだけが心配げに顔をのぞき込んできた。
「……どうしたんだよ、どっか悪いのか?」
表情なくウォレスは首を横に振る。
「最近呑み過ぎてな、控えてるんだ。仕事が終わるぐらいまではやめとこうと思ってる」
警戒して呑まない、というわけではなかった。それは理由の五分の一ほど。そういう気分じゃない、残りの理由はそれだけだった。
正体を失うまで――しようもない理由で――呑んで、たった数日。それもある。だが何より、かつての仲間が、友が。ウォレスをはめようとしている、かもしれない。
実際に軍でも何でも、来るのは問題ない。何人来ようがどんなに泥酔していようが――手加減はできなくなるだろうが――全く問題はない。
問題は。ウォレスに最も近かった人間――両親は早くに亡くなった。ウォレスが無名の冒険者だった頃、別の迷宮で戦っていた頃、病で――が、仲間たちが。実のところ、近くも何ともないのではないか、そういうことだった。
そしてそれは、責められることではない。この九年間、彼らを必要としなかったのはウォレスの方だ。彼らと近くも何ともなかったのは、ウォレスの方だ。思い出すことは時折あれど、会いに行こうとしなかったのは――彼らの方から来なかったことは責められない。最下四層は立ち入るだけで命懸けだ、ウォレスが欠けた戦力ではさらに。顔を見に来るためだけに、そこまではできまい――。
責められているのは、ウォレスの方だ。迷宮以外の何も持たなかったつけを突きつけられているのだ、正当な支払いを求められているだけだ、今。
だからウォレスは、呑みたくなんかなかった。帰りたかった。逃げ出したかった、正当な責めから。迷宮の底へ、九年間ずっとそうしてきたみたいに。
ディオンが平静そうな顔で――頬に力を込めつつも、唇の端が今にも持ち上がろうと震えている――言った。
「ウォレス。昔君が何て言ったか覚えてるか? この私が『明日は大事な所だ。今日は皆、酒場はよしておこう』、リーダーとして賢明にもそう言ったときだ」
ディオンの口角が思い切り、解き放たれたみたいに持ち上がる。鼻で息を吹きながら言った。
「『分かってるさ。みんなはつまみを買っといてくれ、酒屋の方は俺に任せろ』とよ!」
サリウスも苦笑する。
「『今日呑まずに明日なんぞ始まるか!』とか、そんなのも言ってやがったな……っつか、ディオンがリーダーだったのか? オレたち」
ディオンが眉根を寄せる。
「当たり前だろう! この統率力、戦闘力に加えて療術も使えるという戦線維持力、さらには隠し切れぬほどにじみ出るこの――」
アランが歯を見せる。
「まあそれはともかく、ちょっとぐらい呑むだろ。昔だって俺が体調悪いってのに『そうか、じゃあ呑みに行かなきゃな』って。『心配するな、酒は薬だ』って」
ヴェニィが背を叩いてくる。
「そーいうこと、あたしのことは気にすんなって。とりあえず
シーヤは何も言わずに微笑み、ウォレスを見上げた。
ウォレスは誰とも目を合わせなかった。
「……うん」
それでも、うなずいていた。
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