第6話 

 休憩を終えた俺たちは話題にも出ていた中間地点のさらに奥の、まだ一度も見にいけていない後半のフロアを回った。


 そこでは率直に言うと記憶を取り戻す手がかりは見つけられず、最終的には本当にただ水族館にデートをしに来ただけになってしまったのだが、幸いなことに良かった点も存在する。

 それはお互いがこの関係に慣れてきていたこと。

 それによって道中の移動や会話がスムーズになったり、一つのフロアにかかる体感時間が短くなったりと、得られた恩恵は決して少なくない。

 またそれが今日に限っての話というわけではなく、明日以降の思い出の場所でも適応されるというのも良かった点の一つだろう。


 まあもちろんそれで今回の失敗が帳消しになることはないが、最後まで投げ出すことなく彼女を見守ったあの時間が無駄にならずに済んだのは俺にとって確実に励みになるものだった。


「祐樹くん、ごめんなさい」


 七つ目のフロアと出口を結ぶ通路。

 そこを並んで歩いている時に彼女がポツりと語り出したのは今日見てきた生き物のことではなく、謝罪の言葉だった。


「……何が?」

「記憶のことです。最初は頑張るなんて言ってたけど、結局最後まで何も思い出せませんでした」

「その話は前にもしただろ。一日で戻るとは最初から思ってないって」

「そうですね。でも祐樹くんにこれ以上嫌な思いをさせないために、一秒でも早く記憶を取り戻していつも通りの関係に戻りたいんです」


 話し始めの時は適当に受け流すつもりだったが、最後の発言を聞いて僅かに罪悪感が湧く。


「いつも通りの関係に戻りたい、か……」

「そうです」

「そうです、じゃなくて君自身はどうなんだよ。本当に戻りたいと思ってるか?」

「それはもちろんですよ。だって大切な記憶なんですから」


 聞いた張本人である自分がいうのも何だが、そう答えるのが普通だろう。

 ただいつものように落ち込んでいる様子はなく、何ならもう既に次に向かって歩き始めようとしているような様子であることはわかった。


「そっか……」

「な、何か変でしたか?」

「いや。もちろん俺も同じ考えだよ。ただ帰りの時間くらいはもっと肩の力を抜いてもいいのになって思っただけだ」


 俺がその場の雰囲気に合った感じでそう言うと、彼女は重たそうに腕を回して疲れをアピールする。


「わかりました。祐樹くんがいいならそうさせてもらきますね。実は帰るってわかった時から体が重たくって」

「やっぱりそうだよな。電車は座れると思うからそれまで我慢できるか」

「それぐらいは我慢できますよー。私そんなに子供じゃないですからね?」

「いや、説得力ないな……」


 そんなくだらない会話を挟みながら徐々に日常感を取り戻していく通路を進んでいると、ようやく俺たちは外に繋がる扉を視野に入れる。


 後はその扉を通って駅に向かうことさえできれば待ち望んでいたデートの終わりが見えてくるので、そこで俺が感じたのはもちろん安堵感。

 ただその扉付近で見覚えのあるものを偶然発見した俺は、安堵感と同時に懐かしさのようなものも感じていた。


「祐樹くん?」

「あ、悪い。なんでもないよ」


 そこにあったのは一年前の時にも立ち寄ったお土産のお菓子やぬいぐるなどが売ってある、所謂ショップというやつだ。

 まあはっきり言ってそこに思い入れは特になかったし、今日は無駄な出費が重なったせいで財布に余裕もなかったので、俺は彼女に何も話さないまま出口に向かおうとした。


 だがそのショップの前を通り過ぎようとしたところで、俺はある違和感に気づく。


「どうしたんですか、祐樹くん。急に立ち止まって」

「勘違いだったら悪い。何か欲しいものがあるのか?」


 俺の発言に彼女は一度ビクッと肩を震わせる。


「あ、いや、別にそういうわけじゃないんです……」

「嘘つけ。今の反応もそうだし、何よりずっとあの店の方を見てただろ。本当はどっちなんだよ」

「そ、それは……あるにはある、けど……」


 俺はそれを聞いた瞬間、彼女の腕を引っ張って無理やりそのショップに入った。


「どうせお金の心配してるんだろ? 大丈夫、俺が払うから。それで、どれが欲しいんだ」

「いえ、そこまでしてもらうわけには……」

「恋人だったんだから遠慮するなって。このショップも思い出の場所だから記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないし」

「恋人……。思い出の場所……。ほ、ほんとにいいんですか……?」

「だからいいって言ってるだろ。時間がないから早くしろ」


 その言葉で「わ、わかりました……」と戸惑いながらも買うことを決意した彼女だったが、目当ての商品を手に取る時は全く迷いがなかった。


「えっと、ほんとにそれでいいの?」

「はい、これがいいんです」

「そ、そっか」


 彼女の意思が変わらないのことを確認した俺は約束通りそれを自腹で購入する。

 そしてそのまま彼女に手渡すと、それを受け取った彼女は今日1番とも言える笑顔を浮かべながら俺にこう言った。


「ありがとうございます。ずっと、ずっと大切にしますね」




 電車に揺られる帰り道。


 計画通り座れる席は確保できたが、思っていたよりも同乗者が多かったせいで二人の間は思いがけず肩と肩が触れ合うほどの距離になる。

 そこで心配しなければならないのは彼女を無駄に緊張させてしまう可能性だが、驚くことに隣に座る彼女は人目も憚らずうとうとし始めると、遂には俺の肩に頭を預けて眠ってしまった。


 俺はそんな彼女に冷たい目を向けつつも、自分を落ち着かせるようにゆっくりとため息をつく。

 そして落ち着いてきたら今度は彼女の寝顔に向いていた視線を、彼女の膝の上に置いてある魚のマークが付いた小さな包みに向けた。

 俺が水族館で彼女にプレゼントしたもの。

 それは見ての通りイルカやペンギン、アザラシなど数種類の生き物の中から彼女が選んだ売れ行きが若干怪しいサメのキーホルダーだ。


 もちろん思い出を残すという意味では妥当。

 だが不可解なのは彼女に特別その生き物を気に入っていた様子がなかったことだ。

 もちろん他のキーホルダーが品切れになっていたなどのやむを得ない事情もなかったし、値段も他のものと大して変わらなかった。

 そんな状況の中でどうして彼女はそのキーホルダーを選んだのか。


 夏と約一年間を共に過ごしてきた俺には実は一つだけ心当たりがあった。

 それは一年前に夏と水族館を訪れた日。

 つまり初デートをしたその日に俺は今日買ったキーホルダーと全く同じものを夏にプレゼントしていた。


 最初にキーホルダーを見せられた時は驚愕して頭が回らなかったが、これだけの情報と落ち着いて考えられる空間があれば流石に気づく。

 この件は偶然起こった出来事ではなく、失った記憶が彼女に何らかの影響を与えたことで引き起こった必然的な出来事だと。


 もちろんそれで記憶が戻りかけていると決めつけるわけではないし、彼女自身に自覚がなかったという気がかりもあるのも事実だが、思い出の場所を巡る行為そのものが無意味ではないことがわかっただけでも先のことが全くの不透明な俺たちにとっては大きな収穫と言えるだろう。


 このまま思い出の場所で彼女をサポートしていけば全ての記憶が戻る日もそう遠くないかもしれない。

 そしたらこの嘘だらけの恋人関係からもすぐに解放してもらえるようになる。


 そこで俺はさっきのようなため息ではなく安堵したような息を吐く。

 何となく今は肩の上で寝息を立てている彼女のことは気にせず安心して揺れる電車に身を任せられる気がした。


「……」


 線路を弾く音が車内に響き渡る。


 この時間はデート終わりの唯一落ち着ける時間。

 だが俺の胸はまだざわついていた。


 原因は隣に居る彼女ではない。

 ついさっき自分自身が取った行動。

 考えてみたらそもそも俺は彼女にキーホルダーを買ってあげる必要なんてなかった。

 失った記憶を刺激するだけなら水族館の生き物のように見るだけでいい。

 それに彼女にプレゼントを贈ったところで俺には何一つ得することがない。


 なのにあの時の俺は迷うことなく買う方を選んだ。

 そうした理由は一つ。

 彼女の羨ましそうな表情を見て俺がそうしたいと思ったから。


 俺は自分の肩に寄りかかった彼女の寝顔をもう一度視線を向けながら、水族館を歩き回った今日のことを思い出す。

 そうすることで俺はようやく自分があるはずのない感情に支配されていることに気づいた。


 ———楽しかったな


 適当に終わらせて帰ってこようと訪れた約一年ぶりの水族館。

 途中までは早く帰りたいと思っていたのも彼女に苛立ちを覚えていたのも紛れもない事実。

 でも今の俺なら今日が充実した一日になったとはっきり言える。

 記憶を取り戻す目的も忘れて元恋人との時間を楽しんでいる俺が一瞬でもそこにいた。


 もしも彼女の記憶が戻ったら夏と過ごした1年間の思い出みたいに、今日の思い出も後ろめたい思い出に変わってしまうのだろうか。

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