第34話

 ――……気まずい。


 何故、こうなったのだっけ。ナツは今日の出来事を反復する。

 確か、ソラに何かを言われて、それが嫌で、無我夢中になって院内を走っていたらなんの因果かその彼の母親に出会った。そして今――。


「坊や、お茶は美味しいかしら?」


 何故かお茶を戴いていた。


「はあ……まあ、美味しい、です」


「そう。そういえばあなた、息子のソラのお友達の夏人くんでしょう?」


「……まあ、そうなるんですかね……」


 いつの間に僕は彼の友達になったのだろう。とナツは割と本気で考える。


「あの子、好奇心旺盛だから、勝手に友達だなんて言ってるのかもしれないわね」


「……。いえ」


「……。汗、凄いわねえ」


 額に手を添えられ汗を拭われる。無意識下ではあったようでナツは沙世子のことを見つめていた。彼女は不思議そうに首をかしげていた。


「? 私の顔に何かついていたかしら?」


「いえっ、……すみません。えと、お母さんってこういう感じなのかなと思って」


「お母さん?」


「……僕の母は、僕より、ピアノを優先するような、妹しか見ていないような人なので」


 そう。あの人は僕のことなんて見ていない。自分よりもその才能しか見ていない。今までも、これからも。口にしていても、どうしてだか悲しいとは思わない。ナツはそれが普通だと思っていた。


「……そう。でもきっと夏人くんのお母様は、あなたのこと、とても愛してくれていると思うわ」


「信じないです。そんなの」


「今は信じられなくてもいいと思う。でもね、いつまでもその人のことを否定していてはダメ。自分まで否定してしまうことになるから」


 その言葉は不思議なことにすとんとナツの心を落ち着かせた。

 沙世子とのお茶会も終わり、心の整理も付いたところでナツは病室に戻ることにした。

 戻るとそこにはまだソラが残っていた、ということはなかった。残っていてほしかったのだろうか、と心に聞いてみるが答えはない。ただ、ベッドの上にはケンカをした原因の音楽会のチラシがそのまま置きっ放しになっていた。


 ――いつまでも否定していてはいけない。

 ――それは自分をも否定することになる。


 自分の好きなものさえも、母親の所為で否定してしまうことになる。

 それはきっとダメなことなのだ。自分を見失うことは、絶対に。


「……はあ。僕も甘いな。教えるのだけだよ」


 ナツはチラシを取り上げ、ふっと笑った。


 3日後、ソラがやってきているとの話を聞いた。ナツ本人が直接会ったわけでも見たわけでもない。看護師の青山から聞いたのだ。なんでも「君の病室の前をうろうろしていたんだけど、何かあった? なんだか気まずそうだったけど」とのこと。

 きっとあの時のことを気にしているのだろう。だからナツは沙世子の元へ行き、ソラが来ることを信じて待った。


「どうしてここなのかしら?」


「ソラくんは沙世子さんの言葉なら、なんだって聞くでしょ?」


「そういうことね」


 沙世子の協力の元、ナツはソラを呼び出した。数分後、コンコンとノックされ、そのドアがゆっくりと開く。ソラである。やはりあの時のことで思い悩んでいるのか、彼はしゅんとうなだれていた。その姿はまるで捨てられた子犬のようでナツは思わず吹き出しそうになった。(ちなみにナツは今、沙世子の後ろのカーテン裏に隠れている)


「何……お母さん」


「少し顔を見たくなっただけよ。ふふ、私の可愛い子」


「そ、そんなの今日じゃなくても」


「照れなくてもいいじゃない。それと……」


「ねぇ、どうしてそんなにうなだれてるわけ」


 突然出てきた、ここにいるはずの無いナツを見てソラは口をあんぐりと開けてナツを指さした。正当な反応である。はっと我に返ったソラは気まずいのか沙世子の後ろに隠れてしまった。


「ど、どうしてお兄ちゃんがお母さんといるの……?」


「ひょんなことからナツくんとお友達になったのよ~」


「じゃないでしょう。これ!」


「演奏会のチラシ?」


「僕の病室に忘れていったでしょう」


「ご、ごめん! 嫌がってたの知ってたのにぼくが無理やり誘ったから……。もうお願いしないよ」


 とても反省しているようだった。なんで君はそんなに素直なんだと、少しだけ腹が立ったがそこは目をつむるとしよう。ソラはチラシを取り返そうと手を伸ばした。

 しかしナツはチラシを渡さずに再びソラの目の前に突き付ける。


「気が変わった。いいよ」


「え?」


「演奏会までの1週間、君の練習に付き合ってあげても」


「ほ、本当⁉」


「ただし条件。僕が練習に付き合うのは1週間だけ。それ以上は、やらない」


 ――そう。ただの1週間。1週間だ。


 その1週間だけ、ナツは自分を否定しないことを自分に約束した。


 そんなこともあったものだとナツは回想から意識を現実へと戻す。今思えば彼の母である沙世子には随分と救われたものだ。

 『月の光』はナツ自身が好きだった曲であり、そして沙世子の好きな曲でもあった。あの日歌っていたのがこの曲の鼻歌であったと気付いたのは少し後の話だ。

 思えばあの時仲良くしていたは、きっと幼い頃のソラだろう。色々あって結局入院先が変わったから、当時10歳くらいだった彼は、あの時のお兄ちゃんが『星川夏人ナツ』だとは気付くことはないだろう。


「……。あ」


 急に気分が悪くなる。と同時に咳が込み上げてくる。まずいと思いナツは急いでトイレに駆け込む。出すものを全て出してしまおう。そうすれば大丈夫だ。


「げほっ、こほっ……。ははっ、本当、嫌になっちゃうなぁ……」


 吐き出したものに、血が混じっていた。医療ドラマやバトルマンガでしか見たことが無いものを実際に見てしまうと萎える他無い。勘弁してくれと思うばかりである。


「あと、少しだけでいいから……。せめてみんなと花火に行くまでは、生きないとね」

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