六章
第21話
その名が偽名だったと判明したのは、翌日のことだった。
本名を
偽りの名で彩潰しに侵入し、尚且つ目当ての義子を指名した浅黄という男は、金で得た時間で何度も何度も殺した。
湧き上がる邪悪を尽くし、無限の想像で残酷を尽くし、幾年も溜め込んでいた鬱憤を醜悪な嫌がらせでぶつけた…満足そうに去っていった浅黄に対し、残された猫の義子は再起不能で、次の客を迎えることなどできる状態ではなかった。
自分の力で身を清めることもできない猫に、仲居が手を貸そうとすれば錯乱し、空の胃袋から狂ったように胃液を吐き出して気を失う…今もまだ目を覚まさない。
…恐らく、単純な暴力や殺害だけではなく、性暴力も行われたのではと考えられるが、当人から事実を聞くことは不可能だ。
面を被り訪れる客が稀に居ることが難儀なところだが、もしまた浅黄が現れるようならば、出禁にしなければならないでしょう…。
「ともかく、あの猫はしばらく使い物にならないでしょう…如何いたしましょうか、檳榔子様。猫の仇を打つならば、この
「対処はこの彩潰しのみで良いだろう。わざわざ外界へ仇討ちに向かうほどのことではない」
その姿を見て良いのは、相応の結果を出したいっときのみ…それ以外は視界に映してはいけない。
目を閉じた暗闇に淡々とした声が響く。
確かに側に感じる冷たい気配…もう忘れかけたその姿を思い浮かべ、私は背筋を伸ばす。
檳榔子様。
彩潰しの主人。
この屋敷の猫の親。
その飼い猫がひとり、心を殺されかけたと知っては、どのような顔をしているのだろう。
「死体になったわけではない。あれは私を盲信している。私の声を聞けば、死に物狂いで己を奮い立たせるだろう…その醜さもまた、美しいだろうな」
…ふ、と冷たい風が当たる。
嗤った。
ぞくりと心臓がふるえる。
「…檳榔子様。お言葉ですが、不傷不死とはいえ、猫でも苦痛は感じます。心の傷ばかりは癒えません。あの子が本当に壊れてしまったならば、どうなさるのですか」
「永久機関に入れる。それだけだ。それが猫の解放だ」
永久機関。
…私は生唾を飲み込む。
実物は見たことがない。都市伝説を耳にしたのみ…しかしそれはあまりにも悍ましく、残酷なものだと噂されている。
そんなものが猫の解放だなんて…あってはならない。
「…そんなの」
「しかし、まあ、そうだな…美しい血を持つ猫を失うのは、彩潰しとしても痛いものだ。年代物の猫の血は美貌よりも売り。せめて子孫を残してから壊れてほしい」
「あの子は使い捨てではございません!」
目を閉じたまま、私は檳榔子様へ叫んだ…甲高い音が壁にぶつかり、反響し、私に返ってくる。
この部屋には誰も居ない。
なのに、その冷たい手は、どこからともなくするりと現れ、背後から私の肩へ触れる。
「何を取り乱しているのだ、青藤。まるで人間のようだぞ」
「…わ、私は、猫でございます」
「学びの間の教え子に執心か。一匹の猫を贔屓するのは感心しないな」
ひたり。ずるり。ぎりり。
指先を優雅に這いずらせ、私の首に纏わり、鋭い爪が肉に食い込む…声は間近に、冬の香りの吐息が耳にかかる。
怒りか、失望か…それとも、愉悦か。
檳榔子様の喉の奥の嘲笑の音が、低く、低く心臓に響く。
「……し、失礼、いたしました」
「良い子だ、青藤」
ざらりとした感触で、冷たい掌は離れた。
呼吸が喉に痞る…吐き出すことに苦戦する。
その私の無様を嗤う気配。
「やはり…猫は苦悶の顔がよく似合う。青藤、訊ねたい…心とやらに触れられた感覚は、痛みや死よりも恐ろしいものか?」
「───」
腹の底から嫌なものが這い上がる。
檳榔子様の低い声は、確かに、口角を上げたと伝わる。にたりと歪めて、その真黒な瞳に邪悪を浮かべて…。
まさか。
「…はじめから、知っていたのですか⁉︎」
振り返り、手を伸ばした。
目を開けてしまった。
そこには誰も居ない。
この部屋には誰も居ない。
声も気配も消えた。
静寂と寒さだけが満ちる。
…まさか。あり得ない。信じられない。そんな言葉で、私は主人への不敬を否定するが、既に確信になっていた。
檳榔子様は、浅黄の偽名を見破っていた。虐待していた義父だと知っておきながら招き入れ、義子の元に導いた。
あの子の心を追い詰め、より『美しい醜態』を観るために。
「……檳榔子様…」
もう一度目を閉じ、その名を呼びかけるが…主人の声は聞こえず、姿を現すこともない。
檳榔子様。
貴方が何を考えているのか、わからない。
それを知る権利など、私どもにはないのだろうが。
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