第四部 老子

老師 1

翌日、ハオさんから指定された場所の前で笠根さんと待ち合わせた。

渋谷の駅から少し離れた住宅街にあるヨガスタジオ。

お洒落なママさん達が好むような外観にしつらえられたきらびやかな一軒家を前に俺達はたじろいでいた。

「…………」

閑静な住宅地の風景にとけこむお洒落なスタジオの前に男が2人。

顔はイケメンとはいえ垢抜けているわけでもない地味な服装の笠根さん。

アウトドア仕様の無骨なカメラバッグと三脚を担いだ俺。

なんという場違い感だろうか。

別に悪いことをしているわけでもないのに気後れしてしまう。


「ここ…ですよね」

わかり切ったことを笠根さんに尋ねる。

「……ええ……そのはずですねえ」

笠根さんも若干気まずそうな顔だ。

なんでこんなところで待ち合わせなのか。

老師とやらはヨガでも教えているのだろうか。

そんな感じで男2人でモジモジしていると、約束の時間にハオさんが現れた。

というかスタジオから出てきたのだ。

「カサネさん!マエダさん!」

大きな声で呼びかけられ、スタジオ入り口の方を振り向くとジャージ姿のハオさんが立っていた。

運動していたらしくうっすらと汗をかいている。

おいおいマジでヨガやってんのかよと心の中でツッコミつつ挨拶を交わす。

ハオさんに案内されスタジオに入ると、中には数人のジャージ姿の男女がいた。

小柄な老人を囲むように10名ほどの輪を作っている。

そして俺は実に奇妙な光景を目にした。


ヤッ!と気合の声を上げて、男が輪の中心に向かって突進する。

輪の中心には小柄な老人。

男が老人にぶつかるかと思った瞬間、男はウッと声を上げてバランスを崩し、老人の横をすり抜けるように転がった。

ゴロゴロと無様に転がって立ち上がる男。

続いて他の男、女、男と、順番に老人に向かって突進というかタックルを仕掛けるも、全て老人の一歩手前でバランスを崩し、横を転がるように倒れる。

老人は何もせずに突っ立ったまま。

老人を囲む男女が突進し、勝手に老人の横を転がっている。

そして立ち上がり、困惑したような顔で老人を見るのだ。


「…………」

何やってんだ?

奇妙なダンスのようなものを眺めながら、ハオさんに促されるままにスタジオの隅に移動する。

「ちょっとここで待っていましょう。荷物はそこに」

カメラ機材と荷物をまとめて床に置き、俺達も腰を下ろす。

「あそこにいるのが先生です。面白いでしょう?誰も先生に触ることができない」

そう言ってハオさんはおかしな集団のほうに目を向ける。

つられてそちらを見ると、奇妙なダンスはまだ続いていた。

老人を囲む集団は性別も年齢も様々で、普通の主婦のような人もいれば屈強な体つきの男もいる。

それぞれが思い思いに、時には2人3人が同時に老人にタックルし、老人の横を転がる。


殺陣(たて)の真似事。

マジマジと見た結果、そう思った。

大の大人が小芝居でもしているような感じだ。

だが殺陣と異なるのは、中心に立つ老人が何もアクションをしていないということか。

向かってくる人間に合わせて顔や体の向きを変えることはあるものの、特に演技をすることもなく、両手を後ろに組んで突っ立っている。

周りを取り囲む人間達のテンションとは打って変わって老人は落ち着いた雰囲気だ。


「…………」

何やってんだ?

改めてそう思った。

「先生は自分に向かってくる人に気を当ててるんです。先生の気に触れたら私でもああなります」

ハオさんの解説を聞いても「何言ってんだ?」としか思えない。

気?……そんなものあるわけない。

そんなこんなで数分と経たないうちに、老人を取り囲んでいた人間が1人また1人と輪から離れて座り込んでいく。

肩で息をし、天を仰いでグッタリしている。

奇妙なダンスをしていたのはわかるが、疲労困憊といった様子に違和感を感じる。

ほんの数メートルの距離をダッシュして老人の横を転がるだけであんなに疲れるものだろうか。

「あれは疲れるんですよ。やってみたら分かりますよ」

俺の心を読んだかのようにハオさんが言った。

「先生が今やっているのは気功の応用です。先生の術(ジュツ)とは違いますけど、ああやってデモンストレーションしてあげるとみんな喜びます」

フムと笠根さんが口を開いた。

「念力のようなものなのでしょうか」

「いえ。サイキックと呼ばれる力とは別物です。カサネさん、あなたはサイキック使えますか?」

ハオさんが楽しそうに答える。

「いえいえ、私は普通のお坊さんですから、何も特別な力はありませんよ」

「そうですか。先生が今やっているのは、練習すれば誰でもできるようになる技です。まあ、先生みたいに強くなるのはとても難しいけどね!ハッハハハハハ!!」

「ハオ」

いつのまにか老人が目の前に立っていた。

名前を呼ばれたハオさんがバネ仕掛けのように一瞬で立ち上がる。

俺も笠根さんも立ち上がって居住まいを正す。

奇妙なダンスをしていた集団にチラッと目を向けると皆グッタリと座り込んでいた。


「○○。□△△」

老人が笠根さんに話しかけた。

「久しぶりですねと言っています!」

ハオさんがすかさず通訳する。

「ええどうも、お久しぶりですコウ先生」

笠根さんも挨拶を返してお辞儀をする。

老人が俺に顔を向ける。

「こんにちは。前田といいます」

そう言ってペコっと頭を下げる。

ハオさんが通訳し、老人、コウ老師がウンウンと大きく頷いた。

「○△○、□□○△○○」

老師が俺に何事か話しかける。

「はじめまして。今日はわざわざありがとうと言っています!」

ハオさんが訳してくれる。

静かに喋る老師と違ってハオさんは声がデカい。

耳に響く大声に押されつつ老師に会釈し、

「お邪魔にならないよう撮影させていただきます」

と言った。

老師はウンウンと頷いてジャージ軍団の方へ戻っていった。


それからの撮影はなんというか、実に奇妙で珍妙で不可解な体験だった。

まずは先ほどやっていた奇妙なダンスを改めて撮影する。

ジャージ軍団から少し離れた位置に三脚を立ててビデオカメラを載せる。

録画を開始してジャージ軍団に目を向けると、俺が準備するのを待っていたようで老師がこっちを見ていた。

撮影に協力的なのは助かる。

軽く頭を下げて準備できたことを伝えると、老師はニッコリ笑って頷き、ジャージ軍団の一人にを手招きした。


「よろしくお願いします!」

と男が大声を発して頭を下げてから、オオッ!という気合いの声とともに老師に突撃する。

男が老師の脇を転がると同時に次の男が老師に突撃、また次の女が突撃。

結局誰も老師に触れることが出来ずに転がされるという、先ほどと同じ奇妙なダンスが始まった。


「…………」

ビデオカメラを操作して最適な構図に調整しつつ、モニター越しにその奇妙なダンスを眺める。

チラッと目を上げて直接ジャージ軍団を見てから、またモニターに目を戻す。

「…………」

これはヤバい。

胡散臭さが半端じゃない。

肉眼ですら胡散臭く見える彼らの奇妙なダンスは、レンズを通して映像で見ると胡散臭さが増してチープな印象すら覚えるほどに珍妙だ。

屈強な男が、肉付きの良い主婦っぽい女が、若い健康的な男女が、それぞれ老師に突っ込んでいっては勝手に転がるという謎の踊り。

これが気功ですよとテロップをつけたところで、視聴者にはなんの迫力も伝わらないだろう。


「…………」

改めて肉眼でジャージ軍団を確認する。

一応、それなりに迫力というか、彼らの真剣な様子は見て取れる。

老師の直前でビクッと一瞬硬直したように震え、ウッと呻いて倒れるように転がる。

それが演技だとしたら迫真といえる様子なのは間違いない。

気功とやらが本物なのかどうかはともかくとして、彼らが真剣に老師に触ろうとしてコロンコロン転がされているのは確かなのだ。

「…………」

しかしカメラを通してその様子を眺めるとチープな映像にしか見えない。

これはヤバい。

これではとてもプロの仕事にはならない。

「あなた達を映像に記録したら、これこの通り非常にチープな映像が撮れましたよ」などと言えるはずがない。


カメラバッグから予備のビデオカメラを取り出す。

念のために持ってきておいて良かった。

ハンディでカメラを構え、転がされる彼らの表情を追いかける。

運動している連中をズームで追うなど無謀にも程があるが、それでも出来る限り手ブレを抑えて、彼らの体の硬直や肩で息をする様子を撮影していく。

老師の様子もある程度映像に収めつつ、10分ほどの奇妙なダンスを必死になって追いかけた。

全員が疲労困憊でグッタリと座り込んで、ようやく奇妙なダンスが終わった。

気がつけば俺は彼らの輪のすぐそばまで近寄っていた。

怒られなかったのは俺に気を使ってくれたからだろうか。

ありがたい。

とにかく夢中でカメラを回し続けた結果、それなりのものが撮れたという実感はあった。

胡散臭いですねそうですね、という映像になるのは回避できるだろう。


しばし休憩したのち、老師の前に縦列で並ぶジャージ軍団。

前へならえのような感じで身長順に並んで座り、後ろの人間が前の人間の両肩に手をかける。

胡座をかいた状態で前へならえしているような体勢だ。

1番前の参加者に向き合うように老師が座っている。

老師と1番前の参加者は両手のひらを合わせている。

数秒の静寂。

フウ…フウ…と老師が呼吸を整えている。

そして、


「うわあああ!!」という叫びと共に縦列のジャージ軍団全員が後ろに倒れ込んだ。

変なムカデみたいな形で大の大人が仰向けに重なっている。

胡座をかいた姿勢だったためダメージを受けた人はいなかったようだが、心なしか皆ヨロヨロと体を起こした。

10人ほどの参加者が全員なんの合図もなしに同時に後ろに倒れ込む様子は実に奇妙だったが、同時にやはり非常に胡散臭い光景だった。

ダメージがなく疲れもしないため、その縦列のデモンストレーションは何度も何度も行なわれた。

ハオさんによると老師が気を当てると、参加者の体を伝わって最後尾まで衝撃が浸透するのだそうだ。

俺はその様子を様々な角度から撮影した。

三脚の固定カメラとハンディの両方で、時には老師の手元をクローズアップしたりして、じっくりと撮影する。

胡散臭さは拭えないものの、それなりに迫力は伝わる映像が作れるはずだと、編集のイメージを練ることができる程度には、満足できる撮影だった。


そんなこんなでジャージ軍団に対する気功のデモンストレーションは終わり、参加者がスタジオから更衣室へと去っていった。

どうやら今日はこれで終わりのようだ。

術とやらはいいのだろうかと思っていたら、ハオさんと老師がこちらへやってきた。

「お疲れ様でしたマエダさん!今日はここまでです!」

なんと。

どうやらYouTubeで宣伝したいのは主に気功の部分らしい。

後でハオさんに聞いたのだが、最初から術をアピールすると宗教だと思って嫌がられるから、まずは気功の先生という形で老師を宣伝していく計画らしい。

なるほど。

ということは激しい撮影はここまでで良いのか。

あとは老師のインタビューなどを撮れれば宣伝用の映像は作れる。

カメラを持って走り回るのも終わりかと俺も一息ついた。


「マエダさん、カサネさん、ちょっとやってみますか?」

ハオさんがおかしなことを言った。

ん?とハオさんを見ると老師がハオさんに何かを喋っている。

「せっかくだからあなた達も先生の気を体験していくといいと言っています!」

マジか。

あの胡散臭い感じを体験してみろと。

「…………」

どうする?

いやもちろんクライアントの手前、断るなんて選択肢はないのだが、もしも何も起きなかったらどうリアクションすれば良いのだろうか。

撮影を続けた結果、俺の頭には「集団催眠」という言葉が浮かんでいた。

気なんてものが実在するとは思っていなかったし、もしあってもそれで人を転がすような真似ができるものだろうかと疑問だった。

ジャージ軍団は最初から老師の気を受けるつもりで来ているわけで、つまりは集団催眠にかかった状態なわけで、だからあんなにコロンコロン転がっていたのだと思ったのだ。

それならば彼らの真剣な様子にも納得がいくと。


それを体験してみろと。

彼らのように倒れてみせれば良いのだろうか。

ぶっつけでそんな演技がうまくできるだろうか。

そんな不安に駆られていると、笠根さんがフムと言った。

「いやあ面白そうですな。是非お願いしたい。ね、前田さん」

そう言って俺の顔を見た。

「あ…ええ…ぜひ…」

どうやら笠根さんはノリノリのようだ。

促されるまま老師の前に立ち、老師と笠根さんと俺で向かい合って手を繋ぐ。

左手を老師と、右手を笠根さんと繋ぐ格好だ。

男3人で手を繋ぐ気持ち悪さに顔をしかめそうになったその時、俺は地面に尻餅をついていた。


あれ?

なんだこれ。

今…どうなったんだ?

グイ…と左手が上に引っ張られる。

見上げると老師がニコニコしながら俺を見下ろしていた。

俺はたった今…老師と笠根さんと手を繋いで……。

笠根さんを見ると俺と同じように尻餅をついていた。

笠根さんの右手は老師が握っている。

俺と笠根さんは互いの手を離して、老師とは手を繋いだまま、地面に転がっているのだ。

そう思ったらまた、クイクイと手を引っ張られた。

慌てて立ち上がり、老師の顔を見る。

老師はニコニコしていて、少し楽しそうだ。

「○○△?」

老師が何事か呟いた。

「びっくりしたでしょう!?」

ハオさんが愉快そうに通訳してくれる。

「え?…あ……はい……」

まだ言葉が出てこない。

笠根さんも目をまん丸にして困惑している。

目線で促され、また笠根さんと手を繋ぐ。

「○△△、○□」

また老師が呟く。

「今度はゆっくりやってみましょう!」

ハオさんの声が聞こえたと同時、


「うぐっ!」


全身の筋肉が強張り、息ができなくなった。

腕も肩も腹も背中も尻も足も全ての筋肉が全力で力んでいる。

力みすぎて震えるほどの硬直に体を支配され、歯を思い切り噛みしめている。

肺から息が少し漏れ、吸い込むことができない。

そのことが恐怖心を掻き立て、全身から汗が吹き出る。

老師が俺の左手をゆっくりとねじるように引く。

その動きに合わせるように俺は笠根さんと手を離し、老師に背を向けるように半回転しながら尻餅をついた。

全身が硬直しているにもかかわらず、体はゆっくりと動いた。

尻餅をついた途端、硬直が解けて呼吸が戻ってきた。

ブハー!と大きく息をついて吸い込む。

酸素だ。

数秒にも満たない時間、呼吸できなかっただけなのに、まるで酸欠にでもなったかのように酸素が恋しい。

呼吸できない恐怖の反動かもしれない。

グイ…と左手を引かれ、見上げると老師がニコニコしながら見ている。

ああ、さっきはこれを一瞬でやられたのか。

息を整えながらなんとか立ち上がる。

全身がダルい。

たった数秒の硬直でも全身の筋肉が疲れている。

感電?……とも思ったが痛みはない。

身体中の筋肉を酷使しただけだ。


「疲れると言ったでしょう?カサネさんもマエダさんもようやくわかったね!ハッハハハハハ!!」

ハオさんは実に楽しそうだ。

老師も相変わらずニコニコしている。

「……いや…これは……不思議なもんですなあ」

笠根さんも肩で息をしている。

老師が俺の手を離した。

と、次の瞬間、「うおっ!」と声を上げて笠根さんが全身をピン!と張った。

老師は笠根さんの手を握ったままだ。

やられている。

笠根さんは全身をピンと伸ばしたままブルブルと震え、そのままゆっくりと老師の誘導に従い体を低くし、そのまま尻餅をついた。

ブハー!と息を吐き出す。

「はっは……いや…いやいやいや……」

フラつきながら立ち上がった笠根さんは汗びっしょりになって肩で息をしている。


老師が笠根さんから手を離して俺に向き直る。

スッと握手する様に手を差し出してきた。

「…………」

やるつもりだ。

老師は動かない。

ニコニコしながら俺が手を取るのを待っている。

俺は両手を前に軽く上げて「待ってくれ」のポーズを取った。

「ちょっ……ちょっと待って……」

俺はカメラバッグに駆け寄り、ビデオカメラを取り出して老師の元に戻る。

老師の横に立つハオさんにカメラを押し付ける。

「撮って……俺…撮ってください!」

そう言ってカメラの録画ボタンを押す。

ハオさんは俺の意図を察したようでモニターを見ながらニヤリと笑い「○○~♪」と呟いた。

ハオさんがカメラを構えたので、俺は改めて老師に向き直り、軽く頭を下げて両手で握手を求めるように手を差し出した。

どうせやられるなら撮ってもらったほうがいい。

「撮影スタッフもやられました」のようなシーンが挿入できる。

ホッホッホと穏やかに笑った老師が俺の手を取る。


「うぐっ!……ぐ……!」


再びもの凄い力で身体中の筋肉が強張る。

今度は体が後ろに引っ張られるようにピンと伸びる。

笠根さんと同じだ、と思う余裕はなかった。

そのまま老師に手を引かれるに従ってゆっくりと体が傾く。

床に寝かされるような姿勢になったところで体から力が抜ける。

ブハァ!と息を吐き出して荒い深呼吸を繰り返す。

ハオさんに目を向けると、ハオさんが口の端を吊り上げて、親指を上に向けていた。

そうしてまた笠根さん、俺、笠根さん、俺、二人同時に、と男2人が老師の気功で転がされるのをハオさんが撮影するという奇妙な作業が続き、6度目に転がされた時点でギブアップした。


ハオさんは撮影が楽しいのかニコニコしながら俺達を撮っていた。

ニヤニヤだったかもしれない。

床に這いつくばる俺に「ねえ今どんな気持ち?」とでもいうようにカメラを向けてきた。

俺のアップなんて撮っても使えねえよと思ったが、息を整えるのに必死でハオさんに構う余裕などない。

俺と笠根さんが同時にギブアップするまで、ハオさんはハイテンションでカメラを回し続けた。


疲労感に包まれながらカメラ機材を片付け、撤収の準備を終えた俺達は、ハオさんと老師に挨拶して帰ることにした。

不可解な力を身をもって体験したインパクトと疲労で、インタビューのことが頭からすっかり抜けてしまっていた。

全身がダルく、早く帰りたくて仕方なかった。

スーツ姿に着替えたハオさんとラフな格好のままの老師に挨拶しようと歩み寄る。

「お疲れ様でした!撮影よりも疲れちゃったね!」

ハオさんが楽しそうに言う。

「いや…ほんと疲れました。マジであんなことが起きるとは……」

今となっては老師の気功を疑うつもりなどない。

もしかしたら俺達も集団催眠にかけられているだけかもしれないが、実感としては催眠の方が現実的とは思えない。

ぶっちゃけ気功も催眠術も怪しいもんには変わりないのだ。

「いやあ大変…勉強になりました。また是非参加させてください」

笠根さんも疑ってはいないようだ。


さて挨拶して…と考えたところで、老師がハオさんに何やら囁いている。

ハオさんの顔が楽しそうなものから怪訝なものに変わる。

俺をチラチラ見ながら、頷いたり老師に質問したりしている。

数回のやり取りを終えてハオさんは俺に言った。

「マエダさん、先生が言うにはあなたはちょっと良くない状況になっています」

「えっ?それは……どういう……」

またボソボソとハオさんに何かを伝える老師。

「ちょっとと言いましたが全然ちょっとじゃない。結構というか……かなり良くない」

ハオさんは老師に素早く小声で確認しながら続ける。

「マエダさん、あなたにはとても大きな狐の妖怪が憑りついています。心当たりはありませんか?」


「…………」

あの御方のことだった。


笠根さんと別れ、俺は誰もいない会社に戻ってきた。

夜9時を超えており、俺が戻るのは明日だと思ったのか全て電気が消えている。

かすかな孤独にため息をつきつつ電気をつける。

自分のパソコンに撮影したデータを取り込みつつ先ほどの事を思い返す。


老師からの追及は別に大したものではなかった。

というか追及されたわけでもない。

なぜ追及、という言葉を使ったのか。

理由は簡単だ。

シラを切ったからだ。

「狐の妖怪が憑いてるぞ」と言われて、真っ先に浮かんだのは当然タラチヒメ様だ。

あの恐るべき神様の狐目を思い出して、今も見られているかもしれないと思うと、とてもじゃないが初対面の老師に話すことなどできなかった。

しかも妖怪と言っていたしな。

もしそれに話を合わせるなら、俺自身がタラチヒメ様を妖怪扱いしていることになりかねない。

そんなこと想像しただけでも鳥肌が立つ。


頭を振って不埒な考えを打ち消す。

違うんです違うんですごめんなさいごめんなさい……!!

とりあえず謝っておく。

あの御方の場合、いつどこで見られているかわかったもんじゃないし、そもそも俺はタラチヒメ様を裏切るつもりは毛頭ない。

だからといって老師にタラチヒメ様のことを説明するのも変な話だ。

クライアントである老師が言っていることを真っ向から否定するのも憚られる。

もし俺がアメリカ人だったらNO!と声を張り上げて自分の考えと立場を表明するのかもしれないが、生憎俺はアメリカ人ではない。

日本人らしく曖昧な表情と苦笑いで逃げることにした。

「いやまあ…心当たりっすか?……いや〜……ははは〜」

と曖昧に徹する俺を老師は深く追及しなかった。

ただ、「いつでも相談に乗るから訪ねてきなさい」と言っていたから、勘違いですよと逃げ切るのは無理そうだった。


老師はタラチヒメ様の存在を確信している。

次に会う時にダンマリを決め込むのは可能だろうか。

逃げるように帰ってきたため、最後まで老師のインタビューを失念していたのは痛恨のミスだ。

どこかでもう一度、老師と会わねばならない。

そして編集途中での試写や完パケ納品のタイミングなど、老師とは最低でもあと3回は顔を合わせる必要がある。

その全てでダンマリを、知らぬ存ぜぬを貫くことができるのか。

「…………無理だよなあ」

ため息が言葉となって口から漏れる。

絶対にどこかでボロが出る気がする。

いや、別にボロが出ても構わない。

なんだったら、俺はタラチヒメ様を信仰しているんだと言ってしまえば良い。

「…………」

それは悪い妖怪だから退治しますとか言い出したら厄介だな。

そうなってしまったら、俺はタラチヒメ様の眷属として何かしなければいけないかもしれない。

仮に老師からうまく逃げたとして、それをタラチヒメ様がどう思うのかも分からない。

「なに逃げてんだよテメエ」的な感じでまたイラつかせてしまったら、今度は生きて帰れないかもしれないのだ。

「…………」

老師にわかってもらうしかない。

もしも追及されるようなら、あの御方は俺の故郷の神様なんだと説明する。

このまま老師が見逃してくれるのが1番ありがたいが、おそらくそうはならないだろう。

「…………良い人そうだもんな」

もしまた聞かれたらキッチリ向き合うしかないか。


ヴヴヴとスマホが震える。

画面には由香里からの不在着信と、「仕事終わった」というLINEが表示されていた。

「…………」

不在着信をタップして由香里に電話をかける。

すぐに繋がった。

「はーい、まだ仕事?」

由香里の声は昨日とうって変わって明るい。

「んー、もう終わるところ」

PCのモニターに目を向けると、撮影データの取り込みは残り10分となっていた。

「お疲れ様。あのね、病院の空気が全然違うの。もう全然!」

由香里のハイテンションはそれが理由か。

「いい感じ?」

「めっちゃいい感じ!みんなすっごいニコニコしてる。ホッとしたんだな〜ってわかるの」

「そりゃあ良かった。笠根さん達に何かお礼しないとだな」

「そうだね。今度一緒に考えてくれる?」

そんな感じでモニターの表示を眺めながら由香里と電話をして、会話がひと段落したところで今日の出来事を切り出した。


「由香里さあ、気功ってやったことある?」

「気功?」とオウム返しをする由香里。

「体内を流れるエネルギーがーみたいなやつ」

「ごめん全然わからない笑」

「だよね」

「それがどうしたの?」

「今日さあ、体験したんだよ」


今日の出来事をかいつまんで説明する。

「本当なの?なんか宗教っぽくない?」

「怪しいよねえ。でも俺も笠根さんもめっちゃ食らったんだよ」

やっぱり話を聞くだけで怪しいと思うか。

しばらく怪しい怪しいと言い合っていたら由香里が面白い事を言い出した。

「でもオバケが実際にいるわけだし、浩二は神様にも会ってるんだし、気功?も本当にあってもおかしくないのかもね」

そうか。

散々オバケだお祓いだ神様だと騒いでおいて、気功だけは眉唾ですよと決めつけるのも変な話か。

「たしかに」

「私は昔からオバケを見てたけど、浩二もここのところそういうの続いてるもんね。しかも神様の子分になっちゃったわけだし」

「子分ねえ」

「その気功の先生にもハッキリ言っちゃったほうが良くない?神様のバチが当たる方が怖いもんね」

「だよねえ」

「おーい。さっきから返事が雑になってるぞ」

気のない返事しかしない俺に由香里が抗議する。

「ごめん疲れた。今日はもう帰って寝るよ」

正直に伝えることにした。

体はクタクタだし、データの取り込みも終わっている。

「うん。ごめんね、疲れてるのに。また明日ね」

「いえいえ、明日筋肉痛じゃなかったらメシ行こう」

「わかった。じゃあおやすみ」

「うんおやすみ」

互いにそう言って電話を切った。

おやすみとは言ったが家に帰らないとおやすみできない。

俺はすっかり椅子に体重を預けていた体を無理やり起こしてなんとか立ち上がった。

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