14食
とりあえず、鼻の骨をへし折ってやる。
「何やってるのよ!! 離しなさい!! 憲兵を呼ぶわよ!!」
「……あぁ?」
ギルバートの髪を掴んで持ち上げたまま、太った男がこちらを振り向いた。憲兵という言葉で怯むかと期待したが、やはりダメか。
こちらに向けてにやりと笑った男の顔は、いつから風呂に入っていないのか、薄黒くぎとついた顔だった。
「おーおー、おかしなお嬢ちゃん。ママとパパに、こういう時は声をかけちゃダメって習わなかったのかなぁー?」
黙ってジュースの瓶を握りしめ、間合いを詰めた。狙うは顎先の一点のみ。一発で意識を奪わなければ、体格差的に私がこの男に勝つのは厳しい。
「こりゃ派手な髪と瞳だな。まあお前は娼館かな、この性格じゃあ貴族にクレーム付けられちまう。薬漬けにして人形にしちまうかぁ!」
ばじん、と音が聞こえたと思ったら地面に倒れていた。右頬に裏拳を叩き込まれたのだと気づいたのは、少し後。
その前に、立ち上がって男に殴りかかっていた。もう、騎士学校でも教えも何もない。ただ感情のままに動いた。
「ああああ!!」
「可愛くねえ声! こりゃダメだわ」
もう一度、男の手が上がる。だからなんだ、今度は殴られても殴り通してやる。覚悟しろ、クソヤロー。
「ぶげぇっ!!」
しかし、覚悟した衝撃はいつまで経っても来ず、振り抜いた私の拳も空ぶった。
おかしな姿勢で固まった私の目の前で、太った男はおかしな音と折れた歯を散らしながら、白目を向いて仰向けに倒れた。そのまま沈黙。
まさか、私の拳の余波で?
「はあっ、はあっ、……はあ、う゛、」
「ギルバート!!」
そんな馬鹿な思考は一瞬で吹っ飛び、ふらふらと覚束無い足取りで、それでも男一人を宙に浮かすほどの拳を振り抜いた姿勢のまま息を荒らげるギルバートに飛びついた。表情は銀の髪に隠れて見えないが、明らかに呼吸がおかしい。
「どうしたのよ!! ねえ、大丈夫!? あんたどうしてこんな奴に」
「……イザベル、はあ、ごめん、は、怪我」
「そんなのどうだっていい!! 私はあんたの事を言ってるの!!」
「……」
のぞき込んだギルバートの瞳が、グラグラと虚ろに揺れている。相変わらず呼吸は荒く、立っているのも覚束無い。
「ねえ、怪我してるの!? ねえ、ギルバート!! 答えて!!」
「……で」
「えっ!? なに、どうしたの?」
「見ないで」
それだけ言うと、ギルバートはずるずると座り込んでしまった。腕で抱えた膝に顔をうずめて、肩をゼェゼェと震わせて。
「……ごめんなさい、うるさくして。でもお願い、お医者様の所まで頑張って。ここにいちゃダメよ」
「……」
「ギルバート……」
そっとその肩に触れようとして。
気がついた。
よれたシャツに着いた、赤。
血の赤では無い。もっと、人工的で、目を貫くような。
女が口に塗る、紅の赤。
よくよく見ればギルバートのシャツのは皺だらけでボタンは数個飛んでなくなっているし、ズボンのベルトもない。キツい女物の香水の残り香が、こんな時でも美しい銀髪の至る所からした。
これは。
「……ごめんなさい、ごめんなさいギルバート。私、人を呼んでくる。私は絶対にあなたに触らないし、見ない。お医者様も男性をお呼びするわ、だから、だからほんの少しだけ待っていて」
「……」
今の季節、上着を着ていないのが恨めしい。ギルバートに、何もかけてあげられない。
「……待って。イザベル、待って」
「ええ、待つわ。私、あなたが言うまでここから動かないし、何も見ないわ」
「……」
ぐう、とギルバートの喉が鳴って、痛々しい嗚咽が聞こえた。ギルバートは、大きな体を縮こまらせ、小さく座り込んで泣いている。下手くそに、痛々しく、悲しく、静かに泣いている。
私はもう、どうにかなってしまいそうなほどに、頭の中も胸の奥も真っ赤に煮えたぎっていた。
ギルバートは、女に乱暴されたのだ。
きっと、女性には決して手を上げないギルバートの優しさに漬け込んで、その優しさを逆手にとって、卑しく汚く、ギルバートに好き勝手したのだ。
ギルバートはきっと、薬かなにか盛られている。それであんなにフラフラにされて、最後にはこんな路地に捨て置かれて、普段なら相手にもならないような男に髪を掴まれても抵抗出来なかったのだ。
どうして、やろうか。
「……イザベル、来て」
「ええ、行くわ。あなたが良いと言う所まで」
ぱっと真っ赤な思考をやめて、ゆっくりとギルバートに近づく。結局、ギルバートの隣にそっと座るまで、ギルバートは私を止めなかった。
「……イザベル。手、握っても、良い?」
「ええ。ギルバートが思うだけ」
ぎゅうう、と強く差し出した手を握られる。ちっとも痛くなかった。でも、ギルバートは顔を上げない。
「……イザベル」
「ええ。大丈夫よギルバート、ここには私たちしかいないわ」
「……気絶したおっさんもいるけどな」
「消すわ」
「……いいよ、俺がやっとく」
「いいの、いいのギルバート。私がやるから、全部私がやるから」
4日前まで、ギルバートは騒いでわめいて笑っていた。ドヤ顔で厨房に立ってレオと話して、当たり前のようにカウンター席に座って、夏休みの課題に追われていたのに。
「……でも、こいつイザベルのこと殴りやがった。俺、こいつが生きてると思うだけで、気がおかしくなりそうなんだ」
私もよ、私も気がおかしくなりそうなの。
「ごめん、イザベル。顔、触ってもいい?」
もちろん、あなたにしか触らせないわ。
「ごめん、腫れてる。それに、泣かせた。ごめんイザベル、ごめん」
違うの、泣いてないの。今のあなたの前で泣くなんて馬鹿なこと、絶対しないわ。
でも、怒りと悲しみで喉がおかしくなってしまって、声がでないの。目の奥が真っ赤に沸騰しているみたいで、何かが吹きこぼれて止まらないの。ごめんなさい、1度殴ってでもくれたら、すぐに直すから。
「早く冷やそう、イザベル、立てるか? 店はもう閉めたか? 嫌じゃなかったら、俺がおぶっていこうか? ごめんイザベル、俺、今日はハンカチ持ってなくて、服も手も汚れてて」
不安そうに、私の顔を覗きこんで瞳を揺らす。
なんで私を気遣ってるのよ、あほバート。
そっと握り返した大きな手を頬に持ってきて、濡れた目の周りを拭った。剣を握っていて皮が硬くなった手が、ひりひりと少しまぶたに痛かった。それだけが、私の心をほぐしていく。しかし、ギルバートが慌てている。
「イザベル! 汚いから! あと目を擦るな!」
「大丈夫よ、大丈夫。手、貸してくれてありがとう。それから、今日は私がギルバートの家まで送るわ。もうレオは帰っちゃったと思うから。嫌がられるかもしれないけど、私がお家の人に話を」
「いや、いい」
「え?」
「帰れないんだ、俺」
途端目を伏せ静かになったギルバートの、なんの感情も見えない顔を見て。
ざわざわざわ、と体の芯から何かが這いずりあがってくる。何か、何かとても良くない、予感が。
「……俺、逃げちゃったんだ。あの人から。だから、もう帰れない」
「あ、あの、人って……?」
ああ、やめて。お願い、だって、そんなのあんまりにも。
「オカーサマ。美しい物が好きな人」
じわりと、血の味がした。
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