第2話  皆によろしく


 ずる、ぺたたん、ずる、ぺたたん、と、サンダルの音が響いている。そのすぐ後から鎧を着こんだ者の足音、杖を伴った足音。その後から、同じく鎧と杖との足音、こちらはおそるおそるといった様子の。


 槍を振るってもまだ届かないほど高い石造りの天井。その下でウォレスの声が響く。

「どうだ、久しぶりの迷宮は。パン屋にはきつかったか? ああそうだ、サリウスって今――」

「ウォレス」

 アランがとがめるように、だが低く声を上げる。

「喋るな、来てる」


 果たして、目の前の曲がり角。空気の漏れる音に似た奇声を吐いて魔物が跳び出す。

大振りな曲刀を振りかぶったそれは、二足歩行の蜥蜴とかげ。ただしその口と胴は人間の頭を一飲みにできそうな大きさ、太さ。枝分かれした角が冠のように突き出た頭部は、そうするに都合のいい高さ――並の人間よりは頭二つ大きい。全身を覆う緑の鱗は一枚一枚が分厚く鋭く、刃を重ねて造った鎧のようだった。


 後から後から跳ね出た三体のそれらが、時間差でウォレスへと跳びかかった。

 ウォレスは洗濯籠を抱えたままだった。剣を抜いてすらいなかった。


「ウォレス!」

 アランが叫び終える前に死んでいた。三体の魔物は。

ウォレスは洗濯籠を片手に抱えたままだった。剣を抜いてすらいなかった。頭部を果物のように潰された二体が床の上で動きを止め、片手で喉をねじり上げられた一体が宙吊りにされ、びくりびくりと体を震わせていた。その手から重い音を立てて曲刀が落ちる。掌ほども幅のある、斧のような厚みの曲刀。刃にはどれほどの年月を通じて重ねたものか、赤茶けた血錆びが層をなしていた。


「……ウォレス?」


 小さく息をついて、魔物を吊り上げたままウォレスは言う。

「知ってる。知ってるさ、来てたのは。ああそうだ、知ってるか? こいつら最下層ここじゃあ、やさしめの相手だなんて。俺たちが戦ってた頃はそう思ってたが、なかなかどうして――」

「ウォレス!」

 叩きつけるようにアランが声を放つ。

「大丈夫か、というか……どうなったんだ、今の」


 ウォレスは口を開け、説明しようとして、やめた。

――そう、跳びかかってきた一体目の、曲刀を持った手を取り、手首をねじり砕きながら投げ飛ばし。続いて跳んでいた二体目の頭へ、一体目の頭を狙って当て。巻き込んだそれを二体まとめて、腰を落としつつ狙いどおり床へ叩きつけて頭部を砕き。洗濯物のバランスを気にしながら半歩跳ね、三体目の首へ手を伸ばす。喉の真ん中から指三本分左右、喉の肉と気管の間。そこへ親指と人差指を差し込み、気管をつかんで、ねじり折る。その後で悠々ゆうゆうと親指をあご、四本の指を首の後ろへと回し。頚椎けいついの一節へ力をかけて、前へ外すように折った、なんて。説明してどうなる。


そう、本当はもっと詳しく言いたいぐらいだった、「こいつらのこの四本指のだな、ここ! 一番端、いわば小指のとこの手の甲! ここが痛いらしいんだな、内側に折り曲げてやればもんどりうって苦しむ」だとか「なかなかどうしてこいつらも、呪文を使うのがたまにいる。声で分かる、喉をゴロゴロいわす奴がそうさ……早めに喉を潰した方がいい」だとか。それを、言ってどうなる。


 何も言わず前を向いた。顔をしかめる分の力を、代わりに腕に込める。魔物の首をつかんだまま、腕を大きく振り払う。魔物は裂ける音を立てて、ウォレスの手にわずかな皮と肉を残し、胴を床に叩きつけられた。ちぎれた頭は嫌な音を立て、潰れて壁にへばりついて、ずり落ちた。


 一番後ろの二人から小さく悲鳴が漏れた。


 ウォレスは息をつく。そうだ、それが普通だ。王宮で最精鋭の兵か、もしくは腕利きの冒険者でも――ここで生き延びているだけで間違いない――。九年だか前の俺だってこんなだった、はずだ、多分。もう覚えていない。


 そうする間にも、床や壁にへばりついた血糊は端から端から消えていた。染み込むように、吸い取られるように、床石の継ぎ目だけでなく、穴も何もない表面からも。ばかりか、飛び散った頭蓋ずがいの中身や、へばりついていた肉片も、霞に包まれたみたいに曖昧あいまいに薄れ、沈み込むように消えていった。


 喪失迷宮はそういう場所で、他のどんな迷宮より恐れられた。

たとえ生き返りの霊酒があろうが、蘇生の高等療術があろうが。その意味はほぼ喪失されている。命のないもの、失ったもの、それらは全て――金属や石のようなものと、生きている者が身につけたままのものは除いて――ここでは喪失されていく。床か壁石に触れた瞬間から、融けるように消えていく。だからそう、邪神と戦ったときのサリウスは本当に運がよかった。


 思う間にも魔物の姿は消え、骨とその破片――これらもほどなく喪失される――と、手にしていた曲刀だけが残った。その体があった場所、ちょうど腹の辺りにはなぜだか、針金が散らばっていた。他にも細長いきりやら螺子ねじ回しやら、針金切りやらナイフやら。


 一番後ろの二人が、何も言わずそれを見つめていた。解錠師シーフのものだったのだろう、あと二人のうちの。




 ずる、ぺたたん、と、サンダルの音が響いている。喪失迷宮、地下七百二十一階――一階層につきウォレスの足で縦横三百二十歩ずつの正方形。その中にぎっちりと迷路と罠と魔物とが詰まった、その地下七百二十一階――。

 最下層から三階も上がって、転移魔法が封じられているのもこの階までだ。地上から距離があり過ぎるため、十回やそこらでは帰れないが。もちろん並の魔導師ではそれだけ連続では使えない――そもそも高等魔導だ、習得している者自体多いとはいえない――。


 戦闘は幾度もあって、洗濯物が返り血で少し汚れるという被害が出た。

本当は教えてやりたかった、ドラゴンの前脚を駆け上がりながら――牙をかいくぐったらまずはここ、前足五本指のそう人差指と中指の間、この水かきみたいな部分を踏む。もちろん小指の爪の付け根を叩いたっていい、それでびくりと怯む。そしたら肘を踏み台に、初心者は手首の骨の出っ張りに乗ってから肘がやり易いな、肩へたどり着きざまに関節の間、軟骨を押し割るように剣を刺す。これでもう相手は痛みしか頭にない、その注意が俺に向けられる前に首を登ればお待ちかね、鶏肉のように柔らかな喉だ。ここへ組みついて一刺し、ばつっ、と動脈を切れば後は飛び下りて潰されないように見てるだけだ、しばらくはのたうち回るから気をつけろ。血のシャワーは浴びるけどまあしょうがないよ、肌はばりばりと荒れるがな。少し慣れたらのたうつ動きを逆に利用して、組みついたまま削って削って首を切断できるよ、脊髄に食い込むと何だろう何ていうかな、野菜の根にかじりついたみたいな感触があって面白いよ、剣が二本あればぜひ狙いたいね。――だとか。


 だがそれまでの戦闘で、仲間だった二人の沈黙と他二人のぱくぱく開く口が気まずくて。そうした丁寧なことは全て省いて、跳び上がりざま竜《ドラゴン》の頭蓋を真っ二つに叩き割った。拳で。


 もちろんウォレスとて何でも知っているわけではなくて、たとえばそう天井に頭をこすりつけ関節を地響きのように軋ませて歩く岩石巨人ストーンゴーレム、これなどはよく分からない。蹴れば砕けるということのみだ、知っているのは。牛を二頭はまとめて踏み潰せるだろう岩の巨足へ、隙を見て飛びかかっては蹴って蹴って蹴ってそちらの方が好みなら殴ってもいい蹴って蹴って蹴って蹴っているうちに、片足を失った相手は勝手に転げて勝手に砕け散るのだ。


無論誰にでもできることではない、それはウォレスも分かっている。九年だか前はこんな真似は無理だったはずだ。逃げ回って逃げ回って注意を引きつけて、サリウスに大魔法を放ってもらう。もしくは自分でちまちまと小規模な魔法を放って足を削る、確かそうだった、確か。


 だから今、説明なり見本なりをもっと上手く見せてやれれば良かったと思う。たとえば魔物が遺した宝箱の――それらは往々にして古の絡繰からくり罠がかかったまま溜め込まれていたり、魔物の呪いによる封がなされている――解錠師シーフによらない解錠だとか。


しかし実のところ上手く説明しかねた。箱の近くの地面を叩いて、箱の中で針金の強く響く音がしたら鉄弾の飛んでくる罠だとか。その場合は全身の力を抜いてごく軽く柔らかく――他の人間にとってどれくらいの力なのかは知らない――鍵の辺りを斬り飛ばす、それで仕掛けを断てる。失敗した場合は、高速で飛んでくる鉄の散弾を頑張って耐える。他には、全く異音がしなければ強制転移呪テレポーターの可能性が高く、ほどほどに力を込めて剣を繰り出しつつ箱に当たった瞬間引き戻すことで、上手く箱だけを粉々にして開封による呪いの発動を防げる、とか。


 そうしたことの説明もできなかったから呆れられたのか、仲間ではない二人はウォレスから遠く離れて歩いていた。仲間だった二人の陰に隠れるように、ウォレスの動きにいちいち身をすくませて。


 そうこうするうち、地下七百二十階への階段にたどり着く。約二階層の間の全員分の沈黙を振り払うように、ウォレスは努めて明るく笑った。

「んじゃあ、俺はこの辺で。水場で洗濯して帰るわ、みんなによろしくな」

 みんなといっても他三人の元仲間、思い浮かぶのはそれだけだった。王宮なぞに用はないにしろ――一人は顔が浮かびかけたが。用はない、今さら――他の同業者や世話になった商店や行きつけの酒場の主、そうした人たちもいたはずだが。輪郭すらおぼろげだった。


 サリウスは口を開けたが、考えるように動きを止める。その後で笑った。

「ああ、分かった。けど、それよりか会いに来りゃいい。『山獅子亭クーガーズ』でまた呑もうぜ」


 温めた酒精アルコールのように甘い名前だった。かぐわしい名前。『山獅子亭クーガーズ・タヴァーン』。ウォレスや仲間や、他の同業者が入り浸った酒場。


 不精髭に埋もれそうな口の端が、自然と両方へ持ち上がった。ほんのわずか、舌の上に唾が溜まる。

「懐かしい。ええおい、懐かしいな。しかしもう潰れてんじゃねえのか、あの水割り屋はよ」


 水で薄めてこっそりと酒のかさを増す、などということは死んでもしない主人だったが。雨が降り出せば、天井から漏った水が容赦なく杯へ飛び込む。ウォレスたちは試行錯誤の末、そうならない席を確保していた。


 アランが肩を揺すって笑う。

「ひどいな、オーナー様の前でさ。出入り禁止にしてやったらどうだい」

「へ?」

 サリウスが頬をかきながら言う。

「別にオレが飯作ってるわけじゃねえぜ? 買い取ったんだ、それぐらいの褒賞はあった。改築して増築して人を雇って……今はぼちぼちさ」

「ほー……」

 そいつは是非行きたいな、そうウォレスは応えたが。もう、雨漏りする山獅子亭クーガーズではないのだろう。


「だろ、来てぇだろ? 来いよな、二、三杯はおごってやるよ。ま、それよりよー」

 サリウスが頬を緩めて笑う。人差指を立て、小突くように突き出してきた。

「あの文書、破いちまってよかったのか? もしかして、いやまさかとは思うが恋文かもよ?  例の元彼女もとカノちゃんからのよ」

「……その話、するかよ」

 そんなつもりはなかった。そんなつもりはなかったが、にらんでしまったのかもしれない。サリウスは笑ったままで表情を固め、一歩後ずさっていた。


 目をそらしてウォレスは言う。

「……とにかく、あの人とはそういうんじゃない。……ま、何だ。じゃあまた、そのうちな」

 きびすを返したその背に、アランが声をかけてきた。

「なあ。山獅子亭クーガーズも、ずいぶん賑わってるんだが。やっぱりおれたちの時とは違うよ、客層が全然」

 ウォレスが顔だけ向けると、アランは続けた。

「おれたちみたいに傷だらけの奴らなんて、ほとんどいないよ。片時も剣や魔導杖を手放すのが怖いって奴ら、宝探しにしろ依頼にしろ、こんな迷宮に潜ろうって、昔のおれたちみたいな奴ら。数えるほどしかいないよ。……おれだって、剣を持ち歩いたのは久々だ」

 表情を消して、視線をさ迷わせて、その後でアランは顔を上げた。

「なあ。お前は、何と戦ってるんだ。九年もずっと」


 ウォレスは顔を背けた。洗濯物を抱え直し、歩き出す。

「お子さんたちにもよろしくな」

 アランたちから言葉はなかった。洗濯物の籠の底、隠し入れておいた不死鳥の唐黍酎フェニリクスのボトル五本。渡しそびれたそれが、がちゃがちゃと鳴いた。


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