愚実愚愛

陽野月美

愚実愚愛

愚実愚愛


 愚か者というのは、きっと私のような者のことを言うのでしょう。それなりに恵まれ、それなりに愛されて、それでいてまだまだ心は満たされていないのです。

 何不自由なくとは行きませんし、大学に行くだけの資金も危うくはありますが、それでもやっぱり、恵まれていますでしょう。毎日三食お腹いっぱい食べれていますし、それなりに良い住むところだってあります。高校にだってちゃんと行けています。

 だから、私は恵まれていると言えるはずです。少なくとも、嘆かなくてはならない環境ではないはずです。不遇ではありませんから、恵まれているはずです。

 それから、それなりに愛されてもいます。真正面から「自分は愛されている」なんて、烏滸がましくて言えません。ですからそれなりに、愛されているはずです。家庭でいえば親は私を見捨てませんし、学校でも友達から仲間外れにされた経験もそんなにありません。

 親は私の養育費をきちんと出してくれていますし、学費だってきちんと払ってくれています。あまりコミュニケーションがなかったり、喋ったと思ったら小言だったり、自分の洗い物や料理を自分でしていたとしても、やっぱりそんなのはありふれた当たり前で、愛されていないということはないはずです。

 友達も、たまに無茶ぶりをしてきますが、それはこの歳特有のものですし。暴力を振るわれたりもしてませんし、自分だけ知らない話題でついていけないなんてこともあまりありません。

 少なくとも、他者からの愛に飢えなくてはいけないほど愛されていないなんてことはありません。大して嫌われている訳でもありませんから、やっぱりそれなりに愛されているはずです。

 ただ私が愚かに憂いて、孤独の真似事をしているに過ぎないのです。

 真っ赤に熟れる果実にはなれず、愚かに憂う青二才でしかないのです。

 こうして思いの丈を綴っても、それはやっぱりありふれた文言でしかありません。

 卓越した才能もなければ、これといって努力した点もない。中の中の、そのまた中。平々凡々以下平凡。

 どれだけ心由来の言葉を紡ごうとも、そこには当たり前という名の呪縛が付きまとう気がしてならないのです。ハッキリ言って、少し怖くもあります。

 別に悩んでいるわけではありませんが、自分の思考や思想が、ありふれた取るに足らないものであると知ってしまうのが、怖い。

 もし、人からこんなふうに相談されたら、「取るに足らないなんてことは無い。例えありふれていても、君が君の頭で考えていることが重要なんだ。ただ教えられたことを享受するだけでなく、君の経験、君の実感を持ってそれは作られているんだから。もし、色んな人がそれを思っているのだとしたら、君の考えは、君だけにとどまらないということなんだ」と、言えるだけの度量はあるつもりです。

 決して詭弁やその場しのぎではなく、しっかり本心としてこう考えています。しかしそれを自分に適用できるかと言えば、少々難しいと言わざるを得ません。

 それを自分で言ってしまっていいものなのか、不安に思ってしまうのです。本当はわかっているのに、別に自分で言ってしまってもいいと。でもわざわざ口に出す必要なんかなくて、心の中でそう捉えていることが大切なのだと。

 何も不安な要素などはなく、しっかり自分なりの、それでいて自分だけでは無い答えがあるのに。それでも不安で在らなくてはならない気がしてしまうのです。

 本当は悩みなんて何も無く、何も苦しいことなんてないのに、それを表に出してしまう事が、良くないことのように感じてしまうのです。

 故に、私は満たされないのでしょう。人の心配を無下にするくらいなら、相手の思惑通りの弱者であった方がいい。人の助言に対して「すみません、それはもう試した上で言ってるんです」なんて言ってしまうくらいなら、何も出来ないフリをした方がいい。そんなふうに考えてしまうのです。

 前置きが長くなりましたが、私はこう言いたいのです。

 ちゃんと恵まれてあげられず、ちゃんと愛されてあげられず、ちゃんと守られてあげられず、ちゃんと寄り添われてあげられない愚か者。それが私である。

 こう言いたかっただけなのです。

 ありふれた言葉でしょう。どこにでもある考えでしょう。でもこれが、往々にして私を孤独へと追いやってしまうのです。

 そしてそんな孤独から逃げるように、自分はまともであると確認するように、私は今日も平凡に、学校へと向かうのです。


 それはある春の日のことでした。学年が上がり、クラスが変わってしばらく経ったある日の事。ずっと空いていたひとつの席が、その日は埋まっていたのです。病み上がりといったところなのでしょう、目を細め眉を寄せ、口はへの字の一歩手前、といった表情を浮かべ頬杖をついている女子生徒が、その席にいました。

 自分が、左一列目の一番後ろというかなりの好ポジションを獲得していると、その日初めて知ったようでした。かく言う私も、その右隣という中々に良い席ではあります。

 そしてその日の二時間目、現代文の時間。

「ねぇ」

 と、声がしました。初めて聞く声でしたので、瞬時ほど、どこから声がしたのか探しました。しかしなんてことはありません、左隣の彼女が私に声をかけただけでした。

 あまり交友関係が広いとは言えない私は、同い年の女性と会話をする機会も少なく、かなりカクカクとした動きで左を向きました。

「ごめん、教科書、見せてもらってもいい?」

 彼女の机の上にはノートと筆箱しかありませんでした。もしや時間割を持っていないのでしょうか。ともかく、私はそこで断るほど道徳心の腐ったやつではないと自負していますので、もちろん応えます。

「うん、もちろんいいよ」

「ありがとう」

 すると彼女はすすっと机をこちらに寄せましたので、慌てて私もそれにならいました。

 教卓の向こうから、先生がこちらを一瞥しましたが、一目で状況を察してくださったらしく何も言いませんでした。

 それから私は、自分の教科書をそれぞれの机に半々になるよう乗せました。

「ありがと」

 彼女は軽く、二度目のお礼を口にしました。

「いえいえ。見にくくない?」

「うん、大丈夫」

 この聞き方は少し失敗したと、その時私は思いました。この聞き方だと、多少見にくくても言い出しにくいかもしれないと思ったからです。「きちんと見えるかな。見にくかったら言ってね」くらい言えば良かったかもしれません。

 と、考えたところで後の祭り。むしろこんなふうに考えてしまうことで、彼女の善意を無下にしてしまっている可能性すらあります。それはなんとしても回避しなくてはなりませんから、これ以上愚考するのは辞める事にしました。

「じゃあ、次の頁開いて」

 先生が言いましたので、ぺらりと頁をめくりました。

 すると彼女が、

「ちょっとごめんね」

 と言って、こちらに少し身を乗り出しました。自然と、彼女の肩にまでかかるボブカットが私に近くなってしまいます。

 ドキリ、と、心臓が鳴った気がしました。早鐘を打とうとする心臓を、学問への知的好奇心によって押さえつけながら、私も教科書へと目を落としました。

 教科書の文を目で追っているうちに、心臓も早鐘を打とうとするのをやめたらしく、落ち着いてまいりました。

 一通り文章を読み終わったあと、彼女は元の位置に戻って、そこで初めて、私たちがかなり近くなっていたことに気が付いたようでした。ハッとした顔をして、少し急くように、

「ごめん」

 と一言謝罪をよこしました。

 こういう場合なんと返すべきなのかよく分かりませんが、ごめんと言われたならば、

「ううん。大丈夫だよ」

 と返すべきだと考え、努めて軽やかな声で、そう返しました。

 しかし、彼女はちっとも安心した顔付きになりません。

「本当に?邪魔になっていなかった?」

 なんて聞くものですから、私も少々ムキになって

「本当だよ。君はあくまでも左から覗いただけだから、全然邪魔になんてなっていないよ」

 と、応えました。

「そっか、良かった」

 ここまで言ってやっと、彼女は寄せた眉を離しました。教科書を見せてと言った時は、そこまで心配していなかったのに、どうして今のような場合は、そこまで気にするのでしょう。

 見せてもらっている立場でありながら、本来の持ち主の邪魔をするなんて以ての外だ、みたいなふうにでも考えたのでしょうか。この推理はあながち間違ってないような気もしますので、これでひとまず納得することにしました。

 その日はもう、彼女がこちらに身を乗り出してくることはありませんでした。


 次の日、またも彼女はしっかりとその席に、またしても頬杖を着いて座っていました。意外と朝は早いようで、私が来る前に既にその席に着席していました。病み上がりでありながらそんなに早起きして、体に障らないのでしょうか。

 口を聞いた事のある隣席の人に挨拶をしないというのも、それは随分なご挨拶な気がしますので、今日は挨拶してみることにしました。

「おはよう」

 すると彼女は顔を起こしてこっちを向き、瞬時程、軽く目を見開き驚いた顔をしました。

「おはよう。昨日は、ありがとう」

 昨日あの後も、しばしば教科書を見せたのでした。

「いえいえ。時間割、貰ってないの?」

「貰ってはいると思う。どこにあるか分からないけど」

「そっか。じゃあ僕ので良ければ、メモ取る?」

「いいの?ありがとう」

「もちろんいいよ。ちょっと待って」

 そう言って私は自分の机の中を漁って、自分のクリアファイルを取り出しました。その中から時間割を取り出し、彼女に差し出しました。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 それを受け取った彼女は、一旦時間割を机に置き、自分の鞄を探って手帳を取り出しました。今どき手帳を持ち歩いてる高校生がいるとは、少しばかり驚きでした。

 サラサラと、薄く、それでいて読みにくい訳では無い丁寧な字で、時間割のメモを取り始めました。

 しかし、ふと思いついたことがありましたので投げかけてみることにしました。

「それを書き写すのは大変だと思うから、写真撮って送ろうか?」

 彼女に撮らせれば良いじゃないかと思うかもしれませんが、私達の通っている学校はスマートフォンを玄関にあるロッカーに置いてこなくてはいけない決まりなのです。ですから、私が家に帰ったりしてから送るのが、最適だと判断したのです。

「なるほどね。あーでも、そこまでしてもらうのは申し訳ないよ」

 一瞬眉を上げて、なるほど、という顔わ後、すぐその眉を寄せて困った顔になりました。

「そう?遠慮してるならその必要はないよ。何か他の事情があるなら、やめておくけど」

「事情って訳じゃないんだけど。ほら、そうなると、連絡先の交換しなきゃでしょう?放課後、時間取らせちゃうから、それは申し訳ないなって」

「あ……」

 やはり私は、愚か者です。連絡先を交換しないと写真を送れない、という至極当然の事を失念していました。つまりこれは、遠回しに連絡先の交換をしたくないと、言われたと捉えて良いのでしょう。ではそれとなく退かなくてはなりません。しかし本心として言っている可能性も完全には否めませんので、やはり選択肢は残したまま自然と退きましょう。

「そっか……僕は暇だし、その辺はあんまり気にしなくていいんだけど、その方が気が楽ならそうしよう。変なこと言ってごめんね」

「あ、いや」

 すると、彼女は素早く手と首を振りました。

「全く変なことじゃないよ。お気遣いありがとう。その、本当に迷惑じゃないなら、放課後、ちょっといい?」

 どうやら連絡先の交換を嫌がっていたわけではなく、本当にこちらを気遣ってくれていたようでした。

「迷惑だなんてとんでもない、もちろんいいよ。こちらこそお気遣いありがとう」

 その日も昨日と同様、教科書を見せたり見せなかったりしながら放課後を迎えました。何となく放課後を迎えるのが待ち遠しかったのは、何故なのでしょう。


 私と彼女は、靴を履き替え、それぞれのスマートフォンを持ち、玄関に出ました。

「えっと、LINEでいいの?」

 と、聞いたのは私。今時の高校生は、SNSのリアルアカウントを用いて繋がることもあると聞きますし、少し不安でした。

「うん。私、インスタとかで繋がるの、そんなに得意じゃないから」

「そっか、僕も同じ」

 初めて、互いが自分の内面的な話をした気がしました。なぜかは知りませんが、この時のことを酷く憶えています。

 それから、彼女の画面に写ったQRコードを読み取り、連絡先を交換しました。彼女のアイコンやステータスメッセージは、如何にもというか、女子高生らしい可愛らしさを持っているそれでしたが、不詳私には説明できる知識がありません。アイコンはなにを写しているのか私では分からない、キラキラとしたモヤのかかった青と白の何か。ステータスメッセージには、「ねたりないえぶりでい けーたいふとんほしい」との事が。ひとまず私は、テストの文として「こんにちは」と送りました。すると彼女からも、「こんにちは」と返ってきました。

「大丈夫そうだね」

「うん、ありがとう」

 そう言った彼女は、少しだけ頬を染め、初めて、嬉しそうな笑顔をしました。感謝を表す営業的な笑顔ではなく、心が得をした時に生まれる、心を映した笑顔でした。

 すると彼女は、少しだけハッとした顔をして、ハムスターのようなキャラクターが、元気にぺこりとお辞儀をしているスタンプを送りました。

 私も、少し生意気な顔をしたパンダが、ぺこりとお辞儀をしているスタンプを返しました。

「意外と、可愛いスタンプ使うんだ」

 と、彼女はそれを見て言いました。

「意外と?そうかな?」

「うん。なんか、クールっぽいって言うか、あんまりふざけない人なのかと思ってた」

 クールと言うより、ただオドオドしているだけなのは黙っておきましょう。言わぬの花を守りましょう。

「そんなかっこいいもんじゃないよ。それを言うなら―」

 ここで少し言い淀んでしまいました。何を隠そうまだ彼女の名前を知らなかったのです。LINEのアカウントの名前が「Rei」なので、下の名前に「れい」と入っているのはわかりますが。

「理上麗奈」

 ごにょごにょしていた私の態度から、それを悟ったのでしょう。ご丁寧にフルネームで教えてくれました。少し微笑んでいたのは、果たして呆れでしょうか。

「あ、ごめん、ありがとう。ええっと理上さんこそ、どことなく辛そうな顔をしてることがあるから、元気とかあんまり好きじゃない人かと思ってた」

 もしかしたら今の言い方は少し失礼だったかもしれません。不快な思いをしていないか、私が内心不安になっていると

「うそ、そんなふうに見えてた?あー……辛いというか、眠いだけだよ」

 少し驚いたふうに、それでいて可笑しそうに微笑みながらそう応えてくれました。どうやら不快な思いはしなかったらしく、私は内心胸をなでおろしていました。

「なるほど。そっか、眠かったのか」

「うん。寝るの、あんまり早くなくて」

「そうなんだ。何時くらい?」

「26時」

 どうやら彼女は、寝るまでが今日、という考えの人のようでした。

「あんまり早くないって言うか、結構遅めだね……」

 言っても大丈夫だろうと判断したので、思ったことをそのまま言ってみました。

「あはは、なんか、時間経つのって早くて。気づいたら遅くなってるの」

 少し照れたように、はにかみながら彼女は―理上さんは言いました。

「少しわかるかも。あ、じゃあこうして時間取るの、あんまり良くなかったかな」

 ついつい、雑談と洒落こんでしまいましたが、多忙なのでしたらきっと迷惑だったでしょう。少々迂闊だったと思い、そう訪ねました。

 すると理上さんは、またパタパタと首と手を振って言いました。

「ううん。全然そんなことないよ。それに、ええっと……」

「えっと、不破蓮司」

「ありがとう。不破さんって、なんだか話しやすくて。聞き上手なんだと思うけど、つい、おしゃべりしちゃうから」

「そうかな?とにかく、迷惑じゃないなら、良かった」

 なぜだか、少し照れてしまって、話を切り上げるような形になってしまいました。そして、これは私の思い上がりの勘違いなのでしょうけど、理上さんからどこか、好意的とも取れる雰囲気が発させれているように感じるのです。好意的というか、友好的というか。あまり、そういった物に慣れておらず、どぎまぎに似た心持ちになってしまうのです。

「優しいね」

「え?」

「こんな、私みたいなのにも、気を使ってくれて、親切にしてくれるんだから、優しいよ」

「私みたいなのって……」

 そんな言い方、あんまりじゃないか。その言葉が喉の奥に詰まっている間に、理上さんは続けました。

「良かったら、このまま、一緒に帰ってくれない?」

「……うん」

 校門を出るまで、私達の間には沈黙が漂っていました。

「不破さんは、本当に、話しやすい」

「……」

 先に沈黙を破ったのは、理上さんでした。

「話さない方がいい事まで、話しちゃう」

「それは……ごめん」

「ううん、こんなの、八つ当たりだから。こっちこそ、ごめん」

 理上さんは、まるで迷っているようでした。話したいという気持ちはあれど、しかし話すのを躊躇う気持ちも、またある。話すのは良くないと思っているのかもしれません。だとするなら、私の言うべきことは一つです。

「八つ当たりでもいいから、話したいことがあるなら、話してみて」

 努めて柔らかく、それでいて重みのある声色で言ってみました。

「ありがとう」

 そうは言ったものの、やはり迷っているようでした。甘えることを、あまり良しとしない人なのかもしれません。ゆらゆらと、瞳の奥を揺らめかせながらこちらを見ましたので、私は少しだけ微笑んで見せました。すると、彼女は決心したように話始めました。

「私ね、親が、家にいないの」

「うん」

「転勤族ってやつで、学校の近くにアパート借りてくれて、私、そこで一人暮らし」

「うん」

「知ってるかな、私、新学期になって最初の方、休んでた」

「うん、知ってるよ」

「その時、知っちゃったんだ。あぁ、自分で起きて準備しないと、誰も起こしてくれないんだって」

「うん」

 それは、そのまま言葉通りの意味であり、それでいて比喩のようでもありました。

「なんだか、ひとりぼっちって、感じちゃって。学校行くのも、なんだか億劫で、休んでた」

「うん」

「でも、家で一人でいるのも、なんだか寂しくなっちゃって、昨日、学校行ってみたの」

「うん」

「でも、時間割なくて、一時間目は寝てたんだけど、二時間目は寝れなくて」

「うん」

「でも、教科書もなくて、それで」

 ここで、少し彼女は考えるように間を取りました。言葉を、選んでいるようでした。

「隣、不破くんで、それで……少し、甘えちゃった」

 理上さんは口角を少し下げ、薄く笑いました。照れるようにと言うより、懺悔でもするように、彼女は冷たく言いました。きっと、自分を恥じているのでしょう。どこか自身を責めるような、そんな口調に、私には聞こえました。

「そしたら、いいよって言ってくれて、机もこっちに寄せてくれて、なんだか、ほっとした」

「うん」

「それで、その、頁めくったら文が遠くなったから、それを口実に、また甘えちゃった」

「うん」

 えっ、と言いそうになったのを、何とか飲み込みました。つまりあれは、わざとだったのでした。だからといって、怒ったりなんかはしません。

「でも、自分何やってるんだろうって思って、怖くなって、謝った」

「うん」

「そしたら、また不破くんは大丈夫って言ってくれて、邪魔じゃないって、真剣に言ってくれて、嬉しくて、申し訳なかった」

「うん」

 きっと、今も理上さんはその申し訳なさと戦っているのでしょう。その目線は、私より地面に向けられている時間の方が長いような気がします。

「今日は、もう甘えるのはやめようって思ったの。でも、できなかった。不破くんが、挨拶してくれて、嬉しくて、なのに私、また甘えたくなっちゃったの。恩を、仇で返すみたいに」

「恩を仇で返すなんて、そんな酷いことしてないよ。だってそれは、僕が、暗に甘えていいって言っていたからじゃないか」

 今朝の自分が、なぜ挨拶したのかよくわかっていませんでしたが、今ようやく分かりました。つまり、私は無意識のうちに、理上さんが私に甘えていることを察していたのでしょう。

「でも……それは……」

 理上さんは、また迷っているような素振りをしていました。きっと、私の言ったことに納得する部分もあるのでしょう。しかし、自分を許すことができない。自分の行いを、正当化することができない。そんなところでしょうか。

「寂しいけど、その寂しさを見せれる人がいないんじゃないの?」

「うん」

「親御さんが転勤族ってことは、転校も多かったとか」

「うん、多かった」

「だから、特定の人と仲良くしても、心を開く前にお別れだったとか」

「なんで、分かるの」

「それくらい、察しがつく」

「すごいね」

「大したことじゃない。つまり、理上さんは、ちゃんと人に甘えたことがないんでしょう」

「うん」

 その「うん」は、少し震えているようでした。

「だったら、甘えていいよ。甘えておいでよ、僕でよければ、いくらでも」

「でも、私」

「でもじゃない」

 この時、私は少し怒っていたように思います。

「今の理上さんの葛藤を見れば、理上さんが、これまでずっと我慢してきたって、わかる。ずっと、耐えてきた。孤独に、真似事なんかじゃない、本当の孤独に。でも、もう耐えられなくなったんでしょう」

「うん、うん」

 理上さんの目は、こぼれそうなほど赤く潤んでいました。

「もう耐えなくていいんだよ。僕がいるから。昨日知り合ったばかりで、こんな事言うのは変だけどさ」

 私には、彼女の気持ちが痛いほどよく分かりました。なぜなら、

「だって、僕も少し同じだから」

「えっ……」

「僕も、独りなんだ。僕の場合は、家族と同じ家に住んでるし、少しくらいなら友達もいる。でも、その誰にも一度だって心を開いたことがない。親とは口を聞かないし、友達と話すことも、もうあんまりない。理上さんにくらべたら、大したことはないけど、でも、理上さんの気持ちは、全てではなくとも理解できるつもりだよ」

 初めて、自分のことを、こんなに長く話しました。自分の胸の内を、誰かに話しました。

「そっか、不破くんもなんだね、そっか。じゃあさ」

 理上さんは、私の目を真っ直ぐ見つめました。その目に、葛藤や、罪悪感や、懺悔は、一切入っていませんでした。

「不破くんも、甘えていい。私に、甘えていい」

 喜びと恐れが、何食わぬ顔で共存していることに、ある種の罪悪感を覚えてしまいます。にくい程魅力的なその提案は、変え難い程幸福な落とし穴なのです。ならば私は、喜び勇んで落ちるに限る。

「ありがとう。僕もってことは、理上さんも僕に甘えてくれるんだね?」

「うん。私もってことは、不破くんも私に甘えてくれるってことなら」

「うん、そういう事だよ」

「うん、私も」

 愚かなことをしたと思います。でも、悪い事をしたとは思いません。この場合、愚かなのは私だけではなく、理上さんもなのですから。愚か者たる私達が、愚か者から脱するにはこうするしかないのでしょう。だから、これで良いのです。

 きっと私は、理上さんを愛してしまったのでしょう。愚かで、目も当てられない、そんな愛ですが。

 愚かな果実のその青は、深さを増して藍となったのです。

 愚実、愚愛。

 愚かしく、それでいて愛おしい、藍の果実。

 傍から見れば、痛々しいことこの上ないでしょう。でも、それで良い。賢くなれない私達は、愚かながらに懸命に、愛というものを育んで行きたいのです。

「理上さん」

 どうやら、私は愚かではありますが、誠実なようです。

「愛しています」

「はい」

 理上さんは、泣いていました。ずっと我慢してきた孤独を、洗い流すように、幸せそうに、泣いていました。その幸せが、これから私の幸せにもなろうとしています。

「私も、愛しています」

 例えありふれていたとしても、何より尊く大切なんだと、胸を張って言える、幸せです。

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