晩夏に吸血鬼

月花

晩夏に吸血鬼


 それを“天使が舞い降りた”と表現するにはいささか物騒で、濃い血のにおいをまとわりつかせた女だった。


 大学まで徒歩十分のボロアパート五階。今さっき洗濯ものを干したばかりの狭いベランダに彼女は佇んでいた。ふと気が付いたときにはもうそこにいて、空から降ってきた鳥の羽かのように、音もなく立っていたのだ。


 僕は広げた授業のレジュメが手汗でたわむのを感じていた。テーブルから転がり落ちたシャーペンが物音を立てて、耳にうるさかった。


 遠くで光る満月を背にする彼女は、「私、吸血鬼」と笑う。


「少し休ませてほしいんだ、ここで。ちょっと疲れてしまったから。それで、できれば君の血も欲しい。いいかな?」

「いい、えっ、うん?」

「いいよね?」


 空の暗さと街明かりにたなびく金髪は、染料によるものではないと分かるくらいに艶やかで柔らかかった。


 蒸し暑い夏の夜、窓は長いこと開けたままだった。たった一つの境界線である網戸もカラカラと開けられてしまって、彼女は両足を揃えて部屋の前で首を傾げる。僕は座ったままで、立ち上がることもできなかった。


 いいよね、と二度繰り返された。拒否されるなんてことを知りもしない、尊大な口調で態度だ。


 生まれてこの方二十年と少し、ベランダからやって来たあげくに入れてくれと言われたのは初めてだし、上手い断り文句が思いつかなかったのは、きっと僕の無能ゆえではない。


 僕は言葉らしい言葉を紡ぐことはできずに、しかし傍に置いてあった携帯をつかみ取った。緊急通報は電源ボタンを三回長押し。携帯の振動が手に伝わってきた瞬間、僕は耳元に押し当て、できる限り端的に状況を伝えた。


「不審者です」


 僕は最大限、端的に伝えたのだった。


 君は変なところいつでも冷静だね、と中学校の頃担任の先生に嫌味混じりに言われたことを思い出した。じゃあ変なところじゃないところってどこだよ、と今さらながら思う。


「待って、ちょっと待ってほしいな。落ち着こう。一回落ち着いて話し合おう。私たちは種族の垣根を越えて分かりあえるから」

「知らない人が部屋に入れてほしいと言っているんですが……」

「そんな冷たいこと言わなくていいじゃん!」


 彼女は叫ぶ。これで警察がやって来るまで時間の問題だ。それまでに出て行ってくれればいいのに、と僕が腰をつけたままじりじりと後ずさると、彼女はあわあわと両手を振りながら弁解を始めた。


「私は吸血鬼だけど、怪しい吸血鬼ではなくてだね。身分も保証されている吸血鬼なんだ」

「自分のことを吸血鬼とは言っちゃう人はおおよそ怪しい人だよ。こわっ……」

「だから吸血鬼なんだって!」


 力いっぱい叫んだその時、彼女はビクッと肩を震わせた。思わず僕も全身を揺らしてしまう。


 彼女から次の言葉が飛んでこないので、恐る恐る顔を覗き込むように見上げれば、眉間のあたりを歪ませていて、それはまるで痛みに苦悶しているかのような表情だった。


 そういえば彼女からはむせ返るほどの鉄の臭いが漂っていて、身に付けている華美なブラウスにも真っ黒なシミができていた。ところどころ破れているそれはもはや布切れといっても差し支えはなかった。いや、現代社会においては差し支えるのだけれど、あまりにも異質な状況が脳のリソースを奪っている。


 僕はかすれ声で「痛いの?」と訊いた。何となく訊かなければいけないような気がした。


「それ全部、怪我……? 痛い?」

「痛くないよ。でも、寒い」

「今、九月なのに」

「風邪をひいたときみたいに寒いんだ。さっきからもうずっと。震えが止まらない。あと君が三人に分裂してる。なんで?」

「それは目の焦点が合ってないだけだと思うよ。僕は僕一人だから」


 彼女は「お願い」と懇願するように言った。


「君の部屋に入れて。少しだけ休ませて。それから君の血をちょっとだけ分けてほしい」

「……い」

「い?」

「嫌だって言ったら」

「いいんだ、いいんだ、別に。それなら私はこのまま死んでしまうだけだから」


 あっけなく吐かれたその言葉に、僕はぽかんと口を開けた。反対に彼女は大げさに顔を覆って、「ああ、悲しい」と言う。


「命からがら何とか転がり込んだこの部屋で、せめてもの情けをかけてほしいとお願いしているのに。冷たくあしらわれて死ぬんだ、私は。こんな殺風景なワンルームの、虫の死骸とか落ちてるベランダで。孫に囲まれて畳の間で大往生したいと思っていたのに。そんなささやかな望みさえ叶わずに死んでしまう吸血鬼なんだ。ぐすぐす」


 彼女はひどく雑な泣き真似を披露した。顔を覆う指の隙間からちらちらと様子を伺ってくるのが輪をかけて雑だった。小学生でももう少しレベルの高い命乞いができるだろう。


 けれど何故だろう、僕がとんでもない冷血漢で彼女を虐げる悪者かのように見えてきた。決してそんなはずはないのに。絶対違うのに。


「分かった、分かった」


 僕は両手をゆるく突き出し、観念した。


「なんか馬鹿馬鹿しくなってきた……。ひどい怪我してるのは本当みたいだし、とりあえず入ったら。絆創膏でも血でもどうぞ」

「いいの?」

「僕だって二年掃除していないうちのベランダより、君の畳で死んでほしいし。そこで行き倒れられても困るし。とりあえず消毒――」

「やったあ!」


 先ほどまでの演技はどこへやら、彼女はベランダのサッシを越えて、床にぺたりと足をつけた。足首まで伝った血が形のいい足跡をかたどって、一直線に僕の方まで続いた。


 タイミングを逃し、いまだ立ち上がれずにいる僕の目の前に彼女が立つ。女性の割には背丈のある彼女に見降ろされると、僕の全身が陰る。彼女はゆっくりとしゃがみ込むと、僕の両肩に手を添えた。


「それじゃあ、いただきます」


 僕の首に顔をうずめるようにして、彼女の顔が近づいてくる。一瞬、それは見えた。とても人間のものとは思えない、長く鋭い牙が。


「うわ、マジで吸血鬼じゃん」


 ワンルームに響いたのは僕の間抜けな声。けれど待ったはなしだ。首筋に、太い注射器にでも刺されたような痛みが走った。






 彼女はライラと名乗った。


 昨晩ライラは前触れもなく僕の前に現れて、吸血鬼だと自称したかと思えば血ををねだり、結果僕から上手くせしめていったのだった。


 彼女の用はそれで済んだかに思われたが、しかし朝も僕のワンルームに居座り続けていた。


「吸血鬼って夜行性じゃないの」


 ビニール袋を破ってパンを取りだそうとする。切り口と書かれたところを引っ張るが、ぐにぐにとねじれるだけだ。仕方なくひっくり返して逆から破ろうと試みる。


「人間だっていろいろいるだろう。それと同じで昼夜逆転くらいできるし、朝が得意な吸血鬼も普通にいるよ」

「君は眠そうだけど」

「私はただの徹夜だよ。ん、徹夜って言葉はおかしいな? でも君たち風に言うとそういうこと。ところでそっちこそ眠そうだね」

「僕はどちらかと言えば夜型人間だから……」


 ビニールが破けない。切り口と書いてあるくせに切れない切り口ほど腹立たしいものはない。業を煮やし、ハサミを取ろうと腰を上げると、彼女が「そのまま持ってて」と言う。


「う、わ」


 一瞬で伸びた彼女の爪が、器用にビニール袋を破きさった。人間業でない。僕はコメントに困ったあげく、「ハサミがいらない生活って便利そうだね。宅配の段ボールもすぐに開けられるし」とよく分からない返しをした。


「そんな急いで開けたいことってある? エロ本でも通販した?」


 眠気からか瞬きばかりしているライラは、見た目だけなら人間にしか見えなかった。口元の牙も、今はほとんど目立たない。けれど僕は知っていた。彼女が血を吸う本物の吸血鬼であることや、血を吸うとすぐに全身の裂傷がふさがったことを。


 無意識に首筋をさすっていると、ライラは思い出したかのように口を開いた。


「ねね、由貴はそこにある大学の学生なんだろう? 授業に行かなくてもいいのかい?」

「ああ、うん。一限あるけど今日はいいかな」

「どうして」

「最近このあたりで不審者が出るらしいし。あ、君とは違うタイプの不審者ね。道で声かけてくる感じの。昼夜、男女関係なく突然声かけられて触られそうになるらしいよ。デカい男なんだって」

「私は不審者じゃないよ。それでわざわざ、君は登校自粛しているの?」

「あと寝坊したからもう間に合いそうにない」

「うん、そっちが本音だね」


 ちなみに昨晩、僕は警察に通報したのだが、ライラとの話し合いの末に「別の階の酔っ払いが部屋を間違えたみたいです」と弁解することになった。アパートには「部屋間違い注意!」との張り紙が張られることなり、見かけるたびにライラは「私は酔っ払いではないし、そもそも酔っ払いはこんなビラ見ない」と顔をしかめることになる。


 ベッドに寝転がったライラは「護衛してあげようか」と言い出した。


「お礼! 昨日は新鮮な血をもらってしまったし、明後日ももらう予定だし」

「待って、そんな予定は僕にない」

「まあまあ、お互い遠慮はなしでいこう」

「僕のスケジュール帳には向こう半年、献血の予定はないんだけど!?」

「でも吸血鬼のボディーガード、いざと言うときに役に立つかもしれないよ?」

「そもそも君ってその不審者より強いの?」

「血を吸ってしわしわのミイラにできる」

「次は君がニュースになる番だよ」


 やはり関わらない方が得策な気がしてきた。けれどすでにライラは住みついているし、出て行ってくれる気配はまるでなかったので、どうしようないのだ。


「とりあえず、居候する気ならそれなりのことはしてよ。あと危害を加えてくるなら今度こそ通報するから」

「そこは信用していいよ。私たちはきっとウィンウィンの関係を築けるから」


 ライラはぐっと親指を立てた。






 僕がライラについて知っていることはほとんどない。何となく訊くことが憚られたし、訊いてもまともな答えが返ってこないのだ。


 けれど状況だけを整理すると、分かっていることは三つある。


 一つ、彼女は本物の吸血鬼である。二つ、僕に害をなすつもりはない。三つ、彼女は時々こっそり外出しては何かをしているらしい。


 どうしてそんなことが分かるのかと言えば、僕が外出する前と後では、ベランダのものの位置が微妙に変わっていたり、彼女から外のにおいがしたりするからだ。


 あとは夜になると僕の血が欲しいと言いだしたりするくらいである。間隔はまばらで、連日のこともあれば三日何も言わないこともある。そして今日は言った方の日だ。


「それなりに痛いから嫌なんだけど……」

「ボディーガード代ってことで、ね?」

「横暴にもほどがある」

「そこは人命救助だと思ってさ」

「君は人じゃないじゃん」

「吸血鬼の命を救えるなんてかけがえのない経験してるよ、由貴は。すごい、すごい」


 寝る直前、急に言われたので電気は消したまま、照らすのは外からの灯りだけだ。


 ライラはとても丁寧に血をすすった。


 まずは僕の服が汚れないように襟ぐりをぐっと広げる。そして指の腹で首筋をさすって血管を探る。それからゆっくりと顔を近づけて、牙でぐにぐにと甘噛みをし、今からここを刺すのだと言外に教えてくる。僕が詰めた息を無意識に吐き出し、身体を弛緩させた瞬間、彼女は一瞬で牙を差しこんだ。


「――っ」


 跳ねた肩を優しく押さえつけられる。ライラは存外力が強い。僕は浮いた腰をゆっくりとベッドに沈める。


 ちゅるちゅると音がして、太い血管から血が出ていく感覚がしていた。ぞわぞわとした寒気と、独特な浮遊感に支配される。献血と言うにはあまりにも倒錯的だった。だらんとさせたままの両腕の行き場がない。僕は洗濯したばかりのシーツを掴んで皺をつけた。


 わずかな血をじっくりと時間をかけて飲んだライラは、静かに牙を引き抜いて、傷口から垂れそうになった血をぺろりとなめとった。ツンとした鋭い痛みに、僕は「痛い」と苦情を申し立てた。


「だって服が汚れてしまう」

「痛いものは痛い」

「ごめんって、ありがとうね。おやすみ」


 肩をトンと押されて、僕はベッドに倒れこむ。そのままブランケットをかけられてしまえば、まるで子どものようだった。僕はぽつりと呟く。


「ライラ、君は僕以外の人からも血を飲んだりするの?」


 ベッドの端に座った彼女はにやにやと笑う。


「なあに、嫉妬かな?」

「人の発言を曲解しないでほしい」

「今は君だけだよ」


 つん、と額をつつかれる。


「許可のない吸血は法にも倫理にも反する。それに君の血はすごく美味しいんだ。傷の治りもすごくいいしね」

「君の怪我って、とっくに治っているんじゃ……」


 彼女は「早く寝なよ」と、とんとんとリズムカルに僕の腕をたたいてくる。そんなもので誤魔化されるつもりは毛頭なかったのだが、血を吸われた直後は麻酔をされたときのように眠気がひどく強まるので、僕はあっさりと誤魔化されてしまったのだった。






 夜にふと目が覚めるときがある。


 ぱち、と両目が開いた瞬間に僕の意識は覚醒していた。まるで今さっきまで起きていたかのように、思考も視界もクリアだ。完全に眠気が飛んでいた。それこそ麻酔が切れた時のように。


「……?」


 いるはずの彼女を探して、いないことに気が付いた。ライラの姿はどこにもなかった。


 ベランダへ続く窓は開いていて、カーテンが時々膨らんだ。つきっぱなしの扇風機はゆるゆると首を振っていた。僕はベッドに座ったままでわずかに逡巡し、それからおもむろに立ち上がる。寝巻のジャージに一枚、薄手の上着を羽織って扉へ。サンダルを足に引っかけて外に出た。


 ライラが時々外に出ていることは知っていた。けれど彼女が何をしているのかは知らなかったし、訊いてもはぐらかされるだけだった。確かめたいという気持ちは日に日に大きくなっていて、それは彼女へ向けた疑惑や懸念でもあったのだ。


 深夜三時。大通りでも車は通らない。電灯と自販機だけがぴかぴかと輝いていて、僕は深く息を吐いた。


 あてなどなかったので、ふらふら、夢遊病のように歩き回る。同じところをぐるぐる回って、かと思えばいつのまにか知らない道に出ていたり。眠気はなかったけれど、どこかぼんやりしたままなのは、ライラに血を持っていかれたからかもしれない。


「ライラは、本物の、吸血鬼……」


 首筋をそっと撫でる。眠ってしまう前、彼女の牙に刺された場所は、もうほとんど分からないくらいに塞がっていた。痛みもない。うっかりすると、あれは僕の妄想か何かだったのかと自分でも思いかねないほどである。


 じっとりとした湿気を含んだ風が吹く。


 遠くのマンションの屋上に、ライラはいた。


 目を凝らしてようやく分かるくらいの距離で、ここからでは米粒くらいにしか見えない。彼女はテラスの柵の上に立っている。落ちたら骨折では済まない高さだというのに、彼女は恐らく裸足で直立していた。風にたなびいている金髪はきらきらと光るようだ。


「ライラ――」


 彼女がふと、こちらを見た気がした。


 あんなに遠い距離なのに、僕の両目は僕にそう訴えてくる。彼女が僕の方を見て、そう、何かを言った。牙の覗く唇を動かして。


 僕が一歩前に踏みこんだのと同時に、後ろからトンと肩を叩かれた。


「え?」

 

 男だった。


「え――?」


 身長は百九十センチ以上ある。がっしりとした体格で筋肉質。生物学上男の僕でも、一瞬で勝てないと理解してしまうほどの体格差。そんな男に肩を叩かれて、そしてそのまま強く掴まれた。動けない。


 次の瞬間、僕の脳はすこぶるよく働き、このあたりに不審者が出没していることを思い出していた。大柄の男らしい。今非常にまずい状況なのではないか、と背筋がぶるりと震えた。心臓がぎゅうと縮まって、息が止まる。とっさに身体が動いたので、振り払おうとしたけれど案の定ビクともしない。


 男の口には、長く鋭い牙が生えていた。それが何なのか、もう僕は知っている。


 男が何か言ったような気がした。そして瞬きほどの速さで首筋に噛みつかれていた。牙が刺さって、全身が跳ねる。かと思えば血が吸い上げられて、手足が震えた。


 痛かったからだ。ライラがそうするのとは比べようもないくらいに痛くて、怖くて、冷たかったから。全身が痙攣しそうなほど強張っていた。


「……っ、……ッ!」


 力が入らない。目の前がくらくらして、目の前がチカチカ瞬いたかと思えば暗くなる。平衡感覚がなくなって、自分が真っ直ぐ立っているのかすら分からない。膝から崩れていく。寒気がして鳥肌が立つ。


 意識すら飛ぶのではないかと思うほど血を吸いあげられて、呼吸も浅くなったところでようやく牙が引き抜かれる。


 そのまま男は僕を担ぎ上げて、その場から離れ始めた。両足で駆けている。だがその脚力は人間というより獣のようだ。僕の身体は上下左右ぶらぶらと揺さぶられ、酔いで吐きそうだった。


 男の足は壁を蹴った。そのまま跳ね上がって家の屋根へ。次々に高い場所へ飛び移って夜の空を走る。僕は確かに宙を飛んでいた。


 あたりは開けていて、遮る物のない景色の中で僕は彼女を見つけた。


「ラ、イ、ラ」


 彼女は生身のままで空に浮いている――違う、重力で落ちているだけだ。服の裾がひるがえって、乱れた金髪が空に広がっている。


 いや、ライラだけではない。もう一人いる。女か男かすら分からない、禍々しい黒い羽を持つ異形。


 あれも吸血鬼なのだろうか、まさか仲間だったりして――とじいっと見つめていれば、ライラはすらりとした足を強かに振り下ろし、脳天に向けてかかと落としを見舞ったのだ。僕は両目と口を開くしかなかった。


「何あれ、何あれ、何あれ……」


 そこからはもうすさまじかった。


 ライラは踊るように宙を舞う。髪を振り乱しながらぐるりと一回転。異形を蹴りつけた反動で跳ね上がって、もう一撃。相手の爪がかする瞬間は身体が掻き消えて、黒い霧のように霧散する。すぐに彼女の身体が形作られて、両手足を広げた彼女は夜空を落下した。


 ライラは異形の身体にしがみつくように抱きつくと、子どもみたいに両手足を強く絡めた。肉を食らう狼ように噛みついて、その血を吸いあげる。異形は抵抗するように彼女の背に爪を立てた。それでも彼女は離さなかった。その背からはぼたぼた血が垂れていたのに。


 隕石みたいに落ちていった二つの姿は、ビルの陰へと消えた。


「ライラ……」


 気づけば手を伸ばしていた。


「ライラ!」


 思い出したように手足をばたつかせて抵抗する。貧血は収まっていなかったが、死ぬ気で、それこそ残った力すべてを振り絞るようにして暴れた。男が困ったように顔をこちらに向けたので、僕はグーで殴ってやった。人生で最も華麗に裏拳が決まった瞬間だった


 男は僕を落っことし、僕はコンクリートの地面にごろごろと転がった。全身が打身だ。這いずるように立ちあがって振り返ると、男は顔を押さえながら唸っていた。膝に手をつきながら立ち上がって、僕は駆けだした。ライラが落ちていった方へ。


 ここがどこかも分からないのに馬鹿みたいだ。


 いつの間にか靴が片方なくなっていて、裸足に小石が刺さってつまづく。「うっ」と声を漏らし、思わずうずくまっていると、頭上から影が落ちた。僕はゆっくり顔を上げる。


「熱烈なラブコール、どうも」


 黒い霧がわっと降ってきて、彼女は目の前に降り立った。音も気配もさせずに、あんなに遠い場所から僕のところへやって来たのだ。


 彼女の服はやはり布切れ同然で、喉の奥から何かこみ上げてきそうになるくらい、血のにおいが充満していた。べったりと濡れた髪をかき上げたライラは、「やあ」と片手を上げると、ひょっこり僕の後ろを覗いた。


「さっき、由貴の保護お願いって言ったのに。なんで鼻血出してるの。転んだ?」


 僕は声を上げながら振り向いた。男は顔をごしごしと拭いながら涙目で僕を指さした。


「その子、いい拳もってますよ。混血とは思えない」

「なに、おまえ保護対象からぶん殴られたんだ? だからいつも言ってるだろう、吸血で気絶させてから運んだ方がいいって」

「かわいそうじゃないですか……。そもそも許可のない吸血は法的にアウトでしょう」

「緊急時にナンセンスなこと言うなよ」


 話がまったく見えてこない。僕が首を左右に振りながら二人の顔を見ていると、ライラが「おっと」と呟いた。考えるように口をつぐんだかと思えば、パンッと手を叩いた。


「というわけで! 一件落着さよならホームラン!」

「さては説明する気がないな?」


 じろりと睨むと、ライラは「視線が冷たい」と文句を言った。


「うーん、仕方がないので端的に述べると、私たちは君を保護しに来た味方なんだよね」

「端的すぎてわけが分からない」


 鼻血の跡の残る男はポケットを漁り、手帳のようなものを取りだしてきた。彼の顔写真の付いたそれには、「日本吸血鬼安全保証協会」なる怪しげな文字が連なっていた。僕の白い目に気が付いたのか、男は咳払いをする。


「我々は日本政府から正式に認められた組織です。日本に存在する吸血鬼の安全と秩序を守るため、秘密裏に活動しています」

「うっそだあ……」

「そ、そう言われましても。君のような混血、つまり祖先に吸血鬼をもつ者を保護しているんです」

「……うん? あれ、ん? ストップ」


 僕は説明を一時停止させて考える。何か聞き流してはならない言葉が出てきた気がする。


「混血って、誰が」

「君だよ、君」


 ライラが僕を真っ直ぐに指さしていた。僕も僕を指さす。


「君ね、五代前に吸血鬼がいるんだよ。つまり混血。我らが同胞。ちょっとだけ吸血鬼」

「ちょっとだけ吸血鬼!?」

「思い当たること、あるんじゃないのかい?」


 考えてみろ、と促されたので首をひねる。言われてみれば僕は昔から夜型で、目がすこぶる良くて、傷の治りも早い方で、三時間もあればライラの付けた傷跡くらいなくなってしまうが、まさかそんなわけ――。


「……うっそだあ……」

「納得したかな。でも実際、君みたいなのは意外と多いんだよ。概算でも一万人に一人、人数にすれば日本でおよそ一万人だ」


 ライラは僕の胸元をつんつんとつつきながら、「混血は狙われやすい。純血主義はどこにでも湧くものだからね」と言った。


「ターゲットが君の血の気配をかぎつけたから、私たちも追いかけてきたというわけさ。だがこの前予想外のエンカウントをしてしまってね、あのザマだよ。まあおかげで君の家にうまく潜りこめたから結果オーライだが」

「じゃあ、なんで僕の血ばっかり吸ってたの」

「君の血を取りこんだ私が囮になる計画だからね。ちなみにそっちの男は部下だけど、君の捜索中に手当たり次第話しかけてたら通報されて、不審者になったみたいだよ。笑える」

「まあ僕も君を通報したけどね」


 ライラはうっかり墓穴を掘ったので黙りこんだ。男は「人のこと言えないじゃないですか!」と至極嬉しそうに叫んだが、ライラは拳を一発入れて物理的に黙らせた。


「つまるところ、仕事だよ。私たちは君を守るという任務についていた」


 ライラは僕の手を取って、踊るようにくるりと回転させた。


「由貴は今、私たちの保護下に入っている。もうしばらくは私たちに付き合ってもらうよ。なに、君の安全が確保できたらすぐにでも出ていくさ。もうしばらく、厄介な居候だとでも思ってくれればいい」

「…………」

「それと、これは保護とはなんら関係ないから断ってくれてもいいんだが」

「うん」

「君の血が欲しいなあ。このままだと死んでしまいそうなんだ」


 彼女は眉を下げて困ったように言った。甘えるような声色で。僕はしばらく悩んでから、「嘘つけ、君さっき変なやつの血を吸ったんだから治ってるでしょ」とすげなく返した。彼女は一瞬呆気にとられたような顔を見せたが、けらけら笑う。


「ならもっと正直に言うよ。私は今とてもお腹が空いていて、君の血が大好物なんだ」


 違う、正直に言えばいいってものじゃない。片目ウィンクもしなくていい。やたらキラキラしたオーラを放つな。


 けれどそこにいたのは僕の知っているライラだ。ある日突然やってきた、自分都合で図々しい吸血鬼。仕事だとか任務だとか、薄情なことは言わない彼女。


 僕は深いため息をついてから、首を傾けた


「君は勝手だよ」


 腰に回った腕に引き寄せられる。傷だらけの吸血鬼は、やはり丁寧に僕の血をすするのだった。






「ライラ、また僕の靴下片方もっていっただろ! 返してよ!」

「君のは全部ユニクロの黒なんだからいいじゃん。一個なくなっても一緒だろうに」

「奇数の靴下ほど役に立たないものってある!?」

「漢検二級とか?」

「就活の話じゃないよ!」


 夕暮れ時、マンションの一室で繰り広げられるこのやりとりも四回目だ。


 二年経ってもライラの見た目や怠惰は変わらない。しかし時は順調に流れていくもので、僕は見事に内定を勝ち取った。


 ようやく慣れてきた白シャツとネクタイ。ジャケットについたピンをまっすぐに正して、廊下をばたばた走る。もう扉を開けて待っているライラは、「いつまでも学生気分じゃ困るな。君はもう社会人なんだから」とにやついた顔で言う。


「今履いてる靴下返してから言ってよ、先輩」

「生意気だね、後輩。あとこのシャツも君のかもしれない」

「はあ!?」


 扉を閉めて、鍵をかける。ポケットに放りこもうとして、すでに入っている手帳にこつんと手がぶつかった。


「手帳は左胸にいれるものだよ」


 彼女はふふっと笑って、僕のポケットに躊躇なく手を突っこんだあげく、僕の手帳を抜き取った。『日本吸血鬼安全保証協会』の刻印が電灯に照らされてきらきら光る。


 中の証明写真を眺めたライラは、「君って写真映りいいんだね。まったく羨ましいよ、女子の敵だ」と言った。


「っていうかライラ、写真映らないじゃん……」

「だって吸血鬼だもの」


 ライラはいたずらっぽく目を細めた。

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晩夏に吸血鬼 月花 @yuzuki_flower

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