免許と彼女

秋津 心

第1話

 九美は運転をすると笑顔になる。決して運転が楽しいからという理由ではない。ただ、車のアクセルを入れ始めると、次第に口角が上がっていくのだ。逆にブレーキを入れるときは、口角が下がり笑顔が消えていく。

 本人曰く、無意識なのだという。勝手にこのようなことが起きるのだから不思議である。 

免許を取るため、教習所に通っていた時からこの癖が、どうやらあるらしい。そのせいか、まじめに運転しろと何度も教官に怒られたらしい。「この癖のせいで、卒検にも二回おちたんだよね」と九美は話すが、それは単なる技術不足ではないかと思っている。

どこか遠くに行くときは、いつも九美に運転をしてもらっている。九美は免許を持っていて、自分は免許を持っていないからだ。

男が助席にいて、九美が運転している構図はどこか恰好が悪く示しがつかない。だからいつも旅行に行くとき電車やバスで行こうと提案するのだが、九美は運転が良いと頑なに否定する。

 だめ、安く旅行がしたいから。

 そう言うので、「旅行費は俺が払うから」とお願いしてみたが、まったくもって不服そうな顔で、

「いや、運転が良いから」

 結局、九美は運転をしたいらしい。

 九美の運転は決して上手なわけではない。右折も左折も大きく曲がりすぎるから危ないし、スピードも規制速度より極端に遅いか速いかのどちらかだ。九美はおっとりしている性格も関係するが、とにかく色々忘れっぽくサイドミラーを開き忘れたり、踏切の前で停止をし忘れたりする。この前それで罰金を取られた。

 命の危険だってあった。

 ある大通りを右折したら、なぜかそこが左車線のレーンになっていて、つまり逆走していた。「アブナイアブナイアブナイ」と自分が連呼しながら叫び、逆に走ってくる車をよける。近くにあった、コンビニで退避してなんとか事なきを得た。九美はその時も、笑顔になっていた。

 そんなこともあって、やっぱり九美には運転させたくはない。自分の命が危ないこともそうだが、九美が誰かを傷つけてしまうことの方がもっと嫌だった。

 九美は小さい。背も、百五十いくつしかないらしく、電車のつり革も、あんまりうまくつかめない。そして痩せている。栄養のあるものをあえてくれなかった親のせいだといつも言っているが、本当に親のせいだろうか。でも、九美の小ささは、なんだか際立つもので、見ていると「チビ」だとか、からかったりしたくなる。九美はそれが気に食わないらしく、すると次回からは慣れないハイヒールなどを履いて転びだすので大変だ、最近は言わないようにしている。運転席にいるときも、車の規格と合っていないのか、人形が座席に座っているような、変な気分になったりする。アクセルに足がしっかり届いているのか心配だ。

 九美に運転をさせたくはない。でも、九美は運転をしたがる。それは困ったもので、自分たちの関係を崩さないための大事な問題だった。

 一度九美に聞いたことがある。なぜ、そこまで運転をしたいのか、と。すると九美は、「あの雰囲気が良いの。そとの空気が遮断されて、音楽がゆったり鳴り響く空間が」

 たしかに、そうかもしれないが、そんなにいい雰囲気になるのは一部分だけで、あとはアブナイと自分が叫ぶか、九美のああ!とびっくりする声が大半を占めている。決していい雰囲気とは言えない。もっと九美の運転がうまくなってくれればいいのだが。何度も旅行に行ってもうまくはならない。偏見だが、女性は運転が下手だと、誰かから聞いたことがある。本当はそんなことはないだろうが、九美を見ているとなんだか信じてしまう。

 熱海の温泉に行ったことがあった。車でだ。九美がずっと運転をすることになるから遠いよ?と念を押したが、大丈夫と一蹴された。下道は問題なかった。ただ、ナビで示された高速道路に乗る手前になって、「私、高速道路運転したことないんだよね」と言うのだ。とりあえず、近くのファミレスに車を止めて相談をする。

「俺、免許持ってないから分からないけど、それって大丈夫なの?」

 九美は目を下にうつむかせながら、

「私のところ、高速道路の実習はシミュレーションですましちゃうところで。高速の指導は受けているんだけど。大丈夫って聞かれたら、たぶん、怖い」

「引き返す?」

「やだ」

「高速乗ってみる?」

「怖い」

 結局、熱海までは高速を使わず、下道で行くことになった。

 ついた頃には、日が沈んでいた。

「結局、4時間ぐらいかかっちゃたね」

「ほんと、疲れた」

 思い出としては強烈だったが、これで本当にいいのかと思ってしまう。九美は疲れていながらも楽しそうではあったが、九美にばかり負担をかけて自分は何もできない状態にうんざりだった。そして免許を取ろうと決意をした。

 しかし、温泉に浸かると、体の芯までつかる熱でもうどうでもいいような安心感でいっぱいになってしまったが。

 免許が欲しいきっかけはもう一つあった。

 九美は、あるサークルに入っている。ダンスサークルだ。九美は別にダンスをするようなポジションにいると思ったことは無かったが、結構楽しいらしい。

 そのサークルに入っているもう一人の知り合いがいる。佐々木健太だ。

「九美ちゃん、面白いね。狙っている男も多いと思うよ」

 自分と九美の関係を知っている中で、そんな冗談を言うのだから決まりが悪い。健太は思ったことをすぐに口に出してしまう。

「ねえ、九美ちゃん。今日うちのサークルの先輩に飲み誘われてて、すぐオッケー出してたよ。九美ちゃん、軽いよな」

 九美は考えることが苦手なのだ。だから、世間体とか、そんな難しいことは考えられない。きっとその飲み会も何も考えずにオッケーを出したのだろう。

 それと、気持ちの悪いガラガラ声でそんなことを言う健太。実のところこいつが好きではない。突拍子の無い話をすることは、こいつの良い所でもあり、悪いところでもある。

 その日のよる、九美に電話をしてみる。

「もしもーし」

 酔っている。九美はお酒が強いわけではない。この前も、レモンサワー一杯でマシンガンのようにしゃべり始めて、二杯目でその場で眠りにつき始めた。

「九美、大丈夫か」

「へーき、九美へーき」

「周りに誰かいるの?」

「さっきまで、サークルの人いたけど、なんんか、いなくなっちゃた」

「今どこ歩いてる」

「うーん、分からない」

 がしゃがしゃ、と何かが落ちる音がした。「九美」

 しばらくして返事があった。

「ちょっと、ころんじゃった」

あはは、と笑う九美。ダンスサークルの連中が恐ろしく思う。どうして、こんな危ないやつを一人にしたのか。男なら、家まで送っていくものだろう。しかし、それはそれで、そいつらを憎むだろうが。

「なんか、場所分かるだろう。地図のアプリとか開いて教えて」

そこだけはしっかり指示を聞いてくれた。いつも触り慣れているせいか、スマホの扱いは酔っていても問題ないらしい。送られてきた、地図のスクリーンショットは、駅から十分ぐらい離れたところ。九美の家とは別の角度に向かって歩いていることが分かる。

「ちょっとそこで待ってて。向かうから」

 九美は何かを言っていたが聞き取れなかったのですぐに電話を切った。

 終電を使い、九美の家の最寄りの駅まで行き、反対方向に歩いて十分ほど、九美が道路の片隅でうずくまっていた。

「あ、ありがとう」

 自分を見るなり、両手をそろえてお辞儀をしだす。何にそこまで感謝をされているのだろう。

「はい、三かける三は?」

 そう聞くと、「田んぼの田」と答え始める。そうとう重症らしい。いつも、どのくらい酔っているかは暗算ができるかどうかで決めている。

 結局、結構な苦労をして、九美を家まで送り届けた。歌を歌い始め、空に願い事を言い、フラフラな九美。袖をつかみ何とか誘導していった。家の前について

「うち、上がっていく?」と聞かれたが、断った。なんとなく、このまま家に行くのは、騙している感じがあって嫌だったからだ。

 駅に着くと終電はとっくに終わっていて、電光掲示板は静かに眠り始めている。家までは三十分ほどかけて歩くことになった。

 こんなとき、車の免許があればな。寒い夜を歩きながら、ひどく後悔をした。道路にある酔っぱらいのゲロが足につく。

 免許をとることを九美に話した。すると、「ええ、いいよ。私の運転があるじゃない」 

 自信満々の顔だ。このまえ、熱海まで高速使えなかったことを話に出すと

「大丈夫、大丈夫。次は大丈夫だよ。私、マリオカートで練習してきたから」

 本気でそんなことを言い始めるのだからやっぱり不安だ。

 チラシなどを見て、家近くの一番安そうな教習所に決めた。

 予約のキャンセル料が発生しないことや、今住む地区に住んでいる方は一万円還元、なんかの謳い文句にしている場所だった。一回目に受付をしたときに、一万円を渡されてうれしく思ったが、二十数万円を銀行から払ったのだから結局うれしくはない。今まで貯めていた貯金の大部分を泣く泣く切り崩した。

 バイトのシフトも増やしてもらった。お金が足りない。このままじゃ生活がままならない。免許をとるという新しい目標を掲げたせいか、忙しさは倍増した。車の勉強、バイト、教習、バイト。目まぐるしく終わっていく日に疲れが増していく。

 そんなこと、気にも留めない九美は、飯に行くときも「おごってほしい」と、せびりだす。どっか行こうよ、といつものように聞いてくる。

 なんだか、うんざりしてしまった。せっかく九美のためを思って必死に免許を取ろうとしているのに、その九美は自分になんの敬意もない。そんなこと求めるのはかっこ悪いと思うかもしれないが、陰ながらの努力ほど報われないものはないだろう。心のどこかでは、もっと感謝されてもいいのでは、と思ってしまう。感謝は無くても、忙しくなったことぐらいの理解はしてほしい。

 だが、誘いを断るたびに九美の機嫌が悪くなっていることはよく分かる、少しづつだが、話すときの声が低くなっていくのだ。これは機嫌が悪くなる前兆である。よりよい二人になるために免許を取ったのに、余計仲が悪くなってはどうするのだ。本末転倒だ。

そこであることを思いついた。

「車の免許がとれた日に、車で熱海に行こう」

 そんな約束をした。なんでまた熱海?と九美に聞かれたが、温泉にいきたいだろう?と聞き返すと、行きたい!とすぐにオッケーしてくれた。本当の理由は、自分が高速を運転することで九美に尊敬されると思ったからだ。

 この約束をすることで、九美は免許を取るまで待っていてくれるし、仲が悪くなることもない、そう思った。

 仮免も卒業検定も順調に合格した。一刻も早く、九美を車に乗せたいと思った。

 そして、筆記試験。府中にある免許センターで試験を受けた。

 九美に車で送ってもらい、試験を受ける。午前中には終わるので、そのあとそのまま熱海に行こうと約束した。九美ではなく、自分の運転で。

 試験は簡単に受かると思い、宿まで予約をしておいた。

「どう、だった?」

 試験終了後、九美は結果をすぐに聞きたがる。自分は黙って九美の車に向かった。

「それって、受かったってこと?やった!ねえ、なんで無言なの」

 車のドアを開け席に座る。

 九美はそこでようやく違和感に気づいたらしい。

「ねえ、なんで?そっちは助席だよ。運転席は反対だよ」

「いや、いいんだよ」

 すごく静かな顔をする九美。

「もしかして、落ちたの?」

 静かな声だった。

「ごめん、ダメだった」

 ルームミラーに九美のようした大きな荷物が目に入る。なんだか寂しそうだ。

「そっか、仕方ないね」

 この空気がいたたまれないのか、ドアの窓を開ける。涼しい風が車内に入り込むが、それは余計に関係が冷たくなる気がした。

「いいよ、私が熱海まで運転するから」

 エンジンをかけてシートベルトを着ける。

「高速道路もちゃんと乗れるから」

 ガガガと音を立てて、車が起きる。でも、今は熱海に行く気分なんてない。

「ごめん、九美。やっぱ家まで送って」

 返事はなかったが、九美は手前の道路を帰える方角に曲がった。

 次の週の試験で、ついに免許を手に入れた。

 九美を熱海に誘ったが、忙しいからと断られてしまった。

なんだか、チャンスを逃してしまった気がした。久美のことだからきっと、ただ忙しかっただけ、だとは思っている。だけど、来週また熱海に行こうなんて言う気にはならない。「この人まだ言ってる、試験に落ちたくせに」そんな冷たいことを思う久美を見たくはなかったからだ。せっかく苦労して免許をとったものの、結局何もできないまま日付けが進んでいった。なんとなく久美と会いたいと思う気持ちが減っていった。

あるとき、久美から「久しぶりに会わない?」とメールが来た。なんだかいつもとは違うよそよそしい文面に違和感を感じた。いつもは会いたい、とか明日ね!とか気持ちが外に出たような書き方をするのに、今日はずいぶん他人行儀で丁寧な書き方だ。

久美の顔を見ると怒っていた。時間はもう夜だった。

「どうして、車、誘ってくれないの?ずっと待っていたのに」

「そんなに一回試験に落ちたくらいでクヨクヨしすぎだよ」

怒涛のような言葉を浴びせられた。

「男の気持ちってよく分からない」

それはこっちのセリフだ。女の気持ちもよく分からない。なぜ、こっちが誘うことを待っていたのだろうか。自分は久美から誘いのメールが来ることを待っていたというのに。

それに、

「なんか、かっこ悪いと思ったから・・・」

「カッコいいとか悪いとか、関係ないから」

久美は今にも泣きそうな目でこちらを見つめてくる。目尻がもう真っ赤だ。

秋の風は、そんな目の滴をかすめ取るように強くふく。

久美の勢いは消えていき、徐々にいつもどおりの顔に戻っていく。それを確かめると、今、何かを言わなくては、と気持ちが焦る。

「今から車、乗る?運転するよ」

その言葉を聞き、安心したのだろうか、それとも呆れたのだろうか。肩を下ろして親指を立てる。

「もう分かんないけど、いいよ」

 エンジンをふかしてもその音が何だか心地が良い。この沈黙を埋める音があるだけでもこちらとしてはありがたいからだ。隣にいる九美の顔が見られない。慣れない運転で前を見続けなければならないせいでもあるが、それ以上に、九美がどんな顔をしているのか見るのが怖いのだ。もっとアクセルを踏みつけたい、思考や心が置いていかれるほどに速いスピードを出したい。

 交差点を左折したとき、九美は、

「ちゃんと左、確認した?」

 おどけたような声で聴いてきた。

 心の力みがすっと抜けていく気がした。

「確認したよ、誰かさんとは違ってね」

 ちゃんと顔を見ることが出来た。

「私のこと言ってるの?ひどい!」

 いつものように九美は叫ぶ。

「うまいでしょ、運転?」

 少しの間をおいて、九美は

「まあまあ」

 生意気。九美の顔は、いつもの運転しているときみたく、笑顔だった気がした。

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免許と彼女 秋津 心 @Kaak931607

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