7段目 ゴッデス・オブ・アーティファクト

 翌朝、ロウはぐらぐらと重い頭を抱えながら、なんとかコントロールルームに辿り着いた。

 恒星の光がない未明の室内で、補助シートに背中を預け端末で電子図書を読んでいるのはイェルノだ。いつもイェルノが連れ歩いているアマルテアはまだ眠っているらしい。姿が見えない。


 回らない頭を無理やりに少し動かして、ロウは声をかけることにした。


「おい……ちょっと聞いてもいいか?」

「なに?」


 振り向きもしなかったが、入ってきたことには気付いていたようだ。

 読書を邪魔されたはずのイェルノは、大した表情の変化もなくシートの中からロウを見上げてくる。その瞳はあくまで静かで、ロウは一瞬、気圧されたように感じた。


「いや……その、オレ昨日の夜さ――」

「あなたは昨晩、アマルテアを怒鳴りつけた後、突然自室へ戻った」


 やはり昨晩の出来事はロウの夢などではない。

 とすると、その後の出来事――アルキュミアとの会話も現実にあったことに違いないのだが。


「覚えてないの? 酔ってたのかな」

「酒なんか飲まない。……飲ませて貰えなかったから」

「誰に?」


 電子図書をそっと顔の前から下げて、イェルノは身体ごとロウの方を向いた。

 ディスプレイの光が白いTシャツに反射して、下からその頬を照らしている。

 輪郭を縁取るように包む長い金髪の隙間から、煌めく碧眼がロウを見上げた。

 なにかを思い出しそうになって、ロウは慌てて目を逸らした。


「いや……そもそもこんな時に飲まないだろ、普通」

「それが本当ならあなたの発想はだいぶ健全だね。強いストレス下で、人はなにかに頼りたくなるものだから。そういうものを必要としないのは逞しいのか、それともそんな状況下におかれた経験が少ないからか、どっちかな?」


 普段なら舌打ちと共に聞き流すところだ。

 人工物が人の精神について語ったところで、なんの意味がある。

 そう口にしようとしたロウの耳元を歌声が掠めたような気がした。くらり、と視界が揺れる。


「……ロウ、どうした?」


 気付けば、イェルノの手が頬に当たっていた。

 どうやら残った薬からくる目眩で、体勢を崩してしゃがみ込んだらしい。

 補助シートに寝転がるように、イェルノが身を乗り出して間近から見下ろしてくる。両眼の碧がロウの血の気のない顔を映していた。

 その色が余りに似過ぎていて、まるで夢の中まで覗き込まれた気分で心臓が鳴った。


「……離せよ」


 弱々しく振った腕を、華奢な指先で軽く受け止められる。


「やっぱりあなた、少しストレス過剰なんじゃない? アルキュミアは精神モニタリング分析でなんて言ってたの」


 昨晩のアルキュミアとのやり取りを、いつどこで聞きつけたのだろう。

 睨みつけてやったが、イェルノの表情は変わらなかった。反応の薄さで、喧嘩を吹っ掛ける気持ちも落ち着いてしまう。結局は普通に尋ね返した。


「どうしてそのことを知ってる」

「どうしてって……長期航行の宇宙船に精神分析機能がついてるのは宇宙船乗りの常識だよ。宇宙という過酷な死の空間では、心を病んだ者から死んでいく。だから、メインコンピュータは常に搭乗員の状態を監視する。肉体的にも精神的にも」

「常識……なのか?」

「そうだよ。アルキュミアを購入した時に、一連の説明を受けなかった?」

「アルキュミアは、オレが買ったんじゃない、から――」


 不思議そうなイェルノの碧の瞳が、何故かいつも以上に癪に障る。

 人の話など聞いてもいない――お人形さんが、聞いてる振りなんかしやがって。


「そう言えば、お母さんから相続したって言ってたっけ」

「そうだ」

「じゃあ、アルキュミア自身から一度ちゃんと説明を受けるといいと思うよ。あなたの操縦を見ている限り、腕だけの問題じゃなくてそれ以前――そもそもまともな解説を受けてないように見えるよ」

「――アルキュミアなんて信じられるか!」


 激高したロウを、イェルノはただ黙って見上げていた。

 その落ち着きに宥められ、続く言葉はもう少し穏やかになった。


「あいつ、よりによってオレに薬を盛りやがった。その上、母親の声を録音なんかしてて……」

 朝からずっと頭がぼんやりする。それも、単なる寝不足やなんかのレベルじゃない。察するに昨夜のアルキュミアのカウンセリング・モードとやらは、録音してあった母親マーチの歌声で注意を引きつけている間に、ロウに睡眠薬を打つという手荒なものだったのではないか。

 薬量の計算はしているだろうが、乱暴すぎる。問い詰めれば事実を答えるだろうが、悪事であるとは認めないはずだ。有無を言わせずロウを従わせる母親マーチそっくりのやり口で、余計に腹が立つ。


「あんた言ってたよな。アルキュミアは人工知能の女神ゴッデス・オブ・アーティファクトリュドミーラの作品と同じレベルの人工知能だって」

「言ったよ。ベリャーエフINC.でも使ってるくらいだしね、宇宙船の人工知能を作らせたら右に出る者はいない、人工知能の女神。世に比肩する者のない最高峰の技術者!」


 歌うようにとうとうと述べるイェルノの顔を、ロウはじっと睨みつけた。


「そいつがオレの母親」

「ん?」

「だから、この宇宙船作ったのは『人工知能の女神』リュドミーラで、そいつはオレの母親だって言ってんだよ」

「……んん?」


 目を瞬かせるイェルノは、いつよりも人間臭い顔をしていた。

 思わず吹き出しそうになって、ぎりぎりで止める。

 が、下から見上げていたイェルノにはそんな仕草は完全にバレていたようだ。


「いや、笑い事じゃないよ。誰だって驚くでしょ、そんなの! あなたのお母さんは『マーチ』って言ってなかった?」

「……マーチってのは古い地球の方言で『母親』って意味だ。あいつは、そこんとこ妙に拘ってた。名づけにはルーツを意識したって言ってたし、母親のことを自分はそう呼んでたからって」


 比類ない天才。すべての憧れを集める者。

 そんな彼女に、どうしてロウが反論できるだろう。女神ゴッデスとまで敬われる母親のその素晴らしい才能の一片たりとも受け継がなかった、落ちこぼれの自分に。


「なんでそんな……『人工知能の女神』の息子がただの――いや、超高性能な宇宙船のパイロットなの? あの人の発明や特許の数考えれば、なにもしなくても悠々遊んで生きていけるくらいの財産あるでしょう」

「親族と弁護士に全部奪い取られた。……よくある話だろ、ポンコツ息子がぼんやりしてるうちに、相続分なんもかんも騙し取られるってさ。最後に実家とこいつだけが残って」


 ロウは足先で床を蹴った。コツン、と固い感触が返ってきて、それからもう一度イェルノを見る。


「相続税払うのに、どっちか手放さなきゃいけなくなった。それで、家を売っぱらってこいつを取ったんだ。家はねぐらにしかなんねぇけど、こいつがあれば稼ぎになる」

「ん……リュドミーラが亡くなったのって、確か三か月前くらいだったよね?」


 こめかみに指を当てるのは、古い記録を引き出しているからだろうか。ロウは頷いて唇を歪めた。


「だから、初めて宇宙に出たのは二か月前だ。……悪かったな、腕があんまよくなくて」


 顔を上げ、宙を睨みつけるロウの頬を、あてられたままの白い指が軽く抓る。

 その指の感触は痛みよりも甘い疼きを引き起こすものだったから――ロウは、予想もしていなかった自分の反応に躊躇した。


「ふぅん。ちなみに、母親に対する複雑な感情を持つひとには、俺みたいな性未分化のセクサロイドは割とオススメだけど?」


 マザコンだ、と指摘された気がして、思わず指先を払いのけた。


「あんた、人に媚びることしか出来ねぇのな。悪いけど、オレはお人形さんに興奮する性癖はねぇんだ、よ……」


 のけられた指が、飽きもせずロウの手に纏わりついてくる。

 その手を掴んで今度こそ引きはがそうとして――指先が絡んだ。

 その柔らかさも暖かさもまるで本物みたいだ。腹の底から込み上げる熱を、気付かないふりで慌てて飲み込む。

 ロウの迷いを知ってか知らずか、補助シートにしどけなく転がるイェルノは、ふぅ、と息を吐いた。


「なーんて……普通はこういう方がセクサロイドらしくていいんだろうね。でも、俺は出来損ないの売れ残りだから……あんまこういうのって得意じゃないや」

「おい……特注品で買い手がついてて、めちゃ高価なんじゃねぇのかよ」

「ふふふ、誰とも知らないひとにはそういうことにしてるんだ。だって、嫌でしょ。俺のこと何にも知らない人に、蔑まれたり憐れまれたりするの」

「お、オレだって、あんたのことなんも知らねぇ……」

「そう? こんなにずっと一緒にいるのに。俺はあなたのこと、結構分かったつもりでいるよ? 普段はとても口が悪いけど少なくともこういう時は、俺のこと馬鹿にしたりしないんだろうなって」


 形の良い眉が、きゅ、と寄せられた。その微笑みと泣き顔の間のような表情を見ると、ロウの胸元にざわつくなにかがこみ上げてくる。


「なに言ってんだ、あんた――」


 止めてくれよ、寂しそうな顔は。

 そんな曖昧でごたまぜで、どうしようもない――そんなのは、決まりきった答えを出す人工知能の顔じゃないだろ。

 それじゃまるっきり、人間の顔じゃないか。

 湧き上がってきたものを苦労して飲み込んで、全部重ねていつもの調子に練り上げた。


「……お人形さんが、一人前の人間みたいな拗ね方するんじゃねぇよ」


 ロウの苦労を知ってか知らずか、イェルノの浮かない表情は変わらない。


「拗ねる? そんな可愛いものじゃない。廃棄寸前の瀬戸際に立てば、誰だって多少は頭がよくなるというだけの話だよ」


 諦めたように笑う息の音。

 伏せられた睫毛の下から、頼るように見上げてくる碧。憂い、絶望、不安、諦め、自嘲……そして、微かな依存。

 それは、ロウの知る存在とは一線を画す何かだ。母親マーチが今まで作っていた人工知能は、アルキュミアや彼女自身と同じく冷酷で、杓子定規で合理的で――ロウのことを見ないはずだったのに。


「止めろ……」

「止めろと言って止めるのが、あなたの言うお人形さんなの? なら残念だな。俺の主人オーナ権をあなたは持っていない。あなたの言葉に俺が従うとしたら――」

「止めろ」

「――従うとしたら、一個の独立した知性として、あなたに従いたいと感じた時だけだよ」

「止めろって言ってんだろ!」


 激昂して襟元を捻りあげた途端、元々座りの悪い補助シートにお上品とは言えない仕草で転がっていたイェルノが、バランスを崩した。


「――うわっ!? や、ば――!」


 滑るようにシートの上から落ちてくる。

 しゃがみ込んだままシートのそばにいたロウは、逃げ場もなく身体ごと押し倒された。

 小柄な肉体が驚きで息を荒くして、ロウの上に乗っている。


「……っび、っくり、したぁ……」


 はあ、と吐き出す唇が、真上にあった。碧の眼と視線が合った瞬間に微かに痛ましげな色が宿る。

 労働を知らない滑らかな指が、再びロウの頬に触れた。

 その感触が濡れていて、初めてロウは――自分が涙を流していることに気付いた。


「……どうして泣くの?」

「……黙れ」

「あなたはなにを考えてる? なにを欲しがってる? 何故そんなに俺を嫌うの」


 囁く声とともに柔らかい唇が降ってきて、ロウの頬を掠める。溢れ出す涙を舐めとる舌先が熱い。


「触んな……」


 答えた自分の声は思いのほか小さかった。乗っかられて、唇に触れて――よりによって性未分化のアンドロイド相手に、それだけで意識してしまうなんて。

 思わず舌打ちした。これじゃまるで飢えてガッついてるみたいだ。

 そんな感想さえ、眼の前のセクサロイドには見透かされているような気がして――もう一度舌打ちする。

 微かな笑い声とともに、指先が頬から喉元を滑り、胸元へと降りてきた。ごくり、と喉が鳴る。


「元気出しなよ。ここではあなたが唯一のパイロットだ。ヘタとか若いとか関係なく、あなたがしっかりしなきゃ誰も生き残れない」


 見下ろす碧眼に何もかも晒されて、過去も未来も何もかも混ざったように、渦の中に理性が沈んでいく。

 もう一度ゆっくりと降ってくる唇を拒むことは、ロウには出来なかった。

 セクサロイドなんて絶対にごめんだと思っていた。命令さえすれば誰にだって股を開く高価な玩具。無線コントローラ付きの恋人。


「――Hush-a-by baby, on the treetop――」


 それなのに今ロウは、こうして黙ってイェルノの歌声を聞いている。

 うっすらと地平線が明るくなっていく様子が、コントロールルームの窓の向こうに見えていた。

 ロウにとっての記憶のあれこれを掘り出すこの歌を――止めようと思えば、止められるはずだ。ただ一言、「止めろ」と口に出すだけで。


 それなのに。

 イェルノはロウの願いなどどこ吹く風で。

 ロウの口は、意に反して鍵をかけられたように押し黙っている。


「――When the wind blows, the cradle will rock――」


 それとも、止めたくない、と思っているのだろうか。

 なんなら逆の命令だって――もっと歌ってくれ、と頼むことだって出来る、なんて。


 横を向いたロウは、黙ったまま扉を睨みつけた。

 ぐらぐらと、苛立ちに近い何かが定期的に胸元から噴き上がってくるような気がする。

 人間ではないモノに欲情してしまいそうな羞恥。

 それを求めずには生きてはいけない自分への失望。

 それでも拒絶できないのは――


「朝だね」


 イェルノの歌が止まり、小さな呟きが聞こえた。

 窓から真横に差し込む光に、宝石のように煌めく碧眼。


 ――拒絶できないのは、この眼があまりにも母さん《マーマ》に似過ぎているからだ。


「ロウ。そろそろ俺は、アマルテアを起こしに――」


 言い掛けたイェルノの腕を引き寄せて、乱暴に身体を入れ替え床に押しつけた。

 見開かれた碧眼を見下ろす。絡む視線には驚きと怯えと――ほんの少しの媚態が含まれている。

 出処の分からない怒りを覚えて、視線を塞ぐように片手で両眼を押さえた。

 全部――全部、こいつのせいだ。


「ロウ――」

「うるせぇ」


 視界を塞いだだけではまだ足りない。

 徹底的に、コレの存在を支配しきらなければ気が済まない。

 ロウは、薔薇色の唇に顔を近付けると、自分でも驚くほど優しい感触で、そっと口付けを落とした。

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