24段目 ガラテアの心

「――アルキュミアっ!」

『お呼びですか、マイマスタ』


 目を開けた瞬間に絞り出した声を、アルキュミアは過たず聞き取った。

 乾いた喉で咳き込み、ロウは必死に身体をねじり起こす。

 眠っていた時間を計算しようとして、頭の中が一気に冷えた。


 あれからどのくらい時間が経った?

 ここはどこだ、まさか宇宙か? 惑星テルクシピアは――イェルノはどこだ!

 もう手が届かないなんてオチじゃないだろうな!


 見回した先には見慣れた壁と天井――船内の寝室で横になっていたらしい。

 ちらりとロウに視線を向けたアルキュミアは、ため息をつくという表層表現アクションを選択した。


『……まだ宇宙には出ていません。現在は惑星外射出装置マスドライバーの射出準備中です』

「よし! まだここはメルポメネー基地だな!?」


 ――間に合った。

 見慣れたベッドを出ながら装備を確認する。ジャケットも靴も脱いでいない――すぐにでも走り出せる!

 再び、アルキュミアのため息。


『まさか、アマルテアの毒を解毒するために進めていた研究が、こんなところで影響するとは思いませんでした……』

「オレも、まさかあんたが裏切るとは思ってなかった! 先に言っといてよかったよ、畜生」


 アマルテアの鱗粉をまともに吸うと、しばらく行動不能になってしまう。その対抗策として、アルキュミアに解毒薬の研究を指示していたのが幸いした。

 既知の麻薬と成分に相似する点があったらしく、拮抗剤は幸運にもすぐ開発された。

 万一自分が鱗粉によって指揮不能になった場合、拮抗剤と中枢神経刺激剤を注射してロウの覚醒を最優先にしろ、ということまでを指示してあった。


 さらに言えば、指示済みだというのをイェルノが知らなかったことも、幸運だった。


 見回せば、鱗粉の発生源たるアマルテアは寝室にはいない。

 アルキュミアが近づけないようにしているのだろう。ホログラムだけが輝いている。


 慌てて部屋を飛び出そうとしているロウに向けて、アルキュミアが囁く。


『……私は、心配です』

「心配? やめてくれよ、オレの命令に従うのがあんたの仕事だろ」

『――いいえ、私は心配です。この中は安全なのに、あなたは飛び出そうとする。私にはより良い判断を下し、マイマスタの安全を守る義務と権利があります』

「義務は分かるが……権利、だと?」


 人工知能に権利なんかあるか、と口にしようとした。

 ふとアマルテアの声が、イェルノの声が脳裏をよぎる。

 ――人工知能にだって愛はある。誰かの安全を守る権利と言うなら、それは誰かに無事でいて欲しいと願う心と同じものだろう。


 ロウは、飛び出そうとしていた扉を力任せに殴りつけた。

 それを口にするには、自分の中にあるなにかが邪魔だ。


「アルキュミア――オレは」


 考えはまとまらない。時間はない。

 が、口に出さなければ――このまま、この惑星の重力に引かれて落ちるwill fallだけのような気がした。


「あんたは――よく、やってくれてる。オレはあんたを信頼してる」

『そうあろうと努めています』


 いかにも人工知能らしい、明確で曖昧な答え。

 ロウは再び頭の中を引っ掻き回して、今の気持ちに一番近い言葉を引っ張り出した。


「オレが信頼してる分と同じくらい、とまでは言わない。だが――」


 この言葉が正しいかはわからない。本当は少し違うような気もする。

 それでも。自信がなくても。

 完全でなかったとしても――伝えなければ、彼女には伝わらない。


「――頼むから、オレのことも信頼してくれ。オレはつまんない男だが、自分に必要なものはわかってる――いや、わかったつもりだ。あんたの庇護はありがたい。でも、オレにとって本当に必要なものは、オレが自分で決める。あんたじゃない、オレがだ」


 ホログラムが、ロウの言葉を聞いて考え込む風に小首を傾げた。

 伝わらなかっただろうか。

 かつて、母親マーチを必要とするロウの想いが、言葉にならないまま伝えられなかったように。

 この痛みを何度も感じるくらいなら、もう最初から諦めようと悟った日のように。


 ロウは小さく息を吐き、再び扉に向かった。

 アルキュミアと自分は同じものではない。だから――自分に言える最大限で伝わらなかったのだとしたら、理解されることを捨てても、自分の心に従うべきだった。


 扉を開こうと足を踏み出した瞬間に、キュルッという却下音が響いた。


『マイマスタの指示復帰により、一搭乗員イェルノからの指示を却下します』

「……アルキュミア?」


 思わず問いかけた。アルキュミアの金色の瞳は、ロウの背中を透かしてどこか遠くを見ている。


『演算を続けていたサブコンピュータから提案がありました。惑星外射出装置マスドライバーを射出するために、搭乗員イェルノに操作させる以外の方法を、一つご提示できます』

「――なんだと!?」


 もしもホログラムに触れるならば、ロウは掴みかかっていたかも知れない。

 食いかかるように近付いて、近付いたことで、その何とも言えない表情の不思議さに気が付いた。


 アルキュミアはあくまで無表情なのだが――無表情の中にちらつくものがあって――どうやら、自分が口にすることに戸惑っている様子にも見えた。


『本当は、マイマスタの安全が最優先なのですが』


 答えてやることが出来ない。

 オーナの安全を最優先にするのは、全ての人工知能の根幹にプログラミングされている根源的なルールだ。


『なのですが、サブコンピュータと協議を重ね、『マイマスタの安全』という定義について、更新アップデートすることにいたしました』

「アップデートってなんだ」

『このまま搭乗員イェルノをこの星においていくことは、マイマスタに修正不可能なバグが生じるだろうと推測されましたので……』


 口にするアルキュミアのホログラム自体が、不思議そうに眉根を寄せている。

 もしも彼女が人間ならば自分の発言の支離滅裂さに頭を抱えたかもしれない。

 そんなアルキュミアの注意を奪うように、突然、ピロン、と電子音が鳴った。


「――なんだ、今の音?」

『インストールが完了しました。マイマスタ、迎えに行くならお急ぎください』

「インストール?」


 壁から突き出たロボットアームには、小さな情報記録媒体ストレージメディアが握られていた。



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 宇宙船アルキュミアを跳び出たロウを、手首につけた携帯端末が誘導する。


『右へ、そのまま道なりに真っ直ぐです』


 惑星外射出装置の操作室に向け、ひた走る。

 イェルノは一人でそこにいるはずだ。


 ロウを守る為。

 そして、アルキュミアが飛び立った後、ひっそりとロウの知らない『あいつ』のところへ行く為に。


 きっと最初からそれがイェルノの目的だったのだ。

 宇宙船に乗ったときから――いや、ベリャーエフINC.の企みを知った時から、最悪の状況を覚悟していたに違いない。


「行かせるもんか……!」


 荒い息の合間に呟きながら、ロウは走る。

 マーマもマーチも、ロウを置いていった。

 ロウは選択する暇もなく、ただ守られていただけだった。なにも知らず、ゆりかごthe cradleの中で。


 今度こそ自分で選びたい。

 誰を守り、誰と戦うか。

 傷付いたとしても、自分に必要なものを逃さぬように。


 走り回る内に、基地の明かりが順に点灯し始めた。

 どこか遠くで機械が動く音がする。射出準備が着々と進んでいるらしい。


妖精セイレーンの群れが近付いています。お急ぎください』

「――わかって、るよ!」


 全力で走っていると言うのに、何故こんなに目的地は遠いのだろう。

 一向に進まぬように見える廊下を、それでも少しずつ前に進んでいるのだと信じ必死で駆け抜けた。 


 体当たりで扉を突き破り、破った勢いのまま狭い操作室のパネルに向けて突っ込む。

 真横を過ぎていく碧の瞳が見開かれ、濡れている――ような気がした。


「――ロウ!?」


 驚きに跳ね上がった悲鳴が背中に刺さる。

 なんだよ、あんた。結局、泣いてんじゃねぇか。

 そんな悲壮な覚悟、一人で抱えてんじゃねぇ。

 そういうのはオレだって――


 ――などと口に出す前にパネルに腹をぶつけたせいで、口から空気が溢れかえり、なに一つ言えなかった訳だが。


「――ぐはっ!?」

「えっ? ちょ……ロウ!」


 イェルノの声が近づきながら、ロウの名前を呼ぶ。

 痛む腹を庇いながら顔を上げると、困惑したような怒っているような碧の瞳が間近にあった。


 頬はもう濡れてはいない。

 少し赤みがさしているかもしれないが――みるみる内にそれは怒りの表情に落ち着いた。


「ちょっと、なにやってんだ、あなたは! もう射出準備は始まってるんだぞ!? 俺がここに残ったのはなんのためだ。すっからかんのアルキュミアを宇宙に送り出したいのか!?」


 シャツの襟首を左手で掴まれた。

 掴み上げようとしたイェルノの手には――しかし、力が入っていない。冷たい指先が震えながらロウの喉に触れた。


「なにやってんだよ、もう……」


 その白い喉元が、ぐ、と息を詰まらせたように鳴る。

 触れていた左手はすぐに離れて、自分自身の両目を覆った。


 ロウは身体を起こし、隠された瞳を庇うように肩先を当て、左手ごと正面から抱きしめた。


「……あんたはもうこの世におさらばしたかったのかも知れねぇけど」


 イェルノの答えはなかった。

 たとえそれが四年前であろうと何年前であろうと、失った恋人の存在がいかに大きかったのか、ロウだってそれくらいはわかる。

 だが、それでも今――イェルノはロウの前にいる。


「追いかけるのが償いだなんて、許さねぇ」

「そんな、つもりは……」

「ないとは言わせないからな」


 震える肩を抱いて、思い切り引き寄せた。


「あんた、オレのこと愛してるな?」

「――なっ……!?」


 言葉を詰まらせたイェルノが、顔をあげようとした。

 もがく身体を腕力で押し込む。細い首筋が息を荒げながら赤く染まっていくのを、少しだけ残酷な思いで見下ろした。


「未分化だからって油断してくっつき回りやがって、セクサロイドの癖に気を抜きすぎなんだよ」

「この、やっ……離……」


 「離せ」なのか、「離れろ」なのか。

 言いたかったのがどちらなのかは、結局わからないままになった。


 顔を上げたイェルノと目が合う。

 その碧が羞恥と驚愕でどうしようもなく混乱していて、それなのにロウのことを必死に見上げてくるから――タガが外れた。


 気が付けば、唇を重ねていた。

 暴れる身体を押さえ込んで、深く、もっと深く。

 貪るように吸い取って、溢れる程に与えた。


 蕩ける感触に腕の中の身体から力が抜けていく。

 完全にロウにもたれ掛かったのを見計らって、唇を離した。


 目を開いた途端、見上げてくる潤んだ瞳と目が合う。


「あなたなんなんだよ、もう……俺の考えとかさ、過去とか……」


 ぶん殴られるかと思っていたけれど、囁く頬はひどく赤くて、その表情だけ見ていればまるで初心な乙女のようだ。

 目を逸らさぬまま、答えた。


「……あの、あんたね」

「なんだよ」

「そんな可愛い顔されたら、止まんねぇんだけど」

「――時間ないんだよ、馬鹿!」


 今度こそ拳で殴りつけられた。

 確かにこんなことをしている時間はないのだった。

 妖精セイレーン達はここに集まりつつある。早く逃げなければ。


 息を吐いて気持ちを切り替えた。

 片手でイェルノの身体を抱いたまま、もう片方の手でジャケットの内側から情報記録媒体ストレージメディアを取り出す。


 一瞬の躊躇の後、操作パネルの隅に差し込んだ。

 瞬間、パネルが波打つように七色の光を帯びて、すぐに元の色に戻る。

 不自然な光に反応してイェルノが顔を上げた。ロウはパネルから目を逸らさなかった。


「……今のは?」

「インストールした」

「インストール?」

「……マーマだ」


 声に応えるように、中央パネルに荒く『READY』の文字が表示される。


『――ええ、射出準備は任せて、ロウ。気をつけておかえりなさい』

「マーマ……」


 優しい声は、アルキュミアの中で再現された姿とは程遠く、ノイズが混じりどこか濁っている。

 それでもその言葉のひとつひとつが、ロウの知るマーマだった。


『まさか、わたしが射出操作をすることになるなんて。リュドミーラに『想定外の運用をさせないで』って怒られちゃうわね……』


 イェルノが蒼白な顔色でロウを見上げた。


「……ロウ!」

「大丈夫だよ、あんたが出てから、アルキュミアと何度も操作練習したらしいから」

「違う――!」

『ええ、信じてちょうだい。こう見えても、わたしの元になっているのは『人工知能の女神ゴッデス・オブ・アーティファクト』よ。物覚えには自信があるの』

「そうじゃない、マーマ! あなたのデータはコピーが出来ないはずだろう!?」


 ロウが説明する前から、イェルノは知っていたらしい。

 つくづく目端の利くことだ。


「ロウ、あなた本当にそれでいいのか? これじゃ、生贄を入れ替えるだけじゃないか!」

「自分のこと生贄だって自覚があったワケだ。大変結構だな」

「茶化すな、そういう問題じゃない!」


 ロウ自身よりよほど傷ついた顔をしている。

 それを確かめて、ロウは片頬を上げ笑って見せた。


「あんたの言う通りだ。マーマのデータはコピーが出来ない」

『当然の対策よ。自分が無限に増えるなんてこと、さすがのリュドミーラだって望むはずがないもの』

「分かってるなら、何故――!」


 パネルに縋り付こうとするイェルノの左手を取って、引き寄せた。

 碧の瞳が、落ち着ききったロウの様子を見て揺れる。


 イェルノが何を言おうと、ロウはこの方法を止めるつもりはなかった。

 マーマも、この役割をイェルノには渡さないはずだ。


 信じている。既に誓った。

 これは生贄なんかじゃない。

 なぜならば――ロウは、必ず迎えに来るからだ。


『大丈夫だわ。ロウなら、きっと……』

「ああ」

『ごめんね。こんなことしかできない、役に立たないお母さんで』


 ホログラムの助けも聞き慣れた声もないのに、苦笑する顔が見えるような気がする。

 脳裏に浮かんだ顔は――何故か、マーマではなくリュドミーラの――マーチの姿だったのだけれど。


 同じものだと言うなら、今の言葉はもしかするとマーチの言葉なのかもしれない。

 ロウの前ではけしてそんな弱音を吐かないリュドミーラも、あるいはそんな風に考えたことがあったのかもしれない。


 ロウは一瞬だけ躊躇って、思い当たった言葉を拾った。


「……役に立たないとか、言うなよ」


 愛している、とは言い損ねた。

 今までの孤独と拒絶が大きすぎて、許すことは出来ない。それでも。


「――オレは絶対に、戻って来るから」

『ええ、ロウ……いってらっしゃい』


 笑いかけるような優しい声に押されて、もう振り返りはしなかった。

 捜査室を飛び出て、アルキュミアへと真っすぐに駆ける。

 その右手でイェルノの手をしっかり掴んで、引きながら。

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