岡野仁美は青春を渇望していた
『岡野さん、聞いて聞いて』
『どうしたの、白石さん?』
その日の白石さんは、いつもより興奮気味なのが文面からも伝わってきて、今思うととても微笑ましかったと思う。
『あのね、実はね』
『私、鈴木君に告白されたの』
「えー!」
自室で、あたしは驚きのあまり声を上げていた。せめて深夜であることは覚えておきたかった。
「仁美ねえちゃん、声上げてどしたの」
そんな喧しいあたしの様子を案じて、弟の草太は部屋に入ってきた。
振り返って顔を見てみると、どこかうんざりげである。
「ああ、ごめんごめん。何でもないよお」
「そう? 近所迷惑だからなるべく静かにね」
弟の正論に、あたしは苦笑いを浮かべていた。本当、よく出来た弟だ。
『うわー、おめでとう!』
弟の正論への謝罪を終えて、あたしは再び白石さんとのチャットに興じた。
『ありがとう。今皆に自慢して回っているの』
「フフフ」
恋は人を盲目にさせるとか言うけど、まさしくあの時の白石さんは恋により盲目になっていたと思う。いつものクールな彼女からは想像も出来ない行動に出ていた。
ただ正直、子供のように無邪気に喜んでいる白石さんは、いつもと違った魅力を感じさせられた。
なんというか。
そう、いつもは凛とした態度の女教師が、実は家ではズボラ、みたいな。そんなギャップ。
まあ、そんなことはどうでも良くて。
あたしは白石さんへの祝電を送ったり、彼女からお礼を言われたり。そんな時間を送っていた。
白石さん、鈴木君が好きなんじゃないか、とはたまに思っていた。だって、鈴木君にだけ態度がたまに違ったし。
でも、そうか。
二人は恋仲になったのか。
微笑ましいメッセージ。惚気たメッセージ。
いつもの白石さんからは想像も出来ないメッセージが飛び交った。
「いいなあ」
白石さんとのチャットを楽しんでいる内に、あたしの口からはそんな言葉が漏れていた。
いいなあ。
青春を謳歌していて。
これから白石さんは、心の底から大好きな鈴木君と、映画館に行ったり、海に行ったり、カラオケに行ったり。とにかく青春を謳歌するんだろうなあ。
羨ましいなあ。
思えば、今日までのあたしの学生生活は、端から見てもばら色な生活ではなかっただろう。
バイトとかバイトとか。社会経験は貴重な体験だとも思うけど、あたしだって他の人みたいに自由もほしいなあ。
「……と、いうわけなんです」
「へえ、鈴木君。彼女出来たのか! そりゃあ良かった!」
「そうだね。それで、あのね。お父さん」
「しかも、いつかの総会の女の子か。結構な美人だったからなあ」
「お父さん?」
「いやあ、本当にめでたい! めでたいなあ!」
「……もういいや」
そう思ったらいてもたってもいられなくなって、あたしはお父さんにバイトを減らしてもいいかを相談していた。
しかしお父さんはといえば、いつかお気に入りになった鈴木君の吉報を喜ぶばかりで、まともに取り合ってくれる様子はなかった。
お酒が入るといつもこれだよ。
いつもは江戸っ子気質な頑固者の癖に。
「それで仁美。お前の話ってなんだっけえ?」
酒臭い息で、もう一杯ビールを嗜もうとするお父さんに、あたしはため息を吐いてお願いをすることを諦めたのだった。
「一生、どうせこのままなんだ」
気付けばあたしは、吐き捨てるように呟いていた。多分あたしはこのまま、バイトに明け暮れる日々を送って、高校生生活を終わるのだ。
だって、今だってコンビニにお勤めにしているわけだしね。
「あれー、あれあれー?」
「え?」
そんなふて腐れているあたしに、調子の良さそうな声が聞こえた。
「仁美ちゃん。もしかして、仁美ちゃんなの?」
「博美ちゃん?」
「やっぱりー。仁美ちゃんじゃん」
博美ちゃんだった。今は春休み真っ只中だというのに、制服を羽織りコンビニに来店してきていた。
「へえ、仁美ちゃんもここでバイトしてたんだ」
「ま、まあねえ」
実はあたし達、高校に入る前からの知り合いであった。
中学時代、吹奏楽部だったあたしは、当時天才である彼女とコンクールの度に挨拶をする仲だったのだ。
きっかけは……なんだったかな。
おぼろげな記憶だと、あたしのチューバでの演奏を彼女が褒めてくれたから、とかそんなんだったような。
「……あのさ」
「な、何?」
ただ、正直あたしは彼女が得意ではない。
彼女の肩にはあたしでは到底積み上げられないような実績があり、そしてこのイマイチ掴みどころのない性格も。ちょっとだけ。ほんのちょっぴりとだけ、苦手だ。
そんな博美ちゃんが目を細めて、あたしを見ていた。
「仁美ちゃん。何か不満でもある?」
「え?」
言い当てられていた。
「なんか、思いつめているような。いないような」
「そ、そう?」
「うん。間違いないよ」
「間違いない、か」
そうまではっきりと言われると、少しだけ病む。あたし、そんなに思い詰めていたのか。
「……実はさ」
あたしは、気付けば苦手であると語った少女に、職務も忘れて自分の状況を語った。
折角高校生になったのに、バイトに明け暮れる日々に辟易とし始めていること。
あたしも青春をしたいこと。
「そういえば仁美ちゃん。高校では吹部に入らなかったね」
「うん。あんまり経済的に余裕もなかったし」
「残念。あたし、いつか仁美ちゃんと一緒に合奏したかったのに」
天才である彼女にそう言ってもらえるのは、正直嬉しい。
「……で、そうか。青春を送りたい、か」
「うん」
博美ちゃんは一通り悩んだ後、微笑んでいた。
え。笑うとか酷くない?
「仁美ちゃん。あたしもそういう時期あった」
「え?」
「とにかく自分で抱え込む時期。その間さ、本当に辛くて。救いもないなあ、と思っちゃうよね」
「う……」
よくわかってしまった。
「でも、抱え込んじゃ駄目だよ」
「でも……」
「仁美ちゃん」
博美ちゃんは、熱い眼差しであたしの両肩を掴んだ。その熱意に気圧され、あたしは少しだけ後ずさった。
「甘えてもいいんだよ」
「……え?」
「甘えてもいいの。人一人でやれることなんて限られているんだよ。辛くてどうしようもない時に。悲しくてどうしようもない時に。一人でどうにもならないなら、皆に甘えちゃっていいんだよ?」
「そ、そんなの……」
そんなの悪いし。
それに、今のウチの経済状況であれば、あたしも稼ぎを出さないわけにはいかないし。
「あたしはね、そうヒロちゃんに言われたの」
「ひ、ヒロちゃん?」
「うん。ヒロちゃん。ああ、鈴木高広ちゃん」
……ああ。そういえば博美ちゃん、鈴木君と幼馴染だったか。
「あたしも吹部の顧問にメッタメタにやられた時期があってさ。まあ色々とストレスがたまっていた時期があって、悪さもしちゃってさ。
その時に、ヒロちゃんに叱られたの」
エヘヘ、と博美ちゃんは頭を掻いていた。
「でさ、その後ヒロちゃん。色々相談に乗ってくれて。顧問の先生に話しにまで行ってくれて。最終的には先生との話し合いはうまくいかなくて、自分であたしを慰めてくれたんだけどさ。
とにかく、あたしあの時、ヒロちゃんに相当甘えちゃったの」
「そんなことが」
悪さって、具体的に何をしたんだろう、と気になった。暴走族でもしていたのかな。特攻服を纏った博美ちゃんを想像したら、思いのほか似合ってなくて微笑みそうになってしまった。
「でも、その時実感したよ。あたし一人では考えつかないようなことも。誰かに甘えたり。一緒になって考えると解決するんだなって」
「なるほどねえ」
「そ。だから仁美ちゃん。一緒に考えようよ。どうしたら青春を謳歌できるようになるか。
といっても、ほぼ答え出ているよね」
「え?」
「親に話してみたら? バイト減らしたいって」
「それはこの前したよ。でも、酔った勢いでまるで話を聞いてくれなかったの」
あたしは思わず、俯いた。
「なら、もう一回トライだね。今度は酔っていない時に」
「え」
「大丈夫だよ。きっとうまくいく」
その時の博美ちゃんの微笑みは、とてもあたしの気持ちを安心させるものだった。
江戸っ子気質で堅気な父親相手だけど、なんとかなるんじゃないか。
そう思わせる笑顔だった。
「ねえ、お父さん」
「あん?」
「お願いがあるの」
「なんだい。改まって」
あたしは、息を目一杯吸って、続けた。
「バイト、少し減らしたいの」
そうあたしが言うと、お父さんは驚いたように目を丸くしていた。やっぱり、駄目なのだろうか?
「お前、改まって何を言うかと思えば……」
お父さんはそう前置きをして、続けた。
「そんなのお前の好きにしろよ。お前の人生なんだから」
え?
「え、いいの?」
「いいのも何も……良いに決まっているだろ。そんなの俺が強制していいことじゃないじゃねえか」
「そっか」
アハハ。
そっか。
そうかあ。
「なんだい、突然笑い出して」
お父さんは、突然笑い出したあたしに、少しだけ驚いていた。
「ううん。何でもない」
何でもない。
そう、全てはあたしの独り相撲なだけだったんだ。
バイトをして家にお金を入れることも。バイトに明け暮れて、青春を送れなくてふて腐れたことも。
全てあたしの独り相撲だったんだ。
もっと早く親に相談していれば、多分あたしはもっと早く青春への道を送れたのだろう。
でも、これで良かったのかもしれない。
だって、あたしは一度青春を送りたいと思ったからこそ、こうして一歩を踏み出せたのだから。
「で、お前はバイト減らして、何したいの?」
「決まってない。でもすぐ見つかると思う」
だって、あたしの青春はまだ始まったばかりなのだから。
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