いろんな意味で大惨事


 眠れない。



 わたしはベッドの中で、三十回目の寝返りを打つ。



「なんだろう、引越でテンション上がりすぎて脳みそが興奮状態なのかな……」



 ベッド脇に置いていたスマートフォンを拾い上げ、ネットでも見ようかな、と思うものの。



「いいや、一回起きて、ちょっと気分変えよう」



 三十一回目の寝返りとともに、わたしは勢いをつけて体を起こした。



 枕元のリモコンで部屋の明かりをつけると、ふんわり桜色のあたたかい光が灯った。



 コンタクトレンズや眼鏡を通さずに見るその甘やかな光の照らす部屋の中は、なんともいえない乙女心をくすぐるムードに満ち満ちている。



「いやー、この灯りもやっぱ可愛いや」



 んー、と伸びをしてベッドに腰掛け、ふう、と一つ息をついた、その瞬間。



 わたしの足元をす……っと掠める、妙に冷たい気配を感じた。



「ん? ……え?」



 枕元に置いた眼鏡を取り上げ、わたしはそれを掛けて、そして、



「きゃーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」



 盛大に悲鳴を上げた。真夜中ということも忘れて。







 転居初日の真夜中。わたしは新居で大量の白い泡だらけとなった床に、放心状態で座り込んでいる。顔を涙と鼻水まみれにして。



 傍らには、大量のティッシュで膨れ上がった、新たなゴミ袋がひとつ。その口はぎゅうぎゅうに固く固く縛られている。



 そしてその向こうには、中身を一気に全て使い切り、それを持っていることにすら耐えきれず床に放り出してしまった、空の殺虫剤の缶が転がっている。



 その缶の表面に、やたら可愛らしくデフォルメされて描かれている、さっきまでわたしと死闘(まさに死闘だ、こっちは向こうを殺すつもり一択だったのだから)を繰り広げた、黒い何かの姿が、今は憎い。全くもって憎い。



「……もう、なんだって初日からこんな目に……」



 ホウ酸団子を買い忘れたのはやはり大失敗だった。薬局に行った時にうっかりしていた自分が本当に今、恨めしい。



 垂れてきた涙と鼻水を思わず袖で拭ってしまい、おろしたてのパジャマの可愛さも台無しである。



「ラグをひいていなかったことだけが、唯一の救いかな……」



 初日から殺虫剤に塗れるラグ。運が悪ければ、その上で例の黒いヤツが息絶えたかもしれないラグ。冗談じゃない。許せない。わたしはとにかく名前にGのつくあの黒いものが大嫌いなのだ。



 どのくらい放心していただろうか。



 涙と鼻水もおさまって、少し落ち着いてきたところで、ぼんやりと冷蔵庫の横に置かれた電子レンジを見やる。



 液晶画面に浮かぶ時刻は、2:52。



 そのまま、隣の冷蔵庫に視線をスライドさせる。



『ゴミ出しは、収集日の朝にしてね☆ 特に夜明け前のゴミ出しは、絶対厳禁だよ☆』




――無理無理無理無理無理無理無理無理。無理。




 わたしはふらふらと立ち上がり、キッチンから引っ張り出した割り箸の先に、その泡に塗れたティッシュだらけのゴミ袋をひっかけ、へっぴり腰でそうっと玄関のドアを開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る