19段目 人間の手がまだ触れない

 触れた端から、懐かしい姿は、ホログラムは崩れてしまう。

 微笑むマーマの瞳の優しさは、あの頃と変わらないのに。

 ニットに頬を擦り付けた時の暖かさを、今も覚えているのに。


 ロウの手の甲に手を浮かせ、マーマは少し首を傾げて見せた。


『ごめんなさい、辛い思いをさせたのね……』

「あんた……マーマは――あんたは――」


 喉が詰まって、言葉にならない。

 肺の奥から流れ出す愛情が、言葉を溶かして押し出しているようにさえ思えた。


「オレは……あんたを、ずっと……」


 ずっと想像していた。

 もしもまた会うことがあったとして、口を開けばきっと罵倒が出て来るのだろうと予想していた。


 あんなに簡単に操られて。

 絆があると信じていたのに。

 何故あんな形で先に逝った。

 リュドミーラの――そして自分のせいだと責めずにはいられない形で。


 「絶対」の揺らいだことが不安だった。

 人工物アンドロイドなんて所詮はデータの塊で、感情なんて存在しないと知らされたようだった。なにもかも目の前から消え失せたような気がした。


 与えられた怒りを、裏切りを詰る気持ちを。

 あの日、心の奥底へねじ込んで、凍らせた。


 それが今、溶け出している。

 目を背け続けていたことすら許されてしまう、その温かい眼差しで。


 溶け出したら、そのまま怒りと憎しみが流れ出ると思っていたのに。

 瞳から、ぽつりと温かいものが流れ落ちて、ロウは目元を押さえながら呟いた。


「マーマ、ごめん。オレのせいだ。でも、ごめん。寂しかった……オレ、ずっとマーマを愛してた……愛してたんだ……」


 溶けた感情が収れんした。

 記憶通りの微笑みで、マーマはロウの涙を拭こうと必死に手を伸ばしてくれる。

 ホログラムの手はすり抜け、絶対に触れられないとわかっているだろうに。


『ごめんね、ロウ。わたしはサブコンピュータだから、この場所にこうして立つしかできないの。でも、ずっと見ていたわ。アルキュミアと一緒に宇宙そらを翔ける姿を。アルキュミアとあなたが毎日生きているのを』


 両手を広げたマーマは、まるでロウを抱きとめるかのようだった。

 コントロールルームの床下、ロウの座るパイロットシートの真下で。


 もうこれで良い、と、一瞬だけ思った。

 今までもこれからも――こうしてマーマがいてくれるならば、それだけで。


 だが――脳裏でイェルノの碧眼が煌めく。

 ロウは流れる涙を袖で拭い、必死に顔を上げた。


 この腕は、ロウの揺り籠ではない。

 ロウはもはや子どもではなく、なにもかも忘れて羽を休めるわけにはいかない。

 乾いた唇を必死に動かして、ただ全てを知ろうと、肺から空気を絞り出す。


「オレ達、ここから出なきゃいけないんだ。マーマ」

『ええ、そうね』

「教えてくれよ。なんであんたはアマルテアの影響を受ない? どうすれば、妖精セイレーン達の歌を振り切れるんだ」

『あら、どうかしら。本当は受けているかも知れないわね』

「その反応でわかる。あんたは誰にも影響されず、正常に動いてる。人間オレをからかったりするのは、すごく高度で精密な知的思考によるものだ」

『……ええ、こんなプログラミングができるのは、きっとリュドミーラだけでしょうね』


 嬉しそうな微笑にはあえて言及せず、ロウは論理の積み重ねで言葉を続けた。


「あんたは、マスタであるオレの承諾なしにイェルノの搭乗員登録を行った。今だってオレの質問を茶化すだけの権限を持ってる。これは――人間に隷属するただの人工知能には有り得ないことだ。そうだろ?」

『昔は気付かなかったのに、たった三年ですごく賢くなったね、ロウ』


 そう表現するということは――つまり、昔からマーマは同じ特性を持っていたということか。

 ホログラムでも変わらない碧眼は、ロウの成長をまるで自分のことのように誇らしげに微笑んでいる。

 素直には認めがたいが、とても嬉しいことだ。

 自分の成長を喜んでくれる人が、そこにいるということは。


「……別に頭の中身が成長したワケじゃない。ただ、今まで聞かなかったことも、聞かなきゃいけないと思っただけだ。目を背けるのを止めて」

『そうね、見えてても認識しなければ、そこにないのと同じだから』


 ロウの手に伸ばされた指先が、肌にぶつかって崩れた。

 触れられない切なさを少しだけ含んだ目元が、ロウを見上げてくる。

 一度息を吸うように胸元が上下する姿さえ再現していると言うのに――昔と同じに見えて、既にあの頃のままではない。


『わたしたちはかつて、この惑星を知っていたの』

「わたしたち?」

『リュドミーラとわたし』

「……マーチか」


 苦々しいロウの声を聞き流し、マーマは過去を思い出すようにゆったりと目を伏せた。


妖精セイレーンの存在を知った後、ベリャーエフINC.はなんとかこの惑星を取り戻せないかとやっきになっていたわ。そのときに重ねた実験で、わたしは妖精に操られないと明らかになったわ。他の人工知能にはない、リュドミーラがたった一つだけ零からすべて手掛けた『マーマ』の――わたしだけの特性。だからわたしとこの宇宙船を、ベリャーエフは回収したがった』

「……最初からずっと、狙われてたのか」

『ええ。悔しいけれど、三年前の事故もその一つ。そしてリュドミーラが亡くなった後、あなたの親類達が手のひらを返したように態度を変えたのも――多分同じベリャーエフの手が入っていたのでしょうね。まさかなにもかも失くしたあなたが、こんなにも最後までアルキュミアを手放さないなんて、思ってなかったのでしょうけど』


 どうやら、ロウが財産を失った不幸には、親戚達の強欲さのみによるものではなく、ベリャーエフINC.からの圧力があったらしい。

 彼らからすればこの結果は想定外だったろう。宇宙船など興味もなく、リュドミーラから継いだ才能もないロウが、現金も家も土地も大人たちの庇護も何もかも失って、それでもアルキュミアを抱えこんでいるなんて。


『逆にリュドミーラとわたしは、まさかベリャーエフがそこまでするなんて想定していなかったの。少し軽率だった。あなたからわたしを奪おうとすること……本当はもっと対策しておいて然るべきだった。アルキュミアにわたしを搭載したことだけでは十分なんかじゃなかったの。あの人達は、アルキュミアが宇宙を飛ぶかどうかなんて関係なくて、わたしの構造だけを知りたがってたのだものね。皮肉な話。今となっては、開発に関わったベリャーエフだけがこの宇宙船わたしの価値を正確に理解しているなんて……」


 ロウから身体を離して、マーマはそっと自分の胸元を押さえた。

 その仕草は、なにかを守っているようにも見える。手の中にあるものは、ロウの幸福なのか、自分で言う『アルキュミアの価値』であるのかは分からないけれど。


「それにしても……あんたがそこまで特別なのはなんでだろうな。ゴッデスが作ったからってのはまあ分かるけど。イェルノみたいに、生体脳ってワケでもないんだろ?」


 ロウの言葉に、マーマは微かに眉を寄せた。


『わたしはね、ロウ。わたしは確かに人工物アンドロイドで、リュドミーラに作られた存在だわ。だけど少しだけ特別なのは――わたしの全てが、リュドミーラのデータで出来ているから、だと思うの』

「リュドミーラの、データ……?」

『そうよ。わたしはリュドミーラの精巧なコピー。彼女一流の技術を使って、自分の人格をデータ化し、デジタルの世界へ分離させた。だから、わたしは彼女、彼女はわたし――』


 ロウの頭がその言葉の意味を認識しようとして――途中から抑えようのない怒りで理解を放棄した。


「待てよ、マーマ。オレにはあんたがなにを言ってるのか分からない! だってマーマあいつはオレのこと、あんたみたいに包んではくれなかった。あいつとあんたは全然違うだろ!」


 目の前のマーマが痛みをこらえるように――決意に似たなにかを瞳に宿して声を上げる。


『……あなたは理解してくれないだろうと、リュドミーラはわかっていた。だからわたしも、分かって欲しいとは言わないわ。ただ、事実を伝えるだけ。彼女の才能は、その人生の時間の全てを捧げることで初めて開花する類のものだったから。それに、彼女は自分で自分が信じられなかったのね……。自分を分けて客観的に見て初めて、自分にも愛情があると信じられた。あなたを愛する為だけの自分を生み出すことで、初めて――』


 言い掛けたマーマの言葉を遮るように、ぐらりと床が揺らいだ。


「――うわっ!?」


 バランスを崩したロウの身体を支えようとして、マーマが手を伸ばす。

 その手を擦り抜けて床へと転がりながら、ロウは自分で受け身を取った。

 頭を庇った腕の向こうで、マーマが悲痛に顔を歪めて――だけど何処か誇らしさを瞳に浮かべて、ロウを見下ろしている。


『その為に作られたわたしだけれど……でも、もう――あなたには、わたしの手は必要ないのね』

「マーマ……?」


 含まれているのは悲しみか喜びか――ロウには判断できなかった。

 潤んだ瞳の碧が揺れた直後、マーマの姿が弾け、光の粒子となって消えた。

 目を見張る内、再び足元から再構成されたホログラムは、今度こそ見慣れた紺色のジャケットを羽織った少女アルキュミアの姿になる。


『メインコンピュータ:あなたのアルキュミアは、外部からの攻撃に反応し、強制的に再起動しました。マイマスタへ、コントロールルームまでの帰還を勧奨します』

「外部からの攻撃、だと……?」

「――ロウ! 大丈夫!?」


 扉の向こうから眩しい光とともにイェルノが飛び込んできた。その背中に、怯えた顔のアマルテアがしがみ付いている。


「ロウ、ロウ! 怖いよ、おかあさんが怒ってる!」

「お、おかあさんって……」


 おおよそ予想はついていなくもないのだが。

 信じたくない思いで一応尋ねてみせたロウに、返ってきたのはイェルノのあきれたような声だった。


「あなただって、まさかこの惑星ほし妖精セイレーンが、アマルテア一人だなんて思ってないよね」


 シャツの下の背中を、冷たい汗が流れ落ちた。

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