サラリーマンの「真剣映画評論」
@masareds
第1話「ドライブ・マイ・カー 自分は演じているのか、いきているのかの迷宮」
この映画で狂おしい迷宮体験をしてしまった。三時間弱見続けているとある瞬間自分自身が「生きているのか演じているのか」の区別ができなくなり、私の頭は混乱した。私が「嘘くさくなく生きているのか」それとも会社員、夫、父親を「演じて生きているのか」、いや私自身の「生き方」すらも「演じていないか」と疑いだしのだ。
家福の夫婦関係が、まさにこのことを実証している。家福の妻はいい妻ではあるが、他の男と浮気を重ね、家福は、妻の行為を見てみぬふりを続けるのだ。家福は、妻を失いたくない一心でいい夫婦関係を「演じる」のだ。まさに「生きること」は「演じること」になっているのだ。その関係、行為を自分にフィードバックした時、「生きること」と「演じること」を明確に区別できるものなのかわからなくなる。「嘘くさくなく」だけでは、まっとうに生きてはいけないであろう。映画の役者の演技を見ていて自分が「演じる」という事を初めて考える体験をした。
妻を亡くした家福が、広島での公演のため広島に行く。その時から運転手としてみさきという女性が登場する。みさきは、若いのに腕利きの運転手である。ある時、家福と一緒にみさきが、赤いサーブで広島から北海道までひたすら走るうちに私は迷宮に入ってしまったようだ。そう私が冒頭の想いにかられたのは、みさきの故郷、全壊した家の上からの家福とみさきのシーンを見ていたまさにその時なのだ。
このシーンからさかのぼると、広島からサーブを運転するのが、家福からみさきに変わった。しかし、運転手が、何故みさきなのかは「謎」だ。「ドライブ・マイ・カー」、主体の変換。サーブを運転しているのは、みさきであり、家福は乗客であり、みさきにコントロールされている。乗客となった家福は、妻が浮気してたであろう大槻の存在もあり、徐々に妻との関係を曝け出していき、みさきの故郷でついに迷宮から脱け出す。みさきも母の二重人格、母を見捨てたことをぼつぼつと吐露して家福は、ワーニャ伯父さんよろしく、二人の悲劇を前向きにとらえようとし、みさきをしっかと抱きしめる。しかし、このみさきの告白が、迷宮の入口で「嘘くさい」と感じたのは、みさきの存在が「謎」であり家福を脱け殻にしたからだ。
この家福とみさきが語り合うシーンは、ただ物静かに台詞を言い合っているだけだ。しかし、家福がみさきの告白にのめりこんでいき自分を曝け出すのは、役者同士の、ある「爆発」が発生したのだ。この「爆発」によって私は、スクリーンに釘付けにさせられるのだ。それは、濵口監督の演出手法であり、ワーニャ伯父さんの公演の演出をした家福の演出方法と同様に台詞を役者に感情を出させないで棒読みさせ徹底的に台詞を役者の身体にしみこますのだ。演出家の家福自身もワーニャ伯父さんの台詞を妻に朗読させたカセットテープをいつも車の中で聞き、家福自身も台詞と一体化している。そうして演出し役者が実際演技をすると、しみこんだ台詞があふれ出し相対する役者との間で「爆発」という化学反応が起きるのだ。濵口監督は、この「爆発」を演技として定義しているのだろうし、映画として面白い現象、究極の演出・演技と定義しているのであろう。最初から役者がこうやって、ああやってという計算づくの演出ではなく、何が出てくるのか監督自身もわからない濵口監督の演出手法を初めて見た映画であったし、確かな驚きをもたらす演出手法であった。
映画の終幕。ある人がマーケットから出てきて駐車場には、韓国のナンバープレートをつけたあの赤いサーブと見たような犬。マーケットから出てきたのは、みさきだ。何故、みさきが韓国にいるのか。みさきは、ハンドルを握り頬の傷は消えていた。もう極地だ。何故、ラストにこのシーンが必要だったのかわからない。ただ観客に何かを想像してもらうために映画を作っているとしか思えない。濵口監督の作品を観るのは、今回が初めてだ。「さあ、あなた何がどうなっているのか想像してごらん」と濵口監督に耳元で囁かれ、私は映画館でなんと多様な迷宮に導かれ、ただただ打ち震えるしかできなかった。
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