第3話 英雄だけが始まらない
物語は終わってしまって、それはウォレスも知っている。
かつて仲間たちと共に戦った冒険者ウォレス、あるいは迷宮に眠る宝を求めて、あるいは人からの依頼で、時には国からの要請を受けて。様々な迷宮を探り数多の魔物を倒した魔剣士ウォレス。秘宝も姫も取り返して、魔王――王宮に牙を向いた宮廷魔導師、反逆の魔導王――をさえも倒してのけた。究極の迷宮と謳われた、喪失迷宮地下六百五十四階で。
さらにその奥、隠された最深部。地下七百二十四階で、邪神――滅ぶ間際の魔王が怨みを込めて召喚した、そう噂される最悪の魔物――をも討った。一国を救った、迷宮の全てを制覇した、英雄ウォレスとその仲間たち。
物語は皆終わってしまって、ウォレスだけが続けている。今ここで横たわるウォレスが。酒臭い息を垂れ流し、薄闇の中寝返りを打つウォレス。横たわったまま
身をよじり、起き上がる。抱えたガラス瓶に酒はなく、捨てた。音を立てて転げたそれは周りの瓶とかち合って小さく鳴る。
戦士アランはパン屋に、
魔剣士ウォレスは? 迷宮にいた。そこに住み着き魔物を狩り、わずかずつ奥へと移り。今やその底にいた。拳術師や解錠師、様々な技能を独学で覚えた。療術師や――蘇生の魔法だけは習得していない。喪失迷宮には必要ない――召喚師、他諸々の魔導も。迷宮で戦い生きるに必要なものは、全て知ってしまっていた。
「俺だけだ、続いてるのは」
かつて英雄と称えられ、褒賞と勲功年金の他に、望みのものを与えると言われ。五人が顔中で笑いながら目を見合わせる中、ウォレスだけが即答した。さらなる敵と迷宮を、と。
「なぁにが依頼だ……褒美もよこさねぇくせによ」
いや、あるいはそうでもないか。望みの褒美とはまるで違うが。婚約の話、それがあった。英雄ウォレス・ヴォータックと、迷宮から救い出された王女、レーラマリエン・ユリマレイス・ウル・アーティカミオン――舌を噛まずには呼べない名だ。親には愛されていなかったに違いない、誕生のその時から――。
庶民出の英雄を親族に引き入れ、民衆の人気を取るといった政略でもあったのだろう。とはいえ、王宮は美談にしたいらしく――英雄と王女の間にロマンスがあり、それを王宮が承認した、といった――、王女とウォレスの二人きりで、何度か会う機会が作られた。そう、魔王の首を王へと献上した――当然、魔王本人か確かめる、首実検のため王女もいた――その日のうちにウォレスは王女と引き合わされ、二人で顔を見合わせて茶など飲んだのだった。あんなものを女に見せた後で男女の語らいをなどと、王宮には阿呆しかいないのかと思ったものだが。
そうして何度か会った後で、ウォレスはその気になりかけた、が――
思い出して舌打ち一つ。叩きつけた拳の下で、石畳にひびが走る。
これだけだった、ウォレスと共にいるのは。友でも女でもなく、喪失迷宮だけだった。淀んだ空気が漂い、湿った薄闇がどこまでも続く石造りの迷宮。全ての道程を、今や足が覚えている迷宮。目当ての秘宝を手にしたときの、若き日の笑みを覚えている迷宮。時に戦友たちの喪失を、共に看取った迷宮。
天井の薄闇に目をやり、息を長く一つつく。
そうして、不意に思い出す。初めて足を踏み入れた、迷宮のにおい。日光にさらされた街のそれとは違う、冷たく湿った異界のにおい。少年の日、おっかなびっくり運ぶ足の下で硬く音を立てる石畳の感触。強く張った胸と握り締めた安物の剣と、裏腹に引いてしまうへっぴり腰と。痛いぐらいに鳴る鼓動。
酒の味も知らない、そのくせ
夏の日だった――ただの思い出話だ、構わないだろう? なにせ暇だけはここでも喪失されないのだ――蒸し暑い、日差しがいやに白んで見えた日、街路樹に茂った葉は半ば透き通るような緑で。何より、ウォレス・ヴォータックは十六だった。走っていた、何しろ十六なのだから。それだけで息せき切って走るに値した――当時のウォレスからしても、今のウォレスから見ても。
分厚い革の鎧――よれた跡とかき傷の残る中古だ――をまとって、同じく中古の剣を腰でがちゃがちゃ鳴らしながら――鍔元が緩んで走る度に揺らぐ――、ウォレスはそこへたどり着いた。親友たち――名前ももう出てこない、元気にしているだろうか――との待ち合わせ場所。迷宮に挑む冒険者御用達との、噂の店の一つ。
憧れていた、憧れだったのだ、男の子、一端の男を気取らずにはいられない彼らには、冒険者が。だから集った、悪友たちと。迷宮入りの許可が出る十六歳――王宮に反逆し地下に潜った魔導の達人、魔王こと魔導王。その討伐に、広く人材が求められていた――、それに六人全員がなる日に。
顔を見合わせて、笑って。もじもじと譲り合いながら、流れでウォレスが先頭になり、店へ入る。
店主と女将の他、ほとんど人はいなかった。外の日差しの中妙に薄暗くて、それだけで大人の香りがした――実際には染みついた脂と埃の匂い――。靴音の軽く響く板張りの床には、どんなに拭いても取れないほど土埃が染みついている――迷宮の土埃が――。壁は丸木造りでそれなりの値がしたものと思われたが、隙間から外の日が洩れ入っている。丸木の所々には
縦に割った丸木で誂えられたテーブルにつく。年齢も聞かず注文を取る女将に、震える声で
「『
問われて分からないままブラウンと応え、他の全員が「同じのを」と繰り返す。
ほどなく乱雑に置かれた
他愛もないそんなやり取りの中、割り込むような笑い声があった。別のテーブル、一人きりの客。六人が六人、目にも留めていないふりをしながら盗み見ていたその人。
もちろん女だった、当然美人だった。少なくともそう覚えている。いくつか分からないが年上、日にさらした麦の穂みたいな薄い金色の長い髪、太ももまで分かれ目の入った、魔術的な紋様の黒衣――何よりもそこから見える、ほどよく焼けた肌。ついでに言えばテーブルに立てかけた魔導杖。
「ぼくたち、初めて? こっちおいで」
歯も見せず笑ってそう言ったのだ、アレシアは。抗えるはずがあるか?
そのまま寝ていたらしい、今のウォレスは。当然酔って。最後に覚えているのは、酒瓶の転がる音。部屋のそこかしこで――空き瓶はそこら中に転がっていた――それどころか頭の中や、部屋の外でさえ転がる音さえ聞いた気がする。ああそうだ、確かに聞いた、ころころころと。
そうして、目を開ければアレシアがいた。今にして見ればずいぶん小娘だ。十九か二十、その辺か。
ご丁寧な夢だ、そう思った。アレシアのことを思い出して寝たからって、律儀に出てこないでもいいのに。しかも手の込んだことに、今のこの部屋にアレシアがいる夢。
再び目を閉じる。
「起きなさい、ぼく」
夢はそう言って、ウォレスの鼻をつまんだ。
「ん……ぶはあっ!」
盛大に息を詰まらせてウォレスは跳ね起き、荒く何度も息を吸った。その後で、薄く笑うアレシアと目が合う。
「起きた?」
起きてはいないようだった。床についた手にも下着ごしの尻にも石畳の感触は確かにあったし、目に入るのは朝とも夜ともつかないおぼろげな闇――天井や床、壁石自体が常に有るか無しかの光を帯びている、寝ぼけたみたいに――。確かにいつもの喪失迷宮。
アレシアは笑っていた。ウォレスは何も言えず、不精髭をこする。水を入れた瓶を取り、口をゆすいで吐き出す。それが喪失するのを眺めながら、何口か水を飲む。気つけに
あり得るはずのない話だった、再会するなんてだとか歳をくっていないだとかそれ以前に。誰であろうと、酔っていようと、ウォレスが足音に気づかず真横にまで接近を許すなんて。殊に、転移魔法の類が厳重に封じられた最下四層で。
鼻息をついた。立ち上がり、下着を下げて小便をした。全く、なんてこった。あの霊酒さえ呑んでいれば、病も餓死もないと思ったが。酒は酒、
小便が喪失するのを見届け、ローブだけ羽織ってサンダルをつっかけ、部屋を出る。走った。幻覚ならそのうちに消えるだろう。幻覚でなければウォレスの疾走についてこれるはずもないし、何より最下四層を、生きて帰れるわけがない。
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