8段目 遺跡
「――いぇるの! おはなが、とんでる!」
「アマルテア、それは『散る』と言うんだよ」
花畑を駆け回るアマルテアが笑いながらイェルノを呼ぶ。
妖精の動きに合わせて、通った後の花びらが空へ舞った。
透ける紅い翅の向こう、色とりどりの花が太陽の光をいっぱいに受けて地平線まで広がっている。
遠くを見透かそうと顔を上げた途端に、イェルノの碧眼と目が合った。
思わず視線を逸らした直後、くす、と笑う声が向こうから聞こえてきて、頬に血がのぼった。
口に出すワケにもいかず、再び顔を伏せたが。
別になにがあったワケでもない、なにもなかった。そう自分に言い聞かせたが、唇に残る柔らかな感触がそれを裏切った。
指を当てそうになって、危ういところで自制した。
イェルノは、なんの心境の変化かアマルテアを外に出すことにしたようだ。
おかげでようやく例の建築物の確認に赴くことができそうだ。
森を抜けたところで、一面の花畑に出た。先ほどからアマルテアは花の隙間を駆け回るのに夢中だ。そんな妖精を追いかけるために、イェルノの注意が割かれてしまうのだった。
今も、先を行くアマルテアの姿を見るイェルノは微笑みを浮かべている。
外見は全く似ていないのに、愛情が通っているように感じる二人の姿は、まるで親子のようにも見えた。
そんなイェルノの背後で、ロウは苛立ち紛れに草を蹴っている。
「いぇるの! おはなのかんむりつくってぇ!」
「ああ、いいよ。どの花を入れようか?」
躊躇なくアマルテアの方へと歩き出すイェルノのシャツを掴む。
「……ロウ?」
「脇道にそれるなよ。遊ぶのは後にしろ」
「すぐ戻るよ」
優しい手つきで、掴んだ手を外された。
もう一度掴もうとしたのに、ロウの指は、既に駆け出していたイェルノの影を掠めただけだった。
もう一度草を蹴ってから、大きく息をつく。
どうも最近、自分でもなにに腹が立っているのか、良く分からないことが多い。こんなところに閉じ込められていることに危機感を覚えているのか。生態の不確かな生物の面倒を見ることに、不本意さを感じているのか。
それとも。単にイェルノが自分の傍から離れることが許せないだけか――?
「クソ。なに考えてんだか……」
馬鹿馬鹿しい。そんな訳がない。
単純な話だ。この巨大なストレス下の状況で、苛立ちやすくなってるというだけ。
納得できる明確な理由を見付けたので、やはりイェルノを呼び戻そうと考えた。
顔を上げると、アマルテアの姿が予想外に近くにあった。
黙ってじっとロウを見る紅い眼に、再び苛立ちを煽られる。
「なんだよ!」
自分でも乱暴に聞こえる声に、妖精は、あくまでも無感情に答えた。
「ろう」
「なんだっつってんだろ」
「ろうは、さみしいの?」
「……なんだと」
声にも表情にも、憐れむような色は見付からない。
それが、余計にロウの胸に刺さった。
「寂しいなんてのは――」
言い返してやろうとして口を開いたが、上手く言葉が出てこない。
頭の中を探っている内に、アマルテアは――あれ程ロウが警戒していた妖精が、静かな足取りで近寄ってくる。
「ろうは、さみしいのね。おかあさんがいなくて、ひとり、のこされたのね?」
――違う。とっさに言い返そうとした。
だが、辺りの空気をかき乱すように、小さな身体が勢いよくロウに抱きついてくる。
「だいじょうぶよ。あまるてあが、ろうのおかあさんになってあげる」
胸元に顔を擦り付けるアマルテアの呼気が、ロウのシャツを湿らせた。
じんわりと温かいその感触を何と表現すべきか悩んで――悩んだ後にふと気付いた。
アマルテアと出会ってから、まだ数日だ。
拾ったばかりのとき、アマルテアはロウの腰くらいの身長だった。
それなのに今――妖精は、ロウの胸に顔を埋めている。
上から見下ろせば、膨らみかけた胸元がだぼだぼのシャツを押し上げていた。
ロウの視線に気付いた訳ではないだろうが、アマルテアがふと顔を上げる。
未分化のダッチワイフなどより余程『女』を感じさせる仕草で、ロウを見上げながら、喉元から頬へと指先をなで上げてくる。
白い二の腕の内側が、ロウの視線の先に晒された。
「ろう……」
「お前――そう言えば、言葉だって、最初はもっと……」
今よりも発音からして怪しかったはずだ。
単語を辿るのが精一杯で、きちんとした文章を語ることなど出来ていなかった。それが今は――辛うじて、だが――汎宇宙共用語で文章を紡いでいる。
気付いて、そのことを口に出した途端、身体に密着した妖精の両手に力がこもるのを触感で理解した。
ロウのシャツに押し付けられた唇の向こうで、うふ、と笑う息の音がする。
「ね――あまるてあがもういちど、ろうをうんであげる。あまるてあを、ろうのおかあさんにして」
顎を上げてロウを見上げる瞳が、弓形に歪んだ。
背中をなで上げる妖精の手が、ロウを締め付ける。
「てめぇ……」
呆然とその紅い瞳を見下ろす。
それだけでなぜか頭の芯がしびれたように身体が動かなくなる。口元が力を失い、だらりと両手が落ちる。
今やロウには、アマルテアの言葉の意味を考えることも、その身体を引き剥がすことも考えられなかった。
柔らかい脚が内腿の間に差し込まれても、声を上げることも出来ない。ただ蛇に見入られた蛙のように、全身で妖精の愛撫を受け入れるだけだ。
がさり、と視界の端で草を揺らす音がした途端、ロウの両手はようやく自分の意志を取り戻し、妖精の身体を引き剥がした。
「――ロウ、アマルテア!」
駆け寄ってきたイェルノの声が荒い。
今のを見られたのだろうかと一瞬焦ってから、なにを焦ることがあるかと思い直した。
「……んだよ。あんた、この人外のイキモノ置いて、どこ行ってたんだ」
「ロウ、ちょっと一緒に来てくれ!」
らしくなく興奮した様子で手を引かれた。
驚きとなにやら後ろめたい気持ちで、大人しくイェルノの後を付いて行く。
「どうした」
「入り口を見付けた!」
興奮した声色には嫉妬も怒りも混じっていない。
そのことに気付いて、ロウはほっと息を吐いた。
二人の後ろを、妖精が音もなく追ってきている。
そのことは気配で理解していたが、普段あれほどばたばたと足音を立てていると言うのに、にわかには信じがたい。
くす、と笑う声が聞こえたような気がしたが――ロウは振り返りはしなかった。
「入り口だって?」
ロウの顔を、前方を歩くイェルノが楽しそうに見上げてくる。
視界を塞ぐ草を乱暴に掻き分け進んだ先に、目指していた建造物の、光を照り返す白い壁が目に入った。
「――見ろ、これだ!」
思わず眼を眇めたロウの肩を、イェルノが掴む。
指差す先には、半分ほど開いたままの扉があった。
垂れる蔦に隠されているものの、その向こうの暗闇は、確かに中へと彼らを誘っていた。
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