第33話

 次の日は雨が降っていた。運が悪く、その日は熱が出ており中々の高熱の為、点滴にて解熱をしているものの体が重いことには変わりない。ナツは憂鬱な気分だった。


 ――ああ、早く雨なんて止んでくれないかな。ソラくんと約束したんだ。また遊んであげるって。


 情けないと思う感情が沸々と込み上げてくる。約束を守れないという罪悪感がより一層体を熱くさせた。

 コンコンと、病室のドアがノックされる。はい、と小さく返事をするとドアが開く。入室してきたのは担当医である魚波先生だった。


「夏人くん。調子はどうかな」


「……少しだるいけど、朝よりはマシ、です」


「そうか。それは良かった。このままあと2時間程すれば点滴は終わる。もう少しの辛抱だ、頑張れ」


 ふと、『魚波』という名字に引っ掛かりを覚える。気になったのでナツは思い切って魚波先生に質問を投げた。


「……うん。あ、先生」


「ん?」


「先生って子供いる?」


「どうした、突然」


「その子の名前ってソラくん?」


「……。そうだね。どうして急に? 息子にでも会ったのかい?」


「うん……。少し、似てると思った……」


 なんだか、喋るのもだるくなってきた。ひと眠りしようとナツは目をつむる。

 雨はまだ止む気配がない。

 いつの間にか眠っていたみたいで、次に目を覚ました時、雨は小降りになっていた。熱も大分だいぶ引いた気がする。

 コンコンとノックが奥で聞こえる。返事をするとドアを開ける音となんだかそろそろとした小さな足音がした。大人のそれとは違う音だった。少し重い身体を起こし閉まっていた部屋割りのカーテンをゆっくり開けてみる。


「ソラくん?」


「あ、ごめんね、起こしちゃった?」


「いや、今起きたところ……。それよりもどうしたのこんな時間に。夜の9時だよ? 面会時間とかって……」


「私が通したから問題は無い」


「魚波先生?」


「ソラ、10分だけだぞ」


「うん」


「夏人くん、すまないが少しの間だけ息子を見ていてくれないか?」


「え……。僕は別にいいけど……」


 自分の意思を言う暇もなくソラはナツの病室に置いていかれた。


「……どうして僕の病室なんだ……」


「……」


「どうしたの?」


「……お父さん、お母さんのお見舞いに行く時いつもぼくを誰かに預けていくんだ」


 その声はどこか寂しそうだった。ナツは次にどのような言葉を掛けてやればいいのか分からず考える。


「……君のお母さん、入院されてるの?」


「うん。病気のこと、ぼくはよくは知らないけど。あ、あのね! お母さん、昔ピアノの先生をやっていたんだよ!」


「――え?」


 だからなんだというのだ。ナツは、どういう顔をすればいいのか分からない。母親ともうまくいっていない自分に、いったいこの子供は何を求めているんだ。卑屈な考えがナツの頭の中を渦巻く。


「お兄ちゃん、今度お母さんに会って! お兄ちゃんのピアノを聞けば元気になると思うんだ!」


 『そんなことしたって』と言いたかった。だが、ソラの真剣な目に気圧けおされる。生きた目を、していた。ソラのその目の輝きを認めつつも、ナツは素直には彼の話を受けられなかった。

 自分がそうでないから。自分もそうでありたかったから。


「…………いいよ……」


「ほんと⁉ 指切りげんまん、だよ!」


 その笑顔が輝いて見えて、そして同時に憎らしく見えた。

 少しして、魚波先生が病室へ戻ってきた。戻ってきたその姿は既に父親となっていた。普段とは違う一面を垣間見ることができて、なんだか自分だけの秘密を持ったようでナツは嬉しくなった。


「じゃあ、また明日! ばいばいお兄ちゃん」


「うん。……“また、明日”……か」


 明日の約束はナツにとって生きる希望になる。生きてさえいれば本当に希望が持てる。不思議と心が軽くなった。


 ソラは、現在夏休みに入っているそうだ。入院をし始めて約1年が経過した今日こんにち。ナツの通っていた学校のことなど本人自身、今どうなっているのかなんて分からない。覚えていない。だからもうそんな時期かと思う。


「お兄ちゃん!」


 ある日の昼下がり。ソラがある1枚のチラシを持って病室へ遊びに来た。


「ソラくん。それは」


「これね、夏休み期間の病院のお祭り!」


「『山代総合病院音楽会』……何それ」


「出よう!」


「嫌だ」


「即答しないで~!」


 それは入院をしているこの大学病院で行われるイベントの1つで、小児科の子供たちが演奏会を行うのだという。ソラはその日、太陽のような眼差まなざしでナツを見た。


 ――僕は、ピアノから縁を切りたくて、切りたくてたまらないのに……。


 それでも手放し切れないのは母親のことが心に少しでも残っているからだろうか。


「……話、聞くだけなら」


「!」


 ソラはその顔をまた更に輝かせる。眩しい。この眩しさが苦手だ。


「あのね、この演奏会、ぼくも出るんだ。お母さんが見に来てくれるって言ってくれたんだ。でもぼく、ピアノ上手じゃないから……。お兄ちゃんと一緒に弾いたら上手に弾けると思って……」


 ――ああ、そういうこと。


 つまり、ピアノを練習してこの演奏会で成長した自分を母親に見せたいということだろう。自分と仲良くなったことだし、一緒に出てくれる子を探していたと言ったところでもあるだろうか。少しだけ胸がチリついたことに、ナツは非協力的な自分に――我ながら歪んでいる。と思った。


「……教えるのは別に構わないけど、僕は弾く気はないよ」


「えっ、なんで? もったいない」


「嫌いだから」


「……」


 ソラがナツから目を離さない。


「――じゃあどうしてあの時、楽しそうにピアノを弾いていたの?」


 その質問に一瞬ナツの思考が止まる。ショックだった。まるで心の中を覗かれて、触れられたような感覚になる。だって? 誰が? 僕が? 言葉を認識した途端、急に顔が熱くなる。これはなんという感情だろう。


「わ、かんない、だろ……。お前に僕の何が分かるんだよ‼」


 ナツは図星をつかれたことに対して初めて自分の感情を剥き出しにした。その声量に怒鳴られた(と思っている)ソラ以上に自分が驚いた。

 とにかく今はソラから1秒でも早く離れるべきだとナツの脳に信号が走る。そう思った瞬間にナツは病室から逃げ出した。


 ――怖い、怖い!


 認めることが怖い。もう何も考えたくない。何も聞きたくない。

 逃げられる場所まで逃げてしまいたかった。

 しかしこのボロボロの体ではそうは遠くへ行くことは叶わない。体力の限界と痛みで汗が引かない。

 気が付けば、ここがどこなのか分からない場所に来ていた。先程までは小児病棟だと思っていたが、いつの間にか外科病棟へと迷い込んできてしまったようだ。


 ――♪~♪~――


 どこからか歌が聞こえた。綺麗な女性の声だ。今まで聞いたことが無い、軽くて白くて透き通った音。なんの曲を歌っているのかまでは分からなかったが、落ち着く音だった。

 ナツはとても感動していた。こんな感覚は、初めての発表会で浴びたスポットライトを思い出す。気持ちのいい感覚だった。

 いったい誰が歌っているのだろう。部屋に貼り出されている名札を確認すると、急に愕然がくぜんとしてしまった。


「魚波、沙世子さよこ……」


 恐らく、というか絶対。先程怒鳴ってしまったソラの噂の『大好きな母親』であろう。少しだけドアが開いていた為、そこから歌が聞こえていたのだと思う。名前を呼ばれたと思われたのか部屋から聞こえていた歌が止まる。ゆっくりとドアが開くとそこにソラの母だと思われる女性が立っていた。

 彼女はとてもソラに似ていた。面影というか、顔は母親似なのだなと思った。ソラの母である沙世子はこちらを確認すると何やら不思議そうにナツを見つめた。その目はソラと同じだった。


「あら。どうしたの坊や? 何か、嫌なことでもあったのかしら?」


「……どうして……?」


「だってほら」


 沙世子は自身の目元に人差し指を置いた。ついその仕草を真似る。すると、水のようなものが頬についていることに気が付き、それが涙だということを認識した。


「……あ」


「そこにいると少し他の人の邪魔になってしまうから、良かったら私の部屋にいらして? ちょうど話し相手が欲しかったのよ」


 彼女から差し伸べられた手を、ナツは拒むことが出来ず、そのまま部屋へと邪魔する形となってしまった。

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