第3話 甲府城と腕斬り増田(二)
翌朝、勝蔵は甲府へ向かった。
黒駒から鎌倉街道を北西へ下っていくと石和の町に出る。その石和の町には石和代官所があり、黒駒一帯もその管轄下にある。
さらに石和から甲州街道を西へ一里半(約6キロ)ほど行くと甲府に着く(ただしここで言う甲州街道は旧甲州街道のことで、現在の20号線ではない。その少し北にある411号線が旧甲州街道に相当する)。
甲府は城下町である。
天正十年(1582年)に武田家が滅んだ後、豊臣時代の武将によって甲府城が作られた。現在その城跡は舞鶴城公園と呼ばれており、甲府駅のすぐ近くにある。というより、城跡に駅を作ったようなもので、かつて甲府城だった敷地は線路によって南北に分断されている。明治初期の頃は廃城の扱いが悪かったというが、それでもこれは相当珍しいケースだろう(ただし廃城となった場所に駅が作られた越後長岡城のような例もあるが)。
ちなみに信玄など武田家が主な拠点としていた
つまり甲府の城下町は武田家が滅んだ後に整備された町ということである。城と城下町は幕府の甲府勤番支配という役人が管理しており、その周辺の村々は甲府代官所の管轄下にある。
城の東南地域には
勝蔵はここへ遊びに来たのだった。
しかし実のところを言うと勝蔵は、あまり甲府が好きじゃない。
特に町民を威圧するように建っている、あの甲府城が気に入らないのだ。
勝蔵も甲州人である以上、もちろん地元のお城を誇りに思う気持ちはある。しかし次男という気楽さもあるせいか勝蔵は、心の中に“天邪鬼”という小さな妖怪を一匹棲まわせている。その妖怪がときどき勝蔵にささやくのだ。
(この甲州は本来、武田家のものなのだ。あの城にいる幕府の役人連中は、よそ者ではないか)
この感覚は、当時の土佐の状況を例にとると分かりやすい。
土佐の場合、元々は長宗我部家の領地であったところに関ヶ原の後、山内家が入ってきた。そして山内家の系統の者が上士となり、長宗我部家の系統の者が下士(郷士)となった。坂本龍馬など土佐勤王党の流れをくむ者は皆、この長宗我部系の下士である。この上士と下士の対立は江戸時代を通してずっとつづいていた。
甲州の場合は、そこまで激しい上下の確執があるわけではない。
が、甲州における「信玄崇拝」は異常である。
この「信仰」は武田家が滅んだ後も甲州人たちに脈々と受け継がれ、現代までつづいている。
他県でこれほど崇拝されている旧領主は皆無といっていい。信玄は戦国時代、一時最強の存在だった。けれども念願の上洛を目前にして世を去り、天下をつかめなかった。そして次の勝頼の代で武田家は滅んだ。滅んだがゆえに、レジェンドとなった。
これと同じぐらい崇拝される存在といえば仙台の伊達政宗ぐらいであろう。奇しくもこの両者は昭和の終わり頃に二年つづけて大河ドラマが放送されて絶大な人気となった。しかし伊達家の場合は、なまじ江戸期まで生き残ったために「幕末で下手をうって」レジェンドとはなり得なかった(仙台の本家と違って、宇和島の分家は伊達宗城が上手く幕末を乗り切ったが)。
もし武田家のあとを別の大名が長く治めていたとしたら、この状況は多少変わっていたかもしれないが甲州は江戸中期以降、ずっと幕府が直接統治するようになった。
これが信玄をレジェンド化する決定打となった。
甲州人が顔の見えない領主、すなわち江戸の将軍を崇拝するわけがなく、むしろ幕政に対する不満が高まれば高まるほど、かえって旧領主であった「信玄の神格化」が進む結果となったのである。
勝蔵は「武士になりたい」と漠然と考えてはいるが、それはこの甲府勤番や代官所の役人、例えば代官の手付や手代(つまり代官の下役人)になりたいのではない。
どうせなるのなら「江戸で武士になりたい」と思っている。まして甲州の代官所の下僕として目明し(岡っ引き)を勤めるなど、まっぴらご免だ。幕府の権威をかさにきて偉そうにしている目明し連中を見るとムカムカする、と普段から感じている。
やはりこの男はいくぶん天邪鬼というか反骨心が強いのかもしれない。が、彼自身としてはごく自然な感覚として、そう思っている。
そういった甲府城に対する反発心があるとはいえ、勝蔵は甲府の町自体が嫌いなわけではない。
なにしろ好奇心旺盛な年頃だ。黒駒の田舎にいてはお目にかかれないものが、この甲府にはいっぱいある。
特に女がそうだ。きれいな町娘がいっぱいいる。
豪勢な遊女屋もあり、珍しい商品を扱っている商店も多い。女にしろ商品にしろ、実際に「買う」かどうかはともかく、こういった町全体の華やいだ雰囲気を感じるだけでも楽しい。
勝蔵はまだ女を「買う」という経験をしたことはない。素人女との経験もない。この時代、性に関してはかなり奔放で、彼の歳でそういう遊びをしていてもそれほど異常ではない。ただ、彼としては地元の娘とそういう事をしたいとは思わない。田舎の娘を敬遠する、という気持ちもあるが、それ以上に「そういう噂」を立てられると、名主という名望家の次男としてはちょっと煩わしい。
けれども、誰もがそうであるように「初めてのこと」に対する不安や憧憬といったモヤモヤとした気持ちは当然ながらある。周囲の知人からは「どうせ通過儀礼なんだから一回、気楽に買っておけ」とも言われている。が、若い勝蔵としては「金で人を買うなんて変だろう」という青臭い抵抗感も、やはりある。
そんなこんなで勝蔵がモヤモヤとした気持ちのまま遊女屋周辺の盛り場を
目明しと思われる男を先頭に、その後ろには十手を握った同心が数人、さらに棒や捕り縄といった捕物用の道具を持った下役らしき男が数人いる。いかにも物々しい雰囲気で足早に通りを進んでいる。
先頭の目明しとおぼしき男は二十半ばぐらいの小男で、すばしっこい猿のような雰囲気がある。外見で決めつけるのも何だが、いかにもずる賢そうな面構えだ。その男に導かれるように一団はどこかへ向かっているようだった。
それで物好きな野次馬も、その役人たちのうしろをついて行った。もちろん勝蔵もその野次馬のなかに加わった。
役人たちの一団は柳町から南へ進み、
金山神社のすぐ近くにある民家の前まで来て、役人たちは足を止めた。そして同心の一人が目明しに聞いた。
「仙之助。賭場を開いているというのは、ここで間違いないか?」
「へい。ここで間違いございやせん、増田の旦那」
その増田という同心はすぐに仲間に指示を出し、手勢の半数を裏口へ回らせた。そして配置が完了したのを見計らって、その民家へ乗り込んだ。
中では案の定、十人ほどの博徒が丁半博打をやっている最中だった。それを見て増田はすかさず叫んだ。
「御用だ!博打はご法度であるぞ!一同、神妙にお縄につけい!」
たちまち屋内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、博徒たちは皆、一目散に裏口から逃げ出した。
その裏口にはあらかじめ捕り手たちが待ち構えていた。
が、彼らはものの見事に役に立たず、逃げる博徒たちの剣幕に
野次馬として役人たちのうしろについてきた勝蔵は、少し離れたところで観衆といっしょにその様子をながめていた。
(あんな大勢で捕まえに来て、たった一人しか捕まえられないとは無様なもんだな、町奉行所の連中も……)
と、この捕物の様子を見て、勝蔵は冷笑した。
一方、表の入り口から踏み込んだ増田に対し、この自宅を賭場として提供していた「地もぐりの三次」という博徒が、脇差を抜いて増田に斬りかかった。
実はこの増田という同心、若いながらも北辰一刀流の免許皆伝で、しかも十手術の名手でもあった。本名、増田伝一郎という。増田は難なく三次の脇差を十手で受けとめ、払いのけるように脇差を叩き落とした。
ところが三次はすかさず壁にかけてあった短槍を手にとって、今度は槍でがむしゃらに突いてきた。その突きはどう見ても素人技ではなく、鍛錬をつんだ玄人の槍さばきだ。
これにはさすがの増田も手を焼き、とっさに後ろへ引き下がって路上へ出た。
増田が持て余すほどの使い手に対し周りの捕り手たちが手を出せるはずもなく、彼らはたじたじと見守るばかりだ。
三次としては、このスキに裏口からさっさと逃げるべきであったろう。しかし敵の隊長である増田を押し返したことで強気になり、その後もかさにかかって槍をくり出した。
こうなったら増田としても覚悟を決めるしかない。十手を三次に向かって投げつけ、それからすかさず太刀を抜き打った。その瞬間、槍をにぎった三次の左手首が一刀両断され、宙を舞った。
三次はその場でガックリと膝を落とし、血が吹き出すのを右手で押さえながら、
「俺の腕を返せ!」
と絶叫し、そのまま倒れて気絶した。
時代劇の殺陣シーンのように幕府同心がバッサバッサと悪人たちを斬りまくる、というのは通常ありえない。いくらなんでもそれはやり過ぎだ。このとき増田は「しまった、やり過ぎた」と一瞬あせった。死んでもおかしくない傷を相手に負わせてしまったからだ。それで、すぐに切断された左手首を持ってきて、とっさに三次の腕にくっつけた。そんな事をしても無駄だろう、とは思ったが「腕を返せ!」と言われたのが気にかかって、とっさにそうしたのだ。
しかし意外なことにこのとっさの処置が功を奏し、しばらくしてやってきた医者が手首を縫合してみると見事にちゃんとつながった。ただし変な具合に神経がつながったようで、のちに回復した三次が指を動かそうとしたら意図するのと違う指が動いて困った、との逸話がある。
絶対に嘘だろう。昔の人はこういう荒唐無稽な作り話を平気でした。この逸話を元にしたのか広沢虎造も次郎長伝の浪曲『秋葉の火祭り』で似たような話をやっていた。
が、それはさておき、この事件以降、同心・増田伝一郎は「腕斬り増田」と呼ばれるようになり、甲州の博徒たちは増田に一目置くようになった。
そしてその現場を、勝蔵も野次馬の一人としてながめていた。
勝蔵はのちに人生の重大な局面でこの増田伝一郎と再会することになるのだが、それは二十年以上さきの話である。
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