銀は灰白に滲んで
経口燈
本編
何かに追われる焦燥感。私は強迫的な感情を抱えたまま風の中を走り続ける。空が灼け落ちる匂い、おどろおどろしい感覚。辿り着いた先で私の良く知った人は、私の命運をその手に握り私に突きつける。身体がぶつかり合う感触、二人の身は投げ出されて落ちていき、その短い時間の中で全てを理解する。一筋の光明、全ての可能性。私は、確かに一つの選択をして、そして世界はその姿を一変させた。私にはそれが正しいことだと分かった。これまで感じてきた喜び、悲しみ、怒り、苦しみ……それらの上で私の心は満足感に打ち震え、そして静寂の中で安らかに眠った――。
「そろそろ行こうか」
私は隣に座っていた連れに声をかけ、共に席を離れた。何も喋れないほどの感動に打たれた他の人達が出ていくのは、既に見送った後だった。私たちは二人で一番端の席に座っていた。
「面白かったね、今日の映画」
旧式のインセプターしかつけていない私でも、主人公の感覚がよく作り込まれていることが分かった。きっと最新式のを使用していれば、上映後三十分の休眠時間を経ても興奮は冷めることなく、感情がフラッシュバックするようにして記憶の奥に刻み込まれただろう。他の客の様子を見てもそれは当たっていると思われた。しかしもう少ししたら、きっと6D上映の旧式インセプター対応席は無くなってしまうのだろう。楽しみが減ってしまうのは残念だが仕方ない、私たちが最新式にアップグレードすることは無いのだから。
感情をオーバーライドする技術は画期的だった。映画だけを見てもその有効性と影響力が絶大であることが分かる。私自身、結局ここまでの人生で長い期間その技術に関わって生きることになった。その功罪も良く知っている……いや知らざるを得なかった結果、その本当のところは良く知らないままなのかもしれない。どんな感情に触れても私は必ず、今日ずっと隣にいて、一緒に映画を感じていたであろう人のことを同時に考えているのだ。
私とあなたは若かった。お互いを分かり合いたい、分かち合いたいと願っていた。人は結局一人なのだという事実を認められず、あなたが傍にいることがむしろ私を孤独にさせた。
「どうせ私のことは、何も分かっていないのでしょう」
私はあなたに、今ではもう聞かれなくなったセリフをぶつけた。あなたは多くの言葉を私にかけてくれた。しかし言葉をどれだけ交わしても私は受け入れられなかった。あなたも、多分そう。ある日、VRとブレイン・マシン・インタフェースの研究者だったあなたは二人で使うための感情映写装置を作って、私たちの耳の裏あたりに取り付けた。後のインセプターの原型のようなものだ。まだ理論が出来て間もないものを、あなたは私のために(或いは私たちのために)形にしてくれたのだ。
感情を起こさせる、オーバーライドする、とか言うと大層なものに聞こえるけど何ということはない。その技術ができる以前から、私たち人間は日常的にそれを利用してきたのだ。悲しい時に楽しい音楽を聴くとどうなる? 上手くやれば悲しい気持ちは消えずとも、その上で悲しいだけでない感情が広がるのが分かるだろう。誰かが伝えた感覚は、時に人に新たな感情を想起させる。人々はそうやって感情をコントロールする手段を、したたかに利用して生きてきたのだと思う。
その昔、クロスモーダルという現象がVR分野で研究されていた。例えばただ甘みを付けただけの飲み物も、赤ければイチゴの味がして黄色ければバナナの味がする。そのような現象を利用して人の感覚を操ろうというのだ。そして実際それは、ある程度のところまでは上手くいったらしかった。それからも、人間の心に繋がる部分を操作しようという研究は多くなされた。特に脳に直接働きかける方法の確立は大きなブレイクスルーだった。心に触れようという願いは罪深いことだったかもしれない。だがそれも、私たちが(或いは私が)犯した過ちと比べたら些細なことなのだ。少なくとも、いつかの私にとっては。
とにかく、大事なのはその時の私たちがお互いの感情に溺れるようになったということだ。お互いに考えていることまでは分からなかったけれど、感情の動きは多分知ることができていた。感情は人の内側の、低い次元に位置するものだ。理性や思考が網の目のように張り巡らせたネットワークが作る構造の中であっても、スポンジの隙間に入り込む液体があるように感情だけは沁み込んでいくことができる。あなたは当時、理系的な素養に欠けていた私にそう説明してくれた。
私たちは感情をデータとして何とか取り出し、それを相手に与えることでお互いを深く知ろうとした。それは今インセプターが普及しているという事実が示すように、実際素晴らしいものだった。私は満ち足りた気持ちを味わえるようになって、それを繰り返すようになった。身体だけじゃいけない、私たちは何度も心を重ね合った。何度も、何度でも。そうしている内に私は満足できなくなっている自分に気がついた。ともすればあなたの感情を疑い、自分自身の感情を疑った。それでもまだ私たちは幸福な関係にあった。しかしある日、あなたの心はどこか私の及ばぬ場所へと落ちて行ってしまった。
この世界に空っぽの肉体だけを残したあなたの命を維持しながら、私は罪悪感と怒りに揉まれ、幸福な感情を上書きすることで正気を保った。あなたに置いて行かれて私は泣いた。感情で涙を制御するにはまだ二人のインセプターは充分なものでは無かったのだ。過ちと、その技術の罪を呪ってなお、私はそれから逃れることが出来なかった。
程なくしてインセプターの技術は普及した。驚いたことに私に取り付けられたままのインセプターもその初期モデルとして実際に使うことができた。あなたの研究がどれほどの価値を持つものなのか、どんな地位にあるのか、恥ずかしながら私は知らなかった。
何年かして、私は感情の記録、再生に関するサービスを提供する会社の支店で働いていた。その技術はまだ専門の業者だけが扱えるものだった。今日も典型的な一日で、若いカップルが店を訪れた。
「本日はどういったご用件でしょうか」
「その……彼女が、僕の心を信じてくれないんです。どんなに好きだと伝えても本気じゃないんでしょって言われてしまって……」
隣に座る女は私や男に目を合わせようとせず、黙ったままだ。
「お客様の感情をお連れ様に映写する、ということでお間違いないでしょうか。こちらのプランとなりますが」
「はい、それでお願いします」
男は案内書を確認し、これでいいよな、と黙りこくったままの恋人に確認を取ってみせた。
「ではお席の方にご案内させていただきます。お先に、お連れ様はこちらの方へ……」
軽く頷いた女性をまずは再生機器のある席に案内する。戻って今度は男性の方を記録席へ。
「それでは記録の方はさせていただきますね」
「はい……。あの、よろしくお願いしますね」
「承知しております」
記録席に座った男性に、女性への感情を思い起こしてもらい、私はその記録を抽出する。そしてデータを選択し、女性へと書き込んだ。記録の済んだ男性と共に彼女を迎えに行く。
女性はしゃくり上げるようにしていて、彼女の恋人が傍に来ているのを見るとわっと泣き出してしまった。男が腰を落としてその頭を撫でるのを見ながら、私は椅子と彼女との接続を安全に切り離した。女性は涙を流しながら椅子から飛び出し、男に抱きついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
抱き合い、愛を確かめ合った二人は、はにかんだような笑顔をして手を繋いだ。男は私にありがとうございました、と言って店を後にした。
男の感情は後で確認してみたが、案の定大したものでは無かった。事前に充分な強さの恋心を注文していた彼の判断は正しかったというわけだ。私はプランに示されているよりも多い金額を手にして、その女性を騙した後味の悪さを純度の高い満足感を使って押しつぶしてやった。
所詮、そんなものなのだ。感情は低レベルだから、そこに誰に対するものであるとか具体的な情景だとかは付随しない。いや、実際には付随するのかもしれないがこの時点で取り出せる感情はその程度のものだ。結局、感情の前で特別な人などいないのだ。たった一人、自分自身を除いては。
その事実は私が脳科学や工学の勉強をし、技術に携わり、その頃の論文を多少は読みこなせるようになってから知った。自分自身だけが重要だということ。自分自身以外は、例えどんなに深い関係を持った人であっても他人だということ。
自分の感情を自分自身に塗り重ねると、元の感情と反応して心が壊れてしまうことがある。感情がただのデータとして、脳の然るべき電気信号パターンを外側から投影するように発生させるインセプターは、人が違えばどうしてもその細部でデータとの不一致が生じる。しかし本人であれば、それはあまりに上手くいきすぎる。時として感情はぐしゃぐしゃになって、そして失われてしまう。
私はあなたの枕元であなたに向かって叫んだ。
「そんなに、自分が大事だったの?」
きっとあなたも他の皆と同じで、精錬させた感情でもって私を満足させようとしたのでしょう? 私はあなたに繋がった生命維持装置に手をかけた。でも出来なかった。結局この人が他人でしかないと知ってなお、自分の人生を生きようとしている私はあなたを殺すことが出来なかった。理由は分からなかった。私はただ泣いた。その感情を売るために記録しておく程度の冷静さを、その時の私は持っていた。私の感情は実際高値で売れた。理性が生きている状態にしては上出来だったと思う。
私も自分自身の感情を書き込んでみようかと思ったことがあったが、インセプターのかなり早い段階でのシステムアップデートでそれは不可能になっていた。それにあなたのために死ぬようで、嫌だった。
私はあくまでも他人でしかないあなたの頭で遊ぶようになった。それができるくらいまで、私は知識と技術を身につけてしまっていた。人々が感情を幾重にも纏って生きている社会から離れて、私はくだらない趣味に時間を割いた。
あなたに色々な感情を与えてみた。インセプターはまだ使える状態だったのだ。闇ディーラーと取引した感情だって試した。もしかしたらあなたを再びこの世界に引っ張り出すことができるかもしれないと、私は考えていた。
当然のことだが感情はそれが記録されるなどと意識していない時、脳がその感情で支配されているような時のものが最も純度が高い。それ故に貴重だ。例えば痛みを伴う苦しみ、これは想像や物語への感情移入ではどうしても良いものを入手できない。だから地下街で狩られる人たちがいる。闇の業者が貧しい者たちを襲ってその感情を奪い取る。或いは救いの手を差し伸べ、味気ない幸福に慣れてしまった一般市民からは採取できないような喜びを手に入れた。そしてそこから搾り出せる感情が月並みになってきたらまた捨てて、最後にもう一度だけ感情を記録しておくという具合だ。
もちろんそんな事実を知って良い気はしなかった。でも私も皆と同じで、自分だけが大事なのだった。だから、そんな闇取引だって進んでした。金はあった。
私は色々とあなたに細工した。バイタルサイン、脳の活動、それらを私が観測できるように装置を作り、データ処理プログラムを書き、私の持つ端末に描画できるようにした。そうして感情をあなたに無理やり入れてみると、どうやらあなたの精神活動はまだこの世界にほんの少し生きているらしいことが分かった。反応はまちまちだったけれど、無と呼ぶにはいささか鮮やかに表示が動いた。だから私はあなたが音も映像も、それ以外の感覚も感じないと知った上で時々は映画に連れて行くようになった。よくデザインされた一連の感情の動きなら、きっとあなたも楽しめていると少しは信じたのだ。
それから、感情以外にも色々とあなたの脳に投影してみた。私たちのインセプターは最初期よりも前のものだけど、外側から三次元的に脳に微細な電気勾配変動をプロットするという原理は変わっていない。色や匂いや音を投影して、でもあまり反応は無かった。それを見せるには性能的に厳しいらしかった。しかし、より難しいはずの言葉だけはあなたに届いた。
それは驚くべきことだった。もちろん言葉に対応する脳の発火パターンを調べて、それを投影することで言葉を想起させることは不可能ではないのだが、あなたが実際に反応するとは思ってもみなかった。心拍数や血圧の変化、情景や感触までわずかに再現していると思われる脳の活動。心なしか表情も動いたように見えた。だから私は、あなたに言葉を送ろう。
言葉を紡いでいくことは想像以上に難しかった。どんな視点で、どんな時間の流れで、どんな出来事をどう文章にするのか。手紙でもなく、かと言ってただ空想の物語であってもいけない。でも今はただ、言葉だけが私とあなたを繋いでいる。
あなたは私の拙い文章を笑うでしょう。私があなたを追って理系的になっていった果てに辿り着いた結論を、かつて私たちを隔てた言葉にすがろうとする皮肉をあなたは笑うでしょう。しかし、もういいのです。私とあなたは一つだから。つい最近、ようやく気づくことができました。
あなたに贈る言葉を用意する私は、確かにあなたを私に重ねていたし、私をあなたに重ねていた。私はあなたを生きてきたのです。この文章に触れたあなたも、私にあなたを重ねてくれることでしょう。あなたがこの世界からいなくなったのも、きっと必然だったのです。あの時、私の感情も既にあなたのものだったから。あなたと私は階層を隔て、だからこそ二人でどこまでも広がる、小さくてたった一つの世界だった。
あなたは夢を見ているでしょうか? きっとそこでは……いえ、そんなことはありませんね。あなたの見ている世界も豊かで、輝いているはずです。あなたも私を生きているのですから。私の言葉があなたにどう届いているのかは気になるところではありますが、それももはや重要ではありません。
いずれにせよ、いつだってあなたと私は一つなのです。
だって、そうでしょう?
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