雪に咲いた花

@togiri

 まだ窓の外には雪が降っている。

 葉を落とし枝のみになった木々が、真っ白な綿雲を被った様だ。

「まだ春は遠い・・・」

 何度目かの冬。見慣れた景色を一瞥し、暖炉の上のカメラを見やる。だが、私は首を横に振る。

 いや、もう撮るほどの情熱が私の中には残っていない。

 木造のぬくもりある室内、茶色いレンガの暖の前で私はカップを口へ運んでいた。

 誰が言ったか、正にしんしんと聞こえるかのような雪模様。

 別荘地でもないこの森の中、私だけがスローな時間に浸っている。

 買い物をするのも不便な状況だが、この家だけが私の最高の贅沢だ。

 ソファに腰掛け薪の弾ける音だけを聞き、静かに景色を楽しんでいると林の中何かが動く気配がした。

 おや?・・・確かにこの森にも野生の獣が動き回る事はあるが、こんな雪の中いったいどんな姿が現れるのか・・・・。

 私は窓際まで寄ると、右隅の気配を追った。

 茶色い毛皮が見えた、が・・・動いている様子は無い。

 あんな所で眠りこけるものが居る訳も無い・・コートを取ると雪の中へ出た。

 この辺りで見掛けた・・・と林の中を雪に埋まりながら歩いていると、あの茶色が見えた。

 狐かな・・・・と、近寄るとそれは狐などよりもずっと大きな、狼の様な姿だった。

 私を見上げ牙を剥くが、動くのも辛いのかぐったりと横たわったままだ。

「どうした・・・腹が減っているのか?」

「ガルルルル・・・・・」

 動く事も出来ないと解っていても、自分のプライドをまげない強さに感銘を受ける。

 何かしてやりたい・・・・・

「待ってろ・・・・」

 私はコートをその背にかけると小屋へ戻り、調理用の生肉を固まりごと持って行った。

「食べろ・・・」

 しかし食いつく気配は無く、私にしきりに唸るばかり。

「プライドは大事だが、それでこの雪に埋もれては仕様が無いだろう」

 言葉が通じる訳でもないが、その狼をこんな所で失いたくなかった。

 それでも威嚇は止まず、とりあえず私は折れてその場を離れた。

 翌日息絶えているのではと、雪の止んだ森へと出るとあの姿は無く肉槐も無くなっていた。

「食べたか・・・・」

 妙に安堵と笑みがこみ上げ、安直に生き延びたと確信した。

 しかし自然界の厳しさと言うものから考えれば私の取った行動は頂けないものだと反省もしている。

 それでも同じ状況になれば、また私は同じ行動を取るだろう。それが自分のエゴだと解っていても・・・・

 と、森の中に蠢くものが居る。それは見覚えのある私のコートだった。

「ん?」

 コートはひらひらと風にでも舞うようにこちらへとやってくるが、あのコートは風で巻き上げられるほど軽いものではない。注意して見ているとコートの下に足が見えた。

 昨日の狼が引っ掛けて行ったコートを、誰かが拾ってかけているのだろうか。

 別段そのコートに執着している訳でもないのだが、近寄ってみる事にした。

 コートの運び主はすっぽりと頭からコートを被っており、背は低く足しか見えない状態だ。

 こんな森の中に子供の迷子か・・・・・?

 不審に思った私は自分から声を掛ける事にした

「こんちにわ」

 びくっとコートが立ち止まり、中からこちらを覗いている。

 その瞳は大きくきらりと輝く金色をしていた。

「こんな所でどうしたんだ?」

 私をじっと見つめ上げている

「これ・・・・」

 その声は少年とも少女とも付かず短い髪型からもどちらかの判断が付かない。

 その子は自分の羽織っているコートを私に向かい差し出していた。

「ああ・・・・私のコートだ、ありがとう」

 落とし主に届けようと森を歩いていたのか・・・。

 こんなすれた世の中に感心な子だ、と普段は愛想笑もしない私が自然微笑んでいた。

 子供は満足そうにはにかむと、くるりと背を向け去ろうとした。

「あ・・」

 格別理由が有る訳でもないというのに私はその背中が去る事を阻止した。

 声に子供はさっと振り返ったが、後に続く言葉が出てこない。迷った私は下手な誤魔化し方をした

「・・・何か暖かいものを飲んでいかないか?」

 また笑顔。

 付け焼刃な咄嗟の誘いに子供は上機嫌だ。

 それはそれで良かったが、生憎私の小屋にはこの子が好みそうなココアやチョコレートドリンクといった気の利いたものは無くホットミルクを出す事になる。

「こんなものしか出来ない・・・」

 差し出されたホットミルクのカップを覗くと、無防備にぐいっといったものだから度肝を抜かれ慌てた

「お前っ!そんな思いっきりじゃやけどする」

 言い出した時には既にカップをショックのあまり放り出し涙を浮かべた顔になっていた・・・・全くなんだって危なっかしい

「こちらに来て・・・」

 流しへ連れて行くと蛇口から流れる水に口を突き出させる。

 そうして暫くそのままでと指示すると、転がったカップとカーペットの後始末をする。

 ホットミルクの白い染みを拭きながら、そそっかしいと言うか・・・・あわてんぼうと言うか・・・変わった子だ。と溜息ながらも憎めなく感じていた。

 注ぎなおしたホットミルクを今度はやたら警戒して飲み干し、帰っていった。

 気を付けて帰れといったが・・・一体この森の中何処からやってきたのか・・。

 まるで近所の公園にでも行く様に手ぶらで歩いていた姿は、森を彷徨うには不自然だ。私の様に変わり者が何処かに小屋でも持っているのか・・・・何にせよ聞いてみても良かったのだが・・・

「今となっては、だな・・・」

 その晩私は不思議な夢を見た。

 森の奥で今日の子供が蹲って眠っている姿を空から見下ろしているという、おかしなモノだった。

 目覚めてもまだその内容だけでなく、浮いていた感覚まで思い出された。

 人里離れ暮らす事を好み此処に暮らし始めてから、他人の出てくる夢を見たのは初めてだった。しかも昨日出会ったばかりの子供を夢で見るとは・・・・。

 そんなにも人肌恋しいと思った事は無い。近頃稀に見る純粋そうな子だったとそうは思い気分は良かったが、夢に見るほど私はあの子を知らない。

 しかも積雪の残る森の地べたに蹲り寝ているなんて想像何処から出てこようか。

 自分の中に驚かされる経験が残っていた事にふいを付かれたが、その夢すら翌日にはうろ覚えになっているのだろうと気に病むほどの事は無かった。

 しかしその晩も同じ夢を見た。

 全く同じあの雪の中眠る子供を見下ろしているというもの。

 翌日目が覚めての第一声

「・・・何なんだこれは・・」

 さすがに続けて同じ夢を見ることは珍しい、そしてこのまざまざとした体験という感覚。

 私はまた降り出した雪の中、森へとふらりと足を伸ばしあの子供と出会った場所へ行ってみた。すると

「!」

 あの子供が木陰からこちらをじっと覗いていたのだ。

 子供は私と目が合った瞬間鳥の様にぱっと身を翻し消えた。

「待てっ!」

 私は二三歩その子の方へと駆け出し、諦めた。

 既にあの子の動いた気配すらなくなっている、なんて素早さだろうか・・・・。

 呆然とその場で消えた後姿を捜し見つめていたら、肩には雪が津も積もり体は冷え切りくしゃみが出た。

「ふぇっくしょーい」

 私は心残りを残しながら小屋へ退散した。

 しかし今日の事ではっきりした、あの子は普通ではない。

 あの雪の中を飛び去ったような素早さ、そして何をしていたのかは解らないが私と目が合った途端に逃げ出した事・・・どちらからしても普通ではない。

「明日もきっと来る・・・」

 そう半分望みのように思案しながらその晩も眠りに付いた。

 そうしてまた同じ夢を見た。

 あの子が寝ている・・・注意してよく見てみると、その口元に何かある。あれは今までも有ったのだろうか、それとも今までとは内容が違うのか?

 私の目覚めは酷く鈍いものだった。

「・・・・何なんだ・・・・・」

 ベッドの中で頭を抱え思い出す、その子供の口元にあったものが何か。

 しかしそれは夢の中でいくら目を凝らして捉えようとしても判断出来なかった。

 それを今目覚めてもなお目を凝らしてみようとしているのだから・・・・私は執り憑かれてでも居るようだ。

 顔を洗いに洗面台へ行く。取り付けられた壁の鏡に写った顔は酷い顔相だ。

「はぁ・・・・」

 此処の所の夢見の悪さに寝ても寝た気がしていない、目覚めもどんよりと鈍くこれは完全に疲れた顔だ。

 その疲れを追いやろうと思い切り水で顔を流す。

 ばしゃんっ。

「っ・・・・」

 さすがに真冬、室内でも水は堪えるほど冷たい。お陰で顔相は変えられずとも、瞳だけは冴えた。

 無理やり叩き起こされた脳を付き合わせ、私は軽食とホットコーヒーを素早く取ると森へ出た。

 今日は完全防備何処からあの子供が現れようと即座に追い掛けて捕まえてやるという意欲がみなぎっていた。

 空は青く澄み、降り積もった雪原を輝かせる。

 その真っ白い景色の中に不似合いな茶こけた色が踊った。

 見つけた!

 私はまどろっこしい画策は建てもせず、ただ猛然とその影目指し走り抜けた。

「!!」

 子供の驚きの表情が視界で捕らえられる。

 これは逃げ出す・・・・そう思ったかどうかその子の背中が森へと飛び出す。こうなってしまっては、またあの驚異的なスピードで振り切られてしまう。

 脳裏の絶望をひしひしと感じながら、私の膝は震え崩れそうな疲れをぐっと堪え走り続ける。

 知りたいのだ、あの子の事を・・・何故こんな森を何時までも一人歩き回るのかを・・・・・そして、何故私の夢に出るのかを・・・・。

 私の執念は、その子の背中にだけ注がれていた。

 しかし私も若くはない・・・・・慣れない運動だというのに滅茶苦茶なスピードを出す事で身体は悲鳴を上げていた。

 視界が霞むようにぼやける。ああ・・・・もう駄目か・・・・・見失うのか・・・・・あの背中を・・・・・・また今夜も夢に見るのか・・・・・・。

 力なくよたつき、既に走っているとはお世辞にも言えなくなった足取りで私はまだ諦めきれず追い掛けていた。

 あの子が何時見えなくなっても後悔しないよう自分の出来る限るを尽くすつもりで、よろよろと追いつく訳の無い足を前へ前へと出している。

 だがそんな意地も、もはや限界・・・・私は遂に足を止め冷たくきらめく雪の中に両手両膝をつき嗚咽を漏らした。

「ゲハガハ、ゴホッ!ウェホッエホッ!!」

 胸が苦しい・・激しすぎる呼吸で肺が潰されるようだ。

 寒さも冷たさも構わず、というより感じる事無く私は全身の力を抜き雪へ埋もれた。

 どさり、と重たい荷が降ろされたかの音を、うつろう意識の中ぼんやりと聞いた。

 ぐったりと横たわり息をする事だけで精一杯だ。

 此処が雪の上だと言う事も忘れ、目を閉じる。

 心地よい・・・・。

 とさえ感じるほど、体中が熱く火照っている。

 熱い身体を冷やしながら、触れている部分から溶け出し染み込んでくる雪解け水を口に含んだ。喉が冷たい水の流れを感じ、滾るような熱さを思い出す。

 溶け出す水を待つのも煩わしく私は口元の雪にかじりついた。

 柔らかな綿菓子を口に含んだように甘く、それは溶けた。

 そうこうしている内に熱も引き、朧になった意識が再び思い出す。

 あの子はもう家へ付いただろうか・・・私の目を誘い森へと消える・・・あの幼子は何者だろう。

 きっとこんなおやじにいきなり追い掛けられたと驚き、怯えたかも知れんな・・・・。

「ふぅ・・・・」

 うつ伏せに臥せっていた私はやっと落ち着きだした身体を仰向けに返した。

 と、その目に予想外のものが映った。

「ッ!お前・・・・」

 雪原に何時かの狼がすらりと佇んでいる姿を見た。

 飛び跳ねるように起き上がり、もう一度その姿を確認すると其処にはあの子が蹲っていた。

「え・・・?」

 びしょ濡れになったズボンからどんどんと水が染み上がって来る。それは掴みようの無い悪寒を孕んだ冷たさを私の背中に這わせる。

 一体どういう幻だろうか・・・・。自然この目を疑い瞬きを繰り返すが、幻と消えた狼は子供のまま首を傾げ見つめ返してくるばかりだ。

「何だったんだ・・・今のは」

 目の前に見失ったはずの幼子が居る事も気付かず、オロオロと先ほどの幻覚を探す私はやっともう一つの不自然に気が付いた。

「あっ、お前・・・どうして此処に・・・・・」

「・・・・・」

 しかしその子は何も言わない。何の表情も見せず、ただじっと私を見ている。

「今日は逃げないのか?」

 脱力した笑みが私の顔を走り、その子を見つめ返した。

 晴れた空の下、眩しいほどに輝く雪原の森にその子供はひどく美しく映えた。

 決して身なりが良いものではないが、その例えようの無い無垢さが清々しかった。

 いい加減水浸しの足場から腰を上げる。

 再び走り出し逃げるかと視線をめぐらせると、幼子は私の動きに合わせ立ち上がる所だった。そのじっと見つめる視線は人と接する事を嫌う私に慣れないものというだけでなく、気恥ずかしい気持ちにさせた。

「ん・・・逃げないなら行くぞ・・・」

 沈黙の紛らわしに俯き、鼻頭をかいてみるが全く効果は得られなかった。

 傍に寄っても幼子は逃げ出さなかった。

 びしょ濡れで気恥ずかしさに満ちたおやじを物珍しいのか、観察しているのかじっと見上げ微動だにしない。

 先ほどまで必死で追い掛けていた自分は遊ばれていただけなのだろうか。

 そんな疑問すら浮かぶほど無防備に突っ立つその子と視線にを合わせようとしゃがんだ。するとその子も私の真似でもする様にしゃがみ込んだ。

 しゃがみ込んでなお、私を見つめ上げている。

「・・・は、はははは」

「!!」

 何がおかしいのか自分でもはっきりとしないまま、込み上げて来る笑を堪えきれず私は大声で笑っていた。

 その声に驚いたのか、幼子は尻餅をつき呆然と更に私を見上げる。

「いや、すまん。なんだろうな・・・お前は面白い・・・ん、お前が面白いからだな」

 声を上げるのはやめたとはいえ、私の顔は今も満面の笑みで崩れている。

 久々に大声を出し笑っていた・・・懐かしい感覚だ。

 私はまたも清々しい思いを感じずに入られなかった。

 いつまでも腰を落としている幼子に手を差し出す。

「ほら、尻が濡れるぞ」

 出来るだけ優しく・・等と言う努力無しにも自然と穏やかな声色になれた。

 この子の持つ独特の雰囲気からか・・・。

 差し出された右手をしげしげ見つめると、両手で掴む。その手の冷たさに驚いた。

「こんなに冷たくなって・・・・・」

 そっと力強く起こし上げると、右手の中の小さな両手を口元まで運び息を吹きかけた。

「はー・・・はー・・」

「・・・・・」

 その様子をまたもじっと黙って見詰める大きな瞳は、太陽光に照らされ金色に輝いて見えた。

 無垢な視線に、視線のやり場を無くしきょろきょろとあちらこちらを見やっているとその子の足が見えた。

 私はその足を見てぞっとした

「・・お前、こんな雪の中なんでこんな・・・・・」

 小さな手もそっちのけに私はその真っ赤な足にマフラーを巻きつけた。

 この寒空の雪原にはだしで歩く奴があるか!

「どうしたんだ、靴は何処にやった」

 幼子は私の青ざめる顔にも表情一つ変えず、ぼうっと見つめてくるばかり

「黙っていないで何か答えろ、お前の家は何処なんだ?!」

 両肩をしっかり掴むと抱き上げそうなほど勢いづき尋ねる。

 しかしそれでも幼子はまるで何も聞こえていないという風に私の両目だけを覗いている。

 暫しの睨み合い・・・・いや、睨み合いと感じているのは私だけなのだが・・・・。

 自分の目の当たりにしているものが段々と現実離れしていく感覚に肩を掴む力を緩めた。

 するとその子は私の手を引き歩き出した。

「何だ・・・・今度はどんな悪戯をするつもりだ・・・・・」

 からかわれているだけなら・・・・この驚きがこの子を笑わせる事が出来るなら、それだけでまだ救われる気がした。だが、何の答えも掴めぬ内から私の中の不安がただの子供の悪戯ではないと告げている。

 私は幼子の引く手をするりと離した。

 立ち止まり降り返る子供・・・。その瞳は何かを伝えようときらめいている。

「・・・私は疲れた、今日は止めて明日にでもしよう・・・」

 確かに身体は心底疲れている、だがそんな事は正直些細な事だった。嫌な予感がした・・・雪の中に埋もれた両足の冷たさなど比べ物にならぬほどの、寒々とした風が私の中に吹く。

 私は背を向け家路へと足を出した。

 と、幼子は私の両足を後ろからぎゅっと抱きとめた。

「っ・・・・・」

 それは事の重大さをより一層私に刻み付ける。

 振り向く事は出来ない、そんな事をしたらこの子に付いて行くしかなくなる。

 自分から知りたがっていた真実に、自ら背を向ける弱さにどうしようもなく胸が痛む。

 このままこの子を振り払い、家へと帰りまたあの夢を繰り返すのか・・・・この小さな両腕を無理やり引き剥がして・・・?

「う・・・・・・」

 私には選択肢など必要なかった、この子を追いかけだしたあの瞬間に既に道は選ばれたのだ。もう引き返す事は叶わない。

 決心を固め降り返ると、幼子の無表情に不安げな翳りが見えた。

「・・・・」

 相変わらず何も口に出さぬが、確かに不安そうに泣き出しそうに見えた。

 その表情は何度と無く私を締め付けた苦しみや痛みなど物ともしない衝撃を与えた。

「・・・・すまない・・・・」

 私は膝を折り、幼子を抱きしめ取り消せない過ちを抱きしめた。

「・・・すまない・・・もう、逃げはしない・・・」

 幼子の小さな腕がすがる様に私にも回される。その力弱さにたまらず、力を込めて抱き返す。そうして抱き上げていると、すっぽりと隠れた幼子が段々と暖かくなる感じがした。

 裸足に薄着、素手で雪原を駆け回る非常識なお前は何を私に伝えたい・・・・?

 浮かんでくる疑問に背を向けず、向き合う覚悟が固まっていく。

 幼子はすっと難なく腕の中より這い出した。そんなに優しく抱きしめていた訳ではない筈だと自分の両腕を見るが、きっとこんな事も無意味なのだろうとすぐに小さな背を追った。

 小さな手を差し出し繋ぐように求めてくる、その仕草は怯える瞳の色を隠しきれない。

「ああ・・・大丈夫、今度は付いていく」

 安心させようと微笑みながら手を取ったつもりだが、それでもその子の瞳から悲しみを感じてしまうのは単なる自責なのだろうか。

 その子はゆっくりと歩き出した。何度も私を振り向き仰ぎ見ながら、繋いだ両手に力を込める。相当先ほどの事で心配しているらしい。

 振り返り見上げる視線が合うたび、私は微笑み安心させようとしてみたが・・・今更この隙間は埋められないだろう。

 そんな事を小さな手に導かれ歩く最中ずっと繰り返していた。

 どれほど歩いただろうか、唐突に森の中に青空が上と下に出来た。

 青く抜けるような空に似た、真っ青な湖が現れた。

 森の木々に守られる神殿のような美しい湖に見惚れていると、幼子は私の手を引き注意を逸らす。何かを指差している

「・・・あそこ・・・・」

 その指の先をじっと目を凝らし見入るのだが、湖はかなり広く向かい側の風景は良く見えない。指し示された場所は此処からでは遠すぎる

「もっと近くに・・・え・・・」

 傍に寄り添う様に立っていると思った幼子は姿をくらましていた。

「此処まで来て何故だ・・・」

 そう口に出しながら、私はその子の事より先ほどの湖の向かい側に何があるのかが気になった。其処へ行けば幼子も居るのではないか・・・・そんな気さえしていた。

 歩き始めて十分ほど経ったが、まだ私は湖の淵を歩き続けている。

「ふう・・・・」

 思い切り雪に埋もれ水浸しの衣服が重たく、体温を奪っていく。それでもあの何かを目指す足取りに迷いは無かった。あの時背を向けた事が全て無くなる訳ではない、だからこそもうあの顔を悲しませたくない・・・。その思いが私を歩かせ続けた。

 陽が頭上より傾きだしている・・・・昼下がりと言う頃だろうか。

 森の中には時折響く鳥のさえずり以外は何一つ聞こえない、まるで時間の止まっているかのような静けさが漂っている。

 そうした時間を過ごしたく、この人気の無い森に残りの時を置こうと思ってから何年が過ぎたのだろう。騒音も人の気配も無い、人工物は私の家だけ・・・そんな閉鎖的な空間が安心出来る唯一の安らぎの場だった。

 自然災害で死ぬならそれもまた良い。決して森の中に済むというリスクを忘れていたわけではなかった、だが・・・あのような幼い子供を追い回し凍え死にそうになりながら森の奥へ奥へと迷い込むとは夢にも思って居なかったな・・・・。

 私は一旦足を止め、再び空を見仰ぐ。

「・・・・綺麗だな・・・・」

 空気も空も湖も、何かもが美しい。この美しさに囲まれた中を彷徨えるのなら、これは災厄というには程遠い。そう、数少ない残された自然の美しさに触れられる幸運だ。

「さぁ、もう一息だな」

 見仰いでいた空に見守られながら、私は再び歩き出す。

 対岸まではもう少しの所までやって来ている。

 きっと其処にあの子の伝えたいものが待っているのだ、見つけ出してやる。

 おのずと足早になり私はようやく対岸へ辿り着いた。

 もう少し、もう少し進んだ所に・・・・。

 はやる気持ちから足取りは確実に歩みから走りへと変わっていく。

 疲れも寒さも堪え走り続けると目的地にあの子が見えた。

「やはり先に来ていたのか」

 一瞬立ち止まりつぶやくと、笑顔を忘れずもう一度走り出す。

 一気にあの子供の所までたどり着こうと幼子の足元に転がるモノすら目に入らず、私は軽快な声で叫びかけた

「おーい、待たせたな。追いついたぞ」

 幼子は私を見つめる。あのいつもの無垢な瞳で・・・・そして微笑んだ。初めて会ったあの時の無邪気な笑顔とは違う、か弱い笑みだった。

 軽く息を上げながら、私はその子のそばに立つ。

「はぁ・・・それで、何を・・・はぁ・・・伝えようと・・・」

 弾む息を整える間も惜しく、両膝に手を付きながら急かす様に尋ねる。

 すると幼子はゆっくりと優しくその手を地に伸ばし、雪原に腰を下ろす。

 その両手の先には狼が蹲っていた・・・・・

「なっ!!」

 幼子の手の先は丸く蹲った狼の中へ溶け込んでいる、まるでその先に何も無いかのように。

 言葉にならず、その腕を伝い顔を見やるが幼子は弱々しく微笑み掛けるばかり。そうして腕も肩もずぶずぶと吸い込まれるように狼へと消えいっていく。

 目を開けながら夢を見ているのかと疑う暇も無く、幼子はすっかり消えていた。

 残されたのは幼子を飲み込んだ狼と、口を開けたまま今見たものを夢だと掻き消せない私だけ。と、私は狼が口に何か咥えている事に気が付いた。

 死んでいるのか・・・まさか生きているとは思い難いその狼の口を、恐る恐る覗き込むとそれは・・・・

「・・・・・そんな・・・・・・」

 それは私がこの間切り与えた肉塊だった。

「お前・・・死んでしまっていたなんて・・・」

 あの時の気高き狼が、やっとあり付いた食事もなせず逝ってしまっていた。

 その事が酷く私の胸を締め付け、愕然と膝を曲げた。

「何故だ・・・すぐにその場で食べて居れば、あるいはこんな事には・・・・・」

 雪原の上、雪の布団をかけたかのように雪塗れになり横たわったその体にそっと触れてみた。

 冷たい・・・・・・。

 解り切っていた事だというのに、其処でやっとこの者の死を確信し瞳が熱くなる。

 すると、あの幼子の声が聞こえた。

「優しい人間、貴方に最後の甘えを許して欲しい」

 幼い声とは似合わず、しっかりとした威厳さえ漂う口調だった。

「何だ、何でも言ってみろ。ただ答えてくれ・・・お前はこの狼だったのか?」

 辺りを見回し姿を探すが何処にも見当たらないその声に向かい叫ぶように荒々しく問う

「・・・森が・・・私の無念に力を貸した・・・そして貴方の前にあの使いが行った」

「使い・・・お前では無かったのか・・・・」

 落胆しているのか、私はすぐに事実を飲み込めない。

 あの子がこの狼でなかったとしても、此処へ導く手になってくれた事はこいつの願いからなだ。私は真意を知りたかった

「何をして欲しい、何か無念に思う事があるから此処に私を呼んだのだろう?」

「・・・・・」

 風の過ぎる音だけが耳を撫でて行く。

 何か私は見落としているのだろうか?こいつの願いを察しとってやりたい・・・。

 と、幼子の届けに着たコートを思い出す。

「コートか・・・?コートを返すだけならあの夢を見せる事は無かっただろう?」

「・・・・」

 揺ぎ無い声が沈黙を破り、何かを言いかけ吐息だけを飲み込む声がする。

 なにを迷っているというんだ。

「どうした・・・・答えてくれ」

 私に出来る事をさせてくれ、その為に伝えて欲しい。

 寒さか切実な訴えの必死さか・・・私の声は張り上げているというのに掠れ消える。

 両膝を雪原に埋め、狼の白く雪が降り積もった身体に手を付いた。

 雪を払うようにその身体を撫でていると、声が意を固めた息を呑む音が聞こえた。

「・・・暖かかった・・意識だけの感覚を持たない筈の私が、貴方のもてなしにあの者を通じて

 暖かさを感じた。そして貴方に知らせたくなった・・・もっと近付きたくなっていた・・・・」

 張り詰めた威厳に満ちている声だと思っていた事が嘘のように今の声は柔らかく、あの幼子そのままだった。

「迷惑を掛けた事は申し訳なかった・・・・此処まで連れて来てしまった事も」

 其処まで聞いて何を伝えようとしているのか、私には察しが付いてきた。

「そして・・・・最後にもう一つ願いを掛ける事許してもらえないだろうか」

 私は狼の鬣をゆっくりと優しく撫で、微笑み言った

「解ってる・・・・私の家の傍に弔ってやる・・・それが頼みだろう?」

 私の気まぐれかと思えるもてなしを暖かかったと喜び、その温もりを求め私を此処に呼んだのだろう。

 そんな君の私への思いは、私の心を暖め返した。

 私もお前に温もりを感じているんだ。だから傍に一緒に眠ろう。

「ありがとう・・・」

 声だけでも君が今、安らぎに満ち微笑んでいるのが伝わってくるようだ。

「だが、私にも願いがある」

「何だ・・・・聞ける事は数少ないが・・・出来る限りの事をさせてくれ」

「また、夢に・・・今度は元気な姿で出て来てくれないか?」

 本当はまた君にホットミルクでも汲んであげたかった。そうしてゆっくり冷ましながら飲む君を微笑みながら見つめ、暖かい時間を二人共有したかった。

 しかしそれは叶わぬ願い・・・・。

 だからせめて夢の中だけでも良い、私に君の温もりをまた感じさせてくれ。

「人間・・・・・。ああ、約束しよう・・・必ず会いに行く。」

 君は自信に満ちた朗らかな声で約束を交わしてくれる。

「約束だ」

 そして私は君を信じられた。約束すると言った君が裏切るはずは無い、と。

 私は雪に埋もれた狼をそっと抱き上げ優しくマフラーで包むと、滲む視界でその姿から眼を離さず・・・しかし咥えた肉が落ちたのには構わず一歩一歩ゆったりと歩きながら家まで辿り着いた。

 その姿を部屋の暖炉の前に横たえると、スコップを取り出し玄関脇の雪を掻き出す。

 何も考えず、無心でひたすら掘り進み地面が見えると更に力を込め掘り進む。

 熱くなった目頭はだいぶ落ち着きを取り戻していたが鼻をかむのも忘れていたので、まるで子供のように鼻をすすりながら穴を掘る。あの子を休ませてやる深く広い寝床を。

 ひたすら掘り尽くすと、暖炉に横たえた身体をまた抱き上げる。

 その身体は暖炉の火に温められ仄かに暖かい・・・・そのぬくもりが私の冷え切った身体を温めていく。

 静かに土の床へと横たわらせる

「・・・・さあ、こんなベッドで良いか?」

 私の掘った穴は大きすぎた様で、すっぽりと治まったその姿は一層幼く映る。

 このままその姿を見れなくなると思うと躊躇した。

 もっと・・・もっと他に何かしてやれることは無いのだろうか。

 思いつめようと答えは見つからず、辺りは暗い夜の帳を落とし始める。

「そうだ・・・・」

 思い立ち、その場を離れ一目散に向かったのは冷蔵庫だった。扉を剥ぎ取るように投げ開く。目的の物を鷲掴みにするや足並み早く来た道を戻る。

 素手で掴んだ塊は何時か切り与えたものの残り。

 それを傍らにそっと置くと、膝を曲げ覗き見守る。

「・・・・・」

 特別な絆が結ばれていた相手を優しく手放しがたく見つめる如く、私は心に染み入る追悼を噛み締めた。

 出会った事はただの一度きり・・・・・あの日の荒々しく気高い野生の唸りを思い起こすのみ。その出会いがこんな結末を孕んでいると予測もしなかったが、それ以上に今この日までへと導いた数日間・・・・その間に起こった全ての出来事が私を此処まで別れ難くさせていると言い切れるだろう。

 一匹の野生の狼が森の中誰にも看取られず逝く事は自然界では珍しい事ではない、むしろそれが自然な事。それを此処まで離れ難く悲しませるのは、あの日の野生の気高さ美しさだけでは難しい。

 人を嫌い、混雑を避け逃げ込んだこの森の中。

 何の不満も無かった日々に、知らず知らず募っていた寂しさ・・・其処に現れた無垢な子供。

 交わす言葉こそ少なけれど、交わした視線の衝動は一瞬きを何ヶ月にも感じるほど熱く深い。人肌恋しいその隙を、埋めてくれたのはきっと野生の純粋さそのもののこの子だったからだ・・・・誰でも出来た事ではない。

 この充実した、不可思議な時をありがとう・・・・。

 森を見回し、この全てのきっかけを与え使いを出してくれた事にも感謝する。

 睡眠不足も良い思い出だ・・・・・・いや。きっとまたこの寝ても覚めても夢の中のような感覚を味わわせてくれるだろう?

「なあ、約束だぞ」

 見つめる先の瞼を下ろしたその顔が、仄かに和んだ気がした。

 別れは言わん・・・・・・。

 私は黙々と息も詰め、土を盛る。

 急いで閉めなければまた別れ難くなる、手早くしなければ離れがたくなる。

 全ての掘り起こした土を山盛りに盛り返すと、いつの間にか止まっていた呼吸の関を切る

「っはぁ、はぁっはぁはぁはぁ・・・・・」

 何度目だろう・・・・またも私の目頭は熱くなる。

 溢れ出しそうな雫を飲み下すようにぐっと上を見上げると、冷たい刺激に堅く閉ざされた瞼を開いた。

 雪だ・・・・・・・。

 初めて出会った日の様に、静かにしんしん舞い降りる白い粉雪達はまるで君へ手向けの花々かの如くその寝所を飾り降る。

「私は冬が好きだ・・・・・前よりずっと雪が好きになった・・・・・・・」

 その静寂の柩へ告げる。

 雪降る度に君を思う。

 冬が去り春になろうと、この墓標を毎日参っては君を思おう。

 私はそのなだらかな山の向こうに木の棒を突き立てた、墓標として・・・・。


 冬は去り、雪は一片残らず流れ消えた。

 私はあの日より毎日欠かさず花を手向けた。

 今日も新たな花を手向けに向かう。手向けた花は増えては、土へと還る。

 そんな訳でこの場に今は花が山を成していた。

「今日も来たぞ・・・」

 出入り口の傍、階段を下りたすぐ隣だ・・・・毎日欠かさず通うのにはこれ以上無いほど適した場所だ。

 しかしここ最近私は不満が募りつつあった。

「・・・・おい、約束はどうしたんだ・・・・」

 そう、あの日以来私の睡眠は酷く安息なもので夢を見る事が無い。

 毎晩来いとは言わないが、そろそろ一度くらい現れても良いじゃないか・・・・・・。

 子供のようにそんな事を根に持ち始めていたのであった。

 季節はそろそろ春というに相応しい暖かさを増して来ている。

 その夜。

 私はやっと夢を見た・・・。

 この人を寄せ付けぬ森の中、私の小屋の脇に黄金色にきらめく花が一輪咲いている夢を。

 目覚めたとたんに私はベッドを飛び出し墓前に手向けた花を押し分けた。

 其処にはやっと地より這い出たばかりの小さな新芽が伸びていた。

「・・・・おお・・・これは・・・」

 きっとあの夢のように、美しいお前の瞳の色をした花を咲かせるのだろう。

「待ち侘びている私に、もう少し待てとでも言ってるつもりなのか?」

 憎まれ口を叩いたつもりが、口元の緩みは隠せず喜びは抑えきれぬものだった。

 私は手向けに花を贈る事を止め、この小さな芽の世話をせっせとした。

 一日に何度も様子を伺い、枯れはしないか何時花開くか心待ちに世話をする。

 そうして季節はまた冬を迎えた。

 枯葉達も朽ち始め、冷たい北風が吹雪く様になってきた。

 また冬がやってくる・・・。

 あれから一年経ったのか・・・・・。

 私は今にも咲き誇りそうな蕾を眺め追憶する。

 四日間の非現実の中、何度胸弾みはらはらとさせられた事か。

「・・・・・」

 蕾はひっそりと脈打ち花開く時を待つ。

 この何ヶ月は此処で過ごした何年の中で最もはつらつとした時だった。

 安穏と時間を食い潰していた自分は跡形も無く消え、花一つの為毎日天気や調子を窺う。

 地味でありながら、充足した思いで季節の移り変わりを感じる日々。

 声鳴き植物に問い掛けるのは、きっとこの地にあいつが眠っているからか・・・・。

「随分ロマンチストになったもんだ」

 自嘲する様に言った言葉は照れを隠した自己卑下。

 だが自分らしさなんて、そんなもの気にもならない。

 今のたった一つの花が咲く事だけに期待を膨らませている少年のような自分を、拒絶し押し隠す気など微塵も無い。

 この期待と共に、不安や心配を抱えた今日までの世話をしてきた中にこそ、私の求めた安らぎがあった。充実があった。

 私は蕾へ目を落とす。

 その温かく見守り期待した視線の中、ほんの少しのもどかしさが篭る。

「・・・お前に伝えていない事がある・・・早く出て来い・・・・」

 未だ夢を待ち焦がれ無い日は無い。

 陽が暮れ月が顔を覗かせる・・・・・夜はこれからだ。

 今夜から明日へかけて、空のご機嫌伺いをする。

 テレビもラジオも無い此処では、過ごした時の中より見に付けた感覚だけで先の空模様を予測する。

 置こうと思えば、電気は引いてあるこの小屋にテレビを入れる事も出来るのだが、敢えて私はそれを避けている。

 やはり人の声を聞く事に、楽しみなど・・・・・見出せる気が全くもってしない。

 晴々と星達が輝く夜空を確認すると、今夜は荒れないだろうと確信しベッドへ潜り込む。

 天井を見上げながら瞼を閉じる瞬間まで、考える事はやはりあの花の事。

 もう何時咲いてもおかしくない・・・・・。

 明日また蕾の状態をレンズに収めよう。

 世話を始めた事をきっかけに、物置へ転がされるままだったカメラを取り出しその成長をこまめに写真に収めていた。

 まだ街の生活に精を上げていた頃の私は、このカメラで風景を取るのがストレス発散方だった。

 仕事の休みには遠出をし、人を寄せ付け難い風景の数々に癒されたものだ。

 とはいえカメラは社会人になり始めて手を出した我流のもので、初めの頃は撮るだけの素人だったのがいつの間にか現像まで自分でするほどのめり込んでいた。

 だからこの小屋に移って来た当初は転々と森を巡っては写真に収めていたのだが、何時の頃からだろうかフィルムの中の風景に虚しさを覚えカメラを物置へと放り出したのだ。

 しかしその時暗室に見立てた部屋をそのままにしておいたのは良かった。

 一人暮らしの男には寝室とリビングさえあれば事足りる、越してきた頃に無理矢理暗室に改造した部屋はカメラを仕舞い込んでも部屋を使用しないので放置したままだ。

 お陰で難なくカメラを取り出すと撮影、現像する事が出来た。

 現像するのが楽しみだ・・・・。

 私はあいつに会う夢を思い描きながら瞼を閉じた。

 ふと、窓を叩く風の音で目が覚めた。

 随分強い風が吹き荒れているらしく、がたがたと窓枠が震えている。

「こりゃまずい!」

 ベッドから豪速で階段を駆け下り玄関を飛び出す。

 蕾を讃える細い茎は、風になびき横倒しに倒れそうだ。

「待ってろよっっ!」

 私は一度部屋入ると、暖炉脇の薪を何本も抱え再び駆けつける。

 薪を一本ずつ縦にぐっと差し込み、簡易な塀を作り囲もうと考えた。

 しかし風は強く、針金か何かで固定しなければ薪はそれぞれに吹き飛んでいってしまう。

「くそっ!!」

 私は遮二無二に覆いかぶさり、この身で風を防ごうと四つん這いの様な格好になる。

 頼む・・・堪えてくれ・・・・・お前が枯れてしまったらあいつの思いまで無下にしてしまう・・・・!

 風は強さを増し、私の身体まで揺らすほど。

 何が何でも飛ばされるものか・・・・・っ!

 ぐぐっと地面にへばり付き堪えるが、豪風は吹き荒れ一向に止む気配が見えない。

 何度も何度も身体毎吹き上げられそうになりながら、それでも歯を食いしばり地へとしがみ付く腕に力を込め願うように堅く目を閉じる。

 絶対に咲かせるんだ!!

 風の騒ぐ音だけが脳内を駆け回る・・・・・・。


 突如に体が軽くなり、目を開くと私は静かな真っ白な世界に蹲っていた。

「・・・・何処だ、此処は・・・・・・」

 上体を上げ見渡すのだが、何処までもただ真っ白いだけ。

 と、大切な事に気付く。

「っ!!」

 覆い護っていた胸の下の蕾を探すが、地面はやはり白く、ぼやけ植物の気配は無い。

「どうなってるんだ・・・・」

 全身の疲れだけがずしりと圧し掛かり、その場から動けず大の字に倒れる。

 見上げた天もすっかり白く、此処が現実のものではない事を薄々感付き始めた。

「なんだってこんな所で横たわってるんだ・・・・」

 今の私はこんな事をしている場合などではないというのに、今現実の私はどうしているのだろうか。まだあの蕾を護れているだろうか・・・・

「・・・どうして・・・・」

 不安と疲れに弱音ばかりこみ上げる・・・・。

 こんな時に不甲斐ない自分が、一番この体を疲れさせる。

 弱音や泣き言がこれ以上迫上がり私の内より噴出さないよう、瞼と口をきつく閉じる。と

「どうした・・・・」

 懐かしく、聞き覚えのある声が降り注ぐ。

 弾かれた様に私が瞼を持ち上げると、そこにはあいつの姿が映る。

「お、お前っ!」

 雪の色がよく映えそうな狼の姿でそいつは座っている。

 私は何が起きたか冷静になれず、転び起き上がると大口を開け固まってしまう。

 何と次に言葉を紡げば良いのか混乱し、思考はこの世界の様に真っ白だ。

「遅くなった・・・すまない・・・・」

 狼は凛々しい表情とは不似合いに、頭を擡げている。

 一年前の約束を果たしに、今やっと此処に現れたのだ。

 そうか・・・・・では、ここは

「此処は夢の中なのか・・・・?」

 まさかあの風の中寝てしまったのか・・・・?

 護りたい、護ると心に決めながらあっけなく?!

 これ以上ないほどに私の中の自分に対する憎しみにも似た悔しさが湧き上がってくる。

 しかしその勢いは一時躊躇される

「少し違う・・・・」

「違う・・・?」

「此処は貴方の夢の中ではない、貴方は今現実とは別の次元に居る」

「では、私は眠りこけている訳じゃないんだな?」

「ああ」

 胸元まで昇ってきていた滾りは引いて行く、疲労感の錘は増えずに済んだようだ。

 肩に張り詰めた力も抜き、私はようやくゆったりと目の前の懐かしい姿を見つめた。

「・・・大切にしてくれているのだな・・・・」

 じっと見つめる視線が柔らかに、嬉しげに声と共に流れる

「ああ・・・あんな所で根を張り育っているんだ、咲かせてやりたい」

 産まれたばかりの新芽だったあの植物を見つけた日の夢中の花咲く姿を思い浮かべる。

「ありがとう・・・・」

 狼は丁寧に首を下げお辞儀した。

「何を・・・・そんな・・・・」

 素直な言葉には耐性が出来ておらず、少々慌て言葉に詰まる。

「あの植物は、今の私そのものだから・・・」

 美しい金の瞳は艶やかに私を見つめる。

「今の・・・?」

 その美しさに見とれながら、なんとか疑問を口にする

「狼としての私は死んだ・・・だが私は花として再び生を得た・・・」

 突拍子も無い時間の鎖の上の話が、不自然に安っぽくならずすんなり私の心に響く。

 あの場に息吹いたその芽を見た時から、この花はきっと生まれ変わりか何かだと信じて決め付けていた私のこじつけは当たっていたのだ。

「・・そうか、やっぱりそうだったのか・・・」

 気高き野生の姿から、美しい花へ生まれ変わる。

 作り話の世迷い事だと人に話せば笑われるだろう事が、今の私には大切な者に再会した喜びをただ実感させるものだった。

 一度は助けてやれなかった、その命を今度は失いはしない・・・。

 私の決心は更に固く強いものとなる。

「会いたかった・・・こうしてじっくり話す時を待っていた・・・」

 しっかりと胡座をかき姿勢を正すと、やっと再開の喜びを伝えられた。

「私もだ」

 狼の表情の無い顔が、華やかに微笑んだ気がした。

「だが・・・」

 私が言い掛けた所へ同じ言葉が重なってくる。

「だが、今は私とゆっくり安心して話ていられない・・・・のだろう?」

 全てを見透かしているのか、私の気持ちを洗いざらい悟り切り出したのか。

 狼は淀みなく言い切った。

「ああ・・・・・・・ああ、そうなんだ・・・・」

 この白い世界は私を不安と気味悪さに貶めていたが、今は春のそよ風の様に穏やかに暖かい。この場を離れたいのではない、私だってやっと会えた君とゆっくり話せたらと思うが

「戻る、あの蕾を護る為に・・・・」

 君を大切に思うからこそ今は話して居る時ではない。あの新しい君を護りたい。

「ああ」

 私たちは視線をしっかり投げ掛け合い、暫く沈黙の中見つめ合う。

 しっかりとこの姿を焼き付けようと、瞬きするのも煩わしく見入る瞳が熱くなる。

「・・・っ」

 これがこの姿の君との別れなのだと、諦めるような自分の涙を、天を見上げ押し留める。

「さあ・・・・それでは、戻るぞ・・・・」

 狼の淡々と話す声にも、妙な力が入っている。

 これで戻る・・・・。

 私は咄嗟に投げる様に一番大切な言葉を返した。

「ありがとうっ!」

 この目が最後に見たものは・・・水面の様に揺らめく狼の姿。

 それと、同時に堪え切れない雫がほとばしり落ちた。


 気が付くと、私は地面で横倒れに寝ていた。

 冷たい何かが顔を突付く。

 視界の定まらない目を瞬かせていると、やっとその冷たさの正体を捉えられた。

「雪だ・・・・っ!」

 初雪にぼんやりする思考が横殴りに目覚める。

 そうだ、花は?!

 蕾はどうなったんだ!?

 腕が縺れ絡まりそうになりながら、慌て起き上がると其処には薄雪を被る地面にきらめく黄金の花が毅然と咲いていた。

「・・・咲いた・・・咲いたのか」

 立ち上がるのも忘れ、立て膝でその花へと詰め寄る。

「なんて綺麗な色なんだ・・」

 花に触れないよう注意しながらも、あまりの感動に両手をかざし喜ぶ。

 ああ・・・これがあの誇り高き孤高の狼の別の姿なのだと、抱きしめたくなるほど愛おしく見つめる。

 泣いた筈は無いというのに、私の瞼は熱かった。


 真っ白な雪の中、カメラを手にした私は再び花の前へやってきた。

「・・・・・」

 また雪の中だな・・・・。

 シャッターを切りながら、再会の喜びの興奮は冷め止まない。

 あの真っ白な雪原を思わせる出会いの終幕に、私は脳裏にこだました声を忘れはしない。

『・・・私はこの花が咲く度に必ず貴方の夢に訪れよう・・・・』

 今は花となったあいつの新たな約束・・・・・。

「・・・また、待っているぞ・・・・」

 黄金色に輝くその花に、狼の姿を重ね合わせ囁くように微笑んだ。

 そんなゆったりとした慈しい時間を、粉雪が私達ごと暖かく包み込んで行く。


                                  

                             -完-

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪に咲いた花 @togiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る