無限彷徨の果てに
吉永凌希
第1話
心地よい眠りから覚めたという感覚だった。
緩やかに暗から明へと移り変わり、そして自然に瞼が開く。
網膜にぼんやりと投影されたのは緑色だった。次第に焦点が定まっていくにつれ、目の前にのどかな田園風景が広がっていることが認知できた。小さな山や丘に囲まれた、そう広くない盆地だ。
見上げると空は雲ひとつない快晴。山の端からさほど離れていないところで、太陽が四方八方に光を放っている。その鮮やかさ、空気のみずみずしさからすると、まだ早朝といえる時間帯のようだ。
そして、耳に届くのは鳥のさえずりばかり。
(ここは……どこだ? 何が起きたんだ?)
寝起きのような薄ぼんやりとした頭で、僕は考える。なぜこんなところにいるのか。ついさっきまで、僕は砂塵と硝煙の烟る戦場に立っていたはずなのに。この牧歌的な風景とは似ても似つかぬ、荒廃した異郷の地で。
改めて自分の周囲に視線を巡らせた。
僕が座っているのは木製のベンチだった。表面は色あせ、木板の端はところどころ朽ちてボロボロに崩れてしまっている。
ベンチの前には、何か縦長の看板みたいなものが突っ立っていて……そうか、これはバス停の標識だ。看板の上部に〈小此木〉という漢字の表記が見えた。
(ここは日本なのか!?)
そのとき僕の耳が、静寂の彼方から伝わる微かな異音を捉えた。自動車のエンジンの音か。
右手の山裾に赤い車が現れた。山裾を伝うように伸びる道路に沿って、右に左に緩やかなカーブを描きながら近づいて来る。
次第に大きくなるエンジン音。やがて車は僕の目の前を一瞬で通り過ぎた。あとに排気ガスの臭気を残して。
遠ざかっていく車のナンバープレートの文字は読めなかったが、あれはどう見ても日本車だ。
そして……今になって気づいたのだが、田園風景の中に点在する民家も、久しぶりに見る日本建築の家屋だった。
(間違いない。ここは僕の母国、日本だ。でも……)
なぜ? どうやってここに戻ってきたんだ? つい今しがた目の覚める直前まで、僕は異国の集落で銃を手にして……。
頭の中で一枚ずつベールが剥がされ、その下に埋もれていた記憶が少しずつ鮮明の度を増していく。
あの集落はどうなったんだ? 僕が助けた子供は? あのまま窮地を脱することができたのか?
さまざまな疑問が浮かび上がり、脳裏に渦巻く中、僕はきわめつけの事実を思い出して、ベンチに座ったまま硬直した。
(僕は、ついさっき死んだはずじゃないか)
そもそも僕は、生きるに値しない人間だった。
複雑な家庭環境のせいで、物心ついてからというもの、疎まれて、蔑まれて、虐げられた。
人間という存在を信じることができず、長じてからは幼い頃の恨みを晴らすかのように、善人の仮面を被ったまま、多くの人を泣かせて、嘆かせて、傷つけた。殺人や強盗という重罪こそ犯さなかったものの、他人に迷惑をかけて、不幸に導くことを生きがいとするような、ろくでなしだった。
そんな僕が日本を捨てて異郷の地を目指したのは、一つの事件がきっかけだった。
ある女性に対する陰湿なストーカー行為を執拗にくり返した結果、彼女は心を病み、心神喪失の状態で車にはねられると同時に記憶を失ったのだ。
そして、彼女が奇跡的に記憶を回復したとき、僕は彼女の姉による復讐の刃に倒れた。
一命をとりとめた僕は、退院後、逃げるように母国を後にした。できるだけ過酷な環境を求めて、死に場所探しの旅を続けた末に、たどり着いた異国の集落で、僕は実弾の飛び交う戦闘に巻き込まれたのだ。
自ら銃を手にして戦い、子供を救うために敵を撃ち、その直後に敵の銃弾に斃れた。遠のく意識の中で、僕は前非を悔い、何一つ孝行できなかった両親に謝った。
意識が闇に同化してから再び覚醒するまで、実際にどれほどの時間が経ったのかはわからない。僕の感覚ではほんの数十秒という短い時間なのだが、とにかく暗黒の眠りから目覚めた今、僕はここに存在している。
まったく理解の及ばないこの現実に、どう対応すればよいのだろうか。
僕はただ茫然自失として、目の前の光景を無機的に網膜に投影するほかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます