残り物たちのクリスマス
獅子男レオ(ししおれお)
残り物たちのクリスマス
「クリスマス、私とずっと一緒にいて、くれませんか?」
クリスマスイブの昼休み、僕、佐藤優真(さとうゆうま)は美少女に声をかけられる。
流れるような艶のある黒髪、童顔気味の顔に、青みがかるほどの黒い瞳。ちょこんとした鼻に、柔らかそうな唇。透き通るような肌に、ほんのり赤く染まったほっぺ。そんな清楚さとは裏腹に、服の上からでも分かる膨らみがその存在をささやかに主張している。
そんな誰もが振り返るような美少女の、涙目で上目遣いのお願い。
僕の答えは、決まっていた。
「嫌です! 無茶ですよそんなの!!」
「そんなこと言わないで~! お願いだよ、もう頼れるの佐藤君しかいないの!」
「どうやってクリスマスケーキ111個も売れって言うんですか~~~!!」
僕の背後には、店長が誤発注した大量のクリスマスケーキ、その数なんと、111個。
「これ売り切らないと、このお店潰れちゃうの! バイトリーダーの私も仕事無くなっちゃうの!」
涙目で僕にそう訴えかける彼女は塩谷夢叶(しおたにゆめか)。大学で同じゼミの先輩で、このコンビニのバイトリーダーをしている。
これは、コンビニで売れ残った111個のクリスマスケーキを売りさばく、彼女と僕の激闘の記録である。
――残り物たちのクリスマス――
事の発端は、12月24日金曜日クリスマスイブ、その早朝まで遡る。
「え……これ、だ、誰が、こんなに、頼んだの!?」
僕がコンビニに着くなり早々、塩谷さんの声が響き渡る。それもそのはず、いきなりクリスマスケーキの在庫が届いたのだ。それも111個。
「ててて、店長これどうしましょう?」
慌てて店長の霧納(むのう)さんに相談する塩谷さん。
「ど、どうするもこうするもない! だ、誰の失敗か分からないが、とにかくすべて売り切るのだ! 売り切れないと、君が自腹で購入することになるぞ!」
自腹? 一体いくらかかるのか想像すらしたくないし、それ以前に。
「店長、それはさすがにあんまりじゃないですか!?」
売れ残ったら自腹、なんてあまりに酷すぎる。
「佐藤、バイトの癖に店長に逆らうな! ケーキの消費期限、27日の月曜日までに全て売る、これはノルマだ。自腹を切りたくなかったら、ケーキを全部売りさばくのだ!」
「そ、そんな……」
絶望を帯びた塩谷さんの声。
「それじゃあ、俺は帰る、いいからちゃんと売れよ!」
「ちょっと待ってください、話はまだ終わって」
僕の横を通り過ぎる店長。――あれ、この匂い、もしかして。
「え、これ何……」
再度響く塩谷さんの声。
「チキン、こんなに作ったの、誰ですか」
塩谷さんの目線の先。そこにあったのは、大量のクリスマスチキンだった。僕が来る前、コンビニにいたのは店長と塩谷さんだけ。塩谷さんのこの反応からするに、塩谷さんではない。とすると。
「店長。これ店長が原因ですか?」
「ま、まあ、クリスマスだからな、優秀なお前たちなら、きっと全部売ってくれるだろう」
「こんな量、例年の2、3倍はあるじゃないですか!」
「う、うるさい! お前はバイトリーダーだろ、できない理由を考える前に、どうすれば売れるのかを考えるのだ!」
「そんなこと言われても困ります!」
もう塩谷さんは泣きそうになっている。
「……店長。もしかして、隠れてお酒飲んでましたか?」
「うっ、だ、だったらどうしたというのだ!もう帰るところなのだ、それくらいいいだろう!」
さっき店長が横を通り過ぎたときに感じた匂い。間違いない、あれはお酒の匂いだ。明らかに酒臭い店長。大量にあるキチン。
「店長。もしかして、酔っぱらってて大量のチキンを?」
何も答えない店長。
「そういえば、いつも店長自分が帰る直前にお酒飲んでましたよね。まさか店長……」
「ち、違うぞ、ケーキを頼みすぎたのは俺じゃない、俺じゃないからな!」
「ケーキ? 今はチキンの話を……。まさか店長、ケーキの発注間違えたのって」
「う、うるさい! 俺は何も知らない! この金土日はお前たちの担当だろう、ななな、何として売り切るのだ! いいな!」
「待ってください店長、まだ話は」
「あのぉ……」
お客さん!? 慌ててみると、レジ前に杖をついたおじいさんが立っていた。マズい、全く気が付かなかった!
「い、いらっしゃいませ! お待たせして申し訳ございません。こちら温めますか?」
「いや、結構じゃ」
「かしこまりました、袋は3円になりますが、お使いになられますか?」
「では、お願いしようかの」
「かしこまりました、こちら2点に袋を合わせまして673円になります」
「……大変ですのぉ、色々。ケーキの誤発注、だとか聞こえましたが」
「はは、恐れ入ります」
「霧納店長があんなだと困りますな、バイトの方なのに、よく頑張っていらっしゃる」
「ありがとうございます……」
「応援しておりますぞ。それでは、ありがとうございました」
「ありがとうございました! またお越しください!」
おじいさんが出口に向かっていく。
あれ、そういえば今店長の名前呼んでなかったっけ? 気のせいか?
そうだ、店長! しかし、探しても店長はもう見当たらない。接客中にうまく逃げられてしまったのだろう。
「ケーキ、111個、どう、しよう……」
膝から崩れ落ちる塩谷さん。
「と、とりあえずNINEで相談してみましょう、僕たちだけじゃどうにもならなそうですし」
僕はNINEのグループチャットで相談してみる。既読1。既読2。既読3。しかし既読はつくものの、誰も何も言わない。それもそのはず。クリスマスケーキの誤発注なんて前代未聞のミスだ。本来なら予約分に加え、せいぜい1個か2個多めに発注するのだが、おそらく発注の際に間違って1を2回多くタップしてしまったのだろう。そんなこと、普通はあり得ないのだが。
「1個5000円のケーキだから、もしこれが一つも売れないとなると……」
――55万5000円の損失。あの店長は、これをノルマだと言った。もし達成できないと自腹を切ってケーキを買え、とも。これを地獄と言わずして何という。
「こここ、こんな数、売り切れる、訳、ない、じゃないですか……」
座り込んで俯いたままの塩谷さんは涙声だ。責任感の強い彼女のことだ。きっと半ばパニックになってしまっているのだろう。ここは僕がしっかりしないと。
「と、とりあえず売りましょう! 泣いたって始まらないです、今はやれることをするだけです」
「な、泣いてなんかないわよ……で、どうするの?」
「そうですね、まずは……」
沢山ある在庫を、少しでも売るためには。僕が思いついた答えは。
「値引き? ならん! まだクリスマスイブ、金曜日だぞ!きっと今日の夕方には、ケーキを買いそびれた客が沢山やってくるはずなのだ! しかも、明日と明後日は土日だぞ! 良かったじゃないか、親子連れの客に売り込んで、何としてでも定価で売り切るのだ!」
塩谷さん伝に提案した値引きの案は、店長によってあっさり否定された。
「『ねぇ誰と電話してるの? 早く遊びましょうよ』待っててねぇハニー、今切るから……ということで、だ! 俺は忙しいんだ! 値引きは禁止、定価で売り切れ! 指示は以上だ! あと来週月曜まで俺に電話してくるな、いいな!」
「ち、ちょっと待ってください、値引きなしでどうやって売れって」
プツッ。電話が切れる。電話を持つ塩谷さんの手がゆっくりと垂れ下がる。
「もう、終わりよ……この店舗、他のお店より売り上げが悪いらしいの。そこにこんな誤発注、一体どうすれば……」
ここまで落ち込む彼女を見るのは、初めてだった。
「な、なんとか売り切りましょう! と、とにかく、頑張るしかないです! 今僕たちにできることをしましょう!」
「……あ、ありがとう」
目をくしくしとこすって振り返る塩谷さん。その唇は、きゅっと固く結ばれていた。
「落ち込んでるなんて、私らしくないもんね!」
◇◇◇
そう言って励ましたものの。
「クリスマス、私とずっと一緒にいて、くれませんか?」
「嫌です! 無茶ですよそんなの!!」
「そんなこと言わないで~! お願いだよ、もう頼れるの佐藤君しかいないの!」
「どうやってクリスマスケーキ111個も売れって言うんですか~~~!!」
その日のお昼になっても、一向に売れる気配はない。
「だからお願いしてるんじゃない……。シフトが昼過ぎまでなのは知ってるけど、この後入る予定の人が風邪ひいて行けないって連絡が来て、頼める人がいないの! 私一人だと売り子ができないもの」
今、塩谷さんと僕は一時間交代で一人がレジ、もう一人がお店の外で売り子をしている。彼女はサンタ帽を、僕はトナカイの角を被って、少しでもクリスマス感を出してケーキを売り込む作戦だ。
「そ、それともこの後、何かよ、予定でもあるの? だ、誰かとデデデデートとか」
腕を後ろで組んでもじもじする塩谷さん。上目遣いの塩谷さんに、少しドキッとしてしまう。
「いや、別にそんな人はいないですけど……」
「じゃあお願い! 頼めるの佐藤君くらいなの!」
「まあ、夜までなら。……この状況ですしね」
苦笑いを返す。そんなうるうるした目で見つめられて、断れるわけないだろう。
「とにかく、やれることはやりましょう!」
◇◇◇
「売れない……」
あれから3日。今日は12月27日、月曜日だ。
土日は空け、クリスマスケーキの消費期限は今日に迫っている。
さて、売れた個数は――
「なんで在庫が一つも売れないのよ!!」
「全く、売れないな……」
定価でケーキがそうそう売れる訳もなく、必死の売り込みにもかかわらず、ケーキの在庫は全く減っていなかった。大量のチキンも、半分ほどには減ったが、それでもまだ余っている。値下げしようにも、他店に在庫の一部を受け取ってもらおうにも、その許可を出せる店長とは電話がつながらない。しかも今日は月曜日、ケーキの消費期限当日。今日中に売らないと、自腹を切らされる。
「今日はもう平日だから、さすがに出ないとおかしい。電話しましょう、店長に」
僕は塩谷さんに提案する。
百回近く電話をしてようやく出る店長。
『おい! しつけぇぞ! 金曜日も土曜日も日曜日も何度も電話してきやがって! クリスマスなんだぞ!』
その怒鳴り声が、電話越しに僕にまで聞こえてくる。
「ケーキ一つも売れないんです、チキンも余っています。店長に値下げの許可と他店への協力を依頼する許可を頂きたく」
『どちらもならん! 売れないのはお前たちがサボっていたからだろ! なんでそれを俺が尻拭いせねばならんのだ!』
「サボってたって、現場に来ていない、店長に、一体、何が……」
こちらに背を向け、肩を小さく震わせる塩谷さん。
「すみません、その言い方はないんじゃないですか」
気が付けば、僕は電話を奪っていた。
『なんだ、ただのバイトの癖に、店長に指図するのか? 店の方針はバイトリーダーとこの私店長が相談して決めるものだ、バイトごときが指図するな』
「それでも、111個ものケーキを売り切れというノルマを勝手に設定して、できなかったら自腹で買えとかできるわけないじゃないですか! どうしてもというなら、然るべきところに相談させていただくことも検討していますが」
『くっ……バイトの癖に生意気な……よかろう、値下げを許可する。ただし半額までだ。それ以上の値下げは許されん。それと、他店に協力を依頼することを禁ずる。これは店長命令だ。これでいいな?』
「なぜ他店への協力依頼がダメなんですか? こんな量抱え込んでも」
『うるさい! これは店長命令だと言っただろう! 店長命令は絶対なのだ! それに、佐藤、とか言ったな、値引きは許可してやったのだそこまで大口を叩いたのだ、売り切れなかったら、覚悟はできてるんだろうな? そこんとこよく――』
この店長、他店への協力依頼は是が非でも認めないらしい。この店長の性格だ。これ以上いくら押しても譲歩は見込めないだろう。
「分かりました、仕事があるのでこれで失礼します。では」
おいまだ話は、という声を通話終了ボタンで切断する。
「塩谷さん、半額まで値下げしていいって。協力、してくれますか?」
振り返った塩谷さんは、目の下を赤く腫らしながらこう言った。
「あったり前でしょ!」
ここから僕たちの、人生で一番長い26日が幕を開けた。
◇◇◇
「で、どうするのこれ?」
塩谷さんは、冷たい場所に山積みにされているケーキを指さす。通行の邪魔にならないように天高く積まれたケーキは、天井にまで達していた。
「とりあえず半額にしよう。半額セールをすれば、何か変わるかもしれない」
早速僕は宣伝用の張り紙を作成する。
「こんなもん、か」
「どれ、見せて? 悪くないわね、でも、ちょっと貸してみて」
代わりにレジ行ってて、と言い残し、塩谷さんは奥に消えていく。
「おまたせ! こんな感じでどう?」
30分後戻ってきた彼女の手には、かわいいサンタがお辞儀しているアニメ風のイラストが描いてあった。
「これ塩谷さんが描いたのですか? 早すぎません? もしかして絵師さんとかですか?」
「全然そんなことないよ~」
謙遜する塩谷さんだったが、その絵のうまさと早さは尋常ではない。控えめに言っても神絵師と言ってもいいレベルだ。
「もしかして、今までこのお店に貼ってたクリスマスケーキの宣伝の張り紙のイラスト、あれ全部塩谷さんが?」
「ま、まあね~」
てっきり誰か外部に受注した張り紙かとばかり思っていた。まるでプロの絵師さんみたいだ。
「ささ、張った張った! 目立つところにお願いね!」
なんだか誤魔化されている気もしなくもないが、ともかく時は金なりだ。今はできることをするしかない。
「これ、写真撮って店舗公式しゃべったーに投稿してもいいですか?」
「公式しゃべったー? あー、そんなのあったわね確かに。でもフォロワーすっごく少ないよ?」
「任せてくださいって!」
僕は店舗にある端末で写真を撮ると、それを公式しゃべったーに投稿する。
「とはいっても、今までは全くいいねなんかつかなかったでしょ? フォロワーも2桁だし。どうすんのよこれ」
塩谷さんの心配ももっともだ。
「まあ、あまり期待しないで待ってましょう」
だが、その言葉とは裏腹に、僕には秘策があった。
「まあ、せいぜい期待させてもらうわね、佐藤君? じゃあ私もちょっと頑張るかぁ」
そう言い残すと、レジを僕に任せてまた奥に消える彼女。今度は何をするのだろう。
◇◇◇
「ど、どう……? に、似合う……?」
戻ってきた塩谷さんは……
「サ、サンタコス!?」
サンタコスを着てもじもじする塩谷さん。雪のような白い肌に、サンタコスの赤が良く映える。肩が出るデザインのせいで、いつもは意識しない体の細さが際立つ。ミニスカートからは、健康的で細い足がすくっと伸びていた。抱きしめたら折れてしまいそうなほど華奢な体。それとは裏腹に、二つの山がその存在を主張している。……というか大きくないか? いつも体のラインが分かりにくい服を着ていたのかもしれない、みかんほどに見えたその山は、今やメロンほどの大きさになっていた。こんな大きなメロンがどこに隠れていたのだろう。体のラインが出る服を着た彼女のギャップにやられて、僕は気絶しそうになる。
「うう、うるさい! 昨日の帰り、ペンギンホーテで買ってきたのよ。 わ、私だって、はず、かしい、んだから……」
顔を赤くして恥ずかしそうにする塩谷さん。かわいい。まじかわいい。グッジョブ、クリスマス。
「いや、あんまりにも似合ってたので、つい」
「わ、私のことはいいの! ほ、ほら、佐藤君のもあるんだから! 早く着替えてきて!」
そう言って突き出されたのは、トナカイのコスプレ服。昨日二つ買ってきたのだろう。後でお金渡さないと。
とはいえ、今までそういう目で見たことはなかった……とは言い切れないが、それでもほぼなかった塩谷さんのサンタコス。肩出しミニスカ巨乳サンタ。もう一度言おう。肩出しミニスカ巨乳サンタ。意識しないうちに目線が胸のブラックホール吸い寄せられる。
「……っ! どどど、どこ見てんのよ! いいから早く着替えてきて! いいから!」
そのまま奥の更衣室に押し込まれる。いいものも見れたし、僕も早く着替えて仕事に取り掛かろう。
「ん? 何だこれ」
ロッカーを開けると、僕のリュックの上に、見慣れない服が置いてあった。
「おかしいな、今朝来た時にはこんなもの無かったんだけど……」
一番上には、ゆるっとした茶色の縦セーターが置かれている。その下には白いブラウス。さらにその下には青いジーンズが置いてあった。一体こんなもの、誰が。誰かの忘れ物か? でも忘れ物を人のロッカーに入れるなんて、そんなことあるわけないし。
青いジーンズを取ると、見慣れないものが出てきた。黒くて、形は三角形。ロッカーの中は暗いので、良く見えないので取り出してみる。黒い三角形が二つ繋がった形から、ヒモが伸びている。黒い三角形は大きな膨らみがあって……。って、これは……!
ん、待てよ? 俺は冷静になって考え出す。今までここにいた人は俺と塩谷さんの二人だけ。店長も他のバイトの人も、今日は出勤していない。で、僕は朝このロッカーにリュックを置いた。その後に服を脱いだ人と言えば……。と、いうことは、これは、まさか、ひょっとすると……!
「どう? サイズあってるか分かんなかったから、とりあえずM買ってきたんだけど……」
入ってくる塩谷さんと目が合う。極限まで引き延ばされる僕の時間感覚。塩谷さんの目線がゆっくりと下がるのが分かる。その目線は、僕の手元の黒いモノまで下がると、ピタッと動きを止めた。時間が止まる。塩谷さんの耳が徐々に夕焼けのように赤く染まっていく。その夕焼けは、次にほっぺたに伝染し、ピンク色のほっぺがみるみる赤く染まっていった。
お互い発する言葉が浮かばなかったのだろう。辛うじて一言。
「あ」
「あ」
それからどれだけの時が流れただろう。永遠にも思われた沈黙の後。ついに時は動きだす。
「ななななな、なに、してるの、佐藤君」
「あ、え、いや、違っ、こ、これはですね、深~いわけが」
「そそそそそ、その、手に、持って、るのは、ももも、もしかして……わ、私の……」
「あ、いや、そ、その、えーっと」
「いいい、いつまで、持ってる、の」
「あ、あーですよねすぐ置きます!」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「こ、こここ、この、変態!!」
「わーーーっ、まてまて誤解! 誤解です! 誤解ですから~!」
この時他の客がいなくて本当に良かった、と心から思った。
「ご、ごめんなさい、私が、焦ってロッカー間違えちゃったみたいで」
「い、いや、こっちこそロッカーの鍵かけ忘れてたのが悪いんですし」
地べたに座り込む塩谷さんと俺。
「……そ、その、感想、は?」
か、感想!? ど、どう答えればいいんだ!?
「い、いや、塩谷さん、その……見かけによらず大きいんだな……って!」
あ、まずい。回答を間違えたかもしれない。彼女、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えながらこっちを睨んでくるんだが。
「あーいや、そうじゃなくて、顔が童顔なのに、黒とか大人っぽくて大胆だな……って!」
「っ!」
塩谷さんの顔が更に赤くなる。
「し、仕方なかったの! このサンタコス、肩出てるだなんて思ってなかったし……そのままだとヒモ見えちゃうし……ヒモなしのやつも持ってないしで、どうしようもなくて……」
「そ、そうなんですね……それは仕方な」
ん? 俺はふと気づいてしまう。着けてきたのはヒモありだったから、ここで脱いだ。でもヒモなしのは持って来ていない。つまり、今の彼女は……?
「あ」
彼女も、自分が何を口走ったか気づいたらしい。もう顔はゆでだこのように真っ赤で、いまにも湯気が出てきそうだ。
「……わ、わす、わす……れて……ね?」
そう言われても、あのサンタコスの下には、つまり、その、塩谷さんのメロンが、そのままの状態で――
「ち、ちょっと、なんとか言って!」
「は、はい!」
メロンに意識が持っていかれて、ぼーっとしてしまっていた。これはしばらくメロンは見れなさそうだ。見たら思い出してしまいそうで。
「わ、分かったら仕事の続きを……って、わ、わっ!」
慌てているときに急に立ち上がろうとしたからだろうか。足がもつれて倒れ込んでくる塩谷さん。俺も押されてそのまま後ろに倒れ込む。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
倒れ込んできた塩谷さんの顔は、俺の胸のあたりにある。その距離、わずか10センチ。
「…………」
「…………」
近い。息遣いが聞こえてくる。今まで女子とこんな距離になったことなんてないから、余計に。ふわりと嗅いだことのないシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。その匂いが麻酔のように、僕の思考力を奪っていく。シルクのようにサラサラした髪が、少しずつ背中から滑り落ちていく。髪が滑り落ちることで顔を覗かせる、真っ赤に染まった耳。それと同じくらい真っ赤に染まったほっぺと、そこからかすかに生えているうぶ毛。整った眉の下にある俯きがちな瞳はキラキラと輝いていて、長いまつげがそれを引き立てる。すっと通った鼻筋の下にある唇は柔らかそうで、リップのせいか瑞々しい輝きを放っていた。
ふと下腹部に柔らかいものを感じる。
「……!」
今の彼女は、ヒモが見えるのが嫌で脱いでいる。そしてヒモなしのものもしていない。つまり、サンタコスの布一枚隔てた先には、彼女のメロンがそのままの状態であるのだ。メロン、否、これはメロンではない。メロンはこんなに柔らかくない。マシュマロのような、適度に弾力のある柔らかさが、僕の下腹部に当たっている。メロンのような大きさの、マシュマロのような柔らかさをした、何か。
ドク。ドク。ドク。ドク。ドク。
心臓の音が聞こえる。この音は、僕のなのか。それとも、彼女のなのか。あるいは。
「……、ど、どいてよ」
瑞々しい唇が少し動いて言の葉を紡ぐ。
「そ、そっちこそ」
辛うじて僕が返せた言葉はこれだけだった。
◇◇◇
「わ、忘れなさいよね」
あの後僕もトナカイの服に着替え終わり、ようやく冷静さを取り戻した僕たちは、ケーキの売り込みを始める。
「すみません、ケーキ半額ってきいたんですけど、まだ残ってますか?」
一人のお客さんが、来た。
「は、はい! まだございます! あ、いらっしゃいませ!」
ついにしゃべったーの宣伝が効き始めたのだ。
「ケーキ一つ、2500円になります……ありがとうございました、またお越しください! 次のお客様どうぞ! え、ケーキですか!? いえ、もちろんまだございます! いらっしゃいませ!」
レジで接客をする塩谷さんの声は、跳ねるように明るい。
「ち、ちょっと、どういうことなのよこれ! 昨日まで全然売れなかったのに、今日になって急にお客さんが沢山……これもしかして、しゃべったーの?」
お客さんの波が途切れた隙に話しかけてきた塩谷さん。その手は、店舗公式しゃべったーを開こうとしていた。
「え、5万いいねに10万RT!? これがバズるってことなの!? でもフォロワーが2桁なのにどうして!?」
「どうでしょう、きっと頑張ってる僕たちに、神様が協力してくれたんですよ。あ、次のお客さんが来ましたよ!」
しゃべったーでバズるのは難しい。特にフォロワーの少ないアカウントでいいものを出してもバズらない。この残酷な現実は、僕がよく知っていることだ。ただ実は、僕はしゃべったー廃人、いわゆる「しゃべ廃」だったのだ。アニメキャラの誕生日がある度に「誕生祭ツイート」をハッシュタグをつけてする上、同じ趣味や推しの人と相互フォローになって行った結果、僕のフォロワーは十万人を超えている。僕はあのとき、店舗公式しゃべったーでケーキ半額のことを発信した後、僕のアカウントでそれをRTしたのだ。僕がRTすることによって、ケーキ半額のニュースは一気に十万人以上の目に触れることになる。そうすれば、近い人が誰か買いに来てくれるだろう。しゃべ廃だったことが、まさかこんなことに活きるとは思わなかったけど。
「いらっしゃいませ! はい、ケーキですね! 一つ半額の2500円になります!」
聞えてくる彼女の声も明るい。
「ねえ、もう20個も売れたのよ! すごい、こんなことが本当に起こるなんて! 奇跡みたい!」
とはいえ、まだまだ油断はできない。現在昼の2時。時間帯的に、ここから売れ行きは下がっていく。もちろん仕事終わり、夜ご飯前後にはさらにお客さんが増えるだろうが、現在の売れ行きは20個。これまでのことを考えると絶好調だが、あと在庫は90個近く残っている。このままでは、きっと売れ残る。それにチキンのこともある。あれも半額にして売ったおかげで売れ行きは好調だが、まだ残っている。
「よし、こうなれば……」
きっとこの作戦が上手くいけば、売り切れる可能性もグッと上がるはずだ!
◇◇◇
『ダメだ』
店長から聞こえた声は、想定した中で最悪のものだった。
『そもそも電話するなと言っただろう! 留守番電話に「ケーキが売れました、お話があります」とかあるから出てみれば、何? ケーキとチキンをセットで売る代わりに、さらに値引きさせろ、だと!?』
「ですが店長、ケーキが20個売れたのは佐藤君おかげです。そして、この作戦も佐藤君が考えたものです。私のことを信用しないのは構いませんが、佐藤君のことは信じてあげてください!」
塩谷さん……。今までとは違い、彼女は一歩も引きさがっていなかった。
『あのバイトのことか? ならん。 だいたいお前はバイトに構い過ぎなのだ。バイトなど所詮消耗品、代わりなどたくさんいる。どうせたまたま一度上手く行ったからと言って図に乗っているんだろう』
「ですが!」
『そして、代わりがいると言ったのはお前も同じだ、塩谷。バイトリーダーといえど、店長に逆らうとどうなるか、分かっていないわけではあるまい?』
「それでも、です!」
熱を込めた彼女の言葉は、それでも届かない。
『とにかく、ダメだ! 塩谷、お前は知っているだろうが、この店の売り上げはよくない。これも全てお前たちバイトが俺の足を引っ張っているからにすぎん! このままではこの店は潰れる、そうすれば俺の経歴にも傷がつきかねん。お前たちが怠けているせいで、この店が潰れるんだぞ!』
店が潰れる、という言葉にビクッと反応する塩谷さん。
「わ、わた……」
『ん? なんだ文句があるなら言ってみろ』
「私は、クビになっても、いい、ので、このお店だけは……」
下唇を噛みしめている。今にも血が流れそうなほど、強く。
『そう思うならしっかり働け! いいか、もしそのケーキを売り捌ければこの店の評判も、ひいては私の評判も上がる。でももし万一捌けなければ、この店は潰れ、私の経歴にも泥が塗られる。なぜだ? ケーキを売り捌けなかったお前たちのせいで、だ! この店を潰した責任を負いたくなければ今すぐ対策を考えろ! ただし値下げはならん、そうすればお前たちをクビにするからな!』
塩谷さんは俯いたまま黙っている。もう我慢できない。店長にはバイトリーダー自身が連絡しなければならず、今回は店長の機嫌を損ねるわけにはいかないので黙っていたが、もう我慢の限界だ。僕が電話を奪って直接店長に――
『おい、何とか言ったら』
ブツッ。店長の話の途中で電話を切る塩谷さん。
「割引、しよう」
塩谷さんはそう告げた。目に悔し涙を浮かべながら、それでも、笑顔で。
「……いいんですか?」
「いいの! これは私が決めたこと、私がバイトリーダーの権限を使って独断でやったこと。佐藤君は関係ないわ」
「なんでそう一人で抱えこもうとするんですか!」
「佐藤君には、分からないよ」
塩谷さんは、泣いていた。
「私がこのお店に、どれだけ思い入れがあるかなんて。私はこのお店に潰れて欲しくない。だから、たとえ私がクビになったとしても、このお店は潰させない」
キッと僕を睨む。その決意に満ちた目を見て、一体何が言えるだろうか。
「割引、いくらにすればいい?」
「え、えっと……ケーキが5000円の半額で2500円、チキンが300円の半額で150円ですよね。それなら、ケーキを今買うと、もれなくチキンが2個付いてくる、とかすればどうでしょうか。1個だとケーキを買って友達とシェアしようって人がためらうかもしれませんし、ここは2個セットで」
「分かった、そうするね。お店のしゃべったーでまたそれ投稿しといてくれると嬉しいわ。佐藤君はまた客寄せお願いね」
そう言うと、彼女はレジに向かっていった。
「いらっしゃいませ。こちら3点で587円になります」
何か、まずいことを言ったのかもしれない。でも、彼女は聞いても何も言ってくれなかった。
◇◇◇
「私5時から、外で呼び込みするね。そのまま売り切れるまでずっと客寄せするから、レジはよろしく」
それだけ言い残して立ち去ろうとする塩谷さん。
「ちょっと待ってくださいよ! 1時間交代って決めたでしょう! それに今日は外が凄く寒いんですよ、夜は特に水道管が凍るくらいとかニュースで」
「水道管が凍るくらい何よ! 売らないと、この店が潰れるの! それだけは、絶対にさせたくない。元から客寄せは私一人でするつもりだったの。こういうのって、女子の方が人集まりやすいし。だからあえて客受けがよさそうなサンタコスを買ってきた。……まぁここまで露出が多いとは思ってなかったけど……」
何だよ、それ。全部一人で抱え込んむつもりだったのかよ……。
「佐藤君が1時間交代って言って聞かなかったからあのときは受け入れたけど、もうそんなこと言ってる余裕はない。昼の2時から3時間もたつのに、減ったのはたったの6個。在庫が91個から85個に変わったところで、大差ないのよ」
「でも、それだと塩谷さんが」
「じゃあ、何か案でもあるの?」
「……」
正直、もう打てる手は打った。これで打ち止めだ。確かに男の僕よりも、女子の塩谷さんが客寄せをしたほうが受けはいい。それはそうなのだが……。
「でも!」
「案がないならそうするわ。私はこのお店を潰したくないの。その気持ちは、きっと誰にも分からない。じゃああと、レジよろしく」
「まって、せめてコートを着て」
「コート着たら、露出多めのサンタ服にした意味がないでしょ?」
「じゃあカイロを」
「いらない」
そう言い残して、今度こそ彼女は外に出て行った。
◇◇◇
(塩谷冬美視点)
「ケーキが半額の2500円、なんと今ならお値段かわらずチキンも2個付いてくる!」、という投稿のおかげで、売れ行きは昼間以上に絶好調。投稿してすぐにRTしてくれる人がいて、その人が十万人以上のフォロワーがいる超大手の人だったから、ってのもあるのかもしれない。またもすごい勢いで拡散された投稿は、確実にお客さんを呼んでいた。お店の外にサンタコスの女子がいたことも功を奏したのかもしれない。夜5時の段階で残り85個あったケーキは、夜11時の時点でなんと残り10個にまで減った。もはや奇跡としか言えない。
でも、私達の間でそれを喜ぶ会話はない。朝作ったクリスマスケーキの半額の張り紙、そこに書いている可愛らしいサンタの明るいイラストが、かえって胸に突き刺さる。
でも、このお店を潰すわけにはいかない。絶対に。
そんなときだった。
「きゃああああ!」
突如、3人のおじさんに絡まれる。酒臭っ! 何? 酔っ払い?
「お嬢ちゃんかわいいね! 何してんの?」
「どこのお店よ、これからお兄ちゃんが行って遊んであげようか?」
「そのサンタコスかわいいね、これは誘ってるんだよね?」
この人たち、私は今それどころじゃないのに!
「ち、違います。私はここのコンビニの店員です。今ケーキを半額で売っていて」
何とか距離を取ろうとするが、3人に囲まれてしまう。
「ってか胸でっか! いい体してんじゃん~」
「ケーキ売ってんの! マッチ売りの少女ならぬ、ケーキ売りのサンタってか?」
「ケーキなら何個でも買ってやるからよぉ、その代わりに俺らといいことしない? てかどこ住み? NINEやってる?」
「っ!」
思わず声が漏れる。今は夜の11時。あと1時間で10個は、売れるかどうか怪しい。10個売れ残るだけでも、5万円の損失。金額自体はだいぶ抑えられたけど、ケーキの誤発注によって損失が出た、なんてなったらこのお店が潰れかねない。その危険性があるなら……。
「ケーキ、買って、くれるんですか……?」
「あぁ、俺らと遊んでくれるならな。じゃあそういうことで――」
「どうですか? お客さんは集まりました?」
そこに現れたのは、トナカイ姿の佐藤君だった。
「あ? なんだこのガキ」
「俺らに何か用?」
「もしかして、ケンカ売ってんの? 俺らに? ここいらじゃ最強っていわれてるんだけど」
やばい、ただの不良じゃない! ヤンキー? ヤクザ? 暴力団?
「あなたは店のレジを」
「いや、ごめんなさい、あなたのシフト時間過ぎてたの忘れてまして。早く帰らないと怒られるんじゃないのかな、って。警察官のお父さんに」
警察官? 私の親は普通の会社員よ? 佐藤君何を言って――
「サ、サツ、だと……?」
「おいおい、サツがお父さんって、こいつまさか……」
「ままままて、サツの娘がコンビニバイトなんかするか? おおお落ち着け」
こいつら、あからさまに動揺してる。もしかして、佐藤君――
「そうなんですよ! なにしろ警視庁の偉い人らしくって『娘に社会経験を積ませたい』とかでコンビニのバイトさせてるらしいですよ? 立派ですよね!」
笑って告げる佐藤君。しかし口調とは裏腹に、その目は全く笑っていない。
「おおお、おう、そうか、そりゃあ立派なお父様だな! そ、尊敬しちゃうぜ……」
「あーーー、そういえば用事があったんだった。わりぃな、そんじゃ俺らはこれで」
「あっ、ちょっと、先に逃げないで下さいよアニキ~」
逃げ帰っていく三人。
そんな三人が逃げていく様子を見ていると、頭に温かい感触を感じる。
「ったく、気を付けてくださいね。可愛い人がこんなことをやってたら、変な男が寄ってきますよ。一度中に入りましょう」
その温かい感触は、ぽんぽんと2、3回頭を撫でている。
「っ!」
変な声が出そうになった。その温かい感触が、私の手をいきなり掴んだから。今まで、そんな経験なんてなかったし。
私はその温かい感触にひかれて、そのままお店の中に戻って行った。
◇◇◇
「もう、危ないじゃないですか! なんとか逃げ帰ってくれましたけど、あれで帰らなかったらどうするんですか!」
危ない、もう少しで連れ去られるところだった。店の中から悲鳴が聞こえて慌てて飛び出すと、塩谷さんが不良に絡まれていた。何とかハッタリをかませて追い払ったが、ケンカになれば僕が勝てる自信はない。というかほぼ負ける。
「ごめんなさい、僕のせいで」
僕は良かれと思ってケーキの半額を提案した。良かれと思って投稿されたそのニュースを拡散した。でも、十万人もフォロワーがいるのだ。そのどこかに、おかしな奴が紛れていてもおかしくない。こいつらも、もしかしたら、その投稿を見てここに来たのかもしれない。
「あり、がと」
塩谷さんの声がする。
「いえ、元はと言えば僕が悪いんです。僕が宣伝の投稿をRTしたりしなければ。もしかしたら僕のフォロワーの中に、さっきのやつらがいたのかもしれない。だから、本当に、ごめんなさい!」
頭を下げる。こんなくらいなら、RTなんてしなければよかった。不良、下手をすればヤクザや暴力団に絡まれていたのだ。怖くないはずがない。正直、僕の足も震えていたくらいなのだから。塩谷さんの心に残った傷は、いくら僕が謝っても癒えるものではない。
「いえ、彼らはたぶん違うと思います。私を、その、ふ、ふう、風俗、関係の人だと勘違いしていたようで……それより!」
頬を染めた彼女が、僕の目を見る。
「あの、投稿RTしてくれたの、佐藤君、だったんですか?」
じっと見つめられる。その目には、温かさが戻っていた。
「あ、はい。僕、しゃべ廃なので、役に立てば、と思いまして」
「そう、だったんですね……本当に、本当に、ありがとう、ございます!」
涙を詰まらせる彼女。いや、そんな泣かれるようなことをした覚えはないのだが……。むしろしゃべ廃からすれば当たり前のことでもある。
「このコンビニ潰したくない理由ね、実は昔、男の子と約束をした思い出の場所なの」
彼女の目は、遠くを見つめている。
「昔々、小学校に入りたてくらいの頃、一緒によく遊んでた男の子がいたの。近所の犬に吠えられて泣いてた私を庇ってくれて、そこから私、その男の子のことが好きになっちゃって。だけど、親の都合で引っ越しすることになっちゃったみたいでね。バレンタインの意味もよく分からない私に、このコンビニでチロルチョコを買ってくれたわ。握りしめた貰いたてのお小遣いでね。そしてこう言ったの」
「――大きくなってまた会えたら、結婚しよう、って。」
「もちろん、ただの子供の言うことよ、そんなの、今でも相手が覚えてるなんて思ってない。ただのひと時の、まるで夢のようなこと」
その儚そうな眼差しの瞳からは、それでも。
「もう十年以上も昔のことなのにね……。でもね」
昔のこととは思えないほどに。
「忘れられなかったんだ、私」
感情が形になって溢れ出していた。
「ごめんね、バカだよね私。苗字しか覚えてない、名前ももう思い出せないのに。でも、この場所が潰れると、その男の子との繋がりが無くなっちゃう気がして」
……そう、だったのか。
「周りに言っても馬鹿にされるだけだったし、誰も気持ちわかってくれない。本当はそれが正しいって分かってるんですけど、それでも」
彼女の姿が、滲み始める。
「絶対に潰れて欲しくなかったの、このコンビニ」
そう言って、彼女は切なく笑いかける。
「その子の苗字はね――神谷君。」
「――神谷、優真」
「えっ……?」
「その人の名前は、神谷優真です」
「昔、両親が離婚しました。父親の不倫が原因だったらしいです。離婚した時に、引っ越しもしたみたいで。母親の旧姓が、今の苗字の佐藤。結婚していた時の苗字は」
塩谷さんの目がみるみる大きく見開かれていく。
「え、じゃあ、もしかして……」
「コンビニの約束、忘れたことなんてなかったよ」
「うそ、そんな……」
「僕も名前どころか、苗字まで忘れていて、本当にごめんなさい」
「まさか、あなた……」
「……迎えに来たよ、塩谷さん」
「神谷君……」
彼女の輪郭がぼやけている。彼女もそうなのかもしれない。それでも、僕が、僕たちが、その相手の輪郭を、間違えることはなかった。
「神谷君……神谷君。神谷君、神谷君!!」
お互いの手は相手の輪郭を掴むように。十年以上も固く凍り付いた雪を溶かすように。
その唇は、相手の紡ぐ寂しさを塞ぐように……。
「すみませーん、誰かいますか?」
お客さんの声がする。
「行こっか。お客さん来ちゃったね」
僕たちは、またコンビニに戻る。約束のコンビニに。
◇◇◇
「ついにあと1個だよ!」
ここまで来た。後は売るしかない。
でも。
「あ、12時」
塩谷さんの声につられて時計を見ると、ちょうど夜中の12時を指していた。
「1個、売れなかったね」
彼女の呟きにはもう、悲しさは含まれていなかった。
「いいや、売れましたよ」
僕はそう言うと、驚く彼女のいるレジの向こう側に回る。
「すみません、ケーキ一つ、まだありますか?」
「あ……はい、ございますよ。ちょうど最後の1個です。お買い上げになられますか?」
「お願いします。大事な人への、大事なプレゼントなので」
「そうでしたか。……残っていて、良かったですね」
「えぇ、他の人に先に取られていなくて、本当に良かった」
「きっと……きっとこのケーキも、あなたをずっと待っていたと思いますよ。その……」
そこまで言うと、レジにいる美少女の店員は言葉を詰まらせる。
少しの沈黙。その後に、彼女はこう続けた。
「……このケーキは、このコンビニの中で、ずっとあなたを待ってたんですよ。冷たい冷蔵室の中で。……大切に食べて、くれますか?」
僕はまるでイチゴのように真っ赤に染まった彼女の顔の、イルミネーションのように輝く目を見て、こう告げる。
「ええ、もちろん。大切にします」
◇◇◇
あれから1年。
あのクリスマスの一件のあと、霧納(むのう)店長はクビになった。何でも、たまたま通りがかった会社の社長が店長のブラックぶりを見ていたらしい。悪いことはできないな。
その後塩谷さんが店長に、僕がバイトリーダーになってるけど、僕たちの関係は変わらなかった。
「クリスマス、私とずっと一緒にいて、くれませんか?」
クリスマスイブの昼休み、僕、佐藤優真は美少女に声をかけられる。
流れるような艶のある黒髪、童顔気味の顔に、青みがかるほどの黒い瞳。ちょこんとした鼻に、柔らかそうな唇。透き通るような肌に、ほんのり赤く染まったほっぺ。そんな清楚さとは裏腹に、服の上からでも分かる膨らみがその存在をささやかに主張している。
そんな誰もが振り返るような美少女の、涙目で上目遣いのお願い。
僕の答えは、決まっていた。
残り物たちのクリスマス 獅子男レオ(ししおれお) @ShiShio_Leo
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