正月一日の客

白浜 台与

第1話 正月一日の客

令和4年の1月1日朝。


神棚の米と水と塩も新しくして鏡餅も供えて柏手を打った89才の家入ハルばあちゃんがよっ、と踏み台から降りてスリッパを履いた時、視界に入ったのは野球帽を目深に被り薄目のダウンジャケットにジーンズ姿のどこにでもいそうな若者の姿だった。


サッシの向こうの彼はかじかんだ両手を合わせてとても寒そうにしていたので…


「あたは孫ん同級生かな?」

とついサッシ戸を開いて若者に話しかけた。


「いえ、そういう者では」と彼は首を振るも、

「あんたほう、たいが寒かごてしとっけん入んなっせ」


でも…と遠慮する若者の手を引いて、


「なんちゅう冷えた手か、まるで氷のごたる」

と言いながら台所のコンロの上で湯気を立てるだご汁をお玉で掬ってお椀によそい無理矢理席に着かせた若者の前に箸とだご汁を置いた。


「嫁に味噌ん濃かて言われてね、ちょっと味見役はしてくんなはっ」


と滑舌のいい熊本弁でまくし立てるハルばあちゃんの笑顔を眩しく感じた若者は野球帽を脱いでポケットに入れていただきます、と両手を合わせて椀を取り汁を啜る。


「どぎゃんね?」

「とても美味しい。いい塩梅です」


ばあちゃんは老眼鏡の奥で目を見開いて、


「いい塩梅、て若かとに難しか言葉知っとらす!感心感心」


とぱんぱん!と手を叩く。


温かい汁物を食べたお陰で若者の顔に血の気が戻り頬に赤みが差す。

よくみると濃い眉にぱちりとした大きな目、高い鼻梁に厚い唇のいい顔つきをしている。


が、見た事のない顔なので地元の者ではないのだろう。


「あんた阿蘇ん冬ば舐めとったね〜。ここら辺はもっと羽織っておかんと寒かし今ん時期は雪も降る」


「はい、12年ぶりなのでここの寒さ忘れてました。あの…この家は」


と台所しか明かりの付いてない家を見回す若者にばあちゃんは、


「もう5年経ったかねえ、地震で何もかも壊れてしもうて台所だけ無事だった」


と19でこの家に嫁に来て夫とずっと農業をしていたが数年前の大きな地震で母屋の大半が屋根から崩れて住めなくなってしまったこと。


長い避難所暮らしで夫が体調を崩し寝たきりになったこと。

阿蘇の地下水脈が変わったのか畑に水が来なくなって農業を断念したこと。


今は熊本市内の息子の家に身を寄せているが家の取り壊しの目途が立ったので長年暮らしたこの家とちゃんとお別れしようと思い立ち、正式なやり方で最後の年越しをしたのだ。


と次々とあった大変なことをまるで昨日は雨だった。と天気の話をするように淡々と語るばあちゃん。


ほぼ空にした汁椀の中に青年は大粒の涙を落とした。


「すいとんをご馳走になった岩手のばあちゃんもそうだった。焼き穴子の雑煮をご馳走になった神戸のご婦人もそうだった…どうして…どうしてどうしてこの国の女の人達はこんなにも強いんですか?」


うっ、うっ、としゃくり上げて泣き出す青年にばあちゃんはハンカチを差し出す。ありがとうございます。とハンカチで涙を拭う相手にばあちゃんは、


「人間元々そんなに強くなかよ」


と言って畑仕事で節くれだった指に目を落とす。

「戦後の引き上げで何もかももう駄目と思ったこともあるし不作で生活が苦しかった事もあるし嫁と同居して腹ん立つ事もある。でもいちいち怒ったり腐らずにいられたのは…日々の暮らしをこなしてきたからかねえ」


目の前の出来ることを淡々とやって来たからだ。

うん、とうなずくばあちゃんに青年は、


「僕は北から南まで割れたお皿のように壊れた人々の心を見て来ました。ハルさんの心はまるで石臼みたいに打たれ強い」


でもねえ、と顔を上げたばあちゃんは


「天災とか流行り病とか続いてこう何年も打たれ続けると、さすがに石臼の底もひび割れそうよ」


と力なく笑った。

青年はさっぱりした顔でばあちゃんにハンカチを返し、

 

「ご馳走さまでした。貴女の心が割れないように微力ながら力を尽くします」


と椅子から立ち上がり、一礼をして玄関から出ていった。


間もなく近くの温泉の初湯から帰って来た息子夫婦と大学生の孫が初詣で買った破魔矢を持って「ただいまばーちゃーん」と入れ替わりに玄関から入って来る、が、


青年が置いて行った帽子を握って「ちょっとあんた忘れ物!」と外に向かって叫ぶばあちゃんに「さっきから誰も出て来てなかよ」と家族みんな変な顔をした。


「あの子が返してくれたハンカチに年末宝くじが3枚枚入っとってですね、息子が調べたら合わせて50万の当たりくじだったとですよ。お父さん」


半月後、ひと月一度の面会を許され、病院のベッドでうとうと眠る夫にハルばあちゃんはマスクごしに話しかける。


「元旦に家にいて正式にお迎えしたからあの子はもしかしたら寅年の歳神様かもしれんね」


と時々あーとかうー、とか相槌を打つ夫に向かって笑った。


元旦のあの時、青年が置いていった虎の名のついたプロ野球球団の帽子を握りしめながら。






  


































 

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正月一日の客 白浜 台与 @iyo-sirahama

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