第4話 鰍沢の秋祭り(一)

 秋は農村に神が舞い降りる季節である。

 農業がただ一つの基幹産業であった当時は、神の存在感は現代の我々とは比べものにならないくらい身近だった。

 農業の成果は天候によって大きく左右される。

 天候、それすなわち天であり、人為の及ばぬ神の領域である。

 作物の恵みは神によって与えられるのだ、と皆が神を畏敬していた。また現代と違って当時は、ちょっとした病気でも人は簡単に死ぬ。

 おのれの運命はすべて神が決める。

 人生とはそういうものだ、と人々は観念している。

 それだからこそ、農民たちは収穫の秋をむかえると、豊穣な恵みを与える神に感謝の祈りを捧げ、我を忘れて歓喜の宴を楽しむのだ。

 そして、おのれの運命を農業とは違ったかたちで神任せにする、つまり、一天地六のさいの目に身をあずける博打ばくち好きがちまたにあふれるのも、秋の農村の特色であった。


 甲州の秋は、特にその度合いが強かったという。

 例年八月と九月の二ヶ月間は「秋祭り」と称して甲州では連日、祭りがくり広げられた。旧暦の八月、九月はだいたい現在の九月、十月にあたる。

 もちろん丸々二ヶ月も一ヶ村で祭りを開いていたわけではない。各村ごとに祭日が異なり、そういった村々が遠方の親類縁者なども呼び寄せて数日、お祭り騒ぎをするのである。要するにこの二ヶ月間は、各地の村でてんでんばらばらに祭礼が開かれていたということだ。

 この状況は、秋祭りにあわせて賭場を開く博徒にとっては非常に都合が良い。

 秋祭りの期間中は甲州のどこかの村で連日祭りが開かれるかたちとなり、順番に回っていけばほとんどの祭りに参加して賭場を開けるからである。


 当然ながら代官は逆に、この状況を大いに嫌っていた。

 農民は祭礼期間、仕事を忘れて遊び回る。

「農民は農業にだけ打ち込んでいれば良いのだ」

 といった意識が強い代官からすると、農民たちが二ヶ月間も浮かれ遊ぶのは許しがたい。そのうえ「本来ご禁制である博打」が、秋祭りだけは「神事」なので特例扱いとして各地で大々的に開かれるのである。その陰で、無宿人や博徒といった「悪党ども」が博打のテラ銭で肥え太るのだ。代官がこの状況を許しがたいと思うのも、ある意味当然だろう。ちなみに明治以降になると、さすがに甲州の為政者もこの状況を野放しにはできず、祭日を天長節(明治節。明治天皇の誕生日である11月3日の祝日。現在の文化の日)に統一するなどして、秋祭りの分散を解消することになる。


 勝蔵は生粋の甲州男児である。

 ゆえに、この甲州人の因習を自然と身につけ、まるで空気を吸うかのような自然さで秋祭りの遊興を楽しんでいる。

 むろん、そこには博打も含まれる。ご禁制の博打が秋祭りの時だけ「神事」として半公認、いわば「お目こぼし」となるのだから、ここぞとばかりに遊び回っている。

「博打で一発当てて、大金をつかんでやる」

 といった気分で打つのとは、勝蔵の場合はちょっと違う。

 名主という分限者(富裕層)の家で育った勝蔵としては、そこまで金に対する貪欲な感情はない。あくまで「娯楽の一つとして楽しむ」といった感覚である。

 賭場で他人と張り合って勝敗を競う。つまり「勝って気持ち良くなりたい」という人間にとっての原始的な感情を満たすための娯楽である。相撲を取る感覚もこれに近いものがあるが、勝蔵にとって博打は肉体を使わずに相撲を取っているようなものだ。

 前にも述べたように、この当時は娯楽が極端に少ない。テレビ、パソコン、ゲーム、ラジオなどがある現代とは比較にならない。むしろ神に運命を委ねきっていた原始の時代に近い生活感覚である。人々はそういった状況の中で娯楽に飢えていたのだ。

 そして当時の人々は博打を、現代の我々が想像するほど悪いことだとは思っていなかった。

 いや。確かに幕府は「博打はご禁制である」として民衆を取り締まり、度重なる再犯の場合は遠島処分とするなど厳しい態度を示している。

 しかし博打を根絶するなど所詮不可能な話で、幕府も時には厳しく取り締まって何人か「見せしめ」として処罰はするものの、片っぱしからすべてを取り締まるようなことはしない。第一、役人としても、そんな仕事をするのは面倒くさい。特に甲州の場合、役人の評価は「租税の徴収をいかに成功させたか」ですべてが判断され、博打を摘発したところで評価の対象とはならないのだ。いきおい博打の取り締まりはゆるくなり、人々は娯楽の一つとして(いつ逮捕されるか分からないという多少のスリルを味わいながらも)博打を楽しんでいたのである。



 勝蔵はこの頃、よく遊んでいる。

 学問は元々それほどやる気もないし、実家の農作業の手伝いも秋祭りの季節になってからはかなり疎かになっている。甲州のあちこちでお祭り騒ぎがくり広げられているのだから仕事どころではないのだ。剣術道場には時々行くが、それも最近はちょっと足が遠のいている。

(どうも、遊び癖がついてしまったかな)

 そんな風に父の嘉兵衛は、勝蔵のことを心配している。確かに秋祭りの季節ぐらいは多少ハメを外してもそれを許すつもりでいるが今の息子の歩き回りは、博打の覚え始めとはいえ、やや度が過ぎている。

「こらっ!勝蔵、たまにはウチの仕事を手伝わんか!」

 と家で叱っても、目を離すとすぐに放れ駒のようにどこかへ飛んで行ってしまう。

 一つ年上の三郎左衛門は長男らしくしっかりと落ち着ており、家業を継ぐ覚悟を決めて脇目もふらず農業に打ち込んでいる。それが救いといえば救いではあるが、たった一つ年が違うだけでこうも兄弟で違ってしまうものか、と嘉兵衛は勝蔵の行く末に一抹の不安を感じている。

(武士になりたいと口癖のように言っているが、あいつの性格で本当に武士になれるかどうか……。いや、もし武士になれなかったとしても何か真っ当な生業に就いてくれれば、それはそれで親としては安心できる。しかしまさか、竹居たけい村の安五郎さんのようになるんじゃないだろうな……)



 その勝蔵は、この日、八反屋敷の賭場に向かっているところだった。

 屋敷に着いて門をくぐろうとすると、そのくぐった先に博徒とおぼしき連中が数人、ちょうど屋敷の中に入ろうとしているのが目に入った。

 その真ん中に、いかにも風格のある男がいて、周りの連中を威服させるかのように立っている。

 色白で背が高く、立派な羽織を着ている。歳の頃は三十代ぐらいか。目は細く鼻筋は通っている。多分どこかの博徒の親分だろう、と勝蔵は思った。


 勝蔵は賭場へ出るまえに武藤藤太のところへ顔を出してみた。そして先ほど見かけた博徒のことを尋ねてみた。

「ああ。それは竹居の安五郎親分だよ。今日はウチの親父と囲碁を打つためにやって来たんだ。竹居の親分は父上の囲碁仲間だからな」

「やはり、あれが竹居の安五郎親分だったのか……」

 勝蔵が竹居安五郎を見たのは、これが初めてだった。


 竹居安五郎。通称、吃安どもやす

「竹居の吃安、鬼より怖い。ドドとどもれば人を斬る」

 と広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝』などでうたわれた安五郎は竹居村の名主、中村家の四男である。この年、三十六歳。勝蔵より二十一年上だ。

 竹居村は黒駒村から一里(約4キロ)ほど西にあり、やはり御坂みさか山地のふもとにある。現在でも竹居は黒駒と同じく笛吹市御坂町の一部である。若彦トンネルに通じる古道・若彦路が近くを通っており、黒駒を通る鎌倉街道ほど主要な道ではないとはいえ、やはり御坂山地を越えて河口湖に出るルート上にある。

 安五郎はこの当時、甲州を代表する博徒の大親分である。

 おもに甲州南部の賭場を縄張りとしており、さらに南の相模、伊豆、駿河、また東海道沿線にも広く顔が効き、例えば伊豆の有力な博徒「大場の久八きゅうはち」とは兄弟分の関係にある。

 一方甲府を中心とする甲州北部を縄張りとしているのが「三井の卯吉うきち」という大親分で、甲府の柳町を拠点としてそこで三井楼という女郎屋を営んでいる。

 この当時の甲州博徒の勢力図を単純に二分化すれば「北の三井卯吉と南の竹居安五郎の対立」という見方もできるであろう。もちろん黒駒の八反屋敷も安五郎が取り仕切っている賭場の一つだ。


 そしてここで重要なことは、

「三井卯吉は幕府代官所の支配下にある目明し(岡っ引き)である」

 ということだ。

 いわゆる「二足の草鞋わらじ」というやつだ。

 つまり「博徒でありながら、代官所の部下として他の博徒を捕まえる立場にある」ということである。

 この二足の草鞋は決して珍しい形ではなく、むしろ、そうでないほうが珍しいと言える。博徒としては代官所のお墨付きがあったほうが何かと好都合だし、場合によっては前科を取り消してもらったりもした。

 かたや幕府の役人としても博徒を取り締まる仕事などやりたくはなく(幕府役人は博徒を直接捕まえるのを「不浄の仕事」として嫌い、だいたい下役にやらせることが多かった)、さらに言えば博徒を捕まえられるほどの捜査能力も機動力もなかった。

 それで蛇の道は蛇ということで二足の草鞋の博徒たちに博徒対策を丸投げしていたのである。幕末よりやや時代はさかのぼるが『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵が、元は盗人だった連中を「犬」として火付盗賊改の手下に雇い入れるのをイメージすると分かりやすいだろう。


 その一方で竹居安五郎は、そういった代官所の支配を受けていなかった。

 安五郎の兄、中村甚兵衛は竹居村の名主をつとめており、村民の権利を守るためにたびたび代官所に対して訴訟を起こし、時には江戸の奉行所に対しても訴訟を起こした。訴訟とは隣り村との水利権争いや村内行政に関わる法律改善の訴えなどである。

 この当時「訴訟を起こす」というのは並大抵の覚悟ではできない。お上から「不届き者」として見られるのは当然のことで、もしそれが受理されたとしても訴訟には江戸での滞在費など莫大な費用がかかるのだ。それでも甚兵衛は「訴訟好きの甲州人」らしくお上に声を上げつづけた。幕府から「難治の国」と呼ばれるだけあって、甲州人は泣き寝入りしないのだ。

 そして安五郎も兄と同じく「代官所を相手取ってでも、自分たちの権利は自分たちで守る」といった姿勢で事に臨んでいた。

 言うなれば、この当時の御坂山地は“梁山泊”という様相を呈していたのである。


 “梁山泊”という単語は最近あまり見かけない気がする。ゆえに「言うまでもなく」と確言するのはいささか気が引けるが、中国の北宋時代を舞台とした小説『水滸伝』で豪傑、侠客たちが立てこもった根拠地のことを指す。転じて「野心家たちが集う場所」の代名詞として、かつては時々見かけたものだが最近はあまり目にしない単語だ。『水滸伝』における豪傑たちの親玉は宋江そうこうで、敵役は政府高官の高俅こうきゅうという図式である。

 などと偉そうに説明するが、筆者の『水滸伝』の知識など子どもの頃に読んだ横山光輝のマンガ『水滸伝』の知識ぐらいしかない。多分、現代の日本人が知っている『水滸伝』の知識の八割方はそうなんじゃなかろうか?と筆者は勝手に思っている(多分『三国志』も同様だろう)。


 この『水滸伝』の小説は江戸時代の日本でもよく読まれた。それで、日本国内で侠客たちの抗争事件があると「何々水滸伝」などと銘打って、かつては講談、浪曲などでよく語られていた。

 まさにこの当時がそうだった。

 この二年前の天保十五年(1844年)に下総で笹川繁蔵しげぞうと飯岡助五郎の「大利根河原の決闘」があった。

 笹川方の助っ人俠客・平手ひらて造酒みきが討ち死にした決闘として、かつては講談、浪曲などで『天保水滸伝』として語られた事件である。笹川繁蔵と飯岡助五郎の抗争はこの当時、まだ続いている。


 そしてこの戦いは善玉の笹川繁蔵と悪玉の飯岡助五郎という構図でよく語られた。

 なぜなら、飯岡は「二足の草鞋」で幕府の手先だったからだ。

 中国の『水滸伝』に例えるなら飯岡は高俅に当たり、幕府の後ろ盾のない笹川は宋江ということになる。

 要するに「二足の草鞋を履く博徒」は悪玉として語られるのが当然なのである。

 仮に『水滸伝』の例えがなくとも庶民感情から見れば、やはりそういう図式になるのが自然であろう。


 そして、実はあの清水次郎長も「二足の草鞋を履く博徒」であった。

 にもかかわらず、後年、広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝』が絶大な人気となったために、皮肉にも「二足の草鞋を履いてない博徒」である竹居安五郎や黒駒の勝蔵が、次郎長に敵対する「悪玉」として世間に流布されるようになるのである。


 が、それはさておくとして。

 勝蔵自身は、この博徒の大親分である安五郎にある種の親近感を抱いている。

 確かにヤクザ者であり、いかがわしい印象はあるものの、自分の師匠筋にあたる武藤家の縁故者であり、地元も近い。

 そして何より自分と同じ名主のせがれということで立場も似ている。そのうえ代官所に媚びへつらわず、おのれの信念を貫き通して地元の権益を守ろうとしている。

 正直に言えば多少、安五郎に尊敬の念すら抱いている。

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