001

@AIRAOBAKE

凍瘡


 パウロは、一面の雪景色の中、両手を広げ、ギュッと目を瞑って笑った。



 ──ハンクリンクスは、山岳に囲まれた田舎街だ。冬になると気温が一気に落ちて、雪が2mくらい降り積もる。そんなんだから、たとえお隣さんが屋根から垂れる氷柱つららを一本残らず手で折る、なんて奇行をしていたとしても、誰の目に入るわけもない。

 この街にとって雪っていうのは都合のいいものだってパウロが言ってた。綺麗な景色も、嫌な思い出も、全て隠してくれる。汚くて醜いものを、真っ白に塗り替えてくれる。

 そんな冬が好きだって。だから僕も好きになった。

 冬になるとみんな、寒さを凌ぐのに必死だ。酷い時は-30°を下回ることもある。ウシャンカもかぶらず外に出た日には、耳なんて凍って削げ落ちてしまうかもしれない。考えただけで恐ろしい。

 だから今日も家に籠った。パウロはロッキングチェアに揺られながら目を瞑っていた。

 僕はなるべく物音を立てないよう、大きな暖炉に薪を足して、癖のある匂いのアロマを焚いて、糸のほつれたボロボロのブランケットに包まれながら、淹れたてのルクリリにミルクをたっぷり。

 …そういえばパウロは甘いのが苦手だったっけ。

 凍てつくような厳しい外の世界とは裏腹に、パチパチと音を立てては、体を温めてくれるこの空間は、簡単に僕のことも微睡みの中に誘っていった。



 パウロは僕のことを抱きしめた。

「ひとりじゃないよ」って、何度も言ってくれた。そうやって強く抱きしめられる度に、

僕は「苦しいよ、パウロ」って困ったように笑った。

 僕はこの街の外から来た。家族や学校という檻から逃げ出して、この閉鎖された街に何も持たずに一人でやってきた。そんな僕を、何も言わずに拾ってくれたのがパウロだった。

 パウロは色んなことを教えてくれた。この街の冬にはウシャンカが欠かせないってこと、お隣さんが屋根の氷柱つららを一本残らず手で折ってるらしいってこと、暖炉の薪はくっつけて置いちゃダメだってこと。そして、この街に怪物がいること。



「怪物がきた!」

 パウロがそんなに声を張り上げてるのを初めて聞いた。その声を聞いてお隣さんも、街の人も慌てて、ウシャンカも被らずに外に出てきた。

「おい、あっちを見ろ!」

「来てしまったか… でもここまで来ないだろう。」

 僕は1歩も動けなかった。

 幻か何かだと思っていた"怪物"がすぐ近くにいるという恐怖に全身の力を支配された。

 そうして立ち尽くしていた僕に、パウロが半ば強引に猟銃を持たせた。

「いい?よく聞いて、俺が囮になる。だからさ、君が仕留めてくれる?」

パウロは僕の目をジッと見た。決意に満ち溢れたパウロの表情を見て、そんなこと僕には出来ない、なんて口が裂けても言えなかった。


 怪物がきた。雪がビッシリとこびりついた住宅を横目に、北の方角へ向かっていた。僕が屋根の隙間から見たのは、想像していたより遥かに大きく、街なんて一瞬で飲み込んでしまいそうな程大きな影だった。先に怪物の方へ走っていったパウロのことを想えば、僕はまともな判断ができる状態ではなかった。

 パウロが帰らなかったらどうしよう、僕が仕留められなかったらどうしよう、この街が潰れてしまったら、どうしよう。気がつけば僕は自然と怪物の方へ、確実に歩を進めていた。



「 ───!」

 パウロの声だ、なんて言ったのだろう。僕は聞き返そうとそちらを見た。パウロは山の中腹辺りに立っていた。そのすぐ後ろに、先程見た大きな影があった。怪物に違いない。僕に迷ってる暇などなかった。

 だから、ソレに向かって引き金を引いた。



 静かな冬空に、銃声だけが響いた。



 その音が僕を冷静にさせた。なんだ。怪物とは、これだったのか。パウロは雪に埋もれて、姿が見えなくなった。本当に馬鹿だなあ、パウロは。

 僕は雪に足を取られながらも、必死にパウロが立っていた場所まで走った。もしかしてもう、重たい雪に閉じ込められて息もできないんじゃないか。このまま雪の中で死んでしまうんじゃないか。

 …やっとの思いで辿り着いた瞬間、微かに雪がモゾモゾと動くのを感じた。そこから出てきたのは生きている人の手だ。パウロの左手だ、間違いない。僕は夢中で雪を掘った。急いで出てきたものだから、勿論手袋なんてしていない。指の感覚がなくなっても、指先が紫色になっていても。掘り続けることだけはやめなかった。

 パウロが生きていますように。そう願いながら流れた涙は寒さで凍り始めていた。


 何分経ったのだろうか。やっとパウロの上半身が雪上に出た。しっかり息のできる空間を確保していたらしく、パウロは無事だった。良かった!生きていた!パウロは生きていた!

 パウロは息を切らしながら雪上へと自力で這い出てきた。そのまま直ぐに力なく仰向けに倒れ込んだパウロの身体を見て、僕は目を疑った。

 パウロの胸元が赤かったのだ。僕は、僕がやってしまったのだと直感で理解した。

 当の本人は「ねえ、怪物はいなくなったの?」なんて呑気に聞いてくるものだから、僕の口からは「嘘つき」って言葉が勝手に出ていた。

「嘘つき、嘘つきうそつき…!怪物なんて嘘だった!そんなものいなかったんだよパウロ!これは、ただの雪崩だ…!」

「なだれ、って…怪物の名前?あはは…君の方が怪物に詳しいとは思わなかったなあ」

「なんで!なんでだよ…!僕に猟銃なんて」

「ありがとう、君が仕留めてくれたんでしょ?」

「違う、ちがうよパウロ、違うんだ」

「おかげさまで、この街は飲み込まれないで済む」

「そんなこと、言うなら…!




 ──お別れみたいな顔、しないでよ」


 パウロは、一面の雪景色の中、両手を広げ、ギュッと目を瞑って笑った。


 その日も雪が降っていた。

 次第に、見たくもないパウロの赤は、白に染まった。僕はもう、すっかり感覚の無くなった体温のない手のひらでパウロの手を握りながら、熱い涙を流していた。


「ぜんぶ終わったよ、帰ろう?パウロ」




 …気がつけば暖炉の火は弱くなっていた。隣から漂う、鉄臭い匂いをかき消すために焚いた、癖のある匂いのアロマも、既に無意味になっていた。机の上には冷めたミルク入りのルクリリと、ミルク無しのルクリリ。

 僕は窓から入り込むすきま風になんて凍えもせず、どれだけ暖かい部屋の中に居ても温まることの無い、ジクジクと痛むこの心を"愛おしさ"だと勘違いして彼を抱きしめた。

 ひとりじゃない、そう思えばこの閉鎖された街の中で、いつまでも生きていける気がした。


2杯のルクリリをすっかり飲み干した僕は「苦しいよ、パウロ」って困ったように笑った。

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