白石美穂は唇を凝視されていた

 空っ風の冷たい冷気が頬を刺激した。マフラーで鼻先まで覆っているのに、それでも寒さを拭える気配は微塵もなかった。

 もうまもなく学校に着く。だけど、どうしてかまだまだ随分と遠く感じてしまうのは、多分身も縮こまるような寒さのせいだろう。


「あれ、白石さんおはよう」


「おはよう、安藤さん」


 ストーブの効いた教室に、いつもより遅く入った。教室内は既にクラスメイト達で賑わっていた。そろそろ始業のチャイムの鳴る時刻。

 三学期も継続したクラス委員長。ひいては生徒会長の立場として、この場は静かにするように声をあげるべきだろうか。


「珍しいね」


「え?」


 とにかく授業のためにもマフラーを外して準備をしてから考えようと自席に座ると、安藤さんがわざわざ近寄って話しかけてきた。いつもみたいに、笑顔を絶やしていなかった。


「何が?」


「白石さん、いつももっと早く来ているじゃない」


「ああ、そういうことね」


 確かに。

 どこかの誰かさんと違い、あたしは明智さんの朝練がない日も早朝に通学をしている。いつも教室に一番に入って、静かに読書を楽しんでいる。

 ……もしくは、最近だと明智さんの音色を安眠ソング代わりにしている誰かの可愛らしい寝顔を見て、楽しんでいる。これは誰にも言えないが。


「そういえば今日は、鈴木君も遅いね」


「彼なら休みよ」


 一限目の教科書を取り出しながら、あたしは言った。


「また熱を出したの」


 彼は、意外と病欠が多かった。


「あれま。それはお大事に」


「様子を見てきたけど、すぐ熱も下がるんじゃないかしら。そこまで元気がないわけじゃなかった」


 それが、あたしが今日学校に来るのが遅かった理由。

 彼の恋人として、甲斐甲斐しく朝から面倒を見てあげていたのだ。


「へえ。まあなんというか、白石さんも気を落とさないでね?」


「え? 何に?」


 安藤さんの言わんとしていることがよくわからず、あたしは小首を傾げていた。


「……鈴木君がいなくても、寂しがったりしたら駄目だよ?」


 少しだけ意地の悪い笑みで、安藤さんが言った。


「そ、そんなことあるわけないじゃない」


 頬を染めて、あたしはばつが悪そうにそっぽを向いた。誰が鈴木君が一日学校にいないぐらいで落ち込むものか。

 確かに彼はあたしの恋人で、一時はそれはもう舞い上がりもしたが。


 ……それでも、そんなことで落ち込むほど、弱い人ではない。


 文句を言い返そうとしたところで、チャイムが鳴り響いた。

 慌しくクラスメイト達が席に座っていく。


「じゃあ、また後で」


「……あ」


 安藤さんも、さっさと自席に戻っていった。


「おーし。出席を取るぞ」


 悶々とした感情を抱きながら、今日も忙しない一日の幕があけた。

 一限目の数学の時間が訪れた。


『……鈴木君がいなくても、寂しがったりしたら駄目だよ?』 


 あたしは、未だ手持ち無沙汰な気持ちが治まらなかった。

 いつもなら集中して聞けるような授業にも、まるで身が入らなかった。

 ふと、暖房の効いた室内から窓の外を見た。


 窓辺にある木々が風で揺れている。先ほど冷たいと思った冷風は、今もやむことなく吹いているようだ。

 

 鈴木君、ちゃんと暖房を点けて寝ているかしら。


 彼、意外とズボラだし。心配だった。こんなに寒い日に暖房を点けていないのだったら、治る風邪も治らない。

 授業中に禁止されているスマートフォンを取り出して、あたしは先生に見つからないようにスリープを解除した。

 彼との連絡手段であるチャットを開き、先ほど抱いた不安を聞こうと思った。


 いや、やはり止めたほうがいいかも。

 もし今寝ていたら、起こしてしまう。


「おーい、白石。わからないのか?」


「え?」


「この問題、解けないかい?」


「あ、いえ」


 いつの間にか数学の教師に呼ばれていたようだ。スマートフォンを机の中にしまって、あたしは立ち上がった。

 黒板に羅列された問題を解きながら、あたしは鈴木君のことを考えていた。


「よし、正解だ」


 教師に一礼して、自席に戻った。

 悶々とする感情は消えない。でも、今は止めよう。

 彼のせいで授業に身が入らなかっただなんて彼に教えたら、それはもう意地の悪い顔で茶化されそうだ。


********************************************************************************


「お邪魔しまーす」


 彼の御母さんに預かっていた鍵で扉を開けると、室内は随分と静かだった。

 彼の御母さんはまだパートに出かけている時間。そして、もう一人の住人の彼が熱で寝ているのであれば、当然か。


 あまり物音は立てないように、あたしは脱いだ革靴を並べて、彼の部屋に向かった。


「……鈴木君?」


 ゆっくりと襖を開けて、室内を覗いた。

 覆われた布団の下から、彼の寝息が聞こえた。

 随分と呑気に寝ているようだ。

 暖房も、キチンと点けて寝ていたようだ。少しだけ安心した。


 あたしは小さく微笑むと、室内に入って彼の真横に座った。

 そして、ゆっくりと額を触った。

 

「……熱、少しは下がったかな」


 ほんのりと温かい彼の額を撫でながら、あたしは立ち上がった。彼の部屋にある箪笥を開けて、代えの服を取り出した。多分、汗を掻いているだろうから。


「うぅん……」


 彼が呑気に寝返りを打っていた。

 あたしは優しく微笑んで、彼の隣に長袖のTシャツとジャージのズボンを畳んで置いた。

 そして、リビングに移動した。


 冷蔵庫を開けると、彼の御母さんが用意していたのであろう夕食が冷やしてあった。お粥だった。


「……ん?」


 それを取り出してみると、ラップの上に紙が添えられていた。


『白石ちゃん

 面倒のかかる子だけど、よろしくね』


 彼の字ではない。多分、御母さんのものだろう。

 あたしはメモ書きを折らないようにポケットに入れて、お粥をレンジにかけた。


 しばらくご飯が温まるのを待っていると、窓に強風が打ち付けていることに気がついた。カタカタと鳴る音は、一定のリズムを刻み、あたしの手持ち無沙汰な時間を穴埋めしてくれていた。


 レンジが鳴った。

 蓋を開けると、


「あちっ」


 皿は十分に加熱されていたようだ。

 厚手の手袋をして、お皿を持った。


 そして、彼を起こすべく襖を開けると、


「あら」


 彼は、眠たそうに体を起こしていた。


「ああ、おはよう。白石さん」


「おはよう。ごめんなさい。起こしちゃったわね」


「いいよ。僕もよく寝たし」


 大欠伸をした彼は、背筋を伸ばしていた。一日中寝ていたからか、ポキポキと関節が鳴っていた。


「熱はどう?」


「随分下がったと思う。体も羽のように軽い」


「それはない」


「そうだね」


 アハハ、と彼は笑っていた。


「ごめんね。心配かけて」


「本当よ」


 お粥のお皿を床に置いて、あたしは正座で座りながら彼と話を続けた。


「おかげで今日は、まるで集中できなかった。授業も。生徒会も。明日からまたあなたには頑張ってもらうから、お願いね」


「それはなるべく勘弁願いたいなあ」


 苦笑する彼につられて、あたしも微笑んだ。


「そうだ。これ、あなたの御母さんの作ってくれたお粥よ。お昼も寝ていて食べていないでしょうし、お腹空いたでしょう?」


「ああ、ありがとう」


 お皿を受け取ろうとした彼を見て、ふとあたしは思いついた。

 途端、あたしは彼からお皿を遠ざけた。


「え、何故に遠ざける」


「駄目よ。あなたは病人なんだから、こんな重い皿持たせられない」


「たかだかお粥くらい持てない病気に僕は罹っていたのか」


「そうね。重症よ」


 言いながら、重症なのはあたしのほうだな、と内心思った。

 あたしはお皿にかかったラップを取って、スプーンでお粥を掬った。


「はい」


「はい?」


 彼の口の前にお粥の載ったスプーンを運ぶと、笑顔なあたしとは対照的に、彼は大層困り果てたように眉をしかめていた。


「あーん」


「あーん?」


 口を開けて見せて、彼に「いいから食べろ」と促すが、照れ屋な彼は頑なだった。


「食べなきゃ駄目よ」


「なら、お皿とスプーンをおくれ」


「それは駄目。これでも食べられるでしょう?」


「それじゃ僕が恥を掻く」


 突如頬を染めた彼が、可愛かった。


「恥はかき捨てなさい。ここにはあたし以外誰もいないじゃない」


「むぐぐ……」


「ほら、冷めちゃう」


 押し問答の末、彼は諦めたように口を開けた。

 あたしはゆっくりとスプーンを彼の口内に運んだ。


「美味しい?」


 尋ねると、


「君のせいで味がわからん」


 恨み節が返ってきた。

 あたしは嬉しくなって、再び彼にお粥を掬って食べさせた。


「ご馳走様」


 お粥を食べ終わった彼は、大層疲れたように寝転がった。


「お粗末様。今度は直々に作ってあげるわ」


「駄目だ。多分、余計味がわからなくなるから」


「そんなこと聞いたら、是が非でもそうしたくなった」


「性格が悪いよお」


「ありがとう。褒めてくれて嬉しい」


 飛び切りな笑顔を見せると、彼は再び頬を染めていた。

 そっぽを向いた彼に微笑みかけて、あたしはお皿を片付けるべく一度キッチンに戻ろうとしたが、


「あ、代えの服置いてあるから、着替えておいて」


 と言った。


「うい」


 彼の簡素な返事に、あたしは再び微笑んでいた。

 お皿をさっさと洗い終えると、再び彼の部屋に戻った。


 脱ぎ捨てられた衣服を畳み、彼の顔を見た。


「眠いの?」


 彼は、少しだけ夢うつつな状態だった。今にも再び寝てしまいそうな彼に、あたしは小さな声で尋ねた。


「……ごめん」


 彼は何かにはよくわからないが謝罪をしていた。


「いいわ。急な風邪に疲れちゃったのよ。ゆっくり休んで」


「白石さん」


「何?」


「ありがとう」


「いいわ。彼女ですもの」


 彼の頭を数度撫でた。

 彼は重そうな瞼をゆっくりと閉じていった。

 しばらくすると、寝息が聞こえ始めた。


 あたしは衣服を持ち、部屋を出た。脱衣所を見つけると、洗濯機の中に少しだけ湿った彼の衣服を入れた。


「そろそろお暇しようかしら」


 彼も寝たことだし、もうやることもないし。あまり長居しても彼に気を遣わせるだけだし。

 

 そう思ったあたしは、彼の部屋に置いていた鞄を取りに戻った。


「あら?」


 彼の部屋に入って、先ほどまで唸っていたエアコンが切れていることに気がついた。どうやらタイマー設定していたようだ。

 あたしはリモコンを見つけると、運転ボタンを押した。


「う、ん……」


「ごめん。起こしちゃった?」


 エアコンの操作音に反応して、彼が眉をしかめていた。

 申し訳なくなり彼を見ると、少しだけうつらうつらとしていた。


「ゆっくり寝ていて」


 黙って、彼は頷いた。

 さてと、名残惜しいけど、そろそろ帰るか。


 あたしはマフラーを巻いて、乾いてきた唇にリップクリームを塗って、馴染ませた。


 丁度、その時だった。

 何処から視線を感じた。凝視するような、熱視線だった。


「どうかした?」


 視線のするほうへ、あたしは向いた。

 すっかり覚醒してしまった鈴木君は、口を半開きにさせてあたしの顔を凝視していた。

 微笑みながら小首を傾げるも、彼の反応は乏しかった。


「どうしたの? 熱、ぶり返した?」


 顔も真っ赤だし。

 心配げに座りなおすと、鈴木君は何も言わずに顔をそらしていた。


「もう。どうしたの?」


「いや、別に」


 そう言いながら、眉をしかめるあたしから目をそらす鈴木君だったが、チラリと視線が再びこちらに向けられた。 

 視線の先には。


 リップクリームを塗ったばかりの、あたしの唇があった。


 あたしは。



 

 意地悪そうに、笑っていた。


「どうしたいの?」


「な、何が」


 鈴木君は寝返りを打った。

 あたしは顔を近づけて、彼に尋ね続けた。


「鈴木君、さっきも言ったわよね」


「何を」


「恥はかき捨てなさい。ここにはあたし以外、誰もいない」


「うぐ……」


 鈴木君は、恨めしそうにこちらを睨んでいた。ただ、顔は真っ赤だった。


「今なら、あなたの好きにし放題よ」


「……駄目だね」


「何故?」


「風邪……移るかもしれないだろ」


 そんなこと気にしていたんだ。

 本当に、この人は……。


 いつだってウンザリげに、でも与えられた仕事はキチンとこなす癖に。

 大人にだっていざという時は容赦しない癖に。

 交渉毎になればはったりだってなんだって平然とかます癖に。


 こういう事に関しては、いつまでもウブなんだから。


 でも、こういうところがあたしが彼に惹かれた理由なんだろう。


 高い高い壁に見えて、実は等身大の彼に、あたしは惹かれたのだろう。


「あたしに風邪、引いて欲しくないんだ」


 彼の鼻筋から唇までを右手の人差し指でなぞった。彼は、くすぐったそうにしていた。


「悪いかい」


「うん。意気地なし」


 ばつが悪そうに、彼は目を細めた。


「まあそれなら、こっちからするだけだけどね」


「え--っ」


 拒否する言葉も、非難する言葉も発させぬ内に、あたしは彼の頭を両手で優しく掴んで、顔を迫らせた。


 そして、唇が触れ合った。


 途端、彼に対する思いが溢れ出した。これまでの思い出。溢れる感情。たまに抱いた文句。喜怒哀楽。様々な感情が溢れ出していた。

 息が苦しくなった頃、ゆっくりと顔を離した。


 彼は、放心していた。


「またあたしの初めて、一つ奪ったね」


 紅く染まる頬を気にすることもせず、あたしははにかんで彼にそう言った。

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