ダイヤモンドリリー

諏訪森翔

一輪の花

「ねぇねぇお姉ちゃん!」

「なーに?」

 窓際のロッキングチェアに座りながら外を見ている女性の膝元に座る少年は人懐っこい笑顔を浮かべて話しかけ、女性は柔らかい表情を浮かべながら応じる。

「僕、外の世界を見たい!」

 少年の願いを聞いた女性は一瞬動揺の色を見せるがすぐに覆い隠し、彼の頭を撫でながら質問する。

「どうして見たいと思ったの?」

「だって、お姉ちゃんはいつもお庭までしか出してくれないし外って言っても丘の上の町じゃん!」

 あ、でもお庭はとっても広いからつまらなくないよ!と付け足しながら再び向けて来た顔には屈託のない笑顔と疑いを知らぬ純粋な目が彼女の心を貫く。

 その正直な少年へ女性は慈愛の満ちた視線を送りながら彼を自身の膝元から下ろして立ち上がると、ある提案をする。

「それじゃあ、私との勝負で勝てたら外の世界へ連れて行ってあげる」

「ほんと!?」

「ええ。嘘は言わないわ」

 少年は飛び跳ねながら喜び、そして女性と手をつなぎながら家の外へ出て庭をしばらく歩く。

 歩きながら少年は女性の言う勝負が気になって仕方ないのか外の世界を早く見たいのか、はたまたどちらも含んでいるのか落ち着きのない様子でしきりに彼女とつないでいる手を強く握ったり振りほどこうとする素振りを見せる。

「勝負は一日一回。勝負の内容は私、“   ”の順番で決めるの。どう?」

「うん。分かった!それで、今日はどんな勝負するの!?」

 少年は目を輝かせながら女性の瞳を覗き込む。

 そんな彼を見ながら彼女はニヤリとし、己の領分である勝負を提案した。

「今日はそうね....鬼ごっこにしましょう。温室と林以外ね」

「分かった! じゃあ、三十秒待ってね!」

 全速力で離れて行く少年を微笑ましそうに見ながら女性はポケットから懐中時計を取り出し、針を見る。

「三十秒ピッタリ。さあ、行くわよ」

 しまいながら彼女は前を見ると既に少年の姿は影も形もなくどこかへ隠れたのだと分かった。

「これじゃあ隠れ鬼になってしまいそうだけど....」

「......」

 ぼやきながら近くにあった納屋へ入り、乾草ほしくさの間や二階部分の燻製室も見るが誰もいない。

「うーん....ここにはいないっぽいわね」

 独り言を言いながら納屋を出て扉をバタンと閉め、足音が遠のいたころに少年はストンと隠れていた屋根のはりから地面へ飛び降りた。

「へへ」

 得意げに笑いながら少年は納屋の扉を全身を使って開くと目の前には女性が立っていた。

「あ」

「つーかまえた!」

 驚く少年を抱え上げながら彼女は自身の勝利を宣言し、そのまま彼を抱えて帰路に就く。

「なんで分かったの? それより足音は遠のいていたのにどうして?」

「まだまだね。騙しもテクニックの一つなのよ」

 女性は不満げな少年の頬を指で突きながらいたずらっ子のような笑顔で自らの手の内を晒さずにアドバイスのみをして家へと入った。

 家へ戻り、少年を下ろすと迷うことなく居間の椅子へ座ろうとするので再び抱え上げ、浴室へと運ぶ。

「さ、まずは風呂に入って埃や汚れを落としなさい。ご飯はそれから」

「お姉ちゃんと一緒に入る!」

 女性は少し困惑したような様子でいたが、やがて諦めたように笑いながら自身の袖を捲り上げて扉を閉めた。

「さっさと奇麗にするわよ」

「はーい!」




 夜の空に大きな満月が浮かび、不気味にざわめく林の間を光が僅かに照らす中、その影を縫うように音もなく走る人影が一つあった。

「はあ、はあ.....」

 青年は息を切らせながらも足は止めず、しきりに背後を気にしているのか振り向いたり目線を送ったりして駆け続ける。

 しばらく走り続けていると雲が月を隠し、暗闇の中偶然見つけた枯れ木のうろの中へ身を潜めた人影は今まで浅くしていた呼吸を止めて深く息を吐き出し、持っていた水筒を取り出して一気に呷る。

「っはあー」

 疲労の蓄積した五臓六腑に染み渡る水分と栄養素に思わず決して大きくない声を漏らし、しばらく身を潜めて回復した身体へ鞭を打って立ち上がろうとして止まった。

 ゴクリと生唾を飲み込み、額から零れた一筋の汗が青年の頬にまで落ちた汗は空中へツツ―と伝い、やがて地面に落ちる。

 雲が月を通り過ぎ、再び月光が林の中を照らした時、そこに浮かんだのは座り込む青年を切り刻むために囲む無数の細い糸のような物と洞の出口の前に女性が立っていた。

「身を隠すまでは良かったけど、声を出したのはマズかったわね」

「ぐへー」

 茶化したように降参の声を青年が上げると彼女は糸を自身の袖の中へと引っ込ませ、青年を解放する。

「これで何連勝? もう忘れちゃったわ」

「3285連敗だよ。はあ....いつになったら勝てるのやら」

「そろそろ私も隠居したいんだけど? そうなの、もうそんなにしていたのね.....」

 素直に驚きを口にする女性へ青年は苦笑交じりに頷き、背部に隠し持っていたスペツナズナイフを鞘に収めながら立ち上がる。

「男の子との鬼ごっこも長時間すぎて流石に疲れちゃったわ」

 そう言いながら彼女は長い髪をなびかせながら懐中時計と自分より丈が高い青年の顔をチラチラと見ながらわざとらしく話す。

「僕におぶれって? 汗まみれで臭いよ?」

「いいの」

 面倒くさそうに拒否の意をやんわりと言う青年へ、彼女はそんな彼を見上げながら上目遣いにねだると青年は膝を折って高さを調節してきた。

「ほら早く」

「ありがとうね」

 青年の厚意に遠慮なく乗っかった女性はツンと鼻を刺す匂いに一瞬顔をしかめるがすぐに慣れ、彼の太い首へ腕を回す。

「汚いよ?」

「どうせ風呂に入るんだから関係ないでしょ?」

「そうだけどさ.....」

 青年は何か物を言いたげにしながら口ごもり、そのまま黙りこくってしまった。

 二人とも何も話さず、ただ青年が踏みしめる雑草と土の音と鈴虫の音色に耳を傾けて林を歩き続ける。

 しばらく青年におぶられ、ゆったりとした不規則な揺れに女性はいつの間にか眠気を覚え、やがて小さな寝息を立て始めた。

 しかしそんな彼女の変化に気付かずに青年は木々の間から時々見える月を目印に家を目指しながら話し始める。

「なあ、あの約束って本当に叶えてくれるんだよな?」

「.......」

「黙ってるけど、それはもうすぐ僕が勝ちそうだから焦ってて何も言わないの?昔みたいにアドバイスはくれないの?」

「............」

「はは。確かに僕はもう自分で考えられる年だ。弱点くらい見つけなきゃ一人前ではないもんね」

 女性は相も変わらず寝ているので返事はしないが青年も未だに気付かず、勝手に話を続ける。

「見て!今日の月は大きい。だから、とても目印にしやすいね」

「......」

 質問のような話にも女性は反応せず、青年はそれっきり無言で歩き続けてやがて林を抜けて平坦な牧草地のような場所に出た。

「あと少し.....」

 そう言いながらもう一度上を見た青年は思わず目を開き、ため息を零す。

「奇麗だ.....」

 大きな満月とその周りで負けじと光を発する星々、そして後ろを見ると天の川が彼らを見守るように位置していた。

「こんな景色を見るためなら、何度だって挑んで、負けてもいいかもな」

 青年はそんなことを口にすると今までブラブラとしていた細い腕が急に動き出し、彼の首を軽く絞めてくる。

「えぐっ」

「それ.....私のケーキって言ってるでしょおおお!」

 寝言を言いながら女性は腕に力を入れ、青年の首を強く絞める。

「かっ、ああ......」

 脳に酸素が行き届かず、紫色になって意識が朦朧とし始めた頃になって彼女は再び脱力し、一気に青年の首は開放され酸素が急速に補給される。

「っはあ!寝ぼけてるのに殺されるとか洒落にならないよ」

 そんな青年の思いとは裏腹に彼の背中で眠る彼女の寝顔は平穏そのものでつい先ほどまで無意識とはいえ自身の腕で人を殺めようとしていたとは思えなかった。

「こりゃ可哀想だな」

 青年は静かに玄関の戸を開き、浴室には行かず二階にある女性の部屋へと入り、そのベッドに彼女を寝かし布団を胸元にまでかぶせる。

「お休み。姉さん」

 青年は彼女の扉を閉める間際、寝顔へ向けて就寝の言葉を投げかけて静かに扉を閉めた。

「......起きてたわよ。ずっとね」

 女性はいつの間にか目を開き、閉じた扉を見ながらポツリと呟いていた。





「雨~」

「豪雨ね。今日はさすがにやめようかしら」

 雨粒は窓へ体当たりをし、ガタガタと悲鳴をあげる窓際で外を見ながら恨めしそうに呟く青年に女性は暖炉の火をおこしながらソファでくつろぎ、たしなめるように話す。

「むー」

「血気盛んね」

 ソワソワとする青年へ彼女は笑いながら冷やかしをかけると突然青年は立ち上がり、台所の方へと歩みを進める。

「何するつもり? ランチにしてはまだ早すぎると思うけど?」

 壁に掛けてある時計を一瞥しながら聞く女性へ青年は質問に答えず、ガチャガチャとしばらく台所で音を立て続ける。不審に思い、台所へ向かうと青年はカウンターに器具を並べて立っていた。

「今日は料理で勝負しよう。でもノーカン。どう?」

「悪くないわね」

 ニヤリとし、最高の暇つぶしを思いついた青年へ賞賛しながらも闘志のある瞳を投げかけると彼は飄々とした態度で頷く。

「それで?お題はどうするの?」

「そうだね......サンドイッチは?」

「なんか単純ね」

 女性のツッコミに顔をしかめる青年を見て彼女はフフ、と笑いながら自身の使う食材を取り出し下準備を始める。

「あ、ずるい」

「勝負に開始の合図はないわよ?」

 慌てて青年も食材を選び、流れるような動作で捌く女性の隣で拙い包丁さばきで野菜を切りながら彼女の方を見ると既に切る作業は終えていたのかすでにフライパンに油をひいてベーコンを焼き始めていた。

「良い匂い──いてっ」

 青年はその手慣れた動作に見惚れていると自身の指を誤って切ってしまい、キャベツが赤くなる。

「大丈夫!?」

 そんな彼の怪我に気付いた彼女は怪我した指へ飛びついた。

 初めて見せるあまりにも異常なほど執心の様子に青年は気味悪さを覚えながらも過保護すぎると笑い飛ばしてみると女性はキッと顔を上げ、徐々に顔をボロボロと涙を零し始める。

「わわっ、だから死なないし、大丈夫だって」

「そうじゃないの.....いつの間に成長したのねって思って......」

 感極まって泣きながら青年の成長を喜んでいる彼女へ青年は何も言わず、白いナプキンで指の怪我を拭きながら女性を包み込むように抱きしめた。

「えっ?」

「いつもありがとう姉さん」

 驚き、身を強張らせる彼女へ青年は話を続ける。

「前から外の世界を見たいと願い、姉さんは勝負に勝ったらと提案をしてきたよね。幼いながらもかなり無理難題を出してきたなって思いながらもずっと勝てるように鍛錬を続けた。でも、一向に勝てないよ」

「そうね。あなた弱すぎるもの」

「確かに」

 青年から身体を離して笑みを零した彼女は頬を僅かに朱に染めながら彼の頭を背伸びして撫でる。

「そうやって続けて、もう10年以上もここにいるよ。それでね提案なんだけど───」

「駄目。それは絶対に」

 いつの間にか土砂降りの雨は止み、曇り空となっており少し明るくなった。

 そんな中、何かを提案しようとする青年の口へ女性は自身の指を運んで封をして黙らせる。

 どうして、と言おうとする青年へ今度は自分のターンだと女性が話し始める。

「確かにあなたをこの家に招いて18年。喧嘩したり、一緒に誕生日を祝ったりしていた。けれど、あなたと私は血が繋がっていないわ。これはどんなすべを使っても変えられないの。だから、姉弟かぞくにはなれない」

 真面目な表情で反論をさせまいと圧を目線でかけると青年はきょとんとしながら、やがてプッと吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。

「え? え?」

「はははは! そうなのか! 僕と姉さんは血が繋がっていないのか!」

 青年は雲の切れ間から差す陽光のように憑き物がとれたような晴れ晴れとした顔を浮かべながらも決意のこもった強い面持ちでポケットから立方体の箱を取り出し、彼女の前に差し出す。

「.......え?」

血縁きょうだいとしてではなく、夫婦かぞくになってくれませんか? 姉さん」

 そう言いながら開かれた箱の中には少し不格好な形をした鉄製の指輪が入っていた。

「どう....やって.....?」

「毎日毎日少しずつ叩いたり熱したりしながら曲げて、作ってたんだよ」

 瞳を潤めながら震える声で問いかける女性へ青年は照れくさそうな笑顔を浮かべながら答え、もう一度真剣な表情で指輪を差し出しながら答えを聞く。

「僕と、結婚してくれませんか? 」

「......はい。これからもよろしくお願いします」

 涙を流しながら花のような笑顔で指輪を受け取る女性を見て青年は幼い時と何ら変わらず飛び跳ねて喜び、もう一度女性を強く抱きしめる。

「ありがとう」

「でも、場所は選んでほしかったわ」

 抱き返しながら軽口をたたく女性へ青年は苦笑していると焦げ臭い匂いが二人の鼻をつく。

「ベーコン焦げちゃったわね」

「まさか初の共同作業が台所掃除とは.....」

 フライパンから炭となったベーコンを剥がし、周りに跳ねた油を拭く二人はロマンとは程遠い場所にいたが浮かんでいる表情は幸せそのものだった。





 快晴の空の下、広大な草原で二人の男女が近づいたり、距離を取ったりしながら時折火花を散らしていた。

「せいっ!」

「ふんっ」

 男性の繰り出した突きを女性は剣の鍔で流しながら距離を詰め、彼の胴目掛けて剣を振り下ろす。

「あぶねっ」

 思わず後ろへ飛び跳ねた瞬間、女性は姿勢を低くしながらその距離をあっという間に詰めて空中で避けようのない男性へ剣を突き出した。

「ぐっ」

 ドン、と胸を突く衝撃に男性は少し顔をしかめながら着地して構えていた剣を鞘に収めて額に浮かんだ汗を拭う。

「これで死んだわね。また私の勝ち」

「飛んだのはマズかったな」

「そうね。空中だと足場が無いから思うような動きができないもの」

 冷静に敗因を見極める男性へ肯定しながら女性も剣を収め、付けていた手袋を外すと左手の薬指にはめているリングが陽の光を反射して煌めく。

「さあ、どうする? 次はナイフでも使う?」

「もうそんな動ける年でもないさ。こっちの方が好みだね」

 まだまだ戦う気のある女性へ男性は笑顔のまま背部に隠し持っていたピストルを抜いて即座に引き金を引いた。

「あ」

 パン、と言う銃声と自身の左胸に張り付くペイントで悟った女性は肩をすくめ草原に倒れこむ。

「文明の利器はずるいわよ?」

「人間と言うのは絶えず楽な方へ向かうのさ」

 寝転がる女性の隣に腰掛けながら男性は自分の口元に蓄えた髭をさすりながら見える町を見下ろす。

 昼時だからか多くの建物からは煙が昇り、空へと消えていくのを見ていると同じ頃にグーと腹の音が彼の耳に入った。

「お腹が空いたのか」

「ええ。もうぺっこぺこ」

 上半身を起こしながら笑う女性は男性が初めて会った時といつまでも変わらず美しく、対して自身は幼き頃の面影は微塵も無くなり、どんどん老いていく。果たして釣り合っているのだろうか。

「どうしたの?」

「いや、少し昔を懐かしんでいたのさ」

「私からすればあなたはいつまでも頼りがいのある青年なのだけれど?」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」

 男性は素直に喜びながら彼女の額にキスをしてから立ち上がろうとする彼の腕を掴んで女性は制する。

「どうした?」

「ココ以外ですべき場所、知っているんじゃない?」

 女性は意味ありげに問いかけると男性はしばらく呆けていたが観念したように笑い、数年ぶりに彼女の唇へ重ねた。

「これで満足?」

「ええ。私から誘わないとしないなんて臆病になったのね」

「年を取ると、受け身になるのさ」

 男性の皮肉に女性は寂しそうに笑いながら二人で家へと帰っていく。

「今日は僕が用意するよ」

「分かったわ。それじゃあ先に風呂に入るわね」

 上着を脱ぎながら女性は奥へと消え、男性は台所で食材を取り出して下準備を始める。

「~~♪」

 鼻歌を歌いながら手慣れた動作で野菜を切り刻み、あっという間にサラダを作り上げて同時並行で肉を焼き始める。

 ジュー、と音を立てながら焼ける肉に塩胡椒をまぶしながらワインを僅かにかける。

「いい感じだ」

 匂い、見た目共に満足のいく出来上がりに男性は頷き、テーブルの上に二人分置いて冷めないようステーキの皿には蓋をしてソファに腰掛けながら調理に使ったワインを飲む。

「美味い」

 グラスを傾けながら楽しみ、飲むを繰り返していると風呂から上がった女性が無言で男性の手からボトルを奪う。

「ああ」

「二人で飲むのが普通じゃない?」

「我慢できなかった」

 女性はため息をつきながら少し顔の赤い男性の肩を叩きながら風呂へ入るよう促し、フラフラとしながら向かうのを見て不安に思い結局付いて行こうと隣に立った瞬間、彼女の方へ身体を倒れこませる。

「ちょ、ここでするの!?」

「.......」

 顔を真っ赤にしながら身体を支えている女性は男性の顔を見てサッと血の気が引いた。

「ねえ、大丈夫?」

「ん?.......ああ」

 恐る恐る声をかけると男性は眠そうに目をこすりながらかぶさっていた女性から離れ、しっかりと歩いて浴室へと消えていった。

「気のせい....よね?」

 一瞬見えた彼の顔に女性は早い鼓動を抑えながら立ち上がり、大人しく居間で待とうと歩き始めた瞬間、浴室から大きな音が聞こえる。

「嘘.....絶対に嘘よね」

 わけの分からない頭痛と音が遠のくのを感じながら彼女は浴室の扉を恐る恐る開ける。

「あ.......あ........!」

そこには赤い水たまりを作りながら倒れる男性がいた。




「ねえ、大丈夫?」

「んん? ああ。今日は気分がいいよ」

 ベッドの近くにある窓から外を見ている老人へ女性が話しかけると驚くほど穏やかな表情で彼女を迎える。

「そう。なら良かったわ。これ食べれる?」

「ああ、食べるよ。すまないな」

 その場から動かない老人の口元へ女性は持ってきたスープを飲ませたり、サンドイッチを運んだりした。

 介護をされる老人はその度に「ありがとう」「すまない」の言葉を口にして彼女を困らせる。

「私がしたくてしているの。感謝も謝罪もされるいわれはないわ」

「それは姉としての責務?」

 老人のからかうような質問に女性は笑い、首を横に振る。

「あなたの妻、としてよ」

 そう言うと老人はポカンとしていたがやがて堪えきれずに笑い始め、顔を抑えながら老人はカッカッカと笑い声をあげた。

「そうか、まだ覚えていてくれたのか」

「あなたから言ってきたのよ? 忘れられる訳ないじゃない」

 まだまだ残っている白髪を分けながら老人は少し恥ずかしそうに非難する女性を見つめる。

 あの時と変わらない。少し前もこんなことを思ったかもしれない。だからこそ、ここで終わらせよう。

「それで、提案があるんだが───」

「ああ、もうこんな時間。放牧しなくちゃ」

 女性は神妙な面持おももちちで話そうとする老人の話を遮るように懐中時計を見ながら慌ただしく立ち上がり、部屋から去っていった。

 1人部屋に残された老人は窓から見える草原を見る。

「ここもなんら変わらないな.....ゴホッゴホ」

 懐かしむような声を漏らしていると咳をし、口元を押さえた手を見ると赤いたんが絡んでいた。

「もう、駄目かもしれないな」

 思えば長く、短い人生だった。人並みに幸せを得て、楽しさを感じたり悲しさは....いや、それは知らないな。

「そういえば.....」

 老人は回想をしながら女性のある『嘘』に気付く。

「動物は飼っていなかったはずだけど、何を放牧するんだろう?」




「はあはあ! はあ!」

 ゴロゴロと音を立てながら不穏な色を見せる空の下、女性は離れた町で勝ったものを詰めた袋をいっぱいに抱えて自宅へと走っていた。

「待っててね!」

 女性は顔に少し明るさを浮かべながら丘を走り抜け、自然とステップもし始める。

「きっと驚くわよ.....」

 ウキウキな気分で自宅の扉を開き、二階の部屋へそのまま入る。

「ただいま!」

 老人は女性の嬉しそうな声で起きたのか身体は起こさずに顔をこちらへ向けて笑顔を向けた。

「おかえり」

「今日は良いものを買ったわ。これを飲めばきっと治るだろうって医者が言ってたの!」

「ねえ.....」

「そうそう、特産品が収穫時だったらしくていいものを貰ったわ。一緒に食べましょ?」

「ああ.....そうだね」

 老人は姿勢を変えず、時折苦痛に顔を歪めると女性は彼の手を優しく握り、傍に立つ。

 彼女はいつでも傍にいられるように老人と同じ場所へ寝具を移し、調理器具も隣の部屋へと移した。

「ああ収まったよ。ありがとう」

「そう。良かったわ。じゃあ、これを飲んでおいてね。私はこれを切っておくわ」

 そう言いながら隣の部屋へ果物を持ちながら去っていく女性を見送りながら老人は笑い、すっかり曇り切った窓から外を伺い見る。

「僕は、一緒に逝けないようだ」

 老人はポツリと呟き、近くのローテーブルに置かれている薬を枕の下へ隠して水を少し飲む。

「はい。あーん?」

「ん。───美味しいよ」

 女性が口元へ運ばれた果物を食べながら楽しそうにする老人をみながら女性は表情を柔らかくさせていた。

 しばらく食べながら老人はなんの前触れもなく彼女を見ずに口を開く。

「僕はね、もう先が長くないみたいなんだ」

「え?」

 突然の告白に女性は手を止め、硬直した。

「君はこれを病だと思い、遠路はるばるの薬師を呼んだり、町から高い薬を買ったりしてるよね───」

「ちょ、ちょっと待って!」

 女性の制する声を無視して老人の語りは続く。

「確かにこれは病かもしれない。いや、病だよ。けれども誰しもがなる定めの病なんだ」

「なによ、それ.....病なら治るはずでしょ!? 皆がなるなら薬が開発されるはずでしょ!?」

 泣きそうな声に老人は初めて顔を向ける。その顔は穏やかで、まるで幼き頃の純粋無垢だった顔を思い浮かばせた。

「あ.....」

「落ち着いて。君は知らないかもしれないけどその病を克服した数少ない、いや、唯一の人間なんだ。だから───」

「そんなの知ってる! だけど! それでも私は信じたくないの!」

 悲痛な叫びで言葉を遮る女性に対して老人は無言のまま、震える手で彼女が指にはめていた指輪を取る。

「え?」

「輪廻転生があるのならば、僕はこれを持ってもう一度君の元へ会いに来るよ。今度は、一緒に逝けるくらい元気な身体でね」

 そう言いながら咳き込んだ老人は吐血し、ベッドを赤く染め上げた。

「うそ、いやよ! 死なないで!」

「まだ、死にはしないさ......でも、もう長くないみたいだ」

 血を拭いながら老人は女性に願い事をする。

「もし、もしよかったら.....またあのロッキンチェアで最期を迎えたいな.....」

 女性は一瞬何のことを言っているのか分からなかったが、やがて意味を理解し、コクコクと頷いて老人をおぶって一階へと降りる。

「ああ、掃除が出来てないね。しなくちゃ」

「ええ。元気になったら一緒にしましょう」

 一階はすっかり埃にまみれ、汚れていたがロッキングチェアのある窓際だけは奇麗なまま、まるであの時を再現しているようだった。

「私の上に座っていたわね」

「ああ」

 先に座り、女性は老人を膝の上に乗せて毛布を上からかぶせる。

「寒いから、身体を冷やしてはまずいでしょ?」

「ありがとう.....ああ、あの時と何ら変わらない空だ」

「ええ.....奇麗な晴れ空だわ」

 老人は感慨深く窓の外を見ながらため息を零す。

 女性も一緒に外を見てすぐに目線を下に落とし、小さな声で同意した。

「思えば最高の人生だった......家族一人しかいなかったが、それでも充実していたよ」

「でも、一度も私に勝てなかったわよ?」

「いいや、勝ったよ」

「ええ? いつ勝ったのよ?」

 女性は少し困惑した様子ながらも楽しそうな声で質問する。

 老人は目線を外へ向けたまま、淡々と言う。

「今、さ」

 宣言しながら老人は頭を女性へと預け、目を瞑った。

「え?」

 突然の出来事に女性は理解が追い付かず、動かない彼をそのままにしていると手から紙が一枚落ちる。

「なにかしら?」

 紙に書いてある物を見た女性は小さく声を漏らし、やがて目から涙をポロポロと零しながら声も出さずに泣き続けた。

 紙にはただ二つの言葉が書いてあった。




「じゃあね。またいつか」

 女性は目を赤くしながら防腐処理を施し、満開の花で彩った老人を中程の穴が開いたボートに乗せて近くの川へ流して見送る。

 老人の顔は穏やかで、その頭には花冠が付けられており、胸の上で組まれた手には不格好な鉄製の指輪がキラリとしていた。

 参列者が一人の葬式を終えた女性は無言で家の裏へ行き、そこに亡骸のない墓を作り、墓標を刻んでから家に入る。

「散らかっているわね。片づけなきゃ」

 一人呟きながら掃除をし、二階に上げていた調理器具や移動させていた寝具を元の場所へ戻して同居人がいた場所を整理していると枕の下から大量の薬と手紙を見つけた。

「飲んでなかったの?」

 呆れながら手紙の封を切り、中を読む。



 これが読まれているという事は無事、枕の下の薬と共に見つかったということでしょう。そして僕は死んだ? んですね。

 僕は物心がついた時からこの家に住んでいて、あなたと一緒にいました。最初は母親のように思っていましたがお姉ちゃんだと言い張り、僕はその要求に対して素直に応じました。ですが、今考えるとあまりにも都合の良すぎる人形みたいだなと思います。

 しかし、それから数年間『勝負』という僕の願い事を叶えるための催しは敗北に敗北を重ねていき、いつの間にかただの一日と言う長い時間を潰す手段となり果てた行事の中で僕は知らず知らずのうちに惹かれていきました。恋文か?と思いましたか?はい。書いている本人もそう思っています。

 そして見事成功(?)したプロポーズ。晴れて僕はあなたの弟から旦那へとなりましたね。それからもずっと楽しい生活を過ごし、子供は出来ませんでしたがそれでも十分満ち足りた人生でした。

 あの時、あなたは僕の言葉を遮りましたね。ここでは遮りようが無いので書かせてもらいますが、人間なら誰しもがなる、否、なっている病と言うのは『死』です。この世に生を受けた人間はいつかそれに到着する。それではこの病に対抗する術はあるのか?それが生を受けてから息を引き取るその瞬間まで共に歩む伴侶、または家族そのたぐいこそが対抗する術なのです。

 死を迎えた人間は忘れられることがない限り生き続ける。つまり本当の意味では僕はまだ死んでいません。あなたが覚えていてくれるから。

 あなたは死なない。不老不死だ。けれども、人と触れ合わなければ死んでいるも同然だ。酷なことを言うかもしれませんが、出会いと別れは表裏一体です。嬉しければ悲しい事もあるのです。もし、数多あまたの出会いを経験して僕のことを忘れたのならそれは本望です(笑)



 手紙を読み終えた女性は手紙を胸に抱きながら嗚咽し、膝から崩れ落ちる。

「最後の最後まで.....あなたらしいわね」

 しゃくりあげながらも涙を拭き、女性はクシャクシャになった手紙のシワを伸ばして丁寧にしまって階段を降り、誰もいないリビングのソファに腰掛けた。

「......寒いわね」

 暖炉の火を熾し、パチパチと音を立てながら火花を飛ばす様子を見ながら女性は思い出したように置いていたワインを取り出し、グラスへ注いで飲む。

「何かつまめるものが.......」

 キッチンの方へ向きながら注文しようとして彼女はピタリと止まり、グラスをテーブルに置いて自ら調理する。

「っ!」

 不注意で指を切ってしまい指から流れる血を舐め取りながら止血し、サイコロステーキを作ってそれを食べながらワインを再び飲む。

 珍しく女性は早いペースで飲み、ボトルが空になったのを確認するや否やもう1本を新しく開いてそれも空にした。

「わらひは~、ど~せひとりよお~、ヒック」

 出来上がった女性は顔を酔いだけではない赤みを帯びながら机に突っ伏してウダウダと呟き続ける。

「なんれ~なんれ死んだの~? ろうしてよ~!」

 机をバンバンと叩きながら女性は泣き続け、3本目のワインボトルを開けようとして手を止められた。

「誰?」

「酔いすぎも悪いんだよ?」

 ハッとしながら女性は酔いから来る幻聴と幻覚だと割り切ってもう一度開けようとソムリエナイフを持つが、結局開けずにそれとグラスを2つ持って家裏の墓標の前に立つ。

「これ、一緒に飲みましょ?」

 墓標の前に座ってワインボトルを開き、グラス2つに注いでチリン、と音を立てて乾杯をして一気に呷り飲み、笑顔を浮かべる。

「これでお別れはお終い。しみったれたのは好きじゃないでしょ?」

 あの日落とした紙を引っ張り出しながら女性はそれを見て少し目が潤んだ。

[勝負 先に相手を泣かす。 追伸 こんな僕を弟に、そして旦那にしてくれてありがとう姉さん]

「姉なのか妻なのかしっかりしなさいよ.....」

 苦笑し、女性はその紙を破いて放り投げる。

「別れは盛大に。出会いはそっけなく」

「覚えていてくれたんだね」

 背後から聞こえた声に振り向いたが墓標と少し量の減ったワイングラスが健在で女性はまだ酔いが覚めていないのかと苦笑し、すっかり暗くなった空へ別れを告げながら家へと戻っていく。

 墓標の前には女性が植えたネリネが風になびき、揺れていた。





 ある日、川の岸に一隻の船が流れ着いているのを一人の若者が見つけた。

 もしかしたら人がいるかもしれないと覗き込み、そして思わずあっと息を呑んだ。

 防腐処理が施され、花で囲まれた遺体を若者は見ながらその指にはめられた指輪に目が行く。

「ごめんなさいっ」

 謝罪を口にしながら若者は指輪を遺体から盗んだ。

「すごい....手作りだ」

 いろんな角度から見たり、触ったりしながら若者は興奮し、いつの間にかそれを指にはめたいと思い始める。

「でも、持ち主に戻さなくちゃ....」

 若者は葛藤しながら指輪を元の主人あるじへ戻そうとした時、内側に掘られた刻印を見た。

「これは....住所?」

 そこには遥か向こうの山の頂上の近くを示す住所があり、若者はそこから遺体が水葬されたのだと分かる。

「なら、これは....」

 指輪を戻そうとした若者はそれを自分のポケットにしまい、いつの日かこれを住所の元へ届けようと思いながら遺体の乗った船をもう一度流し、見送った。

「僕がきっと届けますよ」

 若かりし頃の老人と瓜二つの若者は身を翻し、川を上るように道を進む。

 彼は名も知らぬ旅人。そして自らの名を知るべく、世界を歩き続ける旅人だった。

「それまでは、あなたの名前を借ります。クロードさん」

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ダイヤモンドリリー 諏訪森翔 @Suwamori1192

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