第3話
クリスマスまであと五日。リクエストもされないので、いつものように好きな曲を歌っていた。少し古い曲が多い。
「そろそろ時間じゃないか」
スマホで時刻を見る。七時二十五分。隣に座る風子は左手首の袖をめくった。白くて細い腕に華奢な腕時計が見える。
「本当だ! じゃあまたね、ルイ」
風子は立ち上がり、雑踏の中へ駆けて行った。騒がしいやつだ。
風子は毎日やってくるが、三十分ほどで帰る。それぐらいの時間で帰ってくれた方が気も楽だし、酔っ払いに絡まれたら面倒だ。
ふと隣を見ると、揃えられた赤い手袋が置かれていた。いつも風子がしている手袋だ。
「たく。このくそ寒いのに忘れるなよな」
俺は手袋を取って、盗まれないようギターを持ったまま走り出す。風子は駅とは反対側に向かった。ウェーブがかった長い髪の後ろ姿が見える。
「風……」
手袋を掲げて名前を呼ぼうとしたが、途中で止めた。風子だけではない。隣にはスーツを着た中年男性が隣を歩いていた。
隣の中年男性に話しかける横顔は間違いなく風子だ。二人は楽し気に話している。行く先はホテルが密集している通りだ。
俺は風子たちに背を向けた。
「どうせ、父親ってオチだろ」
そうつぶやくけれど、そうとは信じられなかった。
風子はいつも同じような時間に来て、決まった時間に去って行く。俺は長い時間あそこに立っているのだから、会いに来るならいつ来てもいいはずだ。
学校終わりに駅前までやって来て、あいつと会うまでの暇つぶしに俺の歌を聞いている。といった方がつじつまに合っている。
「まあ、何にしても俺には関係ない」
しかし、この日はもう歌う気にはなれなかった。
次の日は迷ったが、ギターケースを持って駅前にやって来た。ジャケットのポケットには、赤い手袋が入っている。返さないといけない。
いつもの場所にいつものようにギターケースを置く。ギターを取り出すけれど、やはり歌う気にはなれなくて植え込みの縁に座って、ポロポロと軽くかき鳴らす。
「ルイくん」
名前を呼ばれて顔を上げても誰だか分からなかった。
「ほら、彰くんと一緒に飲んだ。磯井です」
「ああ」
あのときのとは思ったが、また会うとは。なぜここに来たのだろうか。
「私、謝ろうと思って」
「……別に。謝って貰う必要なんてない」
喉から声が出て、随分尖っていると感じる。
「ううん。彰くんに聞いてルイくんのことが分かった」
何を言っているんだ、この女。一度、会っただけの女に何が分かるって言うんだ。
「ルイ。たい焼き売って、た……」
タイミングが悪いことに、風子が両手にたい焼きを持ってやって来た。驚いた表情をする磯井さんだが、すぐにキッと風子を睨む。
「なに、あなた。大事な話をしているんだけど」
「ちょっと、もういいから」
大事な話はしていない。それよりも早く去って欲しかった。
「ルイくんが貴方みたいな、軽薄な人を相手にするわけないじゃない。ルイくんは本来医学部の生徒なの。それも将来有望な」
勝手に暴露した女がこちらを振り向く。その眼はなぜか潤んでいた。
「ルイくん。私は分かっているから。お父さんが亡くなったばかりで、学業に集中できないんだよね。だけど、いくら歌ったってお父さんは帰ってこないよ」
どうして、そうずかずかと踏み込んでくるんだ。
聖女にでもなったつもりか。
「黙……」
黙れ。そう言おうとしたが、その前に俺の前を風子が横切った。
「勝手なことを言うな!」
「もがっ!」
風子は磯井さんの口にたい焼きを突っ込んだ。
「ルイを馬鹿にしないでよ! ルイが何のために歌っていたっていいじゃない!」
「ごほごほ。何すんのよ!」
「ルイだってお父さんの為に頑張ったんだもの! 今だって、お父さんのことを想っている! それなのに帰ってこないなんて、残酷なこと言わないで!」
「風子?」
真っ赤になって叫び散らした風子。肩でぜぇぜぇと息をしていた。
「信じられない! 親切で言ったのに! もう私に関わらないでよ!」
関わってきたのは自分なのに、磯井さんは肩を怒らせて去って行く。
「えっと、風子。俺のことを元から知っている様だったけれど」
俺が近づくと風子はびくりと肩を震わせた。
「え、えへへ」
笑って誤魔化しながら、風子は後ずさる。そのまま回れ右をした。
「あ! 風子!」
止める間もなく、風子は走り去ってしまった。
俺の親父はガンだった。大腸に出来た腫瘍が悪性で、分かったときにはかなり進行していた。俺が中学のときだ。
親父は音楽が好きだった。ギターを何本も持っていて、自分はなれなかったけれど俺にはプロになって欲しいと事あるごとに言う。俺は物心つく前からギターを触っていた。
でも自分で弾くより何より、親父の奏でる音が好きだった。
高校では軽音部に入るつもりだったが、親父の病気が発覚するとペンを取った。幸い頭の出来は悪くない。親父は勉強なんかするな、ギターを弾けと言うとんでもない親だったけれど、俺は止めなかった。
医者になって親父のガンを治療する。そう心に誓っていた。実際に現役で医学部に入学できて、奨学金も得ることも出来た。
けれど、間に合わなかった。
親父のガンは、他の器官に転移していたのだ。
そして今年の十月。親父は帰らぬ人になった。
元々、間に合うはずがなかったんだ。自分の愚かさを呪った。こんなことなら親父の好きな音楽の道を行けばよかった。後悔は俺をギターに向かわせる。毎夜、ギターを片手に駅前に立つようになった。
空に届くようにと、後悔を織り交ぜた自己満足の
電車に揺られながら、街の明かりを眺める。
どうして風子に伝わったのだろう。あれが鎮魂歌だと。
俺は目の前の観客に向けて歌ってはいなかった。いつだって、空にいるだろう親父に向けて歌っていた。それで、人が足を止めるわけない。
それでも、風子は真っ直ぐ俺の元に来た。親父の話をしたことは一度もない。
ふと、同じ電車の車両に風子と同じ紺色の制服を着た二人の女子高生が眼に入る。
「ちょっといい?」
俺はなるべく怪しくないように距離を置いて話しかけた。
「何ですか?」
少し警戒されたようだが、話をしてくれそうだ。
「同じ学校にいる風子って子知っている?」
かなりおかしな質問だ。怪しい人物だと思われそうだ。
しかし、すぐに反応があった。
「伊藤さん?」
風子の苗字は伊藤と言うのか。たまたま風子のことを知っている子たちのようだ。
「うちの学校では有名ですよ。同じ一年だけど、年上だって。なんでも大きな病気をしていたって」
「え……」
「違うクラスだし、知っているのはそれぐらいですけど」
降りる駅が来たので、お礼を言って外に出た。コンクリートの地面は寒々しく、吐く息は白い。同じ駅で降りた人々は早々と家路についたが、その場で立ち止まっていた。
風子は病気だった。接点は親父が入院していた病院しかない。だけど数年間の記憶を思い返してみても、どこにも風子の姿はなかった。
「あ。雪」
空から細雪が舞い落ちて来た。道理で寒いはずだ。暖を取ろうと自動販売機に近づく。風子に最初に貰った缶コーヒーも売られていた。小銭を入れてボタンを押すとガコンと音が鳴って缶が吐き出される。
もしも風子は俺のことを知っていたなら、どういう気持ちで話しかけてきたのだろう。いや、それより今後会いに来るのだろうか。
俺は一口コーヒーをあおる。
「苦ッ」
ブラックコーヒーはやはり俺には苦い。コーヒーで少しだけ温まると、俺はスマホを取り出して電話を掛けた。
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